渋柿のSS講座(第4回)「原作と世界観」
今回はβブーストさんの出題「原作至上主義における世界観破壊について」を少し変えて、「原作と世界観」として話を進めていくことにしましょう。
ヘンリー・ミラーは、「君は今、何かを思っている。その思いついたところから、書き出すと良い」と、言っています。渋柿のひとも、書き手が何を思い、何を描くかは本来自由だ、思いつきのままに描いてみるのが一番いい、と考えています。
二次作品を描くきっかけも、そういうことなのだと思います。
二次作品の本質に立ちかえって、さらに他人に見せる、という事を意識する場合には、作品世界をきちんと消化して、過不足無く取り込めるか、が作品の完成度を左右することになりえましょう。
多くの作家は取材をする、資料を集める、構成するという作業を経て作品を書いていますが、二次著作でこの代用を果たすのは、「原作の世界観を消化して、作品の中に取り込む」こと、になります。渋柿のひとが考えるに、二次作品を著わすことは、SSの書き手さん達が、さまざまな取材をして独自の作品世界を構成する時のための良い訓練になる、はずです。
二次作品を他人に見せるつもりで描くのなら、「読み手が原作に固執する」ことを絶えず意識しなくてはなりません。そのためには、何度も読み返すだけでは効果が無いのです。
登場人物ひとりひとりの心情や立場を考える、入りこむ、あるいは、作品世界をさまざまな角度から見る―たとえば、自分を作品世界のさまざまな立場(政治家、財界人、学者、一般人など)に置き、そこから作品世界を眺める―、1シーンごとの原作者の意図を汲み取る―フルメタで例を挙げるなら、たとえば、λドライバをはじめとする技術がいかなる扱いを受けているか、です―、などの作業を進めねばなりません。
一つの成果として、原作を全く読んだことの無いひとが、SSを見た後に、原作に触れる機会を持ち、SSと原作に違和感を持たなかったとしたら、上出来です。二次作品には出来、不出来を判定するのは大して手間のかかる作業ではありません。
ですから、書き上げて他人に見せた作品に入るツッコミは、書き手による「消化して、取り込む」作業が不充分と判定しているもの、と、考えられるのです。
さて、二次作品にとって、作品の世界観は重要なファクターですが、これを強く意識しすぎると、作品の完成度が落ちることがあるようです。私は今まで、そういう例にあたったことがなく、想像で申し上げるほか無いのですが、作品で描かれていることをなぞって、鵜呑みにしているのか、あるいは、作品世界の一つの立場(解釈)に固執しているのか、そのどちらかだろうと考えられます。
いずれにしても、それらの例は「原作者の意図がなんであるか」を正しく理解していないわけですから、「消化して、取り込む」作業が不充分である、という事が言えると思います。あるいは、作品世界をさまざまな角度から見ることを怠っている、とも言えるでしょうか。
以上です。渋井柿乃介でした。