ORACULAR‐WINGS■
 ■突き押し払いのリアルバウト■    <第3章>


「なにしおはば――」
 テーブルも家具も何も置かれていない8畳の和室に、美樹原蓮が札を詠みあげる声が響きわたった。抑揚のない、競技かるたのための詠み方である。
 現在の時刻は14時20分前。本日、ここ美樹原邸――というよりは、美樹原組事務所――で行われることになっている「かるた勝負」の開始まで、あと1時間弱と迫っていた。
 この勝負が行われると決まったとき、対戦日時の次に問題となったのが対戦場所であった。有羽と梢、どちらかの家で行えば、当然不公平になる。かといって、ホームアンドアウェイ方式というのもばかげている。
 そのとき、ではわたしの家でと提案してくれたのが美樹原蓮であった。彼女の家を訪れたことがあったかなめは、一瞬躊躇したのであるが、それで萎縮するようならそこまでと考え直し、蓮の提案をありがたくのませてもらったのである。
「お嬢さん。ご学友のおふたかたも、お茶をご用意させていただきました」
 障子の向こうから、やけに丁寧な口調のだみ声が聞こえてきた。「ありがとうございます」と蓮がこたえると、だみ声の男性はお茶とおはぎののったお盆を部屋のうちに差し入れただけで、そのまま立ち去ってしまった。
「お蓮さん、予行演習はそのへんにして、お茶しながら待たない?」
 かなめがそう提案すると、蓮は「はい」とうなずいて、かるたをまとめはじめた。そして、このときのためにわざわざ着込んだらしい、若草色の着物のすそを気にするようにしながら、かなめの向かいに腰を下ろした。
「しっかし、わざわざそんな格好するなんて、お蓮さんもやるわね」
 まずはお茶を一口してから、かなめはお人形さんのようにも見える蓮に話しかけた。ちなみに、かなめ自身は白いワンピースという装いである。
「はい、事情を父に話しましたら、新しく用意してくださいまして」
「そ、それはやりすぎなんじゃ……」
 かなめが苦笑を浮かべると、蓮はその意味をわかりかねたように小首をかしげた。
「戦いには、それにふさわしい装備・服装というものがある。つまり、そういうことだろう」
 そして、もうひとり。またわけのわかっていない人間がここにいた。むろん、相良宗介のことである。審判役としてこの場に立ち会っている宗介は、これから「別の」戦いがあるのではないかと思わせるような、やや物騒ないでたちをしていた。
「じゃあ、あんたのその格好はなんなのよ」
「もしかすると、不意な召集があるかもしれん。マオに協力してもらって、この日だけは別行動を取ることに成功したのだが……」
 そういう宗介の口調には、安堵と不安とが入り交じっていた。かなめは、宗介の立場に同情しつつも、なんとなく「勝った」気分になって一人ほくそえんだのである。
「それにしても……」
 湯呑みを手に、ふぅと一息ついてからつぶやいたのは蓮であった。その声に、かなめが目を向けたタイミングを見計らったかのように、蓮は続けた。
「いまさら、勝負なんて意味があるんでしょうか」
「確かにね」
 かなめは、いちおう蓮の言葉にうなずいた。問題が起こったあの日から、すでに10日は経過しているのである。ふたりとも、思い出そうとしなければ、互いに対する怒りなど湧き上がってこないであろう。
「でも」
 と言葉を一旦区切ってから、かなめは含み笑いとともに続けた。
「こうなったら、最後までやらないと面白くないでしょ」
「はあ」
 蓮のあいまいな返事は「よくわかりませんが、とにかくそういうことなんですね」という意味である、とかなめは解釈した。そして、隣できなこのおはぎを口にしている宗介に水を向けた。
「宗介はどうなのよ。そもそも、勝負うんぬんって言い出したのはあんたでしょ?」
「……俺は、勝負の行方よりも、そのあとの展開のほうが気になる」
「何、それ」
 かなめには、宗介の言う「そのあとの展開」というものが何を指しているのかがよく理解できなかった。そうとは気付いていなかったであろうが、宗介は補うように付け加えた。
「女同士の戦いというものは、やはり最後に円満な講和を迎えるものなんだろうか……」
 そういえば、あのときもわけのわからないことをつぶやいていたことをかなめは思い出した。かなめは、あくまで一般論として、
「長期戦になって、第2次、第3次の戦いに発展することも少なくないわよ」
 と言っておいた。それを聞いた宗介は「むう」と唸って、いつものむっつり顔をさらにしかめて黙り込んだ。
「お嬢さま、またご学友がお見えになっております」
 先ほどのだみ声の男性が障子の向こうからそう呼びかけてきたのは、ちょうどそのときであった。

「お約束とはいえ、ずいぶんしっかりと決め込んできたわね」
 障子の向こう側で、兵衛の背後に控えるように、というよりは隠れるように立っていた有羽の姿を見たときの、かなめの第一声である。
 兵衛は、薄いブルーのTシャツにジーンズという、暑くなければどうでもいいといわんばかりの適当な格好であった。しかし、有羽はどこで用意してきたのか、桜色の着物に紺の袴姿であった。まるで、特別な試合にでも臨むようないでたちである。いや、有羽にとっては確かに特別な試合なのだろうが。
「そんなところにいらっしゃらないで、入ってください」
 蓮にそう促されて、兵衛と有羽は会釈をしながら部屋に入ってきた。その蓮は、座布団をすすめたのち、「お茶をお持ちします」と言って、ふたりと入れ替わる形で廊下へと出ていってしまった。
「それじゃあ、失礼して」
 そう言って、先に腰を下ろしたのは兵衛のほうだった。それに付き従うように、有羽もその隣に静かに正座した。有羽は、いささかも緩みの感じられないしっかりとした姿勢で座っていたが、かなめにはいささか「行き過ぎ」であるように映った。
「ユウ、あなたすっごく緊張してるでしょ」
「はっ、そ、そうでしょうか」
 舌の回っていないその口調が、間接的にかなめの言葉を証明していた。あまりに予想通りのリアクションに、かなめは苦笑を禁じえなかった。
「もしかして、お蓮さんの実家のお仕事を見て、びっくりした?」
「い、いえ! そんなことありません!」
 有羽は、そう言いながらオーバーに両手と首を振った。あるいは取り繕っているのかもしれないとかなめは思ったが、それを打ち消すように有羽が言葉を継ぎ足した。
「私、もう頭が試合のことでいっぱいで、何がなんだかわからなくて……」
「ふ〜ん」
 あまり真剣に聞きすぎると、かえって逆効果と考えて、かなめはあえて軽く受け流す。
「せっかくお母さんたちに鍛えてもらったのに、負けちゃったら何て言ったらいいかとか、いろいろ考えたりして、そんなことばっかり考えてちゃダメだってわかっているんですけど、その……」
 と言ったきり、有羽はうなだれて座布団の上で縮こまってしまった。有羽らしいといえばその通りなのであるが、今回に関しては単純に笑っていられることではなかった。ただ、かなめは立場上、有羽だけに肩入れするわけにもいかないのであった。
 そこで、かなめは期待というより懇願の意をこめた視線を兵衛に飛ばした。刹那である。
「大丈夫、負けないから」
「へ?」
 自信満々というより、あまりにも自然体の兵衛の台詞に、かなめは有羽とともに間の抜けた声を漏らした。「一体、何を根拠に」と問い詰めたくなったかなめであるが、そこをこらえて兵衛に話を続けさせた。
「俺は、有羽ちゃんが負けるところなんて想像してないし、想像しようったってできない。なぜなら」
「……なぜなら?」
 それに続く台詞は、かなめにはおおよそ見当がついていたが、それでも言葉を待つ身に力が入っているのを感じていた。見ると、有羽も目を見開いて小柄な身体を乗り出している。一瞬走った緊張の糸。しかるのちに、兵衛は高々と突き上げた自分の指先を見やって、
「この、俺がついているからだぁ!」
 と言って、無駄に大きい笑い声をあげた。
「言うとは思ってたけどね」
 兵衛のハイテンション独走っぷりに、かなめは肩をすくめて苦笑する。しかし、
「くす……」
 兵衛の隣で、有羽は肩の力が完全に抜けたようすで、小さく、しかし声をあげて笑っていた。しかも、ツボにはまりでもしたか、有羽は何も言わずにひたすら笑い続けていたのである。
「……もしかして、これも作戦か何か?」
 有羽に気取られぬよう、かなめはそっと兵衛に耳打ちした。特訓の日に、兵衛が有羽にハッパをかけた場面を思い出したのである。
「ん、何が?」
 が、兵衛はいたって真面目な表情でそう問い返してきたのであった。どうやら、思い切り素の発言だったらしい。
「まあ、結果オーライっぽいし……」
 お腹をかかえて、小柄な身体をさらに小さくして笑いに身を震わせている有羽の姿を見ながら、かなめもわずかに笑みを漏らした。それが伝染したかのように兵衛もにっと笑い、ただひとり宗介だけがへの字口のままで腕組みをしていた。
「ただいま戻りました」
 そのとき、障子の向こうから聞こえてきた蓮の声が、部屋に響いていた笑い声を静めた。かなめも気付いていたし、他の3人もわかっていただろう。障子の向こうには、明らかに蓮でない人影が映っていたのである。
 音も立てずに障子を開いたのは、ひざまずいていた蓮の手。その背後には、羽織袴姿の長身の男性と、浅葱色の着物に紫紺の袴を身に着けた少女が立っていた。もちろん、御崎瞬と篠宮梢のコンビである。
「ちょうどお見えになったところだったので、一緒に戻ってきました」
 説明する蓮の声はおだやかであったが、かなめはそれをどこか場違いなものに感じていた。
 部屋に入る前から、視線をまっすぐ有羽に向けている梢。その厳しい視線を、ひるむことなく受け止めている有羽。「どうぞお入りください」と蓮がうながし、梢が部屋に一歩足を踏み入れるまでの数秒が、かなめにはまるで数分であったかのように感じられたのである。
 水をうったかのように静まり返った室内。梢と有羽は、かなめたちをはさむ形で、しかしその存在をまるっきり無視するかのごとくに、お互いの目を見つめあっている。正座の姿勢を崩さず、梢を見上げる有羽。障子のそばにゆったりと立ち、わずかに有羽を見下ろす梢。
 その間合いを、やがて梢がさらに一歩踏み込むことにより崩した。
「今日は、よろしくお願いします」
 そう言った梢の口許はわずかに緩んでいたし、
「こちらこそ、お願いします」
 と応えた有羽の声も柔和だった。
 ただ、4つの瞳だけが強く鋭く厳しい光を放っていた。

 7人からの高校生がひとところに集まって、ずいぶん狭く感じられるようになった室内。
 その両隅で、梢と有羽が畳をはたく音を交互に響かせていた。試合前の素振りであり、それは試合開始が2分前にせまっているということであった。
 ちなみに、持ち札25枚ずつはすでに配られていて、ふたりとも先ほどまで暗記にはげんでいた。それから、札をあれこれと並べていたが、それは本番での配置を考えていたのであろう。
 そんなふたりのようすを、瞬と兵衛はかなめの隣に座って無言で見守っている。兵衛は、これからどんな勝負が展開されるのか興味津々といわんばかりに、さかんに武者震いを繰り返していた。瞬はというと、こちらはどっしりと構えて、ひたすらに梢の具合をうかがっているように見えた。
「あんたから見て、コズエちゃんの調子はどうよ?」
 何の気なしにかなめがたずねてみると、瞬は視線を梢に向けたままで、
「気力、体調ともに申し分ない」
 と、気負うところなく答えた。
「指のケガは大丈夫なの?」
「例の薬を塗って、しばらく休養をとったからな。それも、幸いプラスに働いている」
「ふうん」
「実際、休養後はメリルを一蹴するばかりで、かえって練習にならなかった。よもや、私が相手をすることになろうとはな」
 そう言いつつも、瞬の口調はどことなく楽しそうであった。
「で、あんたとコズエちゃんとでやってみた結果は?」
 少しだけ期待をこめて、かなめはそうたずねたのであるが、
「私の全勝だが?」
「容赦ないわね〜」
「ふふん。ならば、この勝負、有羽ちゃんの勝ちだ!」
 そこへ、兵衛が人差し指を突き立てるポーズをとって割り込んできた。ものすごく勝ち誇った表情である。
「毎度のことながら、根拠の感じられない自信っぷりよねえ」
 呆れがちにかなめがつぶやくと、
「根拠は、ある!」
 さらに語気を強めて、兵衛はぐっと拳を固めた。
 かなめは、特訓を見学に行った日に、兵衛が有羽を励ましていたことを思い出していた。普段とぼけていても、兵衛はやるときはやる人間なのだ。その兵衛がいう根拠とやらを、かなめはぜひとも聞いてみたいと思い、
「その根拠……は?」
 と先を促し、兵衛の両眼をまっすぐ見つめた。兵衛は、かすかに笑って、やおら、
「有羽ちゃんは、この俺様に勝ったのだぁ!」
 と叫んだ。かなめは思わず「おお!」と強く反応してしまったが、ふと見回すと、宗介や蓮はあまり感銘を受けていないようすであった。梢は、何も聞かなかったかのように淡々と素振りを繰り返していて、有羽は気恥ずかしそうに部屋の隅のほうを向いてしまった。
 部屋に漂う何ともいえぬ雰囲気。それを、瞬はこの一言で一刀両断した。
「それは負けたお前の実力不足だろう」
「何を! 千鳥からも言ってやってくれ、こないだの俺の勝ちっぷりを!」
 それに対して兵衛も黙ってはいなかったが、かなめの気持ちはすでにクールダウンしていた。
「う〜ん、素人目からいっても、あんたの勝ち方ってけっこうダーティだったし」
「ダーティかも知れんが、卑怯なことはしてない! あれも実力のうちだ!」
「ほほう、ならばここで彼我の力を比べてみるか」
「ようし、やったろうじゃねえか」
 ここでのせられる兵衛もバカであるが、のせる瞬もどっこいどっこいだとかなめは思った。ぼちぼち仲裁するべきかとかなめが腰をあげようとしたところで、蓮の声がかかった。
「では、そろそろ時間ですので、用意をお願いします」
 その声は普段通りであまり気合いの入ったものではなかったが、だからこそ兵衛や瞬も冷静になれたのだろう。ぶつけあっていた視線を互いに外すと、もといた通り、かなめの両隣に背筋を伸ばして正座した。
 その二人が見守る前で、梢と有羽が持ち札を並べている。かなめから向かって左側に位置している梢はまったく迷うことなく札を並べ終えて、ときどき札の配置をあちこちいじっている有羽を待っていた。やがて、有羽も準備を終えて、あらためて姿勢を正した。蓮はそのようすを確認してから、
「では、一本目。はじめます」
「よろしくお願いします」
 蓮の号令とともに、梢と有羽は互いに礼をし、そして蓮と審判の宗介に同じように礼をした。
「なにはえの――」
 型通り、蓮が序歌を詠みあげる。それを聞きながら同じように身構えている二人の姿の中にかなめが見出したのは、鮮やかな衣に身を包んだ可憐な少女ではなく、苛烈なオーラを放ちあっている凛々しき戦乙女であった。

「さくやこのはな――なげけとてつきや……」
 序歌に続く一首目、その最初の何音かを聞いたところで、梢の右手が自陣の右翼中段に伸びた。その動きに追いすがるように、有羽も身を乗り出す。目標と思われる札にはほぼ同時に手が届くようにかなめには見えたが、実際にはふたりとも札に手は触れなかった。梢は札にかぶせるようにしていた手をふわりと浮かし、有羽は払いにいった腕をそのまま梢陣の外側にそらした。
 もはや真剣勝負の場なので、瞬も兵衛も何も言わないし、解説を求めるわけにもいかなかったが、これまで何本かの練習を見てきた経験から、かなめも今のやりとりの意味が何となく理解できていた。
 ようするに、「なげ」あたりではじまる札が2枚かそれ以上あって、そのうちの1枚が梢の陣地にあったのである。しかし、そこにあったのは実際に詠まれた札ではなく、それに気付いたふたりはぎりぎりのところで取るのをやめた、とかなめは分析した。
「かこちがほなるわがなみだかな――」
 はたして、そこにあったのは「いかにひさしきものとかはしる」と書かれている札で、蓮がいま詠み上げている下の句とは違っていた。さらに一拍おいて、次の句。
「さび」
 いつ動き出したかわからないほど、小さな動きだった。有羽の右手は相当に早い段階で始動していたように見えたが、それよりも先に、梢の手が自陣右隅の札に静かに乗せられていた。
 さすがに「むすめふさほせ」くらいはかなめもわかっている。1字きまりの札だから、抜かれぬように相手から見て一番遠いところに配置されていたのである。梢を見守る瞬の表情を見ても、沈着そのものであった。
「いづこもおなじあきのゆふぐれ――」
 蓮が「さびしさに」の下の句を詠みあげるあいだに、梢と有羽は並べられた札に視線を集中しつつ身構えていた。引き絞られて放たれる寸前の矢のようだとかなめは感じた。
「やまざと――」
「はあっ!」
 気合いのこもった声とともに畳がはたかれ、数枚の札がかなめのほうに向かって低く飛んできた。有羽が、自陣左翼の札をまとめて払い飛ばしたのである。
「よし!」
 かなめの隣で、兵衛が小さくガッツポーズを作った。有羽は、さも当たり前であるかのように、黙々と札を再配置している。
「大丈夫ですから、安心してください」
 そう語っているかのような素振りであったが、あまり有羽らしくないかも、とかなめは思った。そして、有羽の陣が整えられたのを確認してから、蓮が次の句の詠みあげに入った。
「ひとめもくさもかれぬとおもへば――たちわか」
「はいっ!」
 またしても威勢のよい有羽の声。しかし、今度は梢の手もほぼ同時に動いていた。互いにわずかな逡巡を示したのち、ふたりの手は梢陣の左翼を勢いよく目指していた。またしても数枚の札が舞ったが、そうせしめたのは有羽であるようにかなめには見えた。はたして、宗介の判定は、
「篠宮だ」
 それを確信していたかのように、梢は取った札を手元に片付け、それから札の整理をはじめた。有羽は、少しだけ苦い表情をしたが、すぐに定位置に戻って構えを取った。
 かなめは、瞬のほうに目をやった。いちおう、説明を期待していたのであるが、どうやら察してもらえたらしく、
「鐘鳴は札を押して取ろうとしたが、梢は直に取りにいった」
 かなめにだけ聞こえるくらい小さく、しかし舞台役者のように聞き取りやすい声で答えてくれた。
 札押しと直取りが同時に行われたときは後者の取りになるということは、かなめもルールとして理解はしていたが、そういうケースがすぐさま発生するとは想像していなかった。
「いい勝負になるかも……」
 胸の高鳴りを覚えつつ、かなめはつぶやいた。そして、勝負はその言葉通り、中盤まで互角の展開を続けていた。ふたりとも自陣の札をしっかり守り抜き、残る札はふたりとも12、3枚といったところである。
「――すみのえの」
 2枚空札が続いたのちに、1字決まりの歌が詠まれた。ふたりとも微動だにしない。すでに神経は次の句のほうに移っているのが、手に取るようにわかった。蓮は気を抜くようすもなく丁寧に句を読み続けた。
「――ゆめのかよひじひとめよくらむ――かぜをいたみ」
「てやあ!」
 一瞬、有羽が札を取ったのだとかなめは勘違いした。しかし、それにしては聞いた掛け声に違和感があったのである。元気があるというより、威圧感があって力強いイメージ。有羽の声だとは思わなかったが、それと同じように梢のスレンダーな身体から発せられたものとも想像がつかなかった。
「ようやく取れたか」
 瞬の静かで重々しいつぶやきを聞いて、かなめは状況をはっきりと理解した。梢が、この勝負ではじめて有羽の陣から札を抜いたのである。梢たちのほうに目を移すと、有羽が梢から1枚札を手渡されて、その配置を考えているところであった。
 結局、有羽はその札を中段やや左寄りのところに置いたところで、次の句である。
「あふこ――」
「は……」
「やあっ!」
 この日、はじめて目にするシーンが生まれた。有羽の右手が梢陣のふところまで伸び、梢の右手もまた有羽陣に襲い掛かっている。互いにクロスカウンターを撃ち合っている絵に似ている、とかなめは思った。
 ただ、カルタの場合、ダブルノックダウンはありえない。そして、かなめはどちらのパンチがヒットしたのか、一目で判断することができた。
 札を勢いよく場外に弾き飛ばしたのは梢であった。一方で、有羽はわずかに札を動かしたにすぎず、その表情もはっきりと歪んでいた。手を止めようと思ったのに、止まらなかった、と言わずとも語っていた。
 自分がお手つきをした上で、相手に自分の札を抜かれた場合、持ち札は一度に2枚移動する。その通り、梢はすでに2枚の札を選んで有羽に送っていた。場を見ると、持ち札は梢が9枚に対し、有羽が13枚。しかも、梢は守りにくい札を有羽に渡しているに違いなかった。
「ここがターニング・ポイントかな……」
 かなめがそう思った通り、その後1本目は終始梢のペースで進んだ。梢は自陣の札に向かってくる有羽の手を見切るようにして守りぬき、さらに有羽のすきをつくかのように、ものすごく早い反応で有羽陣の札を2枚ほど抜いていった。おそらくは、終盤になって決まり字が短くなった札を、有羽がそれと気付かぬうちに攻めたのである。その記憶力こそが梢の武器であり、いまはそれが最大限に生かせる状況であった。
 そして、最終局面。
「わたのはらこ」
「……」
 梢陣に残っていた札は、大山札と呼ばれる6字決まりの歌であった。「わたのはら」の「た」の音が詠まれたあたりで、すでに梢はその札を右手で覆い隠すように守り、決まり字が出た瞬間に、その札を静かに押さえた。これでは、有羽も手の出しようがない。1本目は、梢の7枚差勝ちとなった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 ひとしきり礼を終え、一旦札を片づけたあと、梢は瞬をみやって、小さく、しかししっかりとうなずいた。瞬もまた無言でうなずき返し、やがて立ち上がって、
「少し助言を与えてくる」
 と言い残し、梢とともに廊下に出ていってしまった。こうして、部屋の中央には有羽が残される形となった。
 判官びいきといってしまえばそれまでであるが、かなめは一本を先取された有羽のことが強く気に懸かっていた。この勝負、いちおう「どちらが先に頭を下げるか」ということがかけられてはいるが、本来はどちらが悪いともいえないことなのである。一方的に勝敗が決してしまっては、その前提が見失われてしまうのではないかとかなめは心配したのである。
 その有羽は、整理体操をするかのように軽く素振りを繰り返していた。軽くといっても、決して弱々しい雰囲気ではなく、むしろ平常心を保とうと努めているようにかなめには受け取れた。やがて、有羽の右手が静かに畳の上に留まり、その姿勢のまま首だけを傾けて、有羽はかなめたちのほうを向いた。汗でへばりついていた前髪を払った向こうに見えた両眼は、かなめが想像していものとは若干違う輝きをともなっていた。
『今の一戦、どうでしたか?』
 有羽の瞳は、兵衛に対してそれだけを問い掛けていた。これからどうすればよいかなどと、兵衛にすがりつく気配などは微塵も見せない。それだけで、かなめからすれば十分であるように思われた。先手を取られたという事実を正しく認識しつつ、それをはね返そうと前向きに挑まんとする姿勢は、間違いなく兵衛によって授けられたものであった。
 対して兵衛は、かなめの隣であぐらをかいたまま、じっと腕組みをしている。といっても、別段難しい表情をしているわけではなく、むしろ地蔵のように落ち着いたようすで軽く目を閉じている。
 そのままで、どれほど時間がたっただろうか。ひたすらに兵衛の言葉を待ち続けている有羽に、兵衛はやがて目を開いてただ一言、
「100点満点だ」
 と告げたのである。
 かなめは、己の耳を疑った。かりにも有羽は一本目で敗れているのだから、減点する材料のひとつやふたつはあるはずなのである。かなめの目から見ても、有羽は終盤お手つきをむやみにおかしていた印象があった。兵衛が指摘するとすれば、まずその点からだとかなめは思っていたのであるが、そこでふとかなめは気づいた。
 これは、有羽の性格をふまえた上での、兵衛の心理誘導なのではないかと。
 たとえば、ここで兵衛が99点と採点したとする。すると、有羽はマイナス要素となった1点のほうを強く気にかけるかもしれない。あるいは「に違いない」といってもかまわないだろう。鐘鳴有羽という少女は、善し悪しはともあれ、自分に厳しい考え方をする性格なのである。
 では、それを聞いて有羽は安堵の表情を浮かべたか。かなめは、あまり気取られぬように有羽の顔色をうかがった。答えは否であった。
 有羽は口許を強く引き結び、わずかにかぶりを振った。とはいえ、兵衛の評価の甘さに落胆しているというようすではない。それを証明するように、有羽は、まるで双子の兄を思わせるような厳しい口調で言った。
「……ならば、次は120点を出さなければなりませんね」
 兵衛は、それに何も答えなかった。ただ、満足したような笑みを浮かべるだけで、それで十分答えになっているのだとかなめは理解した。
「……ただいま戻った」
 そのとき、障子の向こうに突然人の気配が現れた。梢たちも、二本目の打ち合わせを終えたのである。蓮が内から障子を開けると、瞬を後ろに控えさせるようにして梢が、というより、梢の後ろに控えるようにして瞬が立っていた。
 違和感がある、とかなめは思った。その正体を察することはできなかったが、無言で部屋の片隅に腰を下ろし、素振りのようなしぐさ――イメージトレーニングの類であろう――をひたすら繰り返す梢の姿を見て、かなめは感ずるところがあった。
 兵衛の言った「100点満点」という言葉は、単なる励ましではなかったらしい、と。
 
「ながから――」
「えやいっ!」
 二本目、最初に札を取ったのは、先ほどの勢いをそのままに相手陣に攻め込んだ梢のほうであった。札が置かれていたのは、有羽陣の右翼中段。梢にとっては比較的取り難い札といえたが、このときの梢は相当に動き出しが早かった。
 では、有羽は手も足も出なかったのかというと、そうではなかった。
「……コズエちゃんにとって、運がよかったみたいね」
「そういうことになるな」
 かなめのささやきを、瞬は肯定した。兵衛は何も言わなかったが、二度三度うなずいたようすは満足げであった。
 有羽の右腕は、梢陣の左翼奥深くに一直線に伸びていた。そこにあった札は「ながら」、梢が抜いた「ながか」のとも札である。あやうくお手つきとなる寸前で、有羽は手を札からそらしていた。かといって、有羽の表情には「危なかった」という焦りの気配も「お手つきしなくてよかった」という安堵のようすもなかった。
 有羽は、梢から1枚札を受け取り、即時にそれを自陣の左側に置いた。まるで、その札を渡されることを予測し、あらかじめ配置することを決めていたかのような手際のよさだとかなめは感じた
(……これか)
 兵衛の採点の正当性を、ここでかなめは認めた。
 有羽は、場の状況をきわめて正確につかんでいる。読みに対する反応の速さも申し分なく、取りの姿勢もいたって攻撃的である。何より、お手つきすれすれで札を取りにいったことからも分かるように、失敗することを恐れていない。
 その心持ちだけで梢に勝てるかといえば、また別問題である。しかし、それがなければ有羽が梢に勝つことはありえないということは、かなめにも断言できるところであった。
(それじゃあ、見せてもらおうじゃないの。ユウのパフォーマンスを)
 今回の有羽は、きっとおもしろいものを自分に見せてくれる。そう期待して、かなめは有羽の動きに注目して2本目を観戦することに決めた。
「――みだれてけさはものをこそおもへ――あまつかぜくものかよひぢふきとぢよ――」
 「ながか」の次に蓮が詠んだ歌は空札であった。といっても、互いに無反応だったわけではなく、ふたりとも梢陣の上段あたりを目指して腕を伸ばしていた。それが取り札であったなら、かろうじて梢が守り切っていたタイミングだったようにかなめには見えた。見ると、梢はわずかに苦い表情を示していた。できれば、取れるほうの札――つまり「あまの」である――であってほしかったのだろう。
「――をとめのすがたしばしとどめむ――ちはや」
「はいっ」
 と、続く札はあっさりと有羽が守ってしまった。自陣右翼中段に配置されていた札を、有羽は軽く払うようにして競技線の外に追いやったのである。見事なもので、有羽が払った札の周囲はまったくと言っていいほど乱れていなかった。
「――からくれなゐにみずくくるとは――みちの――」
「やあっ!」
 梢も負けてはいない。取り札の位置は自陣中央。そこへ有羽の手が槍の穂先のように一直線に突き込まれてきたところを、紙一重のタイミングで払いのけてみせた。
 このように、序盤はお互いが自陣の札を一切抜かせないという守りの展開が続いた。30枚ほど札が読まれた時点で、残り枚数は梢が16枚、有羽が18枚。単純に見れば梢優勢となるわけだが、かなめの印象は少し違った。
 ――なんか、試合が梢の陣のほうでばかり行われているような。
 この時点では、かなめは漠然とそう感じていたに過ぎなかったのであるが、次の札が読まれる寸前。
「――」
「はいっ!」
 目の前でいったい何が起こったのか、かなめは瞬時に判断できなかった。
 あらためて注視すると、有羽が小さな身体を思いきり相手陣にまで伸ばし、左隅――有羽から見て一番遠い位置だ――にあった札を部屋の端まで吹き飛ばしていたところであった。
「――どいろにいでにけりわがこひは――」
(……この歌は!)
『俺は、有羽がこの札を取り逃したところを見たことがない』
『あの子、『しのぶれど』の『し』の字の、さらに頭の子音だけ聞いて動いたのよ』
 かなめは、あの日の江笊と曖の言葉を思い返していた。だからこそ、かなめは興奮しつつも状況を把握できているわけであるが、何も知らないものにとっては、有羽の反応は不可思議であったに違いない。
 ところが、である。
「……気づいてしまったか」
 舌打ちするような低いささやきは、瞬によるものであった。まるで「残念ながら、そうなるであろう」ということを予測していたような口ぶりである。
 かなめは梢のようすを確かめてみた。梢は、許可をもらって札を並べなおしているところであった。しかし、その目は自陣と有羽陣のあいだをせわしなく往復し続けている。
 かなめは理解した。梢は、有羽がやってみせたように「子音単位で」決まり字を確認しなおしていたのである。梢ほどの記憶力があれば、それ自体は可能なのであろう。
 ただ、ここまでわかってはいなかったはずである。有羽がその技を繰り出すことができるのは、あくまで「しのぶれど」の歌に関してのみということを。
「おい、瞬。気づいたって何のことだ?」
「……」
 兵衛はというと、素の表情でそんなことを問いかけていたのだが、瞬は「自分で理解しろ」といわんばかりのため息をついただけであった。
 しかし、このときにかぎっては、梢も兵衛くらい鈍感であるほうが救われるのかもしれないとかなめは思った。

「――ほととぎすなきつるかたをながむれば――」
 「しのぶれど」の次に読まれたのは、「ほ」1字決まりの句で、ここはふたりとも何事もなかったようにやりすごした。続く「うらみわび」の句は、「う」の時点で有羽が簡単に守ってしまった。とも札である「うか」は、序盤のうちに梢が取ってしまっており、決まり字が「う」のみになっていたのである。
 そして、次の札のとき、ふたりが違う札に反応した。
「こひにくちなむなこそをしけれ――あふ」
「ふあっ!」「いやあっ!」
 まるで、直接拳を交えあっているかのような、そんな気迫をもって梢と有羽が互いの右腕を相手陣めがけて振り下ろした。勢いで、頭同士がぶつかる寸前まで近づいた。両陣の取り札が無秩序に舞い散って、はたして正解は、
「ことのたえてしなくはなかなかに――」
 このとき、梢がくちびるをきつくかみしめた。有羽は、軽くうなずいただけで、とくに表情を崩しはしなかった。むろん、有羽の取りだったということであるが、ふと、かなめは既視感に襲われた。それがはっきりしたのは、有羽が梢に2枚の札を手渡したときであった。
「……確か、一本目でも同じ札で」
「覚えていたか、千鳥」
 かなめの確信を裏付けるように、瞬が同調してきた。口調は、存外淡々としている。そのままで、瞬は解説を付け加えた。
「一本目は梢が取ったが、あのときはちゃんと札を聞いてから取った。二本目は、鐘鳴が動いたのを見て、そのタイミングで払った」
「結果としてお手つき?」
「運が悪かったといえば、それまでかもしれん。しかし、それを誘ったのは……」
 瞬がそこまで言ったとき、視界に何かがちらついたような気がして、かなめはそちらに振り向いた。見ると、兵衛が「してやったり」といった表情でVサインを決めていた。
「なるほど、貴様の仕込みか」
「成果を得るためには、ときにはリスクも必要だってね」
 兵衛が得意げにそう言うのを聞いて、かなめは有羽と兵衛とが練習で対戦していたときのことを思い出した。確かに、兵衛は勝負どころでは読みに対してフライングぎみに飛び出し、ときにはヤマをはずしてお手つきを重ねたこともあった。それでも、結果としては有羽のペースを乱して勝ってしまっていたのである。
 そんな攻め方を、いまは有羽が受け継いでいる。では、受ける梢のほうは自分のペースを守りきれるのであろうか。
 少なくとも、この一本が終わるまでは無理だ。かなめには、そう思えて仕方がなかった。

「あさぼ」「はいっ!」「らけありあけのつきとみるまでに――」
 二本目も終盤にさしかかり、場に残る札も10枚を切った。とはいえ、半分以上は梢陣の札である。そして、ちょうどいま有羽が梢陣の札を払い取り、持ち札を2枚にまで減らしていた。
 ここに至るまでの展開は、実のところずいぶんと早いものであった。有羽は札が減って短くなった決まり字を正確におさえていた。先ほど取った「あさぼらけあ」について言うと、とも札であるところの「あさぼらけう」がすでに詠まれていたので、決まり字が「あさぢ」と区別のつく3字にまで限定されていたということである。
 そんな有羽のスピードに対して、梢はまったく反応できていなかった。これには、直前の札「かぜそ」のところで有羽陣にある「かぜを」を強引に攻めた結果、お手つきをおかしてしまったという伏線があったのであるが……。
「かぜ」
「……」
 そして、今度こそ梢が狙っていた「かぜを」である。手元に残していたその札を、有羽は音も立てずに指先で押さえた。梢が無理やり取ろうとして取れなかった札を、有羽はこともなげに取ってしまう。まるで、子供が蹴ったペナルティキックを大人げもなく取ってしまうどこかの国の代表ゴールキーパーのごとくであった。
 かなめは、有羽の手元に残っている最後の札を確認してみた。
「ゆくへもしらぬこひのみちかな」
 ここに至るまで有羽の理想の展開だと、かなめは脱帽した。狙ったかどうかはともかく、残ったのは有羽お得意の恋の歌。しかも、「ゆ」で始まる歌である。鐘鳴「ゆ」うが、「ゆ」の音を聞き逃すなど、少なくとも現状の勢いでは考えられない。
「ひさか」「はいっ」
「わすれじ」「たあっ!」
「せを」「えやっ!」
 そこから、梢が3枚続けて自陣の札を守り抜いた。有羽は、反応はするが強引に取りにいくようすがない。手持ちの札を含んだ、幾枚かの特定の札に狙いをつけて待ち続けているわけである。その札が、あっけなく読まれた。
「ゆ」
 パン、と軽く畳がはたかれる音。
「鐘鳴の勝ちだ」
 その事実に何の興味も抱いていないと言わんばかりの宗介の宣告。それに合わせて、対戦者二人は型通りの礼をかわした。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 2本目は4枚差で有羽が取った。これで、数字的には1対1の互角となったことになる。あくまで数字の上でのことである。
「ようし、計算どーり!」
 インターバルに入って、真っ先に口を開いたのは、やはりというべきか兵衛であった。何か、昔のアニメあたりで聞いたことがあるようなセリフを口走っていたが、かなめの記憶が正しければ、それは単なるハッタリであるはずだった。兵衛の場合はどうかというと、おそらくは根拠のない自信というやつだろうとかなめは想像した。
 そんな兵衛に対し、有羽はあいまいな笑顔でこたえていた。じゃっかん緊張感に欠けるような雰囲気も感じ取れたが、決して弛緩しきっているようすではない。むしろ、冗談を冗談として受け流せるだけの心の余裕がある状態と見えた。では、梢はどうだったか。
 梢は、礼をした状態から顔を上げられずにいた。そのままで、ぴくりと動かない。有羽が1戦目を落としたときとは対照的であった。
 梢が自分を見失っているのは、火を見るより明らかだった。まるでそこだけ時間が止まったような空間で、梢が頭だけを必死に回し続け、結果として堂々巡りに陥っているさまをかなめは容易に感じ取りえた。
 すべては「しのぶれど」の札に原因があった。有羽があの札を抜き去るまでは、梢は有羽の実力を適切に、あるいはやや過少ぎみに評価していたであろう。それを、いっぺんに引っくり返した有羽の「神業」。自分はむろん、あるいは瞬でさえも見せたことのない反応の速さを目の当たりにした梢の動揺ぶりは、そのままお手つきとなって現れ、梢の完璧主義的性質がさらなる焦りを生むという悪循環を呼び込んだのだと言えよう。
 そこまでわかっていても、かなめにはどうすることもできなかった。1本目で有羽が敗れたとき、彼女を励ましたのが兵衛であったように、梢を支えるのは瞬でなければならない。そうあってほしいと今かなめは念じていた。
 はたして、瞬はやおら腰を上げた。とりたてて気負ったようすは見せていない。先ほど「助言を与えてくる」と言って出ていったときのように、瞬は平然と梢に声をかけた。
「外に行くぞ」
 梢は返事もせず、のろのろと立ち上がった。表情は見るもうつろで、乱れているはかまのすそを直そうともしない。
 そんな梢の手を引こうともせず、瞬は梢に背を向け、そのまま障子を開けて廊下に出ていってしまった。そのあとを、梢はバランサーの効いていないロボットのような足取りでついていった。
 不意に広くなった部屋の真ん中では、有羽が集中力を維持せんとばかりに、試合中と同じ姿勢を保ちつつ目を閉じていた。そんな有羽のようすから、かなめはギリギリにまで張り詰めた緊張感を感じ取った。ただ、有羽にとってそれが望ましいかと問われると、かなめには肯定しかねるものがあった。
 気がつくと、かなめはすっくと立ち上がっていた。有羽が生み出している部屋の重苦しい空気に耐えかねていたこともあるが、ここはやはり梢のことが気にかかって仕方なかったのである。
 と、部屋を出ようとして何気なく振り返ってみると、兵衛が妙に穏やかな笑顔で手を振っていた。「こっちのことは任せておけ」と言っているものと解釈して、かなめは小さくうなずいてから静かに廊下へと出ていった。

 部屋から去っていったふたりを、かなめが足音をしのばせつつ追いかけていくと、やがて曲り角の向こう側からかすかな話し声が聞こえてきた。そっと視線をのぞかせると、梢は瞬と並んで縁側に腰掛けていた。相変わらずうつむきがちであったが、瞬の話し声にはいちおう反応しているように見えた。かなめはそのまま身を潜めて、ふたりの会話を聞き取ることに精神を集中した。
「……敗因は、やはりあの札に求めるしかないようだな」
 まず聞こえてきたのは、瞬の冷静沈着な声であった。ついで、それに対し梢が「はい」とつぶやく声が耳に届いた。
 あの札と瞬が言っているのは、「しのぶれど」の札に違いなかった。瞬ですら、「あの取りのタイミングは考えうる最速のものだ」と、感嘆のひびきをもってその場面を振り返っていたのである。さらに、瞬は続けた。
「あれは、私とて狙ってできるというものではない。それを、勝負所で決めてみせた鐘鳴の集中力には、正直私も驚かされた」
 それに対する梢の返事は聞こえてこなかった。どう答えればよいのかわからなかったのだろうし、それはかなめも同じことであった。瞬がそうやって有羽のことをほめる意図が読めなかったのである。
 あるいは、あれはまぐれだったから忘れろとでも言うのだろうかとも思った。確かに、この場に関してはそういう解決の方法も考えられた。しかし、練習時にも同じ技を見せられたかなめとしては、あの取りをまぐれ扱いしてもらいたくはなかった。
 はたして、瞬はそんなかなめの期待にきっちりと応えてくれた。
「……いいライバルをもったな」
「はい?」
 素っ頓狂な梢の声。突然の話の展開に、ついていけなかったのであろう。そんな梢にかまうようすもなく、瞬はおだやかな口調で続けた。
「ふたりが戦っているところを見ていると、なんだかうらやましくなってきた。お互い、無意識のうちに全力をぶつけあっているのだからな。私も、そういう勝負がしてみたいと思った」
 瞬のこの言葉に、嘘はないとかなめは感じた。しかし、そうなってくると一人の男のことが頭に浮かんでくるわけである。
「……あの、小百合葉さんは?」
 おずおずと問いかけたのは、むろん梢であった。今回のカルタ勝負のきっかけを結果的に作った男、兵衛と、瞬は真剣勝負を行えないというのであろうか。
「ああ、あいつか」
 まるで今思い出したかのように瞬はつぶやいた。それから少し間を置いて、いくぶん楽しげなひびきを声に含ませつつ瞬は言った。
「あいつとは、そういうギリギリの勝負はできんのだ。やると、どちらかが死んでしまうからな」
「……」
 一瞬の静寂。最初、かなめは例によって瞬独特のブラックジョークと理解しようと努めたのだが、瞬の次のセリフがそれを許してくれなかった。
「だから、私たちはお互い意識して自分の力にリミッターをかける。梢と鐘鳴の勝負には、そんな無粋な制限などない。そこがうらやましいといったのだ」
 一歩間違えると、単なる自慢かイヤミにしか聞こえなくなるような発言であるが、このときかなめは他意らしきものを感じることはなかった。
「だから、これは私のわがままにすぎないのだが、梢にはこの勝負を目一杯楽しんでもらいたいのだ。まあ、梢が……」
 と瞬がそこまで言ったところで、梢がそれをさえぎった。
「わかりました」
 まるで、雲をたちどころに晴らしていくかのような、そんなさわやかな梢の声であった。さらに弾むような声で、梢はこう付け加えた。
「楽しんで、その上で勝ってみせますから」
 いかにも自信ありげで、しかし少しだけ茶目っ気の含まれた口調。それにつられるようにしてかなめも笑いをもらし、そしてもう潮時とばかりに静かに有羽たちが待つ部屋に戻っていったのである。

「今戻った」
 瞬が梢を従えて勝負の場に戻ってきたとき、かなめはさもずっとそこにいたかのような顔をして、兵衛の左隣に正座していた。小細工だとは自分でも思っていたが、一応体面は保つことにしたのである。
 瞬は、無言でかなめの左側に腰を下ろした。そして、かなめのことなど構うようすもなしに、梢の姿をじっと見つめていた。梢は、蓮から取り札を渡されて、それを暗記している最中であった。これが最終戦だからであろうか、先ほどよりも一枚一枚を丁寧に記憶しているような印象をかなめは受けた。
 有羽のほうは、梢よりも速いペースで札に目を通している。一本とった直後で、頭が冴えているのかと思ったが、ときどき後戻りして札を覚えなおしているところを見ると、単に緊張しているだけのようであった。
 それでも、兵衛は余裕っぽい笑みを絶やさずに、有羽と時計とを交互にみやっていた。運動会に現れて、我が子の出番が待ちきれないでいる父兄状態だとかなめは思った。
 そのままおおよそ10分。ふたりがいよいよ本番を控えて素振りをはじめるまで、部屋にいるものは誰ひとりとして口を開くことがなかった。蓮や宗介も含めてである。
 その静寂が、重低音の二重奏によって破られた。梢と有羽が、まるっきり同時に畳をはたいたのである。直後に、ふたりの目が合う。かなめたちの視線もそこに集中する。
 梢も有羽も目を切らなかった。しかし、互いににらみ合っているというわけではない。ふたりとも不思議そうな表情をしている。自分と相手の動きがきれいにシンクロしたことに、何かしらの運命を感じ取ったのだろうか。
「……あの、もう時間ですけれど、よろしいですか?」
 結局、三本目開始の時間まで、ふたりは素振りを再開することはなかった。それでも、
「私は大丈夫です」
「私も、ぜんぜんかまいません」
 ふたりとも、いかにもこのときを待ちわびていたと言わんばかりの楽しそうな声で、蓮にそう答えたのである。

 三本目の出だしは、あまりにも衝撃的であった。
「いまをかぎりとさくやこのはな――みかき……」
「はあっ!」
 「お願いします」と礼をかわし、型通りに蓮が序歌を詠んで、その直後。勇ましいと言うべき声をあげて相手陣の札に躍りかかったのは、なんと梢のほうであった。有羽のほうは、指先すら動かせぬまま、いや動かさぬままに札が払われたあとを見つめていた。
「……お手つきだな」
 宗介は、きれいに一枚だけ払い飛ばされた札を拾い上げて、そのように宣告した。その札――『みかの』の札だ――を宗介から受け取って、有羽は元どおりの位置に置き直し、それから自陣上段の札を一枚梢に手渡した。そのとき、有羽の表情からはどちらかというと険しい雰囲気が漂っていた。
「そうだ、そこで気を緩めるな」
 その気配を察したかのように、兵衛が小さくつぶやく。そういう兵衛もまた、勝負がはじまる前からはうってかわったような緊張した面持ちであった。
 とはいえ、まずは梢のほうが一歩リードを許したというのが事実なのである。ならば、瞬はこの状況をどう見ているのか。かなめは、そっと瞬の横顔をうかがった。
「……うわ」
 かなめが思わず声をもらしたのは、瞬の表情がいかにも瞬らしくなかったからである。
 まるで、仏のように穏やかな笑み。梢がおかしたお手つきなど、まるで意に介していない。結果は結果として淡々と受け入れている。
 ずばり、逆転現象だとかなめは思った。戦前と現在とで、勝負に対するスタンスがお互い完全に入れ替わっているのである。
「――ものをこそおもへ――ちぎりき」
「はいっ!」
 またしても、動いたのは梢のほうであった。梢は有羽陣右翼中段の札を、根こそぎ刈り取るかのように競技線外に払い飛ばした。一方の有羽は、梢陣のほうに視線が向けていた。どうやら、別の札にヤマをはっていたらしい。はたして判定は、
「篠宮の取りだ」
「……!」
 ここで、梢が小さくガッツポーズを取った。2本目までの、あくまで平静を努めていた梢からは想像もつかない行為であった。しかし、有羽はそのようなしぐさなど目もくれぬようすで、散らばった札を淡々と並べなおしていた。そして、梢から1枚札を受け取って、それを左翼寄りに配置した。
 そこから2枚空札が続いて、次の「せ」の札を梢があっさり守り切った。有羽は、わずかに右手を宙に舞わせたのみであった。しかし、
「――あわむとぞおもふ――こぬ」
「えやっ!」
 6枚目で、ようやく有羽がはじめて取り札に手を触れた。位置は梢陣の上段。ほんのわずか遅れて梢も札の置かれていたところに突きを入れていた。
「……なるほど、鐘鳴は耳が早いな」
 瞬が感心したようすでうなずいている。察するに、有羽はバクチで札を取りに行ったのではなく、ちゃんと決まり字である「ぬ」を聞いてから動き出したということであるらしい。
 そして次の札も、有羽が梢を一歩制する形で自陣の札を守った。このようにして、有羽は若干ミスの目立つ梢から少しずつリードを奪っていったのである。

 三本目が始まってから15分ほどが経過した。障子を閉めきった部屋は、エアコンをかけているにもかかわらず、どこか蒸し暑く感じられる。
 梢と有羽のようすを見ても、髪が汗で額に張りついていたりして、いかにも戦況が緊迫していることを物語っている。現状では、梢の持ち札が13枚で、有羽のほうが10枚。三本目に関しては一切お手つきをおかしていない有羽が、やや強引に札を取りに行っている梢をミスの分だけリードしているような展開である。
 しかし、このままで終わるとかなめは思っていなかった。かなめの目には、有羽が必要以上に慎重に動いているように映っていたのである。二本目の有羽は、とも札が読まれるとなりふり構わず相手陣に切り込んでいたが、いまは決まり字を完全に聞いてから右手を動かしはじめている。
 梢のほうは、逆に早すぎるのではないかと思われるタイミングで有羽陣を果敢に攻め、一定の成果をあげていた。ひとことで言えば、大胆な動きということなのだが、かなめは梢の取り方にどこか作為のようなものを感じていた。そう、まるで何かを試しているかのような、そんな雰囲気を梢は醸し出していたのである。
 その答えが、唐突に明かされる。

「し「は「はいっ」いっ!」――」

 たとえ目で見ていなくても、このやりとりを耳にしただけで、かなめは何が起こったかを理解できただろうと思った。
 有羽陣の上段中央付近。蓮が札を詠みはじめるが早いか、梢と有羽は一直線にそこを目指して手を伸ばしていたのである。置かれていたのは言うまでもない、「しのぶれど」の取り札である。
 その札を、梢が払った。
 梢は、最初からこれを狙っていたのだとかなめは悟った。有羽が2本目でやってのけたように、「し」の子音だけを聞いて札を取りに動いたのである。
 有羽も、決して出遅れたわけではない。というのは、梢陣には「しらつゆに」がいまだ詠まれぬままに残っていたからである。だから、有羽は一瞬躊躇した。梢は、そんなことなどお構いなしに「しのぶれど」の札を狙った。2分の1の確率に賭けて。
 梢にとってみれば、そこまでして取るべき札だったのだ。2本目において、自分のペースを完全に狂わせた札。それを修正し、有羽に向かっている勝負の流れを断ち切るには、これが唯一絶対の手段といっても過言ではなかった。
 事実、有羽の表情からは完全に血の色が失せていた。先ほどまでは、適度な緊張感を維持していることを示すように、額に汗まで流していたほどだった。いま、有羽は梢から札を1枚受け取ったが、それをどうすればいいかわからぬように、じっと手に持ち続けていた。
「鐘鳴、早く配置しろ」
 そう指摘する宗介の声は、おそらくはいつもと同じ調子だったのであろうが、かなめにはまるで有羽を必要以上に急かしているように聞こえた。有羽は、はじかれるように顔を上げ、手にした札を無造作に真ん中付近に置いた。そのようすを確認してから、蓮が次の札を詠みあげる。
「はるす――」
「はいっ」「やあっ!」
 ふたりは、互いに相手陣の札を払い飛ばしていた。梢は、1枚だけをきれいに。有羽は、1列を豪快に、というよりも大雑把に。それだけで、どちらが正しい札を抜いたのかが想像つくというものであった。
「篠宮の取りだな」
 実際、宗介も先に梢が払った札のほうを確認していた。判定を聞いた梢は、自信に満ちあふれた表情で、見てわかるていどに大きくうなずいた。それは、1本目に正確無比な動きでピンポイントに札を払っていった梢の復活であった。その梢が、踊るような手つきで2枚の札を選び取り、有羽ににこやかな顔で手渡した。これで、残り持ち札は一気に1枚差となる。
 受け取った有羽は、今度は神妙な顔で配置を考えていた。片方を右に、もう一方を左に置いたかと思うと、右側にあった札を隣の札と入れ替えてみたりする。その入れ替えた札を、さらに左翼の札と交換する。そんなことを、10回ほど繰り返しただろうか。そのときだった。
「有羽ちゃん」
 重低音のつぶやき声。それに反応して、有羽が指をぴくりと止めた。有羽はそのまま顔を真横に上げて、視線が兵衛とまっすぐぶつかりあった。どことなく虚ろだった有羽の瞳に、わずかながら光が戻ったように見えた。
 有羽はもちろんのこと、この場にいる誰もが兵衛の次の言葉を待っていた。勝負の行方がどうこうというのは、この場では完全に無視されてしまったいた。
 そんな一堂の注目を浴びた状態で、兵衛は腕組みを決め、こう言い放った。
「そこで油断してるようじゃ、『しのぶれど』の思いは届かないぜ……」
 それは、古い映画の二枚目俳優のごとくであった。一瞬、兵衛のまわりの風景がモノクロームにかわり、静寂の中にノイズがまじっていくような感覚。絵になる男とは、まさにこのことであった。本人が「しのぶれど」の対象が誰であるかを理解していないというのも、ここでは逆に「届かない」という言葉に説得力をもたらしていたと言えよう。
 さて、兵衛は必要十分な助言を与えた。次は、有羽がそれにどう答えるかである。有羽は、ひとしきり唇をかみしめ、兵衛のほうに顔を向けてからこう言った。
「……確かにその通りでした。でも、私は勝ちますから」
「それでいい。あきらめなければ、可能性は残る」
 背水の陣といった様相で札に向き直った有羽。兵衛は、その背中をあと押しするようなひとことを残した。残りの札に神経を集中させている有羽に、それ以上の言葉は無用であるように見えた。
「……ところで、そっちはいいの?」
 そして、かなめは瞬に声をかけた。一方のセコンドが口を挟んだのだから、もう一方にもその機会を与えるべきだと思ったのである。それに対して瞬は「うむ」とうなって、何やらひとしきり考えたあと、
「勝て」
 とだけ口にし、そして梢も、
「勝ちます」
 とだけ答えた。そのときの梢の表情に、かなめは背筋を凍らせた。
 梢の瞳が、戦いに赴くときの瞬のそれにそっくりだったのである。3本目が始まったころに見せていた、勝負を楽しまんとするような雰囲気は、今の梢からはみじんも感じられなかった。
 いまや、梢も有羽もただまっすぐに勝利を目指している。残る札は10枚ずつでまったくの互角。真の勝負はここからはじまるというフレーズが見事にはまる展開となっていた。。

「なに」「であっ!」「はえの――」
 先に持ち札を9枚にしたのは梢であった。自陣右翼の札を2、3枚を力いっぱい、というよりは力まかせにといった具合で場外に吹き飛ばした。余計に飛ばした札を並べなおしている間、梢は左手で汗をぬぐいながら呼吸を整えている。
 有羽はというと、この札に対しては反応が完全に遅れた。これは、梢の記憶力の勝利である。「なに」ではじまる歌は全部で3首。そのうち、「なにし」は梢が中盤でとっており、「なにはが」は空札としてそのあとに詠まれていた。「なにはえ」の札が「なに」の段階で取れることはこの時点で確定していたのだが、それを把握していたのは梢のほうだけだったわけである。そして、次の札。
「わすら」『はいっ!』
 払われたのはこれまた梢陣の札。今度は、ふたりの手が同時に伸びた。掛け声もほぼ重なっている。はたして、取り札は梢から見て右翼方向に飛ばされていた。
「鐘鳴の取りだな」
 宗介の判定に、有羽はぐっと表情を引き締め、梢が大きく息をつきながら肩を落とした。
 「わすら」は、「わすれ」が詠まれていなかったのでいまだに3字決まりの状態であった。「わすれ」のほうは今回の取り札のうちに含まれていなかったので、ふたりは「ら」の音を確認するやいなや、梢陣に置かれていた取り札を払いにいったのだが、こういうスピード勝負となると、耳も手も早い有羽のほうに軍配が上がるわけである。
 そのような感じで、ふたりが違いの持ち味を存分に発揮しつつ、取り札は互いに1枚ずつ減っていく展開となった。自然、梢のほうが先に王手をかけることになる。

「くたけてものをおもふころかな」
「なかれもあえぬもみちなりけり」(有羽)

「つらぬきとめぬたまそちりける」(梢)

 その状況下での残り札はこうなっていた。蓮の手元には、まだ15枚ほど詠み札が残っている。梢の立場から見れば、仮に1枚取られたところでまだ五分と五分。狙い札をしぼって勝負できるという点で、すべてを取りにいかねばならない有羽よりも当然有利である。
「ひともをし――」
 そしてまず1枚目。完全に空札で、ふたりとも微動だにしない。顔を紅潮させ、呼吸すらこらえて、一瞬の反応にすべてをかけている。
「むらさめの――」
 次の札もはずれ。ここで、有羽が大きく息をつく。1字決まりの札なので、「む」を聞いた瞬間に力を抜いたのであろう。しかし、「あきのゆふぐれ」が詠まれるころには、すでに歯を食いしばって集中を取り戻していた。
 この次の札で、動きがある。
「やへむぐら――」
 有羽陣の札に向かって、フライングではないかと思えるタイミングで梢の手が伸びた。おそらく「や」の音にヤマをはっていたのであろう。有羽の手もむろん動いているが、ここは梢の手が先に取り札に届きそうな勢いであった。
 しかし、場にある札は「やま」の札。有羽は早い段階で手を引っ込め、梢も取り札をかわすように手を通過させていった。手を場外に落ち着けたところで、今度は梢が肩で息をした。詠み札が詠みおわるまでに、梢はちゃんと姿勢を整えていたが、有羽と違って呼吸のほうはまだ若干の乱れがあった。
 勝負のやまは、往々にしてこういうときに訪れるものである。
「はいっ!」「つゆにかぜのふきしく――」
 有羽の身体が梢陣に躍りかかり、獲物を狩る隼のような俊敏さで札を払い去った。
 梢は指一歩動かさなかった。動かせなかったのである。
 蓮が上の句を詠み終えたところで、宗介が払われた札を確認しに立ち上がった。払ったのは有羽に決まっている。問題は、それがお手つきでないかだが、本来なら確認するまでもないことであった。ただ、例によって有羽の動きが尋常ではなかったので、念のためのチェックといえた。
 有羽が払った札は「しらつゆに」。説明するまでもないだろう。有羽は「しのぶれど」を取りに行くのと同じタイミングで、この札を聞き分けたのである。
「……間違いない。鐘鳴の取りだ」
 あくまで平静に宗介がそうアナウンスした。次の瞬間「おっしゃあ!」という兵衛の叫び声。瞬は、顔色ひとつ変えずに梢のようすを見つめている。
 その梢は、有羽から1枚の札を手渡された。梢が自分の目の前に置いた札は「くたけてものをおもふころかな」。札から離された梢の指先は、遠目から見てもわかるほどに震えていた。
 緊張しているのは、有羽も同様である。こちらは札を取る構えの状態のまま微動だにしない。いざ札が詠みあげられたとき、身体が反応できるかどうかも怪しく見える。
「……運命戦だからな」
 かなめのそんな思いを悟ったか、瞬がぽつりとつぶやいた。運命戦とは、互いに持ち札が1枚ずつになった状態を指すが、瞬の言葉にはそれすらも予期していたかのようなひびきが含まれていた。
「そう、運命のライバルっていうのは、こういうギリギリの勝負でしのぎを削り合うものなのさ」
 兵衛は、この展開を待ち望んでいたかのように興奮した声をあげる。自分がどちらの側についているかなど、まるっきり忘れているようにも見えた。
「……そうか、勝負がついちゃうんだ」
 そんな張り詰めた空気の中で、ふとかなめは冷静になった。あと1枚、札が払われたらどちらかが勝つ。つまり、どちらかが負けるのである。
 繰り返しになるが、もともとは瞬と兵衛のことで衝突し、引くに引けなくなった二人に対し、引き下がるきっかけを与えるために設けた勝負であった。しかし、真剣に闘っている二人のようすを見て、そんなことはどうでもいいと思えるようになっていた。勝ったほうが「謝らなくていいよ」と笑って許す、そんな結末をかなめはうっすらと期待していたのである。はたして現実は、
「――きりぎりす」
 蓮の詠みに対し、有羽が即座に右手の指を浮かせ、一方で梢が持ち札を手で覆うようなしぐさを見せた。タイミングとしては、「しのぶれど」の「S」と同じく、「K」の音が蓮の口から発せられた瞬間のことである。
「負ける気ナッシングね……」
 この勝負、どちらかが頭を下げないことには終わらないということを、かなめは今更ながらに思い知らされた。
 こうなると、蓮の詠みは突然死を告げるカウントダウンである。
「みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに――」
 詠み出された瞬間、梢の身体がわずかに前傾した。有羽は彫像のように動かない。上の句が詠み終えられた、梢は大きく深呼吸した。そして、次の札に備えて息を止めて構える。
「みだれそめにしわれならなくに――あらざらむこのよのほかのおもひでに――」
 まだ終わりのときはやってこない。今度は、有羽が軽く肩をゆすぶって、一旦緊張をほぐした。梢と比べて呼吸は乱れていないが、ポニーテールの襟足には髪が汗でぴったりとはりついていた。
「――いまひとたびのあふこともがな――か」
 この瞬間、梢の眼前にあった札が、いびつな回転を伴いつつ宙を舞った。二人が札に触れたタイミングは、かなめの目では判別がつかなかった。本人たちは当然わかっているであろうし、瞬や兵衛なら取りのスピードについていけるのかもしれないが、このときは、その場にいる全員がただ宗介の審判を待った。
 宗介は、蓮が上の句を読み終えるのを聞き終えてから、きっぱりと言い放った。
「鐘鳴が先に手を触れた」
 それを聞いて、肩を落としたのは、兵衛であった。
「つまり、鐘鳴のお手つきだな」
 瞬が、うむとうなずく。有羽は観念したような声で「はい」と答え、梢は糸が一本切れてしまったかのように、その場にうずくまってしまった。
 そう、蓮が詠んだ札は「かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしもしらじなおゆるおもひを」であった。梢陣に残っていたのは、「かぜをいたみいわうつなみのおのれのみくだけてものをおもふころかな」。二人ともがいちかばちかで仕掛けた勝負で、皮肉なことに動きが素早かった有羽の手のほうが先に札に届いてしまったわけである。
「よって、この勝負、1枚差で篠宮の勝ちだ。通算でも2本で、篠宮の勝利」
 なかば儀礼的に、宗介が梢の勝利を宣言した。それを聞いてから、梢と有羽は互いに「ありがとうございました」と礼をかわし、詠み手であった蓮と審判の宗介にも一礼した。
 そして、ここからがかなめの役目である。
「……というわけだから、約束を果たしましょうね」
 あらためて口にしたくもないことであったが、それがけじめというものである。かなめは、その場に座り込んだままの有羽に対して、梢に対して先に謝罪することを促した。
 有羽は、かなめの声が聞こえなかったかのように最初は無反応であった。が、ややあって面をあげると、まるでわだかまりを感じさせない晴れやかな表情で、 「わかりました」
 と答えた。そして、そのまま姿勢を正して、同じく背筋をぴんと伸ばして正座している梢に正対し、もろ手をついて、
「ごめんなさい」
 と発せられた声を先に聞かされたのである。
「……梢さん」
 呆気にとられたかのような有羽のつぶやき。それとともに、一堂の視線が梢に集まった。
 梢は、額が畳にすれそうなほどに深く頭を下げていた。そのまま、有羽の言葉を待っているらしい姿からは潔さがにじみ出しているように見えた。
「……どういうことですか」
 しばらく逡巡したのち、有羽が何かを決意したかのように問い掛けた。伏せたままの梢の後頭部を見つめて。
 問われた梢は、手は畳についたまま顔だけを上げ、視線をまっすぐ有羽に向けて答えた。
「勝ったのは私です。ならば、どちらが先に謝るかくらい、私が決めたって構わないと思いませんか」
 そう言って、梢は口許を引き締め、もう一度頭を下げてから、
「ごめんなさい。あなたと対戦して、私は瞬にとって小百合葉さんがどれほど大切な存在なのかを知りました」
 半ば震えた声で、そのように梢は謝罪の言葉を述べた。それを聞いた兵衛は、どうして自分の名前がでてくるのかさっぱり理解できないようすで、周りの人間の表情をうかがっていた。そんな兵衛の視線が有羽に向かったとき、有羽はわずかに頬をゆるめて、
「梢さんには敵いませんね」
 と言った。そのとき、有羽の目尻からはすでに涙の粒が幾滴もこぼれ落ちていた。にこりと涙を流していたのだ。
「私も同じことを考えていたのに、それじゃあ認めるしかないじゃないですか」
「鐘鳴さん……」
 そう言って顔を上げ、有羽を見つめた梢の瞳にも、きらめくものが浮かんでいる。
「だから私も、あなたに謝っていいですか?」
 有羽は、なんとも奇妙なお願いをする。そして梢も、
「はい。どうぞよろしく」
 まるで自分が頼みごとをするかのようにそう答えた。そして、有羽が先ほど梢がやってみせたように深々と頭を下げて、
「梢さん、ごめんなさい。あなたとの勝負で、私はあなたにカルタを教えた御崎くんの強さを感じ取ることができました」
 淀むところもなく、そのように謝ったのであった。そんな有羽の手を、梢が黙って握り締める。
「梢さん……」
 わずかにつぶやいて、有羽がその手を握り返した。やがて、ふたりはもう片方の手も結び、その手が肩に回って、いつのまにやらふたりは互いに背中を抱きしめあっていたのである。
「おーおー、なんか百合っぽくていいねえ」
 そんな光景に対し、冗談めかした感想を述べたのは兵衛である。
「今日はいい勝負を見せてもらった。梢と、そして鐘鳴にも感謝せねばなるまい」
 瞬は、いつもよりは少しだけうれしそうな声でうなずいていた。
 そして、宗介はかなめに近づいて来て、誇らしげに言った。
「どうだ。俺の言った通り、勝負で解決しただろう」
 理屈も何もわかってないくせに、と一瞬かなめは思ったが、すぐにその考えを打ち消した。人間関係など、理屈で簡単にはかれるものではないのである。結果として、梢と有羽は、真剣勝負を通じてお互いを敬うことのできる関係を築いた。それならば、今回は宗介のことをほめてもいいのではないだろうか――。
「黙れ、勝負バカ」
「むう」
 そう思いつつも、やっぱり素直に認めるのはしゃくにさわるかなめであった。
「ところで、千鳥にひとつ聞きたかったことがあるのだが」
「ああ、俺もだ」
 そのとき、瞬と兵衛がかなめの目の前にまわり、ふたりで顔を並べて何かをたずねてきた。何のことだろうと思いつつ、かなめが質問を促すと、ふたりは完全に口を揃えてこう言った。
「結局、ふたりは何で戦ってたんだ?」
「……」
 あまりのお約束っぷりに、かなめはただ言葉を失うのみであった。

 それから数日して、文化祭当日がやってきた。
 1年2組で行われたカルタ大会は、2人1組のコンビ戦で行われて、1年と2年の女子コンビが圧倒的な強さで優勝をおさめたことを、かなめは人づてで聞いた。それが誰であるかは聞くまでもないことであったし、そうなるであろうことはたやすく予想できた。
 その一方で、かなめのクラスのほうは、例の留学生のせいでさっぱり準備が進まず、おまけに宗介が招待したわけのわからない客のおかげで、散々な顛末となったのであるが、それはまた別の話なので、ここでは割愛させてもらうことにする。




■あとがき■

 日和佐です。「突き押し払いのリアルバウト」、およそ2年半かけてようやく最後まで書き切りました。
 そもそもは、私が「鐘鳴有羽でなら、SSを書きたくなるような気がする」と発言したところで、阪木洋一さんが快くキャラクターをお貸しくださったのが、このSSのスタートでした。そののち、有羽と誰かを戦わせるなら、やはりオラクル内のオリジナルキャラクターがよかろうと考え、白羽の矢を立てたのがβブーストさんのオリキャラである篠宮梢でした。おふたかたと管理人の彩都正樹さんには、この場を借りてお礼申し上げます。
 この作品は、フルメタル・パニックの二次創作というよりは、オラクルSSの二次創作というべきもので、フルメタからみれば三次創作ということになると私は考えています。いずれにしても、他の方が作った舞台や設定を使ってお話を考えるのは非常に難しいと感じました。むろん、一から書くのが簡単というわけではありませんが、二次創作にはそれ独特の難しさがあるということです。この作品を書きながらも、私は梢や有羽の魅力を損なわずに描けているか、不安で仕方ありませんでしたし、書き上げた今でもそうです。
 とにかく、今回は自分の現状の力をいやな意味で理解させられました。次またこういう機会があれば、よりよいものをより速く書けるように精進しなければならないと思います。
 それでは、これにて失礼します。

2004年5月 日和佐潤


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