渋柿のSS講座(第17回)「葛藤」
今回はβさんから戴いた、「殺される悪役」をもじって「葛藤」について考えてみることにします。
まず、物語を進める為に、なぜ葛藤を盛りこまなくてはならないか、から入ってみましょう。
すでに何度も講座で触れてきたように、読者は作品をどのように見せてもらえるかを期待しています。葛藤を必要とするわけは、物語-ドラマ-が人間模様を描くものだ、というところから始まっているのです。
ことに小説は、描写は全て文字で行われています。これが漫画なら絵でカバーできるのですが、小説の場合、描かれるさまざまなキャラクターを「人間」らしく見せるには、そのキャラクターの内面に踏み込まないと、「人間」にする事ができないのです。
キャラクターの葛藤を描くのは、物語の中で「人間」を作っていく一つの形である、と私は考えます。
オラクルの作品を見ていて気になるのは、クライマックスで対峙する相手が、「殺される悪役」ではなく、「ただのやられ役」になっているケースが多い事です。
主人公の「葛藤」とは、彼らが敵役を乗り越えるべき過程で起こる出来事です。多くのオラクルの作品には、敵役がちょくちょくと現れるにもかかわらず、主人公に「葛藤」が起きていません。
つまり、主人公にとって倒す-乗り越える-価値が無い、という事です。それは、作品の中で「このキャラクターが殺されて当然」として、描かれている事でも判ります。「殺されて当然」の存在は、主人公にとって倒すべき意味が無いのです。
そうであるにもかかわらず、物語にちょくちょく登場しているのは、「作者にとって」倒す意味があるからです。たとえば、物語を進行させるため、あるいは、主人公の強さの一端を垣間見させるため……。
このような作者の都合で登場するキャラクターを、ただの「やられ役」と呼ぶのです。
本来、敵役の役どころは、主人公にとって「乗り越えるべき目標-存在-」であるべきなのです。敵役の価値は、主人公に異を唱えるところにあります。主人公は敵役が言っている事を否定するために、彼らと戦って勝つ必要があるのです。
ここに「葛藤」が入りこむ余地があります。もしかしたら、敵役が言っている事が正しいのではないか、という疑問を主人公に背負わせる事で、主人公が何をしたいのか、何をするべきなのかを、読み手に見せる事になります。
敵役をただの「やられ役」にしてしまうと、「葛藤」になるどころか、なんでもない、普通のことに成り下がってしまいます。作品の中の「殺されて当然」のキャラクターが殺されても、それは当たり前の事に過ぎません。
それではこの辺で。渋井 柿乃介でした。