狂騒序曲




「鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの玉座がある。しかしあなたは、わたしの名を固く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺された時でも、私に対する信仰を捨てなかった」


「耳のあるものは御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかは誰も知らない、新しい名が書かれている」




ヨハネの黙示緑 第2章より抜粋














 稲光が走った。
 網膜を焼く白光が走り、次いで鼓膜を震わす轟音が響く。
 荒れ狂う天候。



 風は唸り、乱れ、踊り狂っていた。
 めくるめく乱気流に流されるのは、一面の雲海。
 あちこちで雷光を輝かせる雲たちは、風に乗ってぐんぐんと流れて行く。



 眼下に広がるのが火雲の海ならば、頭上に広がるのは星々の大洋だった。
 無数の星々と、それを従えているかのようなR耀たる月。
 海は時化に荒れ、大洋は凪に沈む。



 空はどこまでも透き通っている。
 月と星々が照らす夜空は、どこか水槽のようでもあった。
 暗く暗く、でも明るい不思議な夜。



 聞こえるのは風の音と雷鳴のみ。
 他には何一つ音が無い。






 ……いや。



 ふと気付けば、何かの鳴き声が聞こえていた。
 しかし、はたしてそれを鳴き声と呼ぶべきなのか。
 どちらかと言えば、死を予感する絶叫と呼ぶほうが相応しかったのだから。






 黒く続く雲海の下に、なお黒い影が見えた。
 ソレはおそらく、鳴き声をあげたモノ。
 最初は薄く見えただけの影は、次第にその鮮明さを増して行く。
 影は天高くヘ昇っているのだ。
 雲のスクリーンに映し出されたシルエットは、翼を羽ばたかせて飛んでいる。
 ばさりと翼が空気を打つたびに、影は鮮明さを増してゆく。
 そして。
 雲を割り、影がその姿を現した。



 赤黒いヒトの体に、焼死体みたいな顔。
 ただれた口元から覗く牙と、蝙蝠をそのままスケールアップしたような翼。
 全身には、肉と一体化した銀色の甲冑。



 あまりにヒトの範疇からはみ出たソレは、醜い姿を月明かりの下へ晒す。
 まるで出来の悪い悪夢のような姿だ。
 続いて雲海が裂け、ソレと似た姿をしたもう一体のバケモノが昇って来た。



 二匹のバケモノは必死に飛ぶ。
 風よりも速く飛び続ける。
 その後を追って、雲海を昇る影があった。
 黒い霞のような影は雲の幕を突き抜け、その姿を現す。



 ――何百匹もの蝙蝠。



 甲高い声で鳴く蝙蝠の群れは、雲海を突き抜け飛翔する。
 蝙蝠たちに気付いたバケモノたちが、ギィ、と恐怖の声をあげた。
 天高くヘ上昇した蝙蝠たちは月を背に頂き、辺りを睥睨する。
 それも一瞬のこと。
 カレラはバケモノのうち一匹を目指し、急降下した。



 黒い奔流となって襲いかかる蝙蝠の群れ。
 音が如き速度で降り注ぐ蝙蝠の群れ。
 刃が如き鋭さで荒ぶる蝙蝠の群れ。
 まるで一つの意志を持った生命のように振舞うカレラ。



 急襲に気付いたバケモノが身をかわそうとするが、もう遅い。
 怒涛のように押し寄せた蝙蝠の群れは、バケモノをズタズタに切り裂いた。



 翼が裂かれる。
 腕がもがれる。
 足が砕かれる。
 鎧が剥がれる。
 肉が削がれる。



 ――絶叫。
 魂震えるような悲鳴が、月下に響いた。






 五体を解体されたバケモノは飛行能力を失い、血飛沫を撒き散らしながら雲海の下へと沈んで行く。


 それに恐怖したもう一匹が、ギギィ、と悲鳴をあげた。
 このまま雲の上を飛んでいたらすぐに殺されると思ったのだろうか。
 バケモノはやおら高度を下げて、雲海の中へ潜って行った。
 躊躇うことなく蝙蝠も後を追う。



 白濁した世界。
 雲の中で繰り広げられる、バケモノと蝙蝠の追いかけっこ。
 濃霧のように視界が効かない雲の中ならば、蝙蝠から逃げきれると思ったのだろうか。
 だがそれも無意味だった。
 螺旋を描いて雲を抉り飛ぶ蝙蝠たちが、バケモノに殺到する。
 殺害意志の奔流。
 瞬きを一つしないうちに、バケモノはズタズタにされた。
 グガァ、と悲鳴をあげるバケモノの翼の、腕の、足の、体の肉がざっくりと削り取られていた。



 翼を削られ、一匹目と同じ運命を辿るバケモノ。
 異様な姿の体が、みるみる雲海の下へと落ちて行く。
 蝙蝠たちはそれを見届けてから、再び雲海の上へと浮上した。
 夜風を切って飛び上がる蝙蝠たち。
 空へ飛びあがったカレラは月を背にすると、ヒトの形に集まった。
 ソレははっきりとした輪郭を持たぬまま、闇夜に瞳をギラつかせている。
 全てを見下す瞳は深い赤。
 獰猛な笑みを浮かべる口元には鋭い牙。
 ヒトの形をした、異質過ぎるモノ。



 突然、ヒトの形をしたソレが崩れた。
 形を失い、まるでモノが塵になるように。
 崩れた後に残るのは、蝙蝠の群れ。
 一つの意志を持ったかのように動く、蝙蝠の群れ。
 ソレラは天高くヘ舞い上がったかと思うと、次の瞬間には空の彼方へ飛び去っていった。



 後に残るは静寂のみ。
 ただ、静か。
 何事も無かったかのように静か。



 頭上には丸い月。
 丸い丸い、紅い、月――















……1947年7月4日 午後10時 ロズウェル……




 マック=ブレーセルは、ありていに言って不機嫌だった。
 おとついに愛車の調子が悪くなったかと思えば、昨日はブレイカーが故障して停電。
 今日の朝は風呂桶の底から水漏れしているのを発見したし、午後に至っては天井から雨漏りが始まった。
 挙句の果てに、昼から続いた雨は今では土砂降りの雷雨に変っている。
 最初は小さな滴だった雨漏りは、今では間断無く滴り続ける水の流れと化していた。
 水の落ちる先にはバケツが待ち構えている。溜まった水が滴を受けるたびにポタポタと音がしていたのだろうが、水流と化している現状ではそんな音などしようはずもない。ただボタボタボタボタと風情のない音がするのみであった。
 空一面は真っ黒で、時折ゴロゴロと雷鳴が鳴り響いている。
「もし電柱に落雷でもしてみろ。電化製品が全部ボン! だぞ。俺にケンカ売ってんのか」
 ブレーセルはブツブツ言いつつ、ソファーから立ち上がった。
 そろそろバケツが一杯になる。取り替えないと水が溢れ、床が大洪水になっていまうのだ。
 だからこそ、自然に対して文句の一つでも言わなければ気が納まらないのかも知れない。
「ったく。ラジオまで調子が悪くなりやがるし」
 しかめっ面をする彼の言う通り、少し前からラジオの調子まで悪くなっていた。KGFL局のナレーターが、ノイズ混じりの向こうでインドネシアで起こった戦争についてコメントしている。
「デカい戦争が終わったのに新しく戦争始めるなんて、何考えてやがる」
 人事のように言って、ブレーゼルは水の溜まったバケツをカラのバケツと交換した。
 彼は175cmとアメリカ人にしては並より下の身長だが、体躯は筋骨隆々としていて立派である。その体力を持ってすれば、水が一杯に入ったバケツを運ぶことなど造作も無い。
 ただ、彼はいささか疲れていた。何度も何度も溜まった水を捨てる作業を繰り返して、いいかげんウンザリしているのだ。精悍そうな顔も、終わりの見えないこの作業のせいか少しやつれて見えた。
 彼はため息をついて外を見る。相変わらず雨は降り続いており、時折雷光が闇を払う。
 その雷光が、闇から『何か』を写し出した。

 白い光
 が
 写し出
 すのは。

 呆けたような表情で、窓の外を見つめるブレーゼル。
 持っていたバケツが手を離れて床に落ち、重たい音を響かせた。
 彼は床にぶちまけられた水を構おうともせず窓に走り寄り、出窓を飛び出さんばかりの勢いで開けて身を乗り出した。
 豪雨は庇の下に降り注ぎ、ブレーゼルを濡らす。
 だが彼はそんなことは気にせず、『何か』を見つめていた。
 脳裏を掠めたのは最近のニュース。
 つい10日ほど前、ケネス=アーノルドという実業家が、自家用飛行機を運転中に『明るく輝くソーサー』を目撃したという事件だ。
 そのニュースは26日の『ロサンジェルス・タイム』で報道され、瞬く間に全米に広がった。テレビでもCBSが派手に取り上げており、知名度は極めて高い。
 だからこそブレーセルは、こう考えていた。
「……あれは……。ミスターアーノルドが見た物と、同じ物か……?」
 と。
 『何か』は猛烈な速度で飛んで行く。
 まるで隕石のように、赤く輝きながら。

 火の粉のように『何か』は輝く。
 赤い火花を散らし、輝きながら飛んでいく。

 山に阻まれて見えなくなるまで、ブレーセルはその様を見続けていた。
 怖い、と思った。
 凄い、と思った。
 そして興味深いと思った。
 なにせ自分は、未知の物を見ているかも知れないのだから。
 久しく忘れていた好奇心が心の中で首をもたげる。
「……凄かったな」
 感嘆のため息をつきながら言ったその言葉と同時に。
 突然。
 不意に。
 前触れなく。

 山の向こうが紅蓮の色に染まり、雷鳴に負けないほどの大音響が響いた。



 それは、まるで。
 『何か』が山の向こうに墜落して、大爆発したかのようだった。






 ――マック=ブレーセルは、いつまでも山の向こうを見続けていた――。






To be continued


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