射してくる柔らかな太陽光線はぽかぽかと暖かく。
弱く吹きかけてくるそよ風は心地よく涼しい。
秋の入りであるこの時期、暑いともいえず寒いともいえず。だが、決して不快ともいえない。言ってみればこの気温は中途半端なのだろうが、何故かそういう表現が似合わないようにも思える。
片方に極端でないこの空気。
決して、嫌いになれない空気。
そんな空気の教室の中、今日の最後の授業が終わりを告げる学校のチャイムが鳴った。
「はい、今日はここまで。テストにも出るので、しっかりと復習しておくように。じゃ、号令」
「起立、礼」
学級委員の号令の後に、クラスの生徒達は解散。数学の教師も教室を出て行く。
「……ふぅ」
賑わいが始まる中で、俺こと鐘鳴江笊は溜息をつきながらゆっくりと帰り支度を始めた。
――実のことを言うと、今さっきまでやっていた数学の授業内容。俺はどうにも理解できずに終わってしまった。今日のうちに何とかしておかないと、完璧な理解を逃したままになるだろう。このままでは、近いうちに迎える中間テストで最悪な点を取りかねない。それだけは絶対に避けたい。
「榊、少し頼みたいことがあるのだが……」
帰り支度を終えてから、俺は真っ先に、友人の榊を頼った。
榊は数学や理科などの成績が良いのだ。こういう時、榊に教えを乞うことによって、俺は過去何回も突破口を掴んできた。だから今回も、その世話になろうとしていたのだが――
「悪りぃ、江笊、今日は急用があるんだわ」
そう簡単に、物事は上手く行かないらしい。
「そうなのか……」
「そうなのだ。生徒会で、結構大事な用でな。また明日にしてくれないか?」
「むぅ……」
明日では意味がない気がする。明日も数学の授業があるので、理解できないまま次へ進むとなると、確実に置いてきぼりを食らってしまうだろう。ただでさえ、数学が苦手だというのに。
クラスの友人の中で数学を頼れるのは、榊しかいない。別のクラスを当たろうとも思ったが、生徒会自体に大事な用があるということは、相良や千鳥にも頼れないだろう。稲葉は……微妙だ。小百合葉……も同じく。常盤や小野寺達の面子に関しては、知り合いではあるが、そこまで親しい間柄ではないからどうにも頼みづらい。
……まいった。
鬱々とした気分の中、真っ直ぐに家へと帰宅。普通は、夕食まで剣の自主稽古に取り掛かるのだが、この問題を放ったらかしにするのは流石にまずい。……しょうがない。ここは切り札ということで、一つ。
「笈、少し頼みたいのだが……」
鐘鳴家の頭脳こと、長兄の笈に頼るしかない。笈は剣についてだけではなく勉強についても博識で、今でこそ無職であるものの、学生時代の笈は常にトップクラスの成績を取ってきたのだ。無論、教えてもらって事なきを得たことも何度とある。だから今回も、これで何とか切り抜けなければ。
しかし。
「…………」
そんな調子で、笈の部屋を訪れたのだが。部屋はもぬけの殻だった。家事の残りでもしているのだろうか? と思って家中探し回ったが、兄の姿はどこにもいなかった。
いつもは家主のようにちゃんと居るのに、何で今日に限って、そんな……。
「あ、江笊、おかえり〜」
「ぬ……」
その折、廊下で母さんとばったり会った。若々しい普段着に、エプロン姿だ。おそらく、夕食の支度の最中なのだろう。そういえば、今日の担当は母さんだったか。
「母さん、笈が家にいないようだが……」
「ああ、今日は笈、同窓会だって」
「…………」
「中学時代の友達と、あと士乃ちゃんとね。あまり呑みすぎるなよー、と念押しといたんだけど、どうにも呑みそうだねー」
たははと笑って見せるうちの母。呑みすぎるなって、未成年に飲酒することを容認してる母さんって一体……と思ったが、そんなことはどうでもいい。
死刑宣告を受けたような気分になった。いや、そこまで大げさに捉えるのもなんなのだが、それほど俺にとっては由々しき事態だった。
「あれ、どったの、江笊?」
「いや……少し、勉強を……」
「お〜、やっぱ数学?」
「…………」
母さん、そんな、予定調和のようにかつ快活に訊いてこないでくれ。無言で頷くしかないのが非常に悲しいぞ。
まずい。このままでは非常にまずい。この局面で、榊も笈も頼れない。だが、自分ひとりだけではまるで心許ない。
これで、明日の数学の授業は一体、どうやって乗り切ればいいのだ。この状態のままで、明日からの数学の授業はついていけるのか? このまま理解もできずに行ったら、確実に赤……いや、駄目だ。
部屋に戻って、俺は早速教科書とノートを広げた。兎にも角にも、動かないよりも、自分のできることをやらなければ。風吹殿も言っていたではないか。『自分のできることを精一杯やらなきゃ駄目だ』って。だから、動かねば。
「だが……」
……実際、どうすればいいのだ、この問題達は? 微分方程式? 2xの2乗をこう……xを限りなくゼロに近づけたとき……嗚呼、駄目だ駄目だ。もっとこう、公式を見直して……なんだこのxとかyとかの記号の数は。何で数学に、こんなにも記号が……そもそも数学とは数字を使う学問なのに、何で……(以下懊悩)
「はああああああぁぁぁぁ……」
長い溜息。この、分数やらカッコやらに囲まれた記号郡は、見ているだけで鬱になる。剣の稽古がスランプになったと時とはまた違う、大きな肩の荷だ、これは。しかも、突破口の掴み方も剣とはまた要領が違う。
どうすればいいのだ、これは……。
コンコン
限りなく絶望の方向で途方にくれていたとき、ふすまにノックの音が響いた。
「……?」
『江笊、夕飯だよ』
ふすま越しに、妹の有羽の声が聴こえてきた。
「後で行く……」
『え……で、でも、間を空けないと、体に毒だよ?』
「いや、せめて、一つだけでも何とかせねばならん」
『…………』
そう言うと、トタトタと部屋を離れていく足音が聴こえた。俺の気持ちを察してくれたのか。……とにかく、待たすのも悪い。どんな形でもいいから、さっさとこの問題を片付けよう。
『江笊、入るよ』
と、意気込んだ矢先に、有羽が再びここを訪れてきた。こちらの返答を待たずに部屋に入ってきて、しかも、手には数学の参考書と筆記用具。
「な……ゆ、有羽?」
「ご、ごめんね。お母さんから聞いたの。江笊、本当に行き詰まってるみたいだから、ちょ、ちょっとでも、力になれたらってと思って……」
「……いい。これは俺の――」
「早く終わらせて、みんなで夕飯食べよう。ね?」
「…………」
そう言われると、反論できなかった。それに悔しいかな、学校の成績は総合的に有羽の方が上だ。社会科だけは俺に理があるのだが、それ以外となると……といったところか。数学なぞ、言わずもがなである。
となると、今のこの状況では、どうやら頼らざるを得ないようである。
「すまん」
有羽の助力を得て、難としていた設問を何とか早めに終わらせて。有羽の言った通りに、俺と有羽と母さんと梨津、家族みんなで夕飯を食べて。それで結局、その後のことも、有羽のお世話になってしまった。今日の授業内容の復習から、明日に出てくるであろう内容の予習まで。
教え方も丁寧で、はかどったといっても、何らおかしいことはない。
「ふぅ……こんなところだね」
「…………」
全ての学習が終わり、安堵したかのように、有羽が溜息をついた。
……なんと言うか、情けない。苦手科目であるとはいえ、そこまで差がついていたとは。笈や榊に教えてもらっている時はあまり感じられなかったが、有羽にこんなにも教えてもらったとなると……。
「ど、どうしたの、江笊……?」
「いや……何でもない」
「……ご、ごめんなさい」
「……何故謝る」
「その……迷惑だったかなって……」
「…………」
……でも、こいつは相変わらずだった。普段のことを考えると、こいつが俺よりもこんなに優位に立つのは久しぶりのことなのに。このマイナスな思い込みは相変わらずだ。何でこいつは、優越感というものを持とうとしない……いや、ちがうか。
気付いた。
多分、今まで俺は、心のどこかで無意識にこいつのことを……。
「そんなことなどない。助かったと思ってる」
「……本当に?」
「ああ。すまなかったな」
「うん……え?」
きょとんと、有羽は呆けた声をあげるのにも構わず、俺は教材を仕舞いにかかる。
……そうだ。
こいつも成長しているのだ。いつもいつも、必死に努力している。俺に負けないくらい。そして、俺もまだ何もかもに努力せねばならない段階だ。今の俺に、優越感を持つなんて愚かなことをする資格など。最初から存在していない。
また一つ、俺は自分の未熟な点に気付いた。
だから、どうしても有羽に一言、謝らずには居られなかった。
「今日は助かった。この礼は、いつか必ずする」
「い、いいよ、そんな。わ、私達、双子の兄妹でしょ?」
「いや……なんでもいいから、な。頼む」
とにかく、そうしたい気分だった。どんなことでもいいから。
それを感じ取ったか否かはわからないが、控えめながらも、有羽は首を縦に振る。
「……う、うん。じゃあ、江笊、おやすみ……」
「……ああ、おやすみ」
その会話を最後に、有羽は部屋を出て行った。
その後に、俺はもう一度有羽に教えてもらった範囲の部分を見直すために、一度仕舞った教科書を再び広げにかかった。
兄妹、か……。
シャーペンを握り、微分方程式の公式を目で追いながら、ふと、そんなことを考えた。
『ふたごは、ほんとうはひとりなんだって』
昔、まだ本当に小さい子供だった頃に、有羽とそんな話をしたことがある。他愛のない話だったが、それは言って見れば、あいつは俺の片割れ、もう一人の俺みたいなもの、ということだ。今となると、実際のところどうなのかはわからないが、あいつが大切な妹であるということに変わりはない。
俺もあいつも、元が一人でも、それぞれに道がある。
その道を行く上で、この先、互いを頼らないといけない場面も時には出てくるだろう。
……今日のことも踏まえて。
あいつに頼られる時は、それに応えて。
また、こういう風にあいつに頼らなければならない時は……頼りにすることにしよう。
とりあえず、今日はあいつに借りが一つだ。
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