渋柿のSS講座(第11回)「推敲の薦め」



 今週は正樹さんからいただいた「ひとりでもできる正しい推敲法」をもじり、「推敲の薦め」として話を進めていく事にします。先週と内容が重なりますが、お許しください。

 推敲とは、作った詩の字句を「推す」とするか、「敲(たた)く」とするか、苦心した故事に由来しますが、詩に限らずとも、どの表現を選ぶかを考えることは避けて通れません。推敲とは、「言葉を上手く使って、効果的に表現をする」方法を考える事です。
 先週にも触れましたが、読み手は常に、書き手が思いついた物語をどの様に見せてくれるのだろうか、という期待を持っています。書き手はその期待にかならず応えなければなりません。
 もの書きにとって、自分の文章を推敲するのは当たり前の事です。推敲は、執筆と同じぐらい大変な作業ですが、しかし、これを怠ってしまうと、文章力上達の機会が失われるだけではなく、読者の期待をも裏切ってしまう事になるのです。


 さて、「言葉を上手く使って、効果的に表現をする」ことを修辞と呼び、このための学問を修辞学といいます。
 ところで、日本語は「文法さえ覚えれば、誰にでもかける」式の言葉ではありません。つまり「言葉を上手く使って、効果的に表現する」ための定形文が乏しいのです。これをいいかえると、「文法さえ守れば、効果的な表現が誰にでもできる、というわけではない」ということです。
 文章作品は、人に見せるという前提がつくので、修辞から離れるわけにはいきません。推敲を行うのは修辞技術の上達への最も早い近道です。
 「読者への見せ方」は、書き手にとっての永遠の課題です。日本語の定形文が少ない事は、この課題をいっそう難しくしていますが、逆に言えば、日本語では他に比べて豊かな表現があるということなのです。
 また、自分や他人の表現をヒントに、新しい表現を思いついたりする事もざらにあります。よりこれまで以上に文章の上達をしたいのならば、自分の文章を客観的に見て、それを直すだけでなく、気の向くままに読んだ文章の、不審に思った点を洗い出してみるのも、大事なことだと思います。
 ですから、あなたが書き手であると思っているのなら、あなたにとって、どんなにひどい作品であろうとも、それを指して、ただ「つまらない作品だ」と言うだけではなく、その作品が「なぜ、つまらなかったのか」を証明できないと、あなたの能力が上達したとは言えないのです。

 言葉の森は、深く、暗く、そして迷いやすい場所ですが、その奥には、まだ見ぬすばらしい知恵の実が成っています。分け入った先にある、さまざまな語句、表現、言いまわし等と対面すれば、それだけあなたの言葉の世界が開けるはずなのです。

 今日はこの辺で。渋井 柿乃介でした。



戻る