渋柿のSS講座(第13回)「勧善懲悪モノの巧緻さ」


 イデオロギーを仮りつつ描かれる物語を勧善懲悪物としますが、このイデオロギーというものはたいへん厄介です。倫理観、宗教観が、絶対の価値として覆い被さってくるため、必ず「〜でなければならない」となってしまうからです。
 正邪の判断は簡単ですみ、それが言葉で表されるときには、短剣のような鋭さをもって訴えかけます。時には、何者よりも強い力を持ちます。ところが、その鋭さに惑わされて作品を書いてしまうと、たいへん薄っぺらい物が出来あがってしまいます。
 これは何故かといいますと、イデオロギーで物事を判断しているために表と裏だけしか描く事ができず、書いていくうちに物語の層の厚さ、奥の深さが消えてしまうからです。
 人間は白と黒で区別できるほど単純な存在ではありえません。作品を一面からしか見ないで組み立ててしまうと、同時に他の面を取り入れる事が難しくなります。その一面では、まっとうな事を言っているのですが、「あれもあれば、これもある」という受け止め方ができなくなっているため、矛盾だらけになってしまうのです。
 にもかかわらず、勧善懲悪物が作品として成立するのは、なぜでしょう。お約束、という言葉がまず浮かんできます。しかし、お約束、がこの類の作品が持っている魅力だとは思えません。ここでは判りやすくするために「水戸黄門漫遊記」を例に取って考えてみましょう。

 さて、黄門様が悪人達を懲らしめるのは、この作品のキモと言えます。これがいわゆる「お約束」ですが、そのためには、如何なる手順を踏まねばなりませんでしょうか。登場人物をグループ分けして見ます。
 この作品では「黄門様ご一行」を車軸にして、「不良代官・悪徳商人」と「虐げられている人々」という二つの車輪がついています。このグループの中で、黄門様一行の位置付けは「裁定者」に当ります。
 ところで、裁定という作業は、「不良代官・悪徳商人」「虐げられている人々」とを評価した結果であると考えられます。物語は、黄門様が「不良代官・悪徳商人」「虐げられている人々」をどのように判断するかの材料提供です。
 黄門様一行が登場する事で、「不良代官・悪徳商人」と「虐げられている人々」を相対的に捉えることで、お互いを評価する事ができているのですが、この相対的な評価をするためには、「黄門様一行」の存在が欠かせません。「黄門様一行」が登場することで、「不良代官・悪徳商人」と「虐げられている人々」という同じ大きさの車輪が回りだし、物語が進んで行くのです。
 
 勧善懲悪物に必要なものはイデオロギーではなくて、あくまで相対的な評価であると、私は考えます。その相対的な評価を可能にするものは、倫理観や道徳観ではありえません。これは、一つの立場を表しているものに他なりません。
 したがって、ある立場とそれとは別の立場を繋ぐもの―たいていは利害か恋愛ですが―、を取り出しておく事ができるかに、作品の完成度がかかっている、と考えておいてよいでしょう。

 以上、渋井柿乃介でした。


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