ORACULAR‐WINGS■
 ■フルメタル・パニック! 記憶を消したいシークレット・ファイル■    <前編>


 その日起こった出来事を正確に記憶しているものは、現時点では数えるほどもいない。それは我々<ミスリル>にとって極めて馬鹿馬鹿しくも深刻な事の顛末を、誰もが忘れたいと強く願っていたからに他ならない。唯一の救済たる忘却の権利を剥奪された一部の人間、つまり当事者にどのような運命が待ち受けていたとしても、私はもはや示すべき関心を持ち合わせてはいない              ヤン・ジュンギュ伍長の手記より


フルメタル・パニック!  記憶を消したいシークレット・ファイル<前編>



 事件は深夜起こった。
 特別対応班、通称ウルズチームに所属する面々は夜間のアームスレイブ降下訓練を終え、その報告書提出に追われていた。新たにウルズ1のコールサインを得たベルファンガン・クルーゾー中尉より課せられたAS訓練は苛烈の一言に尽きたが、それに脱落する者はいなかった。アマルガムと呼ばれる謎の組織が所有するASに<ラムダ・ドライバ>なる謎のシステムが搭載されていること、対して<ミスリル>にはARX−7一機のみがこれを保有していること、製造技術を喪失していること。彼らウルズチームに出来るのは、ただただ操縦技術を磨くことである……出来なければ、待っているのは確実な死だ。
 だから彼らは訓練に耐えた。
 軽薄な性格と下品な言動で知られるクルツ・ウェーバー軍曹でさえ、訓練終了直後には一言も発することが出来なかった。それほど過酷な訓練メニューを、彼らは当たり前のように受け入れた。傭兵が戦場を生き延びるにはそれしか努力できないことを誰よりも理解していたからだ。
 が。
「ぬぉぉぉぉぉぉお」
 物事には限度がある。
 クルツは最近その言葉を噛み締めるようになっていた。狙撃兵からAS操縦者になったクルツは、残念ながら体術・運動では他のメンバーに比べて技術的に劣っている。クルツにとって連日の訓練は、まさに地獄だった。それでも逃げ出したりしないのは彼が抱えているという経済状態と、過去数度<ラムダ・ドライバ>の脅威をその身を以って知っているからに他ならない。
「ふ、ふふ普段使わねー筋肉までひひひひひひ悲鳴を上げてる、ぜぃ」
「……鍛え方が足りないのよ、あんたは」
 曲げようとして曲がらないクルツの背中を、メリッサ・マオ曹長が湿布と共にべしっと叩く。言葉にならない悲鳴を上げるクルツを無視してマオは、もう一人いる部下の様子を見ようと視線を動かした。
「ねえ、ソースケは湿布いらないの?」
「肯定だ。医務室で治療を済ませた」
 いつものむっつり顔を更に強張らせ、相良宗介は頷く。ウルズチームで最も過酷な訓練を課せられているはずの宗介は、顔面以外のあちこちに湿布やテーピングを巻きつけた状態でデスクに向かっていた。クルーゾーへの訓練報告書は既に提出し、今は彼が通う都立陣代高校の宿題に向かっているところだ。
「あらら、副業でも残務整理なのね」
「今日は英語の課題だけだから、それに関しては問題ない」
 後ろからデスクを覗き込むマオが見たのは、9割片付いた英語の宿題。この<メリダ島>では日常的に英語を使っている以上、日本の高校で教えている英文法の課題など簡単に処理できる。
 しかし宗介はデスクを前に唸っていた。
「課題については問題ないのだが」
「が?」
 よくよく注意してマオは宗介のデスクをもう一度見た。陣代高校で指定されている学生鞄と、さまざまな道具が並べてあった。それらはかつて宗介が『千鳥かなめ護衛』の任務に従事していた時に、ウルズメンバーを中心としてメリダ島のスタッフが用意したものばかりだった。
「なにを悩んでるのよ」
「明日、持ち物検査が行われるそうなのだ」
「……最近は日本の都市部も物騒だものね」
「ちげーよ」
 うんうんと頷くマオ、突っ込むクルツ。
 つまるところ、いつものようにそれが全ての始まりだった。


 教科書、筆記用具、それに英語で書かれた雑誌。あとは情報端末としての携帯電話。
「問題ないのは、まあこの辺だろ」
 山のように積まれた荷物から、クルツはそれだけを選り分けた。
「これだけ持って行けよ、ソースケ」
「銃火器は」
「駄目に決まってるだろ」
「では護身用の、非殺傷性器具は」
「駄目駄目」
 学習能力ねーなあ、とぼやくクルツ。
「フツーの学校生活送るのに、そんなの必要無いだろ」
「肯定だ」
 数ヶ月の学校生活で、宗介はクルツの言葉が正しいことを理解していた。確かに、学友である小野寺や風間達は護身用具や銃火器を携行しない。
「割と自由な校風でも、持ち物検査だったら限度があるよな」
 そもそも自由な校風の学校で今更のように持ち物検査が行われたのは、おそらくかなりの確率で宗介の言動が深く関わっているに違いない。しかも事前に検査を通告しているのだから、学校側も色々考えての事なのだろう。いそいそと明日の授業について準備を進める宗介より学生鞄を取り上げ、ごそごそと手を突っ込んだ。
「……なんだよ、これ」
 げんなりした顔でクルツが取り出したのは、サメの歯を思わせる細かな刃のついた全長数十センチのワイヤーだった。
「ワイヤー・ソーだ。太さ30センチ程度なら、丸太でも人体でも切断できる優れものだ。金属パイプも切断可能だ」
「捨てろ」
「むぅ」
 心なしか誇らしげに胸を張る宗介の前で、件のワイヤー・ソーを放り出すクルツ。更にごそごそと手を動かせば、巧妙に隠された必殺の道具が次々と出て来た。
「あー」
 ウルズチームの冷たい視線が宗介の背中に突き刺さる。
「ソースケ、学校と戦場は違うよ」「アメリカのハイスクールだって、そこまで重武装する奴はいないぞ?」「あーあ、これだからカナメに戦争ボケって言われちゃうのよ」
 ぐさぐさと、それはもう容赦の無い言葉。ジェームズ・ボンドもかくやという隠し武器のオンパレードに、彼らは呆れる事を通り越して半ば感心している。<ミスリル>で支給されている以外の、おそらく宗介が個人的に懇意だという某国の武器商人と共に開発したであろう秘密道具の数々。
「普段から拳銃を持ち歩いているのに、なんでこんなの用意してるんだよ」
 全員の気持ちを代弁して呟くクルツ。そろそろ隠し武器もなくなったのだろう、動かす手を止めて。
 不意に、その表情が変わった。
 なんじゃこりゃと言わんばかりの、さも意外そうな顔で取り出したのは薄っぺらく四角い包みだった。
「これは」
「コンドーム、だよなあ」
 宗介が最初の任務で押し付けられた代物だ。
 ただし、それを知っているのはマオ一人。クルツはしげしげと、宗介とコンドームを交互に見比べて、その後に他のウルズメンバーに視線で合図する。彼らは無言で頷き、訓練後の痛みなど一瞬で忘れて宗介の周囲に立ち、どこへも逃げられないよう入り口を施錠する。
「では尋問を開始するか」
 舞台俳優のように芝居がかった口調でクルツが言えば、男たちは「おう」と唸る。真実を知っていたはずのマオは面白そうだからの理由で傍観を決め込み、彼らを統制するはずのクルーゾーはAS格納庫で訓練後の機体チェックに駆り出されていた。
 つまり娯楽の少ない<メリダ島>基地において、これを止めさせようという者はいなかったのである。


 その日もテレサ・テスタロッサ大佐は仕事に追われていた。
 彼女は自分の存在を誰よりも理解し、その責任の重さを自覚していた。単に水陸両用戦隊を指揮する者としてではなく、現代社会にあらざる知識を所有するものとしての責をだ。彼女「たち」が所有する知識が、世界の軍事技術を飛躍的に上昇させている。
 飛躍的にだ。
 ラムダ・ドライバの機構を何と説明すれば良い? 核融合炉も、電磁迷彩も、TAROSを駆使した潜水艦操縦方法も。自分たちの存在がどれほど不自然なのか、それは彼女自身が理解している。それに頼らざるを得ない<ミスリル>という組織の抱える矛盾と限界も、理解している。
 <ウィスパード>は全能の存在ではない。
 だが、圧倒する何かをもたらしている。世界の混乱に拍車をかけるだけの智を<ウィスパード>は生み出した。否定しようの無いことだが、それを考えると気が滅入る。たとえどれほどの知識を抱えていたとしても精神そのものは普通の人間と変わらないのだから、抱え込むストレスの重圧に潰されそうになることもある。その全てを背負っているような錯覚を、テッサは時として感じる。
(カナメさんは、その辺のことをあっさり乗り越えるんでしょうね)
 恋敵でもある友人のことを考えると、肩が軽くなる。どんな状況でも決して諦めないかなめの存在は、同じ能力を持つものとして羨ましくも頼もしくも感じるのだ。
 だが恋敵に違いはない。
 しかも分の悪い勝負だ。
(ああああああああああ……)
 せっかく軽くなった気分が、再び沈む。同じ組織に所属する宗介に対する彼女の想いは、もはや公然の秘密と化している。普段何気ない会話をしても、女性士官は「応援してます」とか「頑張ってください」など言ってくる。
 その度に、テッサのそれほど豊かではない胸にグサグサと何かが突き刺さる。今日も技術士官のノーラ・レミング少尉に「お互い頑張りましょう」などと慰めにもならない一言を貰っていた。
(疲れました)
 グロリアおばさまが掃除に来るのは明日だったか。
 サンドイッチの出前を頼み、己の兵舎に着いたテッサは溜息を吐いた。深夜にもかかわらず注文を快諾してくれたグロリアは20分で届けに行くと言ってくれた。買い置きしてある汁粉ドリンクと一緒に流し込んで、それで寝てしまおうと考えたテッサは最初それに気付かなかった。
 扉の前に人影が一つ。
 宗介である。
「サガラ、さん?」
 無意識に声のトーンが高くなる。滑稽な話だが、心身ともに疲れ切っていたはずなのに、妙な緊張感が全身を支配する。
 こんなことは今までに無かった。
 宗介はテッサを見ると敬礼し、慎重に言葉を選びつつこう言った。
「本日は下士官ではなく、一個人として大佐殿にお伺いしたいことがありまして」
「一個人なら、わたしの事はテッサと呼んで下さい」
 心臓の音が、宗介に聞こえるのではないか?
 そう心配してしまうほど、テッサの鼓動は激しくなっていた。昼間ならば、彼女の白い肌が紅潮しているのがひと目で判っただろう。宗介はテッサとは異なる理由で緊張し、少しの間を置きポケットに突っ込んだそれをテッサに見せた。
 コンドームである。
「これの正しい使い方を、教えて欲しいのです」
「……はぁ?」
 これは。
 試されている?
 ひょっとして。
 わたしは今、試されているの?
 様々な推測と、推測と紙一重の妄想がテッサの頭の中を駆け巡った。こういうとき、無駄に知識を持っているとろくでもない想像まで張り巡らせてしまうもので、しばしテッサは硬直した。
 そして。
 テッサはこう返した。
「理論と実践と、どちらで説明しましょうか」
「では両方で」
 

 こうして。
 馬鹿馬鹿しくも恐ろしい<メリダ島>の長い長い夜が始まった。


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