ORACULAR‐WINGS■
 ■すれ違い後のサンセット■    <第3章>


8月21日



 窓から照りつける朝日の光で、梢は目を覚ました。
「ここは……どこ? ……確か昨日は、夜遅くまでパーティーをしていて……」
 何故かズキズキと痛む頭を押さえて、彼女は身体を起こす。自分はソファーで横になっていた。だが、ソファーで寝た記憶間がない。……というか、昨日の夜の記憶自体が曖昧になっていた。とりあえず何があったのか思い出そうと、辺りを見まわしてみる。
 ……死屍累々。彼女の寝ていた部屋は、そう形容するのが相応しかった。
 床に転がるのはビール瓶。テーブルの上には肴や空になったコップ。床で寝ているのは、かなめだった。美樹原はソファーで眠っているし、林水は美樹原の隣りのソファーで座ったまま眠っている。
 宗介はというと……部屋の隅で、うずくまって寝ていた。きっと周囲はトラップの巣なのだろう。梢は、とりあえず放置しておく事にした。
 それから瞬と兵衛とメリルは……いない。どこに行ったのだろう? そもそも、何があったのだろう?
 痛む頭を鞭打って、梢は昨日の夜の出来事を思い出そうとした。



「おっしゃああぁぁぁっ!!」
 空になったビール瓶を片手に、兵衛は雄叫びをあげた。
 ここは、御崎家の別荘一階にある客間だ。瞬たち一同は、ここでパーティーを……もとい。酒盛りをしていた。机の上には空のビール瓶や日本酒の瓶が並べられ、おつまみには新鮮な刺身の船盛りが並んでいる。
 今やこの場は、兵衛の天下と成り下がっていた。普段はギャグキャラな彼だが……
「おら、ソースケ! お前も飲めい!」
 ビールをコップに溢れるほど注ぎ、宗介に飲まそうとする兵衛。
「アルコールは脳細胞を……」
「うるさい! オレの酒が呑めんのかぁぁぁぁ!」
 呑めない。いらない。必要ない。宗介がいくらそう答えても、しつこく絡むのである。
 絡み酒。彼は『酒に飲まれる』タイプの人たちの中でも、極めてタチの悪い人種に属していた。
 すでにかなめは酔いつぶれて寝息を立てているし、美樹原もソファーで眠っている。そして林水はというと……
「……なるほど、君は過去にそんなことがあったのかね」
「はい。やはり命がけの事でしたが……」
 日本酒を呑みつつ、瞬と会話をしていた。話の内容は、どうも瞬の過去の出来事らしい。瞬は、普段そんなことを喋ったりはしない人間である。やはり彼も酔っているのだろう。かなり濃い日本酒を、口に運んでいた。
 そして……杯を重ねる瞬の横には、ベッタリとメリルが引っ付いている。
 どうにも梢はそれが納得いかなかった。
 久しぶりに妹と会って嬉しいのは分かる。妹が大切なのも分かる。メリルが瞬を好きなのも、分かる。だが、四六時中べったりと引っ付いているというのは、面白くない。
 しかも瞬は、メリルにやたらと優しいのだ。過保護、といっても言いだろう。
 例えば……
「あっ……」
 瞬の横でアイスを食べていたメリルが、スプーンを取り落としてしまった。エプロンドレスにべったりとアイスクリームがつき、慌てるメリル。普通なら眉をひそめて「仕方のない奴だな……」とでも言うところだが、
「おっと。少し待っていろ。タオルを持ってきてやるから」
 と言って、コップを置き台所へ行ってしまった。
 万事がこの調子である。つまりメリルだけ、特別扱いなのだ。
「……ふん、だ」
 瞬を横目で見つつ、梢はちょっと涙目になってつぶやいた。ジュースを一口飲んで、目を瞑る。
 ――瞬に相手にされないことが、こんなに寂しい事だったなんて……。
 そう。彼女は寂しかった。
 いつも自分がいる場所にメリルがいる。
 ――じゃあ、わたしはいなくてもいいの? メリルちゃんがいれば、わたしは……
 どんどん後ろ向きになってしまう考えに蓋をすると、彼女はまた一口ジュースを飲んだ。
 と。
「梢ちゃん、飲んでるかァ!?」
 酔った兵衛が、突然絡んで来た。
 普段の梢ならやんわりと相手をしただろう。だが、あいにく今日の彼女は違った。
「ジュースなら、飲んでます」
 ちょっと嫌味っぽく言ってみる梢。だが兵衛はぐいっと日本酒が満たされたコップを突き出して、
「酒も呑め! ふははははっ!」
 ……何故か哄笑する。
 しかし座った目つきで梢は答えた。
「呑みましょう」
「……を?」
 硬直する兵衛からコップを取ると、中の液体を一息呑みする。
 咽が熱い。舌がぴりぴりする。だが、彼女は無理をしてそれらを呑み干した。
「……ぷはぁっ」
「こ、梢ちゃん……?」
 梢の雰囲気が只事でないことを悟った兵衛は、恐る恐る声をかけた。
「何よ?」
 ぶっきらぼうに答える梢。その目は、不動明王の如しである。歴戦の強者である兵衛をもってしても、その眼力から逃れることはかなわなかった。
「あ……いや、その……。大丈夫かな〜って……」
「わたしは大丈夫。……もう一杯呑むわよ。注ぎなさい」
「ヤケ酒は体に毒……」
「わたしに飲ます酒はないっていうの?」
 ……ひ、ひえ〜……。
 心の中で恐怖の悲鳴をあげつつ、兵衛は梢のコップに酒をついだ。
「……………………ぷはっ」
 またも一気飲みする梢。彼女は耳まで真っ赤になっていた。
「梢ちゃん……。もう止めておいた方が……」
 ちょっぴり逃げ腰になりつつ梢をいさめる兵衛。彼女はとろんとした目つきで兵衛を睨み、
「大丈夫よ」
 スッパリと言い切った。はっきり言って、怖い。
「ちょっと、瞬!」
 酔っ払って強気になった梢は、突然瞬の名を叫んだ。
「…………どうした?」
 林水と杯を酌み交わしていた瞬は、怪訝そうな顔をする。梢は彼の隣りへずかずかと歩いて行き、
「『どうした』じゃないでしょ! まったく、メリルちゃんに付きっきりなんだから……。二人とも、もっと友達と遊びなさいよ!」
「……むぅ。確かに……」
 ふと考えてみれば、今日メリルに合ってからずっと彼女と一緒だった。メリルは今も隣りで、酔っ払った梢を楽しそうに見ている。
「確かに梢の言う通りだ。メリルも私にべったりではなく、他の人と遊べ」
「ええ〜っ、いいじゃないのぉ。あたし、随分久しぶりに瞬に会ったんだしぃ……」
 すねたような顔をして、彼女は抗議する。
「確かにそうだが……」
 苦笑する瞬。二人の言い分にはそれぞれ筋が通っており、どっちを優先するか決めかねているのだ。
「……ぬぅ……」
「瞬……。修羅場だねぇ」
 多少同情したような、それでいてかなり嫉妬のこもった声で兵衛はつぶやく。
「御崎君。どっちを優先するか早急に決めるべきではないのかね?」
 兵衛と違って客観的に物事を判断した林水もコメントした。
「事情がよく分からんが……戦場では、判断を遅れた者が死ぬぞ」
 宗介は変わらずのようだが……。
 ともかくこのまま決めかねれば、瞬は全員の敵になってしまう。それは精神衛生上よろしくないことだった。
 しばし考え込んだ彼は、しぶしぶ決断する。
「……分かった。梢、お前の言い分は正しいのだが、メリルを立ててやってくれ……」
「わぁい!」
 喜んで跳ね回るメリル。だが一方梢はうつむくと、力なくつぶやいた。
「わたしは……瞬に必要とされていないの?」
「違う」
「だったら、なんでメリルちゃんを……。もう!」
 ヤケになった彼女は、テーブルの上に置かれていたコップを無造作に一気飲みした。……沖縄特産、燃えるような泡盛を。
「…………大丈夫か?」
「だいじょう……ぶ……」
 言葉半ばにして、彼女は床に倒れた。その数秒後には、安らかな寝息が聞こえる。
 もともとアルコールに弱いのに、無理して飲んだ結果である。一同は、そろってため息をついた。



「……………………あう……」
 昨日自分がしたことを思い出して、梢は真っ赤になってしまった。
 酒に飲まれて暴走した挙句、酔って寝てしまったのだ。恥ずかしくないわけがない。しかも、瞬を困らせてしまった……。
 ――瞬に嫌われていないかしら……?
 そう思うと、どうしようもない自己嫌悪感がこみ上げてくるのだった。
「…………」
 どうしよう。
 正直、二日酔いの上に寝起きの頭では、どうするべきか思い付かない。ただ後悔するのみである。 と。
「二人とも、ガンバレー!」
 清々しい朝によく似合った、清々しい声が窓の外から聞こえて来た。
「この声は……メリルちゃん?」
 何事かと、窓の外を見てみる梢。その視線の先には胴着姿の瞬と兵衛がいた。二人とも木刀を構え、気配を殺して相手の隙をうかがっている。距離は5メートルほどか。
 彼らは。日課として毎日早朝練習をしていた。今のもそうなのだが……しかし、いつもの練習とは緊張感が違う。空気がピリピリとしているのだ。
「兵衛。久方ぶりに本気を出すが……いいか?」
 青眼の構えを解いて、尋ねる瞬。梢はそれ……構えを取らない構え……が、『無形の位』と呼ばれる彼がもっとも得意とする構えであることを知っている。
「おうよ。怪我したって、知らねぇぞ?」
 青眼の構えを八相の構えに変えて答える兵衛。口元に浮かんでいるのは、太い笑みだ。
「怪我か……。そっちこそ、気をつけろよ?」
「まぁ、ぼちぼちな」
 言うが早いか、二人は瞬間移動したかのようにぶつかり合っていた。しかも、ただぶつかっただけではない。一足飛びで後ろに4メートルほど下がり、次の瞬間には何回か木刀を打ち合わせていたのだ。
「ふむ。やはりこの程度の奇襲では打ち倒せぬか」
「当然だぜ。オレ様を誰だと思っている」
 ガゴォッ!
 兵衛の軽口とほぼ同時に、轟音が響いた。常人の動体視力では見えないスピードでの斬撃の応酬があったのである。二人はニヤリと笑うと、大きく跳び退った。
 キィ……
 薄い金属音。二人は同時に木刀の止め具を外して抜刀した。木刀に見えたそれは、実は白鞘の日本刀であったのだ。
 瞬も兵衛も、表情は笑っているが目が笑っていない。
「奥義……〈空襲円舞剣〉!」
 先に瞬がしかけた。地面スレスレの高さを跳躍して刀を振り下ろす。
 ギイィィィン!
 兵衛が刀で斬撃を受けた瞬間、瞬はぶつかり合った刀を支点としてオーバーヘッドキックを放った。「うおっ!?」
 予想外の奇襲を受けた兵衛は身を反らす。鉄の仕込まれたブーツが、あご数ミリ先を通過して行った。飛び退って間合いを広げつつ、彼は叫ぶ。
「危ないだろうが、コノヤロウ! 殺す気か!?」
 酷薄な笑みを浮かべ、瞬は答えた。
「当然だ」
「サラッ、と言いきるな! ……おっし、目にもの見せてやるぜ!」
 よほど頭にきたのだろう。体勢を低くし、兵衛は弾丸のように地を蹴る。
「おおおおおっ!」
 彼は咆吼をあげて肩から体当たりした。
 がつっ!
 鈍い音がして、瞬が吹き飛ばされる。斬撃を予想していた瞬は、突然の体当たりを回避しきれなかったのだ。防御行動を取ったものの、兵衛の突進力はそれを上回っている。
 衝撃で宙に浮いている瞬に、兵衛は逆袈裟へ振り上げるような斬撃を放つ。激烈な震脚を伴った、凄まじい圧力を持つ攻撃だ。
「ぬぅっ!」
 空中で強引に体勢を立て直し、瞬はその異常に『重い』攻撃を受けとめた。ぶつかりあった刀が火花を散らす。
 二人の間合いは、また4メートルほどにまで広がった。より一層鋭くなった視線を交差させ、剣士たちは同時に言う。
『面白くなってきた……』
 二人の足元から、ゆっくりと砂埃が立ち上り始めた。殺気が物理的な力を持つまでに昇華されているのだ。
 やもすればこのまま殺し合いに突入しそうな雰囲気だったのだが……
「は〜い、そこまで!」
 場違いなほど明るいメリルの声に水を差され、殺気は一瞬で霧散した。
「危なかったですねぇ。あやうく殺し合いになるところでしたよぉ」
 いまいち緊張感の感じられないメリルのセリフだが、言っていることは十二分に物騒である。
 瞬も兵衛も人間をあっさり殺せるだけの力量を持っているのだ。このまま止めなければ、彼女が指摘した通り殺し合いに発展する可能性もあった。
「……やれやれ。多少調子に乗りすぎたか。さて、朝食にしよう」
「おっしゃ! 腹が減ってたところだし、しっかり食うぜ!」
「そうですねぇ。海の幸〜、海の幸〜♪」
 3人は連れ立って、玄関へと向かって行く。 その姿を窓から見る梢は、言いようのない疎外感を感じていた。自分のいた場所にメリルがいるのだから。
 彼女は寂しそうな表情をして、部屋から出て行った。



 風を切って走るのは一台のスポーツカー。ワインレッドのボディが、太陽の光を浴びて輝いている。
 ここは別荘から街へと続く海岸沿いの道である。瞬たちは車に乗って、買い物へと出かける途中だったのであった。ちなみに運転手は谷高で助手席に瞬、後部座席に林水、美樹原、メリルが座っている。
「うわぁい、いい天気ですねぇ」
 風になびく髪を押さえて、メリルは歓声をあげた。
「そうだな」
 助手席に座っている瞬は、海を見ながらメリルに答える。憂いを湛えた表情と、気だるげな瞳。いつもの瞬とは何かが違う。
 普段の瞬は、何にしても割り切って考えるタイプであった。だがメリルと再開したことにより、何か迷いが生じているのだろうか。彼は軽くため息をついた。まるで、胸の中のモヤモヤを全て吐き出すかのように。
「どうしたのかね、御崎君」
「元気がありませんけど……何かあったのですか?」
 買い物に付き合うこととなった林水と美樹原が尋ねた。瞬は微笑して、後部座席に座っている二人に答える。
「別に、大したことではありません。少し迷っているだけです」
「……篠宮君についてかね?」
 いつもより重い口調で、林水は問いた。無表情になった瞬は、メリルをちらりと見てからゆっくりと語り出す。
「……一晩考えたのですが……私がメリルと親しそうにする横で、梢はきっと疎外感を覚えていたのだと思います」
 梢の様子がおかしい。それは瞬も気付いていた。ただ、何故様子がおかしいのか思い当たらなかったのである。それで一晩悩んだのだが……行き付いた考えは、これであった。常人並の恋愛感情があればそれこそ一瞬で気付きそうなものだが、紛争地帯で育った瞬は恋愛感情のつくりや成り立ちなどにやたらと疎かったのである。
「確かに、そうだったのかもしれませんわね」
 いつも通りのほほんとしている美樹原が人事のように言う。実際彼女にとっては人事なのだが。
「ふえ? ……それって、あたしのせい?」
「違うね」
 ちょっと気まずそうにするメリルだが、林水は彼女に責任があることを断固否定した。
「確かに間接的な原因はメリル君だが、直接的な原因は御崎君にある」
「その通りです」
 眉をしかめつつもはっきり肯定する瞬。
「私が二人を平等に扱っていれば、こうなることもなかったのだから……」
 二人を平等に。
「……君は、二股をかけるつもりなのかね?」
 林水の言葉は、瞬の内心……彼さえ気付いていなかった思いを見事に貫いていた。
「……………………。確かに……そういう考えがあったのかもしれません……」
 うめく様に彼は言う。
 梢も大切だが、メリルも大切にしたい。しかも両方、瞬を好いている。
 それは、二股と言っても差し支えなかった。
「御崎さんは、篠宮さんとメリルさん……どちらが大切なのですか?」
 無邪気な美樹原の質問だが、瞬はそれを答えるのに少しの時間がかかった。
 どちらが大切なのか決めかねていたからだ。それは二人に好かれたい、などという理由ではない。二人とも、かけがえの無い家族だからという理由でだ。しかしそれは、二股と相通じるものがあった。
 思想の堂々巡り。決断できない苦悩。
 やがて自分の中で答えを出した瞬は、口を開く。
「……メリルは大切な家族だが、梢は大切な恋人だ」
 それが、瞬の答えだった。
「ふむ……」
 腕を組みメリルを見る林水。だが彼女はいつもと変らぬ笑みで
「そうですかぁ。大切な家族なんですね!」
 と嬉しそうにしていた。
「……なんとか、元の鞘に戻りそうな様子ですな」
「ああ。……やれやれ、私もまだまだ修行が足らんな……」
 苦笑しつつ谷高に答える瞬。
「さて……そろそろ街につきますぞ。準備しておいてくだされ」
 谷高の声で、一同は買い物の用意をしだした。



 島の町とはいえ、結構大きなスーパーはあるものである。
「ふむ……。多少高いが、スイカも買っておくか」
「そうですねぇ。みんなで食べましょうよぉ」
「私はこれにするか」
「先輩……。それはお酒ですけど……」
 一行は、わいわいと会話をしながら各自買うものを選んでいた。……といっても、瞬と林水がそれぞれ欲しい物を買って、美樹原とメリルは彼らのお手伝いと言ったほうが正確だが。ちなみに瞬は主に果物など、林水は酒類を買っている。
「閣下も好きですね」
 日本酒と肴を買う林水へ苦笑しつつ言う瞬だが、彼は涼しい顔だ。
「フランスでは15歳から飲酒が可能なのだ。18の私が飲んだところで問題あるまい」
 その場にもしかなめがいたら『問題あります!』とでも叫んでいたところだが、その場にいる四人はあいにくそのような瑣末なことを気にする人種ではなかった。
「さて……私は、梢のために何か買うとしようか……。メリル、美樹原。女性はどのようなものをもらうと喜ぶ?」
 女性に贈り物などした経験のない瞬は、二人に尋ねてみる。
「あたしは、こういうのがいいと思いますねぇ」
 飴の袋を瞬の買い物かごの中に放り込むメリル。
「わたくしは、特に……」
 上品な仕草で首をかしげる美樹原。
「………………」
 アテにしていた二人の答えがこうだったため、瞬は少しの時間固まってしまった。だがすぐ我に帰ると、
「むぅ……。では、閣下はどのようなものを送りますか? 助言願います」
 彼は、人間の心理にも詳しいと思われる林水に質問する。
「ふむ。これなどどうかね」
 瞬の質問を予想していたのだろう。彼は、薄紅色の貝殻でできたネックレスを瞬に手渡した。どこの土産物屋でも売っていそうな安いものだ。
「………………」
 どう答えるべきか瞬が悩んでいると、林水はゆっくりと語り出した。
「心がこもっていない高価な物と、心のこもった安価な物。君ならどちらが欲しい?」
「言うまでもありません」
 即答する瞬。当然、後者が欲しいに決まっている。送り物とは、真心を伝えるための媒介なのだから。
「そういうことだよ」
「どういうこと?」
 眼鏡を押し上げる林水。メリルが不思議そうな顔をするが、『メリルさんが大きくなったら、分かりますわ』と美樹原に言われて納得したようだった。
 ……人間とは、複雑なものだな……。
 買い物かごにネックレスを入れながら心の中でつぶやく瞬。
 と。彼の目が、外を歩いていた人物へむけられた。
 黒い髪の青年だ。瞬は彼の顔に見覚えがあった。一瞬人違いかとも思ったのだが、その色の違う両目……オッドアイは何より瞬が知っている彼だと証明していた。
「どうかしたのかね、御崎君」
「彼を。見覚えがあります。転校して来た生徒では?」
 瞬の視線が示す先を見る林水。確かに彼の顔は見覚えがあった。
「確か……忍刃正紀……という名だったはず」
「うむ」
 記憶の底から彼の名をサルベージした瞬の横で、林水は興味深そうに頷いていた。考えれば考えるほど奇妙である。何故普通の高校生が、こんな所にいるのか。水色で無地のTシャツにジーパンというラフな服装から見て、彼はここに旅行に来たとは考えにくい。かと言って誰かを尋ねて来た……という雰囲気でもなかった。
 つまりは何の為に彼がここにいるのか分らないのである。
 ふと瞬は、彼に今思ったことを尋ねたいという衝動に駆られた。だが人には様々な理由がある。興味や好奇心でそのようなことを尋ねるのは無礼だと思い、苦笑しつつ彼の姿を見送る。
 正紀はこっちの視線に気付いたのか軽く会釈をすると、そのまま何処かへ歩いて行ってしまった。
「……どうしたのですか?」
 メリルと土産物を見ていた美樹原が、正紀が歩き去った方向を見つめている二人に声をかける。
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
 一瞬目を瞑ると、すぐいつもの表情に戻って林水は答えた。
「瞬、そろそろ帰らない?」
 メリルも退屈してきたようだ。瞬は苦笑すると、レジに並んでいた谷高に言う。
「そろそろ行くぞ、谷高」
「かしこまりました」
 一礼する彼だが、レジの店員に
「すみません、お客様。10円足りません」
 と言われ、慌ててポケットの中にしまったサイフを取り出した。



「ねえ瞬、あなたって昔はどんな子だったの?」
 帰りの車の中、メリルの唐突な質問が瞬に浴びせられた。時刻は1時過ぎ。中天を過ぎた太陽が、じりじりとアスファルトを焦している。
「……何故、そのようなことを聞く?」
 飽きもせず窓の外の景色を眺めていた瞬は、不可思議そうな顔をして逆に問い返す。
「う〜ん……。なんとなく、かなぁ」
「ふむ……」
 少し黙考した瞬だったが、興が乗ったのだろう。
「かまわん。話してやろう」
 と切り出した。
「昔の私は、純真で素直だったんだよ」
「嘘だぁ」
「嘘ですね」
「嘘だろう」
 過去の瞬は、三人によって一瞬で否定された。彼は苦笑しつつ言う。
「まあ、そう言われるとは思っていたよ。今の私とはかけ離れすぎているしな」
 かけ離れているも何も、彼の話が本当だとしたら過去の瞬は現在と性格が180度違ったということになる。いつも斜に構えていて、クールな雰囲気を纏っている瞬が……だ。
「本当なのかね?」
「閣下までそういうことを言いますか……」
「本当ですよ」
 瞬に助け船を出したのは、車を運転していた谷高だった。
「私は別荘の管理人をして40年になります。ですから、昔の瞬様の事もよく知っていますし覚えております。12歳ごろまでの瞬様はとても素直で愛敬があり、よく笑っておられました」
「……そういうことだ」
 多少恥ずかしそうにしながら言う瞬。一方林水は、くいっ、と眼鏡を押し上げると口を開いた。
「では……君と谷高さんが共謀しているという可能性は?」
「………………」
「………………」
 何故、そうまで勘ぐる。
 危うく瞬とメリルと谷高は、そう言ってしまうところだった。瞬とメリルと谷高、である。美樹原はのほほんとしているだけだ。まあ、それが彼女の持ち味なのだろうが……。
「冗談だよ」
 空気が重苦しいものに変る寸前、林水は前言を撤回した。
「私は御崎瞬という人間を信頼している。信頼するものの言うことを、どうして嘘だと疑う事ができようか」
 ……この人の底が見えん……。
 瞬は本気でそう思った。そこいらの俗物とは……いや、政界の上部にいる者と比べようとも『器』が違う。全てを見透かしたかのようなその銀色の瞳と、幾つもの修羅場をくぐった者の黒い瞳が交差する。
 さきに視線を外したのは、瞬だった。
「別に構いませんけどね。それに私も閣下の事は信頼しております。私が閣下を疑うなどと、あってはならないことですから」
 微笑する林水。なんだか普通と一歩ズレている友情の確認が、その時車内で行われていた。
「ちなみに私がこういう性格になった原因は、黙秘させてもらう」
 瞬はメリルの先を制して言う。先手を取られた彼女は、口をパクパクさせていた。どうやら瞬の予想通り、彼の人生において転機となった事件を知りたかったようだ。
「ぶ〜」
 唇を尖らせて不機嫌を表現するメリル。瞬は苦笑すると、
「そう言うな。いずれ……私の心の中で整理がついたら、話してやる」
 と答えた。彼の口ぶりからして、かなり昔のことのようだ。それが今まで尾を引いているということは……よほどの事に出会ったのだろう。
「瞬様。そろそろ車が屋敷に到着します」
 ふと昔を思い出していた瞬は、谷高の声で現実に引き戻された。見ればすでに御崎家の領地内に入っている。
「分った。みんな、下りる準備を」
「了解〜」
 手早く荷物をまとめるメリル。残り2人は、すでに準備を整えていた。
 皆を乗せた車は、ほどなくして駐車場に停車する。
 カチャリとロックを外し、瞬たちは車外へ出た。クーラーの効いた車内と比べ、かなりむっとした空気が肌をくすぐる。
「ふむ……」
 トランクから荷物を引っ張り出しなから、瞬は何か雰囲気が変だと感じていた。
 いつもの穏やかでのどかな雰囲気ではない。騒然としているのだ。
「あっ、御崎君!」
 帰って来た瞬たちを見つけたかなめが、一同の元へ走ってきた。多少息が切れているのが気になる瞬だが、
「どうしたのだ?」
 つとめて冷静に尋ねる。彼女は息を整えると、こう言った。
「梢ちゃんが、どこにもいないのよ!」
「……詳しく話してくれ」
 ひとつ頷くと、彼女は順を追って話し出す。
 要約すれば、こうであった。10時ごろまで……つまり瞬たちが買い物に出るまではリビングにもいたらしい。だが11時ごろ誰にも何も言わず席を立ち、それから行方不明なのだ。現在宗介と兵衛が捜索しているのが、見つからないらしい。
「梢ちゃん、なんだか沈んだ表情していたし……。大丈夫かしら……」
 心配そうなつぶやきで最後を締めくくったかなめの報告を、瞬は苦しそうな顔で聞いていた。といって、体が苦しいわけではない。心が苦しいのだ。
「……それはきっと、私の責任だ」
「どういうこと?」
 無表情に尋ねるかなめ。
「私がメリルばかりを相手するものだから、梢は自分の居場所が無くなったように感じたのだと思う……」
 ぱん!
 鋭い音が響いた。
 かなめが、瞬の頬を張ったのだ。
「今何をすべきなの、あなたは!」
 強い口調で言うかなめ。しばしの間、まるで彫像のように動かなかった瞬は苦笑すると、
「分っている。……メリル、閣下、美樹原。荷物を頼む。梢を探しに行って来る」
 3人の返事も待たずに走り出した。
 頬から伝わってくる痛みが、瞬の心をクリアにしてゆく。
 ……かなめのおかげで、素直に言えそうだな。
 赤なった頬を押さえながら、瞬はかなめに感謝していた。



 海岸線が紅に染まる。落ちる太陽と、輝きを増しだす月星。風は止まり、時は凪へと移っていった。
 波の音の響く海岸の隅に、座っている少女が一人。
「はぁ……」
 夕日を見つつ、少女……梢は今日何十回目かのため息をついた。
 思いつめて別荘を飛び出してから、すでに7時間。はじめは何も考えられないような状態だったのだが、時間と共に心が落ち付きを取り戻していた。
『いくら寂しかったからと言って、飛び出ることはなかったのではないか。それに、みんなに心配をかけている。戻らないと』
 理性が彼女に警告するが、
『また瞬とメリルちゃんがベタベタしている所を見たくない。それに、みんなに会わせる顔もない。戻りたくない』
 感情がそれらを否定する。
 内面の葛藤に翻弄され、心が自分のものではないような感覚をどれくらい味わったのだろうか。
 地面を踏む音が、彼女の後ろから近づいてきた。
「瞬……?」
「ああ」
 短い瞬の声。だが、その声は不思議と穏やかだ。
「探したぞ。まさかこんな所まで来ていようとはな」
 辺りを見まわしつつ言う瞬。
 ここは、大島の北端である『乳ヶ崎』。別荘からの距離は約4kmほどもある。まさか少女一人が徒歩でこんな所まで来ているとは思わなかった瞬だが、『もしかしたら』と考え調べていたのだ。
「……怒っていないの?」
 内心ドキドキしながら尋ねる梢。背後で、彼が苦笑する気配があった。
「正直言うと、怒っている。皆に心配をかけたのだからな。……だが、私がお前に対しての配慮を忘れていたのがそもそもの原因だ。
 ……ごめんな、梢」
「……え……?」
 ごめん。
 梢の記憶にある限り、瞬がこう言ったのははじめてであった。しかも、すごく優しい声で。
 戸惑う梢。だが彼女は気を落ち付かせると、今まで思っていた疑問を背中ごしに彼にぶつけた。それは彼女の心に棘として刺さっていたものだ。
「……瞬。わたしは、あなたにとって必要ないの……?」
「必要だ」
 即答する瞬。梢は立ちあがると、瞬へと向き直った。
「でも……メリルちゃんには、人一倍優しかったわね」
「私の大切な義妹だからな」
 真摯な視線が交差する。瞬と梢は時が止まったように見詰め合っていた。梢が次に問うべきものは一つ。
「じゃあ……。わたしは……あなたにとって、何なの?」
 梢の瞳に様々な色が現れては消える。不安、期待、祈り、落胆、絶望。……そして、希望。
 彼女の心と棘を抜くため……そして自分自信の気持ちに決着をつけるため、瞬は堂々と問いに答えた。
「お前は、私の大切な恋人だ」

 ざぁっ……

 風が吹き始めた。凪の時が終わったのだろう。湿気を帯びた風が梢の髪を揺らし、瞬の服をはためかせ、通り抜けて行く……。
「それは……本当なの?」
 彼の言った言葉の意味を理解し、梢は震える声で尋ねた。声は喜びで震えているのか、涙で震えているのか。それは、両方ともだった。
「本当だとも。だから……一緒に帰ろう」
 涙で潤んだ視界の中、瞬は優しい笑顔をした。梢は残念に思う。涙が止まれば、瞬の笑顔をもっとしっかり見ることができるのに、と。
 しばらく見詰め合った2人だが、先に視線を外したのは瞬だった。彼は気恥ずかしそうに頬を掻くと、
「さて……行こう。皆が心配している」
 と告げた。そして後ろを向き、歩いて行こうとする。
 そのスキに、梢は彼の側へ駆け寄っていた。そして背伸びをして、頬へ一瞬だけ唇を押し当てる。
 瞬の動きが止まった。まるで石化したように動かなくなる。彼女はくすくすと笑うと、
「……これは心配してくれたお礼。それじゃあ瞬、これからもよろしくね!」
 一方的に行って、先へと走って行った。
 呆然としていた瞬は、しばらくしてから我に帰る。 彼は唇が押し当てられた頬を指でなぞると、苦笑しつつつぶやいた。
「まるで漆黒の闇のようだった梢が、今ではまるで太陽のようだ。
 ……とすると、私のキザなセリフも浮かばれたか……」
 そして地を蹴り、突風のように梢を追う。
 彼の後姿には、もはや迷いは無かった。



 飛行機は闇を突き抜け、雲を掻き分け飛ぶ。
 時刻はすでに8時である。瞬たちは帰途についていた。今乗っているのは、来る時にも使ったセスナ機である。下に見える明かりは横浜か。絶景だが飛行機の中は静かなものであった。
 ……瞬と梢が別荘についた時には、すでに他の人は到着していた。誰かが梢が見つかったことを、皆に携帯電話で教えたのだろう。
 どこへ行っていたの? 怪我は無い? 無茶しやがって……。
 口々に声をかける友達に、梢は笑顔でごめんなさい、と謝った。
 友人たちは、笑顔で彼女を許した。
 そして彼らは谷高へ別れの挨拶をし、別荘を後にしたのだ。
 今では一同は雲の上。風となり、調布空港へと飛んで行っている。
 いろいろな事があった。ちょっとした事件もあった。それもいい思い出だ。
 ともかくこれで、瞬たちの旅行は静かに幕を下ろされるのであった。


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