ORACULAR‐WINGS■
 ■5月の風■   


 佐野秋子二十二歳。城南大学文学部国文学科に通う学生。
 彼女の死によって、忍刃正紀は戦争以外でも突然に人が死ぬことを知る。



1,第一接触

 新緑の眩しい五月。学内の道路沿いに植えられているポプラが、一生懸命背伸びして空へと枝を伸ばしている。
 そろそろ夏が近づいてきたのか、日差しが日増しに強くなってきている。
 この時期特有のさわやかな風が、青年の髪をすくって後ろに流す。
 青年はオッドアイを細め、空を見上げた。
「……今日も暑くなるな」
 ここは城南大学。文学部から法学部、理学部まで幅広く学ぶ分野を持ち合わせている、四年制の大学である。
 敷地も広く、学内を自転車で移動している学生をよく見かけられる。
 二号館から四号館に向かって歩いて移動していた学生、忍刃正紀は軽く息を付いて視線を前に戻した。
「どした? 五月病か?」
 そう話しかけてきたのは、同じように講義のため一緒に移動していた時襠貴史(ときまち たかし)という男だ。
 からかい混じりのその声に、正紀は表情を変えることなく言い返した。
「そう見える?」
「いや、全然」
「だったら聞くなよ」
 ここで、ふと正紀の表情が和む。笑うと年相応に見えた。
 よくまわりの人間は、正紀が黙っていると深刻に考え事をしていると勘違いする。
 それは、正紀が普段から笑顔で人当たりのよい性格を披露しており、おおよそのことで無表情になったりすることが少ないからである。
 しかし、時襠は、実はそれはただぼーっとしているだけだということに気づいている。
 正紀は人当たりもよく笑顔を絶やすことが少ない。よって交友関係も広いのだが、実は関係が浅い。それは正紀が時々放つ近寄りがたい雰囲気のせいだ。時襠はそれをまったく気にしていない近しい友人である。
 肩を並べて歩いていると、その横をもの凄い勢いで走り抜けていく人影があった。
「おっと」
 走り抜けられたときに発生した風によって、時襠の持っていたレポート用紙が舞いあがった。
 ふと、正紀と走り抜けた人物の視線があう。一生懸命さが滲んだ目は漆黒。一瞬合っただけだったが、切羽詰まった状況が感じられ、正紀は得に相手を呼び止めなかった。
 舞い上がったレポートが落ちる前に、正紀はそれを空中で器用にキャッチした。
 駆け抜けていった人影は、ごめんなさいぃと言いながら遠ざかっていく。
「……ドップラー効果してるな?」
「そうか?」
 驚き顔で、二人は走り去っていった人影を見送った。
 黒い髪をショートボブにし、スーツを着こなした女性がインラインスケートを履き疾走していったのだ。驚くなというのが無理な相談である。
「なんだったんだあれ」
 呆れたように、時襠にレポート用紙を渡す。目はインラインスケートを履いて疾走している後ろ姿に今だ注がれていた。
 それを受け取りながら、時襠は軽く笑って肩を竦めた。
「ああ、多分国文学科の四年生だよ。離れ小島に向かうんだろ」
「離れ小島?」
 怪訝そうに眉をひそめる。その様子に今度は時襠が軽く首を傾げる。そして納得したように頷いた。
「そっか、おまえ留学生だから知らないか。国文の先生でな、十二号館の六階に研究室をもってらっしゃる教授がいるんだよ。藤沢教授といわれるんだがね。で、自分で離れ小島な研究室と言ってるんだよ」
 有名な笑い話さ、と時襠は先を続ける。
 十二号館は、大学の敷地の一番北側に位置している。今いる場所よりまだかなり離れている。
「それでな、その教授は遅刻を許さないんだよ。毎年二コマ目は卒論ゼミを自分の研究室でやってんだが、場所が場所だろ。1コマ目に芸術の授業があるの知ってるか?」
「ああ、全学課、学年が受けられるやつだろ? 『日本の陶芸』だったっけ?」
 記憶をたどりつつ頷く。友人の何人かが楽しいと言って授業をとっている。それを思い出して軽く頷く正紀。
 四号館のドアを開けつつ、歩を進める二人。
「そう。毎年単位の関係であの授業をとらざるを得ない四年生がいるんだが、その人たちが離れ小島卒論ゼミに入ってたらあの様になるんだよ」
 芸術の授業は長引くことが多い。また陶芸を担当する田村教授が、時間いっぱいまで授業することは有名だ。時間オーバーすること多いんだと、友人の何人かが言っていたことを思い出した正紀だった。
 そして得心がいく。
「なるほどね。毎週必死の形相で走る人何人か見たけど、それもかな」
「多分な。毎年、五,六人はいるんだよああやって走るのが。ま、足がきれいだったからいいんだが」
 セリフの後半が、話していた内容から脱線する。
 急な話題展開に軽く笑いつつ、正紀は教室のドアを空けた。
「どこ見てんだ、フトモモ星人」
「どこだっていいだろう? 足の綺麗なおねいさんは大好きです」
「はいはい、言ってろ」
「『はい』は一回でよろしい」
「はーい」
 そう言って、先程見送った後ろ姿を思い出す。
 ボブカットにした髪が風をはらんで大きく膨らんでいたのと、しゃきっと伸びた背筋が目に浮かんだ。
 
 十二号館に向かって走っていた女性は、目的地に着くと手早くインラインスケートをぬぎ、普通の靴に履き替えた。身支度を整え再び走りだした。階段があるため普通の靴でないと危険だったためである。
 彼女の名前は佐野秋子(さの あきこ)という。時襠と正紀の予測通り、国文学科の四年生である。
 彼女は腕時計を確認してから、藤沢研究室のドアをノックした。一声かけてから入室する。
「お疲れ〜」
 入室と同時にそう声をかけられ、彼女は脱力した。ゼミが始まる前に「お疲れさま」などという声を聞く羽目になろうとは、思っていなかったからである。
「あー、授業の選択間違ったかしらね……」
「今さら遅いわよ。ほら、こっち」
 隣の席をぺしぺしと叩き、座るように進めたのは、秋子の友人である南奈緒(みなみ なお)だ。ゼミ開始時間まで三分をきっていることを確認し、秋子は卒論に使う資料をとりだした。
「で? 今日は誰かにぶつかった?」
「ううん。ぶつかりそうにはなったけど大丈夫だったわよ」
 そう返事をすると、奈緒はちっと舌打ちをした。
 おもむろに財布から百二十円を取り出し、先に席に着いていたゼミ生達とやり取りをしている。
 それを見て、秋子は軽く頭を抱えた。
「……あんたら、賭けしてるんじゃないわよ」
「他人の不幸は蜜の味」
 にたりと笑って奈緒が言った。奈緒の言葉に秋子はうなだれた。どうせどうせと机にのの字を書き始める。
 うっとうしい! と奈緒に頭を叩かれ、秋子は机に沈没した。
 このやり取りを見ていたゼミ生は軽く笑みをこぼす。ほほえましい(?)やり取りは、場の緊張を和らげた。
 卒論ゼミが開講されてからまだ三回目。空気に慣れきっていない学生は彼女たちの行動で幾分和らげられたようだった。
「おう、そろってるな」
 この研究室の長である藤沢教授が研究室に入ってきた。片手には買い物袋が下げられている。
 長机に沈没している秋子を認め、藤沢教授は奈緒に視線をやった。
「で? 結果は?」
「先生の勝ちですよ、分配はあちらでどうぞ」
「よしよし」
 にやりと笑い、藤沢教授は自分の席に着いた。配当金の話を他の学生としている。
「せ、先生まで……」
 秋子の情けない声に、ゼミ生が笑う。場が和んでいるうちに、ゼミがはじまった。



2,情報交換

「忍刃正紀、十九才。容姿端麗、頭脳明晰、その上性格が良いという三拍子揃った珍しい学生。うちの大学の工学部二年次に単位交換留学中。性格は明るく、あまり人見知りしないたち。……ここまで揃ってるとウソ寒いわね」
「……あたしは、彼の小さな特徴だけから情報を引き出せる、あんたの頭が怖いわね」
 食堂にてサラダをつつきつつ、秋子があきれたように言った。
 彼女の隣では、これらの情報をさらっと話した奈緒がカレーを食べている。
 食堂内は若者達の食欲のためか、熱気が込めている。外気温と二度は違うであろう。
 喧騒を嫌がり、二人は場所を移動することにした。
 食べかけの食事をトレイに乗せ、食堂の外へと向かう。
 ドアを開けると、さあっと涼しい風が舞い込み、秋子は目を細めた。
 学内にある木のテーブルセットに落ち着き、二人は食事を再開した。丁度木陰になっており、五月の涼しい風が二人の間を吹き抜けていった。
「で? なんだっけ」
「秋子がぶつかりそうになった相手の話よ。で? 話しかけたの?」
「そんな暇ないって」
 苦笑する秋子。奈緒の言葉の裏に、いつもの好奇心が見えたからだ。
 奈緒は何かと「彼氏いないの? どーしてつくらないの、せっかくの青春が!」と言っては秋子のスタンスに食い下がる。入学してから今まで、奈緒は秋子から恋愛関係の話を持ち出されたことがなかった。それがどうも不満らしい。
 付き合うだの別れるだのといった話の大好きな奈緒は、「特に彼氏と呼ばれる相手はいらない」という秋子のスタンスを覆したい。それは同じ話で盛り上がりたいというのもあるのだろう。
 女の子とは、結構恋愛話が好きなのである。無論、例外もいるが。
 奈緒と秋子は例外同士が友人同士になったという、顕著な例だ。前者は「恋愛ネタ大好き」後者は「恋愛ネタ特に感心なし」である。
 恋愛ネタとしての男の子の話は、奈緒がふっかけても、秋子は綺麗にかわしていた。
 それでも友人関係が立派に成立しているのは、それ以外のことでは気が合っているからだ。
 人間関係とは、複雑かつ愉快なものである。
「奈緒もいい加減あきらめなってばさ。今恋愛感情ある相手いないんだから」
「いなけりゃつくるのみよ! せっかくの学生生活が!!」
 スプーンを握りしめ、学生生活のありようについて熱く語りだそうとする奈緒を、秋子はやんわりと話の筋を元に戻すことで遮った。
「ちょっと容姿の特徴を言っただけなのにわかったってことは、有名な子?」
「うん、表だってはいないけど結構目立ってはいるわね。工学部の遊び人と名高い三人組と友達やってるのも理由に挙がるかな?」
 確かに顔かたちは整っていたかも? とも秋子も思う。けれど、彼女の印象に強いのは、相手の目に浮かんでいた光。そこに老成した見方のようなものが見え隠れしていたから、少し気になったのだ。
 あの歳であの目つきは、ちょっとなんか事情がありそうよね。ま、痛そうな腹は探らないけど……。
 と、そこまで考えて、自分の思考に対して笑ってしまう。考え方が新聞部に染まっている。つきあいで入ったはずの新聞部。部長である奈緒に引っ張られたかたちではあったが、性に合っているのを以前に自覚はしていた。
 軽く頭を振って、それらの思考を振り払った。
 そして、はた、と気づいた。横合いから視線を感じる。
 視線を転じると、ニヤニヤした奈緒の顔にぶつかった。
 がしっと肩に腕をまわされ、嬉しそうに奈緒は微笑んだ。
「やーっとあの秋子に春の兆しが!!」
「だから違うってば! 握り拳つくるな! 振り上げるな!」
 じたばたと暴れて、何とか奈緒の手から逃れる。
「大体、私がぶつかりそうになったのは、隣の男の子! それにあんな状態を出逢いにするって、最近の少女漫画でもないわよ」
「事実は小説より奇なり」
 奈緒は足を組み顎の下に指をあててそう言い切った。
 がくっと体勢を崩し、秋子は力つきたように言った。
「言いきるなー」
 からからと笑って奈緒は食事をすすめる。
「ちなみに、もう一人の方は、工学部二年の時襠貴史くん。彼は二〇才。頭脳明晰、フトモモ星人。人当たりもそこそこ良いわね。運動神経の方はそんなに良くないけど、バイク好きで正紀君とは話が合ったようだわね」
「フトモモ星人?」
 机から身を起こし、奈緒に疑問の目を向ける。奈緒は意を得たりとばかりに話し始めた。
「そう。細すぎる足は好みでなく、ひざをつけて立った時に太股の間に隙間が出来る足は却下。だからといって太ければイイというものでもないく、脂肪のみの足も駄目。適度な筋肉の上にうっすら脂肪がのっている、太すぎず細すぎない足がお好みらしいわよ」
「……あんたね、どこでそんな詳しいネタ引っ張ってくるのよ」
「ま、いろいろとね」
 にやり、と笑う奈緒。不穏な笑みに秋子はそれ以上ネタの出所につっこみを入れなかった。
 そこでふと何かが秋子の頭の中に引っかかった。
「ん? 工学部の遊び人組と友だち? あの二人とも?」
 眉間にかるくしわを寄せて、秋子は奈緒に向き直る。
「そうよ? どしたの?」
「その三人の内、一人はうちのサークルにいないっけ?」
「いるわよ。児玉君」
 ぽかん、と間が空く。
 表情をくしゃっとゆがめ、秋子は軽く頭を抱えた。
「だったら彼にきけば早かったじゃない。早く言ってよ〜」
 ため息をつきつつ、サラダを咀嚼する。
「最初に気づきなさいよ。私、最初に工学部に留学してる子だって言ったでしょ。児玉君、頭のいい留学生と友達になったって以前自慢してたじゃない? これ思い出して、あたしとの会話切り上げてたらからかわれなかったかもしれないのに。駄目ねぇ」
 そうね駄目ねぇ、と同意しそうになって、ふと気づく。ここで同意しちゃいけない。
「このフォーク、刺さるときっと痛いわよねぇ」
 光るサラダフォークをしみじみと眺める秋子。冷や汗を流しながら後ずさりする奈緒。
 形勢逆転。
「なーおちゃーん、そもそもからかうってなによ?」
「あ、あははははは」
 じりじりと間合いを計っていると、横合いから声をかけられた。
「先輩方。何漫才してんですか」
「あ、児玉君」
 ひらひらと手を振って現れたのは、噂の工学部遊び人組、三人の内の一人である児玉だった。
 美形とは言われないが、人好きのする二枚目半くんである。
 女の子に無条件にやさしいので、女性ウケする青年だ。
「漫才? 私は暴走する奈緒をなだめてただけよ?」
「……ん、取り合えず、その物騒なもの下ろしたほうがいいですよ」
 軽く手を振り言われ、秋子は不承不承にもフォークを下ろす。それをレタスに突き立て口に運ぶ。
「うーん、察するに秋先輩がからかわれてたんでしょ? 顔赤いですよ?」
 そう言われ、秋子は鳩が水をひっかけられた様な顔をした。間の抜けた顔で児玉を見返す。
「あ、図星でしたね?」
 にやりと笑う児玉の頬を、ぐにっと秋子がつかんだ。
「あのね、児玉少年。今の状況が察せたのだったら、私の機嫌も察せるよねぇ?」
 危険な空気が漂い出す。あはははは〜と愛想笑いを浮かべながら、児玉は自分の頬を掴んでいる秋子の手を外しにこりと笑う。
「で? 秋先輩、今日はゼミに間に合いましたか? 疾走目撃者多かったからどうかなと」
「間に合ったわよ」
 憮然としたように、席に座りなおす秋子。
 児玉は話題をずらすのに成功した。また、このまま話題がつながるのが嫌だった秋子の思惑にも児玉の出した話題は当てはまるものだったので、乗ったのもあった。
「大変ですね、卒論ゼミ。なんでまた離れ小島ゼミにしたんですか?」
「取り扱う作品があの先生の得意分野だからよー。まあ、今の1コマ目は半期の授業だし。半期の辛抱〜」
 サラダを平らげた秋子は、食器を片付けに席を立った。
 その秋子に合わせるように、
「あ、俺次授業だから行きますね。明日サークルに顔出しますんで」
 と、児玉は席を離れる。その背中に向かって奈緒が揶揄の声を投げる。
「珍しいわね〜。いつもサボりでしょ?」
「それは言わないお約束ですよ」
 そう苦笑して児玉は軽く手を上げ去っていった。彼が向かった先には件の二人がいた。
 正紀と時襠である。
「さてはノート写しか」
 奈緒の独り言に答える声はない。
 一息ついて、カレーを口に運んだ。ぬるいカレーはあまりおいしくなかった。
 まだ秋子は帰ってこない。

 駆け寄ってくる児玉に目をとめたのは、正紀が先だった。手にはパンとサラダが乗ったトレイを持ってる。隣を歩く時襠は素うどんを手にしていた。
「よう来たか。飯は?」
「もうすましたよ。よっ! 時襠」
「おう」
 近寄ってくる児玉と軽く手を打ち鳴らし、挨拶したのは時襠。
 児玉がやって来た方向を何気なく眺める正紀。
 見た先には、眼鏡をかけた才女風な女性が座っていた。その近くには、朝にあった『インラインスケートで疾走していった女性』が背をむけて歩いている。
 どうやら児玉はこの二人と話していたようだ。
 それに時襠も気づいたらしく、好奇心を滲ませて児玉の方に軽く身を乗り出した。
「あの人誰だ?」
「ん? あの人か?」
 児玉は振り返って、時襠の視線の先を確かめる。
「あの人は、俺が入ってるサークル新聞部の部長さん。文学部の南さんだよ」
「もう一人のほうは? あのスーツのお姉さん」
 正紀が問うた。視線は遠ざかりつつある『インラインスケートで疾走していった女性』に固定されている。
「ああ、あの人も新聞部に入ってる。同じく文学部の佐野秋子さんだよ。知ってるのか?」
 意外そうに視線を向ける児玉。
 城南大学ほどの大学校となると、学科が違えばまず知り合ったりすることは少ない。
 学科を越えた知り合いは、多くの場合サークル活動や学内活動などで知り合うことが多い。
「いや。すれ違っただけだよ」
「すれ違った」
 ぱちくりとした表情で児玉は首を傾げた。
 その表情を見て、時襠はイタズラが成功したような子供の様な顔をした。
「あ! もしかして遭遇したのか?」
「当たり」
「綺麗なお御足拝見したよ」
「綺麗なって……」
 児玉は軽く首を傾げ、秋子の今日の格好を思い出す。
 一拍間をおいて納得した表情で頷く。
「あー、今日あの人スーツだったな。あれで疾走したのか、強いな〜」
 苦笑をして、移動のため歩き始めた正紀と時襠の後ろについて児玉も歩き始めた。
「あまりのミスマッチにびっくりだったよ」
「確かに、あまり学内でスーツ着て、インラインスケートで走る人間は見ないね」
 正紀、時襠の順に目撃した感想を述べる。
 二人の呆れたような、また苦笑するような表情をみて、児玉がうくくと笑う。
「毎週この曜日の一コマ目終わった後に、掲示板前に立ってたら目撃できるぜ?」
 空いているテーブルセットを発見し座り、食事を始める。
 この頃には話題は変わっており、三人はノート写しの算段を話し始めていた。
 これっきり、秋子と奈緒の話題は出てこなかった。
 ちょっとした風変わりな出来事。それはすぐに日常の中へと埋没していった。



3,自分の気持ち、相手の気持ち

 ここ最近、よく視界の中に引っかかる人物がいる。学科も違うし学年も違うから遭遇する機会はほぼ無いに等しいはずである。しかし、ふとした瞬間に視界の中にいる。
「どうしてだろう」
「それは秋子の視線が、忍刃少年をいつも追っているから」
 突然隣から上がった声に秋子は驚き、指先で回していたシャープペンを取り落としてしまった。
「ちょっと、人の回想に合いの手いれないでくれる?」
「講義中に物思いに沈んでるからよ」
 今は、全学年国文学科が受けられる『日本文学入門』という講義中である。場所は大講義室。
 黒板の前では先生が夏目漱石の『それから』を題材に延々と話している。
 秋子と奈緒は教室の中程より少し後ろに陣取っていた。
「いえ、その前に、人の思考を読むことに対してつっこみいれましょうよ」
 後ろから聞こえた声に秋子と奈緒が振り返る。
 そこには頭を軽く抱えた児玉がいた。
 目を丸くする二人。そして同時に声をひそめて言った。
「「なんで児玉君がここにいるの?」」
 もっともといえばもっともな質問である。この講義は国文学科しか受けられない。出席をとらないから、他学科が混ざっていても気がつかれはしない。しかし、あまり多学科の人間が紛れ込むことはない。
 奈緒と秋子の発言に、児玉はがっくりと肩を落とした。
「インタビューの記事を持ってこいって言ったのは、奈緒先輩でしょうに。これ、この講義中にまとめなきゃならんのでしょう?」
「あ、そうだったわね」
 児玉が集めてきた学食についてのインタビュー資料に目を落とし、それをまとめ始める秋子。
 まとめ終わった資料を、端から文章化し始める奈緒。
 インタビュー資料を渡した時点で児玉の用事は終わっているのだが、講義中に教室を出るわけにはいかない。よって、そのまま児玉は講義を受けていた。奈緒と秋子の後ろの席に座り、えして止まりがちな執筆に注意を促していた。
「で? どうして秋先輩が正紀の姿を視線で追うんですか?」
 ぽつり、と児玉が純粋な疑問を呟いた。とたん、秋子の周囲の空気が凍る。
 奈緒がにたり、と人の悪い笑みを浮かべ児玉を振り返る。
「それは乙女の秘密よ」
 そのセリフを受け、児玉は納得したように笑顔を浮かべた。秋子が正紀にぶつかりそうになった話を、児玉は正紀から聞いていたからだ。二人はとりあえずお互いの顔を知っているはずだ。
 そこに奈緒の情報が入ったとしたら、正紀の情報はすでに秋子に入っていると考えていい。
 それから後に秋子に何らかの感情が生まれるかどうかは、彼女次第であって。
「ははぁ、なるほどね。もてる男は羨ましいねぇ」
「……授業中は静かにしましょう」
 秋子がため息混じりに、にやついている奈緒と児玉にそう声をかけた。
 こりゃ、自覚するしかないかしらねぇ。
 痛みを訴え始めようとしているこめかみを軽く押さえ、自らの内に芽生え確実に居座っている気持ちに白旗を揚げた。

 ここ最近、よく視界の中に引っかかる人物がいる。学科も違うし学年も違うから遭遇する機会はほぼ無いに等しいはずである。しかし、ふとした瞬間に視界の中にいる。
「まあ、児玉と時襠のせいだろうな」
「あ? 何だ突然」
 突然な正紀の発言に驚き、時襠は隣を振り返った。
 今は講義が終わったばかりで教室内がざわついている。前後にあった台詞を聞き逃したか? と正紀を振り返ったが、どうやらそういうことでもないらしい。
 鞄の中に講義で使ったテキストやノートを収めつつ、正紀はため息をついた。
「いや、何でもないよ。そう悪いことでもないし」
「? ……俺と児玉のせい? もしかして、佐野嬢のことか?」
 正紀は肯定することも否定することもなく、黙々と教室移動の準備をしている。
 その様子を見て、時襠は自分の発言を肯定したものだととらえた。
「……ああ、最近佐野嬢はよく見かけるな。だがそれは俺や児玉のせいじゃないだろが。正紀の視界によく引っかかるってんなら、お前自身が彼女を目で追ってるってことだろ」
 人のせいにするんじゃない。と、軽く正紀の背中を叩く。
 正紀は軽く顔をしかめ、隣に立っている時襠を見返した。
「なにげに人の思考を読むなってば。そんなんじゃないよ」
 軽くため息をつき、正紀は席を立った。次の授業は懇意の教授のもので、授業前に手伝いを頼まれている。講義に使う資料を運ぶだけだが、早めに顔を出しておいた方がいいだろうと、正紀は席を立ち移動を開始した。
「ズバリ一目惚れ」
「それは違うよ」
 何のためらいもなく正紀は言い切った。視界の中で引っかかる理由がそこにあるというのは、何か違うと思ったのだ。
 そう、例えば彼女の纏う空気、雰囲気。何故か目が追ってしまうが、彼女が視界に入ったときのあの感覚に、恋愛等の甘さはまったく感じられなかったのだ。
 よって、彼女が周囲から浮いて見えるのは、時襠や児玉がよく話題にするからだと正紀は結論づけていた。
「どうだかな。俺達が話題にしてても関心無いときは得に参加しないだろ? そこへきて正紀の過剰な反応とくれば、誰だって……」
 そこまで言って、時襠はぱかんと軽く殴られた。
「邪推するなよ。オレ、次の授業準備あるから先行くよ」
 正紀は軽く笑ってから急ぎ足でその場を離れた。
 じゃ、教室でな。と、軽く手を上げ時襠は返事をした。次の授業は一緒ではあるが、彼は手伝いを頼まれていないのだ。一緒に行ってもいいが、邪魔になると行けないから先に教室に行っておくことにする。
 走り去る友人の後ろ姿を見て、時襠は軽く息を付く。正紀がライバルなのは辛いなぁなどと、冗談半分に呟きながら次の講義へと向かう。
 今だ時襠の誤解の解けないまま、正紀は次の講義の準備のため、教授の研究室へと向かった。



4,第二接触

 背後から児玉に「記事〜、記事〜」とせかされたおかげで、秋子と奈緒は記事を書き上げることができた。
「じゃ、俺次授業あるんで。その記事の編集は今日ですか?」
「そうよ。これから部室でやってるから、今日の授業終わり次第来て手伝ってね」
 奈緒はそう言い、トートバックを肩に掛け、クリアファイルを持ち直す。
「確か今日はバイトじゃなかったわよね? まだ仕上がってない記事があるから頼りにしてるのよー。よろしくね?」
 バイト日の確認をし念押しした秋子は、特上な笑顔を児玉に向けた。
「……はい、了解です」
 今日はサークルをさぼろうとしていた児玉だったが、しっかり休む口実を押さえられてしまい、頷くしかなかった。
「あ、次俺こっちなんで。また後で」
 階段の手前で児玉は上の階を指さし、奈緒と秋子に別れを告げた。
「うん、じゃまた後で〜」
「来るときに差し入れよろしく〜」
 それぞれ挨拶を交わし、二人と一人は別れた。
 階段を下りつつ話が進む。
「時に奈緒は次何か取ってる?」
「ううん。秋子は何も取ってなかったわよね?」
「うん。ちょっと栗原先生のとこ寄ってから、キャッシュコーナーにも行くから、先行っといて」
 栗原先生とは、民俗学を教えている教授で三号館に研究室を持っている。
「はーい。あ、ジュースよろしく」
「ポカリ?」
「そう。あとチップスター」
「はいはい。じゃ、後でね」
 階段を下りるまでにこんな会話をし、大講義室のある二号館から出たところで二人は別れた。
「あれだけ食べて、なんであの子は太らないかしらね」
 奈緒が去った後、ぽつりと秋子は呟いた。
 とりあえず栗原研究室へ、と秋子が三号館へと足を向けたその時だった。
 視界に人影が引っかかる。
 その人影は大荷物を抱え、一号館と三号館を結ぶ渡り廊下横に付いている外階段を降りていた。
 何が問題かといえば、二段に重ねて抱えた段ボール箱のおかげで、当人が前が見えてなさそうだったことだ。
「ありゃ危ないわ」
 ここから荷物を抱えている人の場所は近い。これから行く栗原研究室までのルートでもある。
 秋子は迷うことなくそこへと向かった。
「お兄さん、危ないですよ」
 荷物を持った人、近づくとそれが男性だということがわかった。
 三階の位置で向かい合わせるように追いついた秋子は、相手が何かを言う前に二つ積んで持っている段ボール箱の上一個をそっと持ち上げ、男性の視界を確保した。
 そこで、相手としっかり視線を合わせることが出来た。
「「あ」」
 お互いの声が重なる。妙な沈黙が一瞬横たわる。
 段ボール箱を運んでいた青年は、忍刃正紀だったのだ。
 驚いたのは正紀も同じである。
 準備の手伝いに行った先で頼まれたのは、段ボール箱二個の荷物と大判の模造紙。
 一度で運ばないと講義に間に合わず、教授もほぼ同じ量の荷物を運ぶことになっているので、まかせるわけにもいかない。よって、足元に注意しつつ荷物を運んでいたのだ。
 そこに、横から突然声がかけられ段ボール箱が一つ持ち上げられた。正直助かった、と思った。
 そして、視界が開けそこにいたのは、驚きに目を見張った噂の佐野嬢だったのである。
 つい先程彼女の話をしていたものだから、正紀の驚きは大きかった。
 先に気を取り直したのは、正紀だった。
「ありがとうございます。それ、重くないですか?」
「……ええ、大丈夫です。あまり、無茶はいけないですよ? 転けたらどうするんですか」
 驚きから立ち直った秋子は、とりあえず返事をした。こういった出会い方をするとはまったく思ってなかったので、反応が遅れてしまった。
 言うべき言葉がスコンと頭から抜けてしまって、秋子は黙した。顔に血の上る感覚がする。
 心臓が、痛い。
「? 大丈夫ですか?」
 正紀がそう問う。
 段ボール箱を引き取った時点で足を止めたままだった秋子は、言うべき言葉を思い出し、顔を上げ正紀を見た。
「だ、いじょうぶです。これ、どこまでですか?」
 言いたかった言葉を思い出し少し緊張がとけた秋子は、小首を傾げそう問うた。
「ええと、412教室です」
「じゃ、そこまでご一緒しますよ」
「いいんですか? 助かります」
 ほっとしたように笑みを浮かべる正紀に視線をあわせ、秋子も笑う。
「いいですよ、次授業ないですし。あ、そうだ、この間私ぶつかりそうになったでしょう? あの時はごめんなさいね?」
 肩を並べ階段を降りつつ秋子はそう言った。果たして彼はこの事を覚えているだろうか、とふと不安がよぎる。
 しかし、それは杞憂に終わった。
 秋子の言葉を聞いたとたん、軽く声を上げて正紀が笑ったのだ。
 彼女の不安げな表情を見て取り、正紀は笑いを引っ込めると荷物を抱えなおした。
「大丈夫ですよ、ちょっと驚きましたがぶつからなかったし。で、卒論ゼミには間に合いましたか?」
 その時のことを思い出したのか、正紀が苦笑する。
「はい、間に合いました。ええ、ぎりぎりではあったんですけどね」
 疾走していた理由が知られていたのか、と奈緒は再び赤面する。
 誰が話したのだろうか。それとも、離れ小島ゼミはけっこう有名だから、誰かに聞いただけだろうか。
 考えていることが顔に出ていたのか、正紀はその顔に笑みを浮かべたまま理由を話した。
「そういったゼミがあるということは、あの時一緒にいた友人に聞きました。正確な情報は児玉から。えと、新聞部に入ってる工学部の児玉、知ってますよね?」
「はい。そりゃもう。ああ、児玉君ねぇ」
 しみじみと呟く秋子に軽く首を傾げながら、正紀は秋子を見た。
「あいつ、何か言ってましたか?」
「うん? いいえ、なにも。そちらでは何か言ってましたか?」
 階段を降りきり、四号館に向かう二人。
「ええ、奴からはあなたの名前を聞きましたよ。佐野秋子さんですよね?」
「はいそうです。あなたは忍刃くん、であってますか?」
「合ってますよ。ん? 児玉から聞かなかったら、誰に名前聞いたんですか?」
 ふと疑問に思ったのか、正紀が問いかける。
「新聞部の友達に聞いたんです。あの時一緒にいた方は時襠くんという方ですか?」
「ええそうですよ」
 笑みを崩すことなく答える正紀。
 その視線の先に自分がいると思うと、頭がこんがらがってくる気分がする、と秋子は思った。
 精一杯笑顔を浮かべながら、自分を落ち着かせる。自分の気持ちを悟られる訳にはいかない。
 どこどこと鼓動の音がうるさい。緊張のせいか顔も熱い気がする。
 どこどこどこどこ……。意識すれば意識するほど鼓動の音が耳に付く。背中に汗をかいている感覚がする。
 やっぱりあたしはこの人に惚れてるの!? ねえ、どうなのよ!? あーもー誰か教えてー!わからんー! きゃ〜!! にゃー!! 静まれ心臓ー。
 そう心の中で叫びながら一通り混乱した後、なんとかそれを表に出さずに、落ち着いた声で秋子は正紀に話しかけた。
「やはりそうでしたか。あの、謝ってたって伝えていただけますか?」
「いいですよ」
 正紀の返事にほっと息を付く秋子。彼の微笑みには安心感をあたえる暖かさがあるなと感心しつつ、彼女は落ち着きを取り戻し始めていた。
 もう目前に412教室が迫っている。
 唐突に秋子は来月の学内新聞に取り上げるネタを思い出した。
「あの、来月学内新聞で留学生の特集を組むんです。それで留学生対象にアンケートをしているのですが、受けていただけますか」
 教室内に入り、手に持った段ボール箱を机の上に置いた秋子は、自分の鞄の中から一枚アンケート用紙を取り出す。
「内容はどういったもので?」
「本学内の雰囲気はどうかとか、利用しにくいものはあるかとか、学内行事で楽しいことはあったかとかですね。はい、これ」
 アンケート用紙を手渡すと、正紀はそれに視線を落とし読み始めた。
 その様子を確認してから、秋子は話しかけた。
「できればでいいので。もし書いて下さったら児玉に渡して下さい。統計に使わせてもらいます」
「わかりました。御協力しましょう」
 正紀は受け取ったアンケート用紙を鞄の中に入れた。
「じゃ、よろしくです」
 と、秋子が教室を出ようとした。その背中に正紀が声をかける。
「あの、これありがとうございました」
 段ボール箱を示す。そのとき教室の入口から教授が入って来た。
 秋子は慌てたように教室から出、入口のところで振り返った。
「どういたしまして。今度からくれぐれも無茶はしないようにね」
 柔らかい笑顔を浮かべそう言うと、秋子は教室から去っていった。
 それを見送った後、正紀は空いている席を探す。すると少し離れたところで時襠が手を上げた。彼の隣の席が空いている。
 正紀はそこに行き席に腰を下ろした。すると、時襠がからかいを滲ませた顔でにじり寄ってきた。
「なんだ?」
「今の佐野嬢だったろう? なんで彼女と一緒だったんだ?」
「途中で荷物を持ってくれたんだよ。はたからみると危なっかしく見えたみたいだな」
 時襠は一番前の段ボール箱を見る。あれを一人で運ぶ事になってたら、確かに前が見えなさそうだ。
 そう考え、納得の意をこめ時襠は深々と頷く。
「で? 彼女の足は見たかい?」
 聞きたいところはそこか。と軽く笑いつつ正紀は答える。
「ああ見たよ。確かに昨今に見られる細すぎる足ではなかったな。健康的な足だなと思ったが」
 意を得たり、と時襠は小さくガッツポーズをつくる。
「だろ!? やっぱりあのぐらい太さがないとな。うーん間近で見られたのか、ついて行きゃよかったな」
「残念だったな」
 半ば呆れつつ、正紀は先程秋子からもらったアンケート用紙を取りだした。そして記入を始める。それを不思議そうに眺めてから、時襠は話を切りだした。
「それはアンケート? 新聞部のか」
「あたり。さっき頼まれてね。これ書いて児玉に渡さないとな」
 そう言う間に書き上がり、正紀はそれを二つ折りにし鞄の中に収める。
 前では講義が始まった。
 二人は講義に集中し、講義中に会話することはなかった。

 秋子は412の教室を出た後、そのまま栗原研究室にむかい、提出していた小レポートを受け取った。次にキャッシュコーナーに寄り、1万円おろした。体育館横の部室棟に行く前に売店に寄って、ジュースと菓子を購入した。
 それらのことを黙々とこなしてから、秋子は新聞部に割り当てられている部屋に入った。
 そこにはすでに奈緒が来ており、レポート用紙を机の上に散乱させたままノートパソコンに向かっていた。
「おかえり。遅かったね。……どしたの?」
 鉄製の重いドアを閉めた後そこに立ちつくしている秋子を見て、奈緒が不審げな声を上げた。
 秋子は何も言わず、ポカリとノンカロリードリンクとチップスターの入ったビニール袋を机の上に置く。
 そして、一つ息を付き、胸を押さえた。
 秋子のただならぬ雰囲気に、席から腰を浮かす奈緒。
「ちょっとどうしたの? 顔赤いわよ。秋子?」
「……わけわからん」
「は?」
 前後をまったく無視した秋子の発言に、奈緒は眉を寄せた。
「階段のところで大荷物持ってて前が見えなさそうな人がいたの。助けたの。そしたら突然の出会いだったの。本当にわからなかったのよ。狙って行った訳じゃないのよ。もう何話したか忘れたわよ。心臓ドコドコうるさくて頭こんがらがるし顔熱いし何話ていいかもわかんなかったしあーもうどないしろっていうのよきゃー」
 一息にそれだけ言って、また秋子は押し黙った。
 突然の事に奈緒は目を丸くした。何があったのかは予想が付きそうだと思いつつ、話を切り出そうと秋子に向き直る。
 秋子はどかりと自分の席に座り、荷物を置き奈緒に向き直る。目が充血していた。
 先に口を開いたのは秋子が先だった。
「ねえ、これが恋愛? とても苦しいんだけど。しかもどう考えたって一方通行だし相手に迷惑かけるわけにはいかないし。第一年下なのにあの笑い方はどうよやけに世間慣れしてるようにもみえるんだけどその中に暖かさがあるというかそのわりに一線引いたような態度とかそりゃ初対面だから当り前っちゃ当たり前だけど感じ的にありゃすでに大切な女の子いるわねこの時点で失恋確定なんだけど確認するわけにもいかずもう身動きとれないよーっ」
 それだけ言い切って、秋子は頭を抱え机の上に突っ伏した。
「お、落ち着きなさいよ。よしよし、混乱したのね?」
 奈緒は、力つきたように机に突っ伏している秋子の頭をなでなでと撫でる。
 彼女の身体からはすっかり力が抜けていた。
 しばらくすると、むくりと起きあがり、自分用に買ったノンカロリーのドリンクを取り上げ、キャップを空け中身を一口飲んだ。
「で? 察するに正紀くんと遭遇接近会話しちゃった訳ね? で、混乱して何話したか覚えてない、と」
 奈緒の言葉にこくりと頷く秋子。彼女の今の雰囲気には憔悴の色が濃い。
「正紀君の対応の仕方を見て、あんたは彼に付き合っている女性がいると感じたわけだ」
 再びこくりと秋子は頷く。
「告白すると相手に迷惑かけることになるとか色んな事を一度に考えちゃって、混乱したのが今ここで丸ごと噴出した。って状況であってるかしら?」
 こくり。と再び秋子は頷き、さりげなく奈緒のチップスターに手を伸ばした。
 それを見とがめた奈緒は、彼女の伸ばした手をすげなく叩いた。
 秋子は幾分か拗ねた表情になり、ため息をついた。次にイスの上で大きく伸びをして身体の緊張をほぐし、足を組んで頬杖を付く。
「まあ、そういうことなのよ。あーもう緊張しちゃったわよ」
「そうみたいね。ちょっとびっくりしたわよ。いきなり取り乱さないでよね、心臓に悪い」
「あはは、ごめんね」
 青い顔をして呻くようにいった奈緒に対して、秋子は軽く笑って謝罪した。
 秋子は気を取り直しこれから編集する原稿を手に取った。自分の机の上にあるノートパソコンを起動させる。
「で? どうするのよ」
 奈緒がチップスターの袋を破り秋子に勧める。ありがとうといってから一枚もらう。
 先程奈緒が秋子の手を叩いたのは、あの時渡すと全部やけ食いされそうな雰囲気だったからだ。
 今は秋子のまわりの空気は落ち着いており、本来の彼女の雰囲気が伝わってきていた。
「どうもしないわよ。どうすることも出来ないのがわかったから。うん、友達になりたいなぁとは思うけど」
 奈緒は、豆腐だと思って食べたものが実はチーズケーキだったというような顔をした。
「ちょっとまってよ。あれだけ取り乱しといてもう醒めちゃったわけ!?」
「んなわけないでしょ。基本的に私は時間をかけて好きになっていくタイプなの。それにねぇ……」
 ふう、と軽く息をつく。そして続けて言う。
「それに、あのタイプは友達やってる方が楽しそうなのよ。そう思ったら、恋愛対象にするのが勿体なくなっちゃったってのもあるわね」
 かくっと奈緒は体勢を崩し軽くこめかみを押さえた。眼鏡を外し身体ごと秋子に向き直った。その顔には軽い苦笑が浮かんでいる。
「なんだかそれ気持ちわかるかも。好きかも? って思った相手がとっても人間の出来た人で、恋愛事で関係崩すのが勿体なくなっちゃって、結局友達感情に発展したりするの」
「やっぱあるよね、そういうの。恋愛関係はあまり人つきあい長く続かないから、相手がいい人だと勿体ないのよね〜」
「で? 正紀君はそれに当てはまっちゃったんだ」
「ま、そう言う事ね。あの緊張感は再会の仕方が突然だったってのも結構あると思うしね。色んな事話そうと思ってたけど、結局殆どはなせなかったよ」
 落ち着きをすっかり取り戻した秋子は、正紀と会ったときの経緯を詳しく話した。大体の話した内容も伝える。
 話し終わると秋子は軽く肩を竦め、ジュースを口に運んだ。
 それを眺めてから奈緒は眼鏡をかけ直した。ゆるくウェーブのかかった髪を耳に掛け、視線をノートパソコンに戻した。
「なに、まだまだこれからよ。二回目の接触としちゃイイ方なんじゃない? これからまだ時間あるんだから焦らなくてイイと思うわよ。児玉くんというつてもあることだしね」
「つて、ね。確かに。まあ、今度遊びに誘いかけてみよっかな〜」
「あら、その時はもちろん私にも声掛けてよ?」
「がってん承知〜」
 顔を見合わせ二人は笑い合った。
 そして、机の上にある多くのレポート用紙を見てげんなりする。
「まあなんにせよ、この原稿あげてからの話だけどね……」
「そうねぇ。あー、早く児玉君来ないかな〜。あの子パソコン打つの早いしー」
「秋子、他人を頼ってばかりはいけないわよ。あんたもそれなりの速度なんだから。児玉君が傑出してるのよ、比べるだけ無駄だって」
「うん、そうね。よし、がんばろっと」
 気を取り直して二人はパソコンに向き直った。
 部員が来るのはまだ先。それまでに形をつくっておかなければ、と気合いを入れ直し文章を打ち込みを始めたのだった。



5,終焉

 佐野秋子は、大学の講義を終えたあとアルバイトをしている。
「はい、メールです」
 仕事の内容は、中本株式会社内でのメッセンジャーである。
 中本株式会社は企業規模も大きく、建築業界に名だたる企業である。
 大きさゆえ社に来る配送物は多く、配送セクションをあらかじめ用意されている。
 この配送セクションが秋子のアルバイト先であった。
 社内を歩き、手紙や荷物を個人に手渡す仕事である。
 大学四年ともなれば、授業が少なくなる。秋子はこの昼間の空いた時間を利用して、アルバイトをしているのだ。
「佐野ちゃん、悪いけどこれ、郵便局まで頼めるかな?」
 申し訳なさそうな顔をして、秋子に大きな封書を渡す人間がいた。企画課の課長である。
 彼のみならず、急ぎの郵便を出さねばならないのにけれども手の空いた人間がいないとき、通りがかりに封書を頼む人間は時々いる。社内の配送セクションにまかせると、どうしても今日中には郵便局に出されないからだ。無論、それなりの信頼を秋子が受けている証拠でもある。
 大通りを挟んで向かいに郵便局があるのだが、人手がないときこうしてお遣いを頼まれるのだ。
 帰りに寄ればいいことだから、秋子は承諾した。
「わかりました。速達ですか?」
「ああ、急ぎなんだよ。これ料金ね。あとこれ、よかったら使って?」
 課長が差し出したのは、小料理達磨屋の五百円サービス券だった。それを受け取り、軽く目を見張る秋子。
「いいんですか? これ」
「うん、使ってやって。どうも期限までに行けそうにないし、佐野ちゃんよく行くって言ってたろ?」
「はい。ありがとうございます」
 嬉しそうに微笑む秋子を見て、課長はふと微笑んだ。
「すまないね、そんなものしか渡せなくて。今度機会があったら一緒に飲もう」
「いいですね〜。またなにかありましたら声かけて下さい。ではこれ、預かりました」
 大振りな封書を軽くはためかせ、秋子は企画課を出ていった。
 課長、若い子ナンパしちゃ駄目ですよ〜、などと課内の女子社員がからかっている。そんな喧騒を背にして秋子は最後の配送場所を後にして配送センターに戻っていった。
 バイトの時間も終わり、秋子は帰りの支度を整えた。時刻は三時過ぎ。まだ郵便局はあいている。
「おや? 佐野君頼まれごとかい?」
 封書を抱えるように立ち上がった姿を見て、配送センターの古株である三上が声をかけた。
「そうなんですよ〜。急ぎだそうで。あ、私が郵便局に付く前に事故にでも遭ったら、これを届けるのお願いしますね」
 これは、秋子が封書のお遣いを頼まれた時に、必ず所員に言う台詞である。
 事故に遭いました、届けられませんでした。では、急ぎの用事が済まないからである。
 三上は軽く返事をして出ていく秋子に手を振り、快諾の意を伝えた。
「気を付けて行けよ。お疲れさん」
 秋子はそれを確認してから、外へと向かっていった。
 正面玄関を抜けて階段を下りる。歩道を歩き始めてから、彼女は空を見上げた。
 雲一つない青空。五月の風が辺りを吹き抜けて行く。
 秋子はふと、卒論ゼミに行く途中に正紀とすれ違った時の事を思い出した。
 一瞬合っただけの視線。あとから考えてみると青年の左右目の色が違ったようにも思える。驚きの色の中に混じっていた、静かな落ち着き。彼のその落ち着きは、どういった経験の上に成り立っているのだろうか。
 突然、急ブレーキの音が辺りに響いた。
 歩道の真ん中で思考を巡らせていた秋子は、反応がおくれた。
 振り返ったときには、背後に黒の乗用車が迫ってきていた。
 なぎ倒されたガードレール、耳障りな金属音。
 ……ああ、あの人ともっと話をしてみたかったな。
 その言葉が頭に浮かぶのと同時に、鈍い衝突音を秋子は聞いた。
 それ以後、彼女の耳には何の音も届かず、思考にも何も浮かべることはなかった。



6,別離

 『インラインスケートで疾走していった女性』と遭遇した日の翌週。一コマ目終了後、正紀と時襠は掲示板の前に差し掛かっていた。いつもの移動ルートでなく遠回りになるのだが、時襠に引っ張られるかたちで二人はこの道を歩いていた。
「今日会えるかな?」
「さてな。そういや、あれから児玉見てないな」
 正紀の言う「あれから」とは、ノートを見せた先週の今日のことである。
「そうか? 学内をうろついてるとこ何回か見たぞ? 俺」
「んー、あのノート使うんだけどなぁ。連絡とれないし。何やってんだあいつ」
 少し呆れ気味にため息をついた。そして周囲を見渡す。時襠が期待している新聞部の佐野秋子も今日は姿が見えない。
「もう行ったんじゃないのか?」
「おかしいなぁ。タイミングは合ってるはずなんだけど」
「あ、児玉発見」
 正紀の視線の先には、リュックを背負ってこちらに向かってくる児玉の姿があった。心なしか顔色が優れないようである。児玉は軽く手を上げ正紀達に追いついた。
「よぉ、どうした? 顔色悪いぞお前」
「ああ、ちょっとな。で? おまえら何してんだ? ここ遠回りだろ?」
 三人揃って歩みを進める。次の時間児玉が受ける講義は正紀達の隣の教室である。自然と同じ方向に足が進む。
「いや、新聞部の佐野嬢を一目見ようと思ってな」
 時襠の声を聞いて、児玉は唐突に後ろから殴りつけられたような顔をした。何かを言おうとしたが、すぐに納得したような表情が浮かぶ。
 その豹変ぶりに時襠も驚いたのか、首を傾げ児玉をうかがった。
「どうした?」
 そこになにか不吉な予感を抱きつつも時襠が尋ねる。
「もう、秋先輩はここ通らないよ。昨日、亡くなったんだ」
「「亡くなった!?」」
 正紀と時襠は驚きの声を同時にあげた。
 先週はあんなに元気そうだったのに、と時襠は呟く。
 その隣で正紀も唖然としている。咄嗟に思い浮かんだのは何かの事件に関わったのかということ。しかし、すぐさまそれは思考の端へと退けられる。そう簡単に希有な事態はおこらないだろうと思い直す。
 では何故。
 児玉を見ると、彼はリュックを肩の上に背負いなおしながらため息をついた。
「事故だそうだ。歩道に車がつっこんできて、それにはねられたらしい。即死だったそうだよ」
「事故」
 一度だけ話したことのある女性。直接深く関わる話をしたことがあるわけでもなく、面識があったわけでもない。こちらが知っていても、相手が自分たちのことを知っていたということでもない。
 紛争に巻き込まれたのでもなく、悪意の上で殺されたのでもなく。
「そうか、戦争以外でも人って死ぬんだな」
 ぽつりと、正紀が呟いた。
「ぁあ? 当たり前だろう。老衰で亡くなる人間もいれば事故で亡くなる人間もいるぞ?」
 時襠が怪訝そうに正紀を見る。
「いや、わかってる。だけどこう、身近で起こって再認識したっていうか。うん、なんだろな」
 正紀は、時に危険な仕事を引き受ける事がある。ミスリル絡みの仕事であったり、情報をはこんだり。その中で、人の生き死にについてはしっかりと認識しているつもりだった。
 だが、ふと思い知らされることがある。人は忘れる生き物だということを。
 もちろん、戦争以外では人が死なないなんて思ったことは一度もない。様々な理由で人は死ぬ。それはきちんと理解をしていた。しかし、身近に死人が出たとき、そこには考えさせられるものが確実に存在していた。
「ま、何が起こるかわからんのが人生ってことで。ほら、そんな沈んだ顔すんなって。講義に遅れるぞ?」
 暗い思いを吹っ切るように、児玉が元気な声を上げた。
 その声に正紀と時襠は気分を切り替え、時計を見る。時刻は二コマ目開始の一分前を告げていた。妙な沈黙が三人の間に横たわった。
「おい、歩いてたら間に合わんぞ!?」
「あ? こっから五分もあれば余裕だろ?」
 正紀が上げた声に児玉が余裕の声をかける。その横で時襠が走り出した。
「一分きってるよ! お先に〜」
 時襠の言葉に怪訝そうな顔をして、児玉は自分の時計を見た。正紀も時襠の後に続く。
「それ、多分遅れてるな。じゃお先に」
 と、ひらりと手を振って正紀はかけていった。色々な死が自分の身近にも横たわっているということを、その胸に焼き付けて。
 ふと、頭上で軽やかな笑い声が聞こえた。転けるなよ、とその声は言ったように思った。
 驚いて空を見上げたが、そこは何もいない。風の音だ、と正紀は認識し教室へと向かう。
 そこには五月の風と、ひそやかで涼しげな笑い声がたゆたう。しばらくするとそれは消え、いつも通りの喧騒と熱気とその上をすべる涼しい風が戻ってくる。
 夏の始まりを予感させる、そんな風だった。



7,始まりと終わり

 翌日、正紀は児玉に教わった墓地に来ていた。
 真新しい墓石の前に立ち、花と水の入った桶を降ろす。すぐそばに立っている墓碑を見ると、そこには黒字で彼女の名前と没年、その時の年齢が書かれている。
 『秋子 二十二才没』
 正紀はそれを確認し、感慨深げに冷たい墓石を見上げた。
 わかっていたことだった。しかし、死という事実に再び直面し悲しさがこみ上げた。
 真新しい花がまだ供えられていたので、自分の持ってきた花は、誰かがすでに準備していたバケツの中に一緒にいれた。そのバケツの中にも、すでに幾つかの花が入っていた。ここを尋ねた人間が、花瓶に入りきらないのでここにバケツを置いたようだ。それは敷地内にちゃんとおさまっていた。
 その場でしゃがみ、線香をあげ、手を合わせる。
「こんにちは。オレは貴方に一度会ったことのある者です。……あのときは、助けてくれてありがとうございました」
 そっと、墓石に語りかける。もちろん返事はない。そう思い、正紀は立ち上がった。
 唐突に風が巻き起こり、木々の木の葉を幾つかちぎって空へと舞い上がった。
 正樹は軽く髪を押さえ、木の葉の行方を目で追った。
 そうしてから、目の前にある墓石に視線を投じる。
 自分に死の突然さを思い出させてくれた人。
 あなたのこと、時々思い出しますね。そう心の中で呟いて、もう一度手を合わせた。
「……さて、帰るかな」
 軽く伸びをして、正紀は踵を返した。墓地を後にする。
 墓地では先程の強風が巻き上げた木の葉が、はらはらと舞っていた。

〈完〉 



あとがき

 こんにちは、朝東風春海です。ここまで読んで下さった方、ありがとうございます。楽しんでいただければ幸いなのですが、ちょっと暗めのお話ではありますね(汗)
 今回は大学生活をしている正紀君を書いてみたくて、このような次第になりました。
 安藤正樹さん、キャラクター使用許可及びキャラの台詞のチェックをいただきありがとうございました。


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