渋柿のSS講座(第21回)「視点と視座」


 チャットでいただいた、『視点と視座』について、考えてみます。
 本来はどちらも「物事を認識する立場」で、同じ意味の言葉ですが、視座を「perspective」の訳語として取り上げるのなら、もう少し大きく括れるように思います。
 いうなれば、「行為の主体が、いつも持っている特定の見解・物事の見方」となるでしょうか。小説を叙述する「行為の主体」、すなわち、語り手が持っているであろう「特定の見解・物事の見方」を指している、と考えています。

 この場合、視点は、狭い意味での「物事を認識する立場」(目線――あるいはカメラ位置)を考える事になります。物語の一場面ごとを、誰の口や目を借りているのか、に心を砕くワケです。
 対して視座とは、視点に係わり無く、どのような姿勢で物語を描いているか、という事だと思います。
 同じ状況でも、ものの見方は人それぞれです。視点の位置がどうあれ、執筆の姿勢は一貫したままのはずです。
 故に、視点・視座のような呼び方を用いるのは、適当ではありません。ここからは、視点を「目線位置」、視座を「意識位置」と書き換えて続けます。
 まず、目線位置から触れていくことにしましょう。例文を、フルメタル・パニック長編「揺れるイントゥ・ザ・ブルー」から取り上げます。

>「いかん。千鳥、そこは――」
>右足がなにかのスイッチを踏む。すると、彼女の頭上に取りつけてあった、剥き出しのノズルが小刻みに震えた。
>「へ?」
>直後――ノズルから、猛烈な勢いで赤い粉末が噴射された。
>何かの塗料だ。それが前後左右から、彼女めがけて吹きつけたのである。たちまち付近は、朱色の濃霧で視界ゼロになった。

 この文章の目線位置が「神の視点」になります。かなめ自身には、「頭上に取りつけてあった、剥き出しのノズルが小刻みに震えた」事が判らないからです。更にいえば、付近が「朱色の濃霧で視界ゼロになっ」ていることは、かなめは知らないはずです。
 まず、この文章に少し手を加えます。

>「いかん。千鳥、そこは――」
>なにかを踏みつけた感触が、右足に伝わる。どこかで、ケチャップを容器から勢いよく押し出したような音がした。
>「へ?」
>声をあげたとたん――目の前が、朱色に染まった。
>赤い粉末が、前後左右から吹きつけてくる。何かの塗料らしいが、とても目を開けていられない。

 ここでは、目線位置をかなめに移しました。しかしこれだと、周りで何が起きているのかサッパリ判らないですね。
 では、もう一つ例文を出します。

>「いかん。千鳥、そこは――」
>かなめは、うかつにも右足でなにかのスイッチを踏みつけた。すると、頭上に取りつけてあった、剥き出しのノズルが小刻みに震えた。
>「へ?」
>彼女がマヌケな声をあげたとたん、ノズルから猛烈な勢いで赤い粉末が噴射された。
>何かの塗料だ。それが前後左右から、彼女に襲いかかったのである。
>赤いもやのむこうでは、何事が起きたのか理解できていないかなめが、もがき続けていた。

 少しスタンスを変えてあります。
 本来であれば、「例によって宗介の非常識さにまきこまれる、かわいそうなかなめ」という姿勢で描かれているものを、「いつまでたっても宗介の行動パターンが読めない、バカなかなめ」の方向で綴りました。意識位置が「一般人」側から「軍人側」に移っているのです。
 しかしながら、このやり方は、フルメタル・パニックの約束事に反しています。フルメタル・パニックは、一般人であるところの千鳥かなめの思考様式に沿って文章を進めることで、ミスリルなどの軍事組織の異常さを描く構成になっているからです。

 繰り返しますが、作品の中で貫かれている意識・姿勢は、一貫して保ちつづけねばなりません。
 その作品の方向性を決定するのはなにか、ということです。登場人物達が示すアクションの一つ一つを、語り手がどのように処理しているのか、それが視座ではないのか、が私の考えです。

 よりわかりやすいように別の例で申し上げると、三国志を曹操の立場で描くか、劉備の立場に寄るか、それによって物語は大きく変わります。曹操を肯定する意見、劉備を肯定する意見のどちらも、証明するのはたやすいです(逆を言えば、否定するのは大変難しい)。
 目的のために手段を選ばないのか、目的のほかに手段をも選んだ方が良いのか(無論、それだけではないですが)、このどちらのスタンスで描くかによって、曹操と劉備の扱いは大きく変わってしまうのです。
 また別の例で、「アメリカ南北戦争」について言及してみましょう。この戦争は北部側が勝利しました。そして、世界的には一般に「南北戦争は、奴隷解放をもたらした戦争である」と認識されています。
 ところが、南部側の人間はいまでも、「あれは北部が起こした侵略戦争だ」と認識していたりするのです。現に、リンカーン自身は、白人と黒人の通婚を認めようとしませんでしたから――奴隷開放宣言は、工場労働力の確保が目的だったとも言われています――、そのように考える事も、決して不可能ではありません。
 これらは、ひとつの事実を見るにしても、まったく逆の認識が可能であるという例に当てはまると思います。

 渋井 柿乃介でした。


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