渋柿のSS講座(第10回)「読み手と書き手と」



 今週はお題の応募がありませんでしたので、「読み手と書き手と」について考えてみたいと思います。

 さて、以前に私は「書き手が何を思い、何を描くかは本来自由だ、思いつきのままに描いてみるのが一番いい」と言いました。この言葉だけを取ると、読み手の方を無視しているようにも思えます。
 しかし、よくよく考えてみますと、小説と言う表現形式は「書きたい事を書く」ことから始まっている、ところに気がつきます。言い換えますと、「書きたいこと」が無ければ、物語は生まれてこないのです。
 つまり、物語を書く―書き始めるきっかけ―ことは、読み手を意識する事とはまったく関係がない、ということがわかります。出来上がった作品が、その書き手や読み手にとって気に入らない作品でありえても、物語の大筋が出来そこないであることは無いのです。
 では読み手にとって、どの部分が問題にされるべきでしょうか。

 日和佐 潤さんが、「見せ方で損をしている」ということを以前におっしゃられておりました。読者が望むものは「面白い話を見たい」ことです。書き手がお話を書くときには、常に「読者への見せ方」が課題として
のしかかってきます。
 これを踏まえて申し上げると、「書き手の書きたいこと」と「読み手が望んでいること」は両立する、ということです。なぜならば、「書き手の書きたいこと」=「読み手が望んでいること」ではありえないからです。
 読み手は常に、書き手が思いついた物語をどの様に見せてくれるのだろうか、という期待を持っています。書き手はその期待に応えなければなりません。物語を魅せるための細かい技術、読者を納得させるための推論、こういう物をひっくるめて、読者へのアプローチを物語の中にどう盛り込むか、を考える事が「読者の目を気にする」ということなのです。

 「読者への見せ方」を考える作業の過程で、書きなおし、書き損じ、色々な事が起きると思いますが、作品が完結するまでは書き損じなどを廃棄してはいけません。もとに比べて、どう変わったかを考察すること
も大事だし、そういった書き損じの中から、思わぬアイデアが生まれてくる事もあるからです。
 また、小説は書き上げておしまい、というわけではありません。推敲という言葉の通り、書いた時間とは別に添削の時間を取らなければなりません。ただ、執筆と推敲を同時進行させるのは相当に難しいので、作
業を分けてキリのよい所までSSを書き、その翌日から推敲をはじめるというスタイルをお勧めします。
 いったん時間を置くのは、気持ちを切り替えることもあるのですが、実は知的作業には蓄積した疲労が大敵なのです。疲れていると見落としたり、思わぬミスを招いたりするので、時間を置いてできるだけ頭を休
めておきましょう。

 以上です。渋井 柿乃介でした。


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