ORACULAR‐WINGS■
 ■突き押し払いのリアルバウト■    <第2章>


 この日の4時限目。陣代高校2年2組の稲葉瑞樹は、自分の机に広げられているノートの文字、というよりは、みみずがのた打ち回ったような不可解な記号を目にして、あわてて頭を揺り起こした。
 そのとき教科書を音読していたのは、瑞樹の前の席に座っている男子生徒であった。彼が手にしている英語の教科書を瑞樹がのぞき見たところ、授業はすでに2ページ分は進んでいるものと推測された。
 「まずい」と、瑞樹は思った。
 この時間の担当教諭は、座席の順に生徒を指名していく習慣があった。そして、そのパターンは授業をまたいで継続されるため、生徒は「次の授業で、自分は指名されるかどうか。されるとすれば、どのあたりであてられるか」をおおよそ予測することができた。
 瑞樹の推測によれば、自身はいわゆる「安全圏」に入っているはずであった。しかし、何をどう間違ったのか、この日の授業は瑞樹の意識が睡魔に乗っ取られている間に、やけにハイペースに進行していたらしかった。
 黒板の上に設置されている時計によると、残り時間はあとわずか、教師は、今読ませていた部分が授業のポイントであることを強調しながら、詳しい解説を行っている。そのまま板書をしている教師の後ろ姿をながめながら、瑞樹はこのまま解説が長引いて、自分の順番が回ってこないことを願った。
 はたして、黒板から向き直った教師は、自分の腕時計をちらりと見て、
「ん〜、もうひとりくらいいけるな」
 無情にも、そのように宣告した。
 その言葉にびくつきつつ、瑞樹は最後の抵抗とばかりに、自分が読むことになるであろう文章を訳しはじめた。が、文章の頭にある「It」が何を指しているのかがわからず、瑞樹はあっけなく白旗を上げたのである。
 ……読むだけ読んで、どうにか時間を稼ごう。
 と、瑞樹が覚悟を決めたときだった。
「ん? そこで寝てるのは……」
 教師のつぶやきに、もしかして、と瑞樹は思った。誰かはわからないが、自分と同じようにうたた寝をして、しかも自分よりも運が悪い人間がいたのである。瑞樹は、教師の次の言葉にわずかな望みをかけた。そして、教師が呼んだ名前は、
「……鐘鳴〜」
「え?」
 瑞樹にとって、もっとも想像しがたい名前であった。しかし、瑞樹が隣の席を見ると、確かに有羽は机に突っ伏して、子供のように無防備な寝顔を瑞樹のほうにのぞかせていた。
「ちょっと、ユウ……」
 瑞樹は、周囲に気取られぬていどの声で有羽に呼びかけたが、有羽はまるで反応する気配を見せなかった。やむなく、瑞樹が身体をゆすろうと手を差し伸べたところ、
「鐘鳴!」
 この教師にしては珍しい怒声が飛んできて、
「はいっ!」
「ぐわっ!」
 それから、机をひっぱたく音とともに、瑞樹の顔面に飛んできたのは有羽愛用のペンケースであった。
 一瞬にして教室は静まり返り、ペンケースが床に落ちた音だけがあたりに響きわたった。その音さえも消え失せたのち、
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
 お決まりのセリフが、クラス中を笑いの渦に引き込み、ちょうどそこで終了のチャイムが鳴り響いたのである。

「……で、これがそのときの痕」
 と言って、瑞樹は左手で髪をかき上げ、額を突き出した。もともと気のきつそうな顔つきをしている瑞樹であるが、このときは一段と不機嫌そうな表情を見せていた。
「うわ〜、なんかすごいねえ」
 その向かいに座っていたおさげ髪の少女、常磐恭子は、瑞樹の額のちょうど真ん中あたりに貼りつけられている、若干血がにじんでいるばんそうこうを見て、眼鏡越しに瞳をまたたかせた。
 かなめは、食後のカフェオレを味わいながら、瑞樹の被害者談を聞いていた。そして、ふてくされ顔の瑞樹が、ようやく自分の弁当に箸をつけはじめたところで、
「なんか、えらいことになってるみたいね……」
 とひとりごちた。
 昼休み、瑞樹はいつもより若干遅れて2年4組に姿を現した。瑞樹は、眉間にしわを寄せ、ときおり額のところをさするようにしながら、かなめたちのもとに近づいてきた。
 瑞樹は、無言でかなめの隣の席に腰かけた。そのようすを見て、恭子がたずねた。
「ねえ、ミズキちゃん。どこか具合悪いの?」
 すると、瑞樹はそれを待っていましたとばかりに、
「そうなのよ、ちょっと聞いてやってよ!」
 と、食事そっちのけで、身にふりかかった災難を語りはじめたというわけである。
 その瑞樹がようやく食事をはじめたところで、三人の間に沈黙の空気が漂いだした。が、それも数瞬のことであった。
「で、そのユウちゃんは?」
 何とはないようすで、恭子がそう尋ねたのである。とはいえ、その口調や表情からは、瑞樹を気遣っていることがかなめにはうかがい知れた。
 それに気づかでかどうか、瑞樹は、低い声でただ一言答えた。
「保健室」
「あれ、でもミズキちゃんも保健室に行ったんだよね?」
 首をかしげながら、恭子がさらにたずねた。それならば、有羽といっしょにここに来ていてもおかしくないと考えたのであろう。瑞樹は、先ほどよりも抑えた声で言った。
「寝てる」
「えっ?」
「『保健室まで連れて行きます!』とか言って、あたしを教室から連れ出したくせに、保健室に着いたらいきなり倒れた」
 瑞樹は、今度は一語一語はっきりと区切りながら、そのときの状況を説明した。これには、恭子も言葉を失ったらしく、困ったような笑いだけを浮かべていた。
「まったく、何やったら授業中に寝ぼけられるんだか……」
 自分のことを棚に上げつつ、呆れ口調でつぶやく瑞樹。かなめは、その疑問に答えることにした。
「それは、きっと特訓ね」
 ふたりの気を引くように、かなめは意図的に言葉数を減らし、含むように笑った。その計算通りに、恭子が身を乗り出してきた。
「なになに、カナちゃん、特訓って?」
「……ふっふっふ、それはねえ」
 かなめは、瑞樹のようすを横目で確かめた。瑞樹は、興味がないとばかりに黙々と食事を続けていたが、それはつまりかなめの話を意識しているということであった。
「今度、ユウは百人一首で勝負することになったのよ!」
 かなめは、それがさも重大なイベントであるかのように、芝居がかった口調で告げた。反応したのは、やはり恭子のほうであった。
「勝負? 何それ、なんかかかってるの?」
「ん〜、まあ、かかってるといえなくもない」
「うわ〜、気になる言い方」
 それから、かなめは昨日決まったことを順次話していった。つまり、勝負の日取りと場所、勝負内容が百人一首になった経緯、それから対戦相手が梢であることなどであったが、ふたりが勝負することになった原因については、かなめは言葉を濁した。そして、
「これで、男の子をめぐっての対決だったりすると、ドラマなのにね〜」
 と言って恭子がにやりと笑ったとき、かなめは自分の判断が正しかったことを確信した。さらなる追求を受けた場合、どのようにごまかそうかとかなめが考えていると、
「あっ、ところでドラマといえばさぁ」
 恭子は、自分の言葉をきっかけに、いきなり話題を転換してしまった。
「えっ、なになに?」
 一瞬肩透かしを食らったように感じながらも、かなめはこれ幸いにと恭子の話に乗ることにした。そのときだった。
「あーっ!」
「うわっ!」
 瑞樹が、何か重大なことに気づいたような大声を出したのである。そして、そのままの勢いでかなめに詰め寄ってきた。
「つまり、あの筆箱は、カルタの札ってこと?」
「うん。そういうことだと思う」
「まったく、寝てるときにまで寝ぼけないでよね!」
「ミズキちゃん、それ、むちゃくちゃ」
 かなめも、瑞樹のセリフの不条理さに笑いを禁じえなかったのであるが、一方で背中に薄ら寒いものも感じていた。
 ……夢にまで出てくる特訓って、いったい?
 そもそも、かなめには有羽が授業中にいねむりをするさまなど想像がつかなかった。授業には予習をもって臨み、黒板に書かれている解説は一字一句生真面目に書き写す、それが有羽に対するかなめのイメージであった。
 その有羽が、昼日中から疲労の極みに達している。
 百人一首というのが、かなめの想像を凌駕するほどハードな競技なのか。対戦相手の梢に対する意識が尋常ではないのか。あるいは、これこそ恋心――相手が兵衛だと知ったときにはかなり驚かされたが――のなせるわざなのか。
 いずれにせよ、勝負にかける有羽の意気込みが十分であるということを、かなめは理解していた。

 放課後、かなめはどこにも寄らずに、まっすぐ生徒会室に向かった。そこで、御崎瞬に会う約束をとりつけていたからである。
 用件はもちろん、梢のようすを尋ねることであった。すでに練習にはげんでいることは想像できたが、一方のライバル有羽の猛特訓ぶりと比べて、いかなものかとかなめは気にかけていたのである。
 生徒会室に着いて、かなめは軽くドアのノブをひねってみた。鍵がかかっているようすがなかったので、そのまま中に入ろうとすると、
「来たか、千鳥……」
 開いたばかりのドアのすきまから、他聞をはばかるかのような低い声が漏れ出てきた。首筋が震えるその感覚で、かなめは声の持ち主を察知した。
「せめて、あいさつは顔を合わせてからにしてくれる?」
 ドアを目一杯開き、かなめは部屋の奥に陣取っている瞬に強く言い放った。瞬はわずかに顔を上げ、「すまん」とだけ答えた。
 部屋のあかりをつけようとして、かなめは壁ぎわをさぐったが、蛍光灯のスイッチはオンになっていた。あらためて部屋を見回してみると、なんのことはない、総身黒ずくめの人間がただならぬオーラを漂わせていて、場の雰囲気を鬱々たるものにしていたのである。かなめは、やや大げさに嘆息しながら、瞬の向かいの席に腰掛け、
「ああいうことされると、いきなり殺されるんじゃないかって思うんだけど」
 と毒づいた。対して、瞬は気取るところもなくこのように答えた。、
「相手によっては、殺すつもりでいるからな」
「忙しいし、本題に入りましょうか」
 ますます陰惨になっていく雰囲気を振り払うように、きっぱりとかなめは宣言した。瞬のセリフについては、独特のジョークであると解釈した。
「……コズエちゃんのようすはどう?」
 かなめはあいまいにたずねたが、瞬の答えは実に明快であった。
「だめだ」
「そういうような気はしてたけどさ」
 昨日の帰宅後、かなめは瞬と兵衛に電話を入れて、今回の勝負についての説明を行った。そのとき、兵衛には有羽の、瞬には梢のサポートを依頼したのである。むろんというべきかどうか、二人からは快い了承を得ることができた。
「勝負か、そりゃおもしれえ!」
「……やるとなったら、全力を尽くさねばな」
 ふたりとも、勝負に至るまでのいきさつについては関心を示さなかったが、かなめにとってはむしろ好都合であった。
 そのときに、かなめはふたりにかるたの実力のほどをたずねていた。
「だーいじょうぶ、まかせとけ!」
 と、高笑いしながら答えた兵衛のほうからは、いまひとつ根拠を感じとることが出来なかったが、
「できる」
 という瞬のひとことからは、はっきりとした自信のほどをうかがうことができた。
 そもそも、瞬というのは妥協を知らない人間である。それは、たかだか学校の昼食に、バカほど仕込みの時間がかかりそうな――少なくとも、かなめにはそう見える――弁当を持ってくることからもわかる。
 そんな瞬が教官についたのである、やすやすと合格点が出されるはずもなかった。
「でも、コズエちゃん、札くらい全部覚えてるでしょ?」
「いま、あらためて覚えさせている」
「はい?」
 かなめは肩透かしをくらった気持ちになった。記憶力についてたずねれば、きっと誉め言葉が返ってくるものと期待していたのである。瞬は、至極冷厳といえる口調で続けた。
「記憶に無駄が多い。取り札を見て、決まり字まで出てくれば問題ないのだが、梢はつい全部思い浮かべてしまうらしいのだ。その分が、致命的なタイムロスになる。」
「決まり字?」
 いかにもな専門用語に、かなめはふと反応した。つぶやいてから、これくらいは常識なのかもと思い、瞬の表情をわずかにうかがったが、瞬は相も変わらずの無表情で、すぐさま解説を加えてくれた。
「上の句の、ここまで聞けば、百首あるうちの一首に札がしぼれるという部分のことだ。たとえば、『きみがため』で始まる歌を知っているか?」
「『きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでは……に ゆきはふりつつ』」
 わずかにつかえながらも、かなめは記憶を掘り出すことができた、と自分では思っていた。が、
「もう一首」
「え?」
「『きみがため をしからざりし いのちさへ ながくもがなと おもひけるかな』がある。つまり、『きみがため』まででは、歌を一首に絞り込めない。次の、「は」か「を」を聞いて、ようやく取り札を確定できるのだ」
「つまり、イントロクイズにたとえるなら、出だしが紛らわしい曲ってことね?」
 瞬の講釈に、かなめは軽く手を打った。
「……妙なたとえだが、そんなところだ。とにかく、今は梢にそれをたたきこんでいる。だが……」
「だが?」
 瞬が首をわずかにかしげるのを見て、かなめは身を乗り出した。
「梢も、決まり字を知らなかったわけではなかったのだ。それなら、簡単に修正できそうなものなんだが」
 それを聞いて、かなめにはピンとくるものがあった。
「……そのへんが、コズエちゃんの不器用なところよね」
「どういうことだ?」
「それは、自分で考えて」
 かなめは、あえて瞬を突き放すことにした。
 梢の記憶力は、あるいは瞬をしのぐやもしれぬほどに優れている。それは、本人は意識していないにしても、彼女の自尊心を支えており、今回に関しては梢にとっての枷になっている……と、かなめはこういう見解をもっていた。
 それが正しいかどうかはともかく、たまには瞬にも梢の内面について考察を行ってほしいというのがかなめの希望であった。もちろんそれは、兵衛についても同様である。
「そういえば、兵衛のほうはちゃんとやってるのかしらね……」
 瞬と兵衛は、どっちもどっちで鈍いところがあるが、かなめにとってより心配なのは兵衛のほうであった。瞬は梢の気持ちを知っているが、兵衛は有羽の気持ちを知らないからである。
 そんなひとり言に、ニコリともせずに瞬が答えた。
「安心しろ。兵衛も、人並みにはとれる」
「そういう心配は……、ちょっとはあったか」
 と、かなめが小さく笑ったとき、
「ヘックショイ!」
 部屋の外から、豪快なくしゃみが聞こえてきた。なんてお約束な、とかなめが思うなか、噂の当人は、ノックもせずに生徒会室に入ってきた。
「オ〜ス! 今日もさっそく仕事だ!」
 兵衛は、両手に山ほどの工具を抱えていた。汗まみれの顔は、いかにも祭の準備を楽しんでいるように見える。
「よし、あたしもがんばろう!」
 そんな兵衛の姿に、つられるようにしてかなめもガッツポーズを作った。そして、部屋を出ていく前に、
「そうそう、カルタのほうもがんばりなさいよ。そのうち、ようす見に行くんだからね!」
 と一言付け加えた。瞬は静かにうなずき、兵衛は不安などまったく感じさせない笑顔を見せた。だから、
「じゃあ、明日にでも!」
 と、かなめは本心より答えたのであるが、その心づもりは翌日に突然くじかれることとなるのであった。

「これはまた、大きなお屋敷ですねえ」
 と、美樹原蓮はいかにも率直に言ってみせた。
「まったく、ここに来ると東京都の面積を疑いたくなるわ」
 対してかなめは、自嘲気味につぶやいた。そして、自分の背丈の倍ほどもあるいかつい門扉の脇に、申しわけなさげに設置されているインターホンのボタンに指を伸ばした。ブーという重々しいブザー音が鳴り、それから十数秒。かなめはただ待ち続けた。
「あの、もしかしてお留守なのでは?」
「それはないわね」
 軽く首をかしげてたずねる蓮に、かなめはそう断言した。
 この日、かなめは瞬に対し「今日こそ、あんたの家に行くから」と告げておいた。「今日こそ」と言ったのは、非常識な留学生のせいで、ここしばらくのスケジュールがむちゃくちゃになってしまっていたからである。そして瞬からは、
「ならば、夕食を用意しておく」
 という、いかにもありがたい言葉をいただいていた。そして、瞬が軽々しく約束をたがえることなど、かなめには想像もつかなかった。
 はたして、さらに数秒後。
「すみませ〜ん、お待たせして。あの〜、どなたですか〜?」
 瞬のものでも、梢のものでもない、透き通るように明るい声がインターホン越しに返ってきた。
「あ〜、メリル。あたしよ、あたし」
「ああ、カナメさん! 待ってて、すぐに開けるから」
 そう言われるやいなや、かなめたちの目の前で、重厚な門扉がわずかにきしみをあげながら内に開いていった。見た目は大時代がかっているが、システムのほうは現代的になっているようであった。
 扉の向こうには、車も通れるようにであろう、きちんと舗装された道があり、それが古めかしい平屋建ての家屋の玄関にまで続いていた。そして、かなめたちが敷地に足を踏み入れるとすぐに、その玄関から小さな人影が姿を現した。
 いや、影というには、この場合いささか不適切かもしれなかった。かなめたちのそばへかけよってきた少女の髪は、西に傾いた陽光を浴びて、それ自身が太陽であるかのように輝いていたからである。
「やっほー、メリル」
 かなめがその少女、メリルに手を振って呼びかけると、メリルはさらに足をはやめて近づいてきた。
「カナメさん、こんにちは! こっちのお姉さんは?」
「ああ、彼女はお蓮さん。あたしの友達。今度のカルタ勝負で手伝ってもらうから、ついてきてもらったんだ」
 と、蓮のことを紹介してから、かなめは先ほどから気にかけていたことを口にした。
「メリル、そのシニョン、なかなかかわいいわよ」
「ホント? よかった。実は、あんまり自信なかったんだ」
 すると、メリルはいかにも照れくさそうな顔を見せた。その表情は、浅黒い肌の色や明るいブルーの瞳とあいまって、独特のチャーミングさを生み出しているようにかなめには思えた。
「瞬に見せたら、『カルタをやるなら、そのほうがいい』とか言われてさ。つまんないよね」
 メリルがぼやくのを聞いて、かなめは苦笑したが、すぐに、
「って、メリル。あんた、カルタやれるの?」
 と、たずね返した。
 メリルは、瞬の義理の妹であるが、外見は明らかに日本人ばなれしているし、そもそも名前がメリルである。梢を相手に、カルタをまともに取れるほどの経験があるとは、かなめにはどうにも想像できなかったのである。
 すると、メリルは何やら難しそうな表情をして、
「まあ、瞬に教えてもらったんだけどさ……」
 ここで口ごもってしまった。
「とにかく、入ってよ。来れば、たぶんわかるから」
「う、うん」
 メリルの態度から漠然とした不安を感じつつ、かなめは家にあがった。蓮も、従うようにあとをついてきた。
 誰が掃除しているのかは知らないが、広い廊下にはちりのひとつも積もっていなかった。ふと蓮のようすを見ると、どうも家の造りを観察しているらしく、ときどき感心したふうに小さくうなずいていた。やがて、かなめたちが中庭に面した縁側のところまでたどりついたとき、
「こっち、こっち」
 少し先を歩いていたメリルが、やや奥まった場所にある部屋の前で立ち止まり、手招きをした。かなめたちが部屋の前までくると、年配の男の人がカルタを読み上げる声がわずかに聞こえてきて、すぐさま気合いのこもった叫び声、そしてタタミのはたかれる音が響きわたった。
「瞬、カナメさんたちが来たよ」
 その直後の静寂を待つようにして、メリルが部屋の中に呼びかけた。中からは、ただ「入ってくれ」という一言だけが返ってきた。
「じゃあ、どうぞ」
 メリルの手でふすまが開かれると、そこは12畳くらいの和室で、その部屋の中央あたりに、瞬と梢とがカルタをはさんで対峙する姿があった。特訓だからであろうか、ふたりともジャージ姿である。
 ふたりのそばには、なにやら真新しいノートパソコンが置かれていて、それにスピーカーがつながれていた。どうやら、このパソコンに札を読み上げるソフトが仕込まれているらしかった。
「よく来てくれた。メリル、お客様にお茶を」
 瞬はかなめたちのほうに向き直り、メリルを台所のほうに行かせた。そして、
「梢、休憩にする」
 と言って、梢のほうにわずかに目をやった。かなめも、それにつられて視線を梢のほうに移し、小さく息を呑んだ。
 梢は、返事もできずに、畳にうずくまっていた。肩で息をする音が、かなめたちにはっきりと伝わってきていた。
「……なかなかのスパルタぶりじゃない」
 皮肉よりは感心の意を多くこめて、かなめは瞬に言った。瞬は、そのあたりの機微をまるっきり無視するように、
「勝つためだ」
 と、ひとことで言い切った。かなめは蓮と顔を見合わせたが、蓮はいまひとつ理解に苦しんでいるように眉根を寄せていた。
 やがて、メリルがお茶とお菓子を運んできた。茶菓子は、御崎家らしく和風にきんつばであった。そこへ、瞬が部屋のすみからテーブルを運んできて、一同そのまわりに座った。ただ、梢だけがひとり遅れて、這いずるようにしてテーブルのところまで近づいてきた。その顔は、うつむいたままであった。
 そのためであろう、お茶を飲みながらも、誰ひとりとして話をはじめようとするものはいなかった。そんなとき、かなめの目がふとメリルと合った。
「……」
 メリルは、視線で瞬と梢のほうを示した。かなめは、それに従ってふたりのようすを見比べた。それだけで、メリルの言わんとするところが理解できたように思えた。
 淡々とお茶をすする瞬。湯呑みを手にしたまま、ずっとうつむいている梢。ふたりの間に、かなめは深い断絶を見出していた。
「……うまくいってないみたいだけど?」
 あえて聞かずとも、梢の調子が悪いことくらい、かなめはきちんと理解していた。この問いは、「このままだと、負けるわよ」という、瞬への警告であった。それに対して、瞬は、
「そう見えるだろうな」
 とくに動じたようすも見せずにこう答えた。まるで、これすらも予定通りと言わんばかりの態度である。
「まあ、あとでこれまでの成果を見せてもらうから」
 と言いながら、かなめは梢のほうを見やった。梢は、肩を落としたままわずかに視線を上げたが、何も答えぬままに顔を伏せてしまった。
 それきり、お茶の時間が終わるまで、5人のあいだに会話は生まれぬままであった。

 先ほどまで、部屋の真ん中に置かれていたテーブルが運び去られたあとに、今は両陣25枚ずつの札が並べられており、それをはさむようにして、梢とメリルが腰を下ろしていた。正座のような姿勢であるが、右足をやや引き、腰を浮かしてかっこうで、それはどことなくスプリンターが号砲を待つようすに似ているようにかなめには思えた。

なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな

 読み手となった瞬が、まず最初の一首を詠み上げた。「これは序歌といって、必ず最初に読むことになっているんです」と、かなめは蓮からのちほど教わった。瞬は、同じ歌の下の句だけを詠み直し、一呼吸おいて、いよいよ一首目を詠みはじめた。
「よもすが……」
「てやいっ!」
 気合いの十分にのった声は、メリルのものであった。メリルは、梢の陣のやや左側に配置されていた札を勢いよく払い取った。対する梢は、ようやく右腕が反応したところであった。
 メリルが札を飛ばしたことによって崩れた配置を整理してから、メリルは自分の陣にある札を1枚梢に渡した。梢は、それを右端のほうに置いた。
「あれは、何をやっているの?」
 かなめは、競技カルタのルールを細かく把握していなかったので、このように何かよくわからないことが起こるたびに、蓮に問いただした。蓮は、それに対して丁寧に解説を加えてくれた。
「あれはですね、相手陣の札を取った場合は、自分の持ち札を1枚相手に送ることができるというルールがあるんです。お手つきをした場合は、相手から1枚もらいます。そうして、自分の持ち札を先になくしたほうが勝ちです」
 さらに、お手つきというのは、詠まれた札のない陣地の取り札に触れた場合を指し、詠まれた陣の札にいくら触れてもお手つきにはならないこともかなめは教えてもらった。
「だから、まとめて札をたくさん飛ばしたりするんですよ」
「そういうことだったんだ」
 とかなめがうなずいたとたん、メリルがそれを実践してみせた。詠まれたのは、先ほどメリルが渡した札であったが、メリルはその列全体を払うようにし、玉突きの要領で目的の札をはじきとばしたのである。
「あれが『札押し』という技術です。札は直に取らなくても、競技線の外にはじき出せば取りになるのです」
 もちろん、直に取ったほうがいいのですが、と蓮はそれに付け加えた。
 その後も、展開はメリル有利に進んだ。梢は、自陣の札を辛うじて拾うていどで、相手陣にはまるで踏み込めないでいた。気がつけば、メリルの残り札はわずかに3枚。対して梢の陣は、いまだに札が3段並んでいる状態であった。そのとき、蓮はかなめにそっと耳打ちをした。
「メリルさんが上手なのは言うまでもありませんが……、梢さんはずいぶん調子が悪いようですね」
 かなめは、具体的な解説を蓮に求めた。メリルはお手つきがけっこう多いとか、梢は手の速さで負けているとか、そういった大雑把なことしかかなめにはわからなかったからである。蓮は、少し考えるようなしぐさを見せてから、ゆっくりと語りはじめた。
「……まず、決まり字に対する反応が遅いです。メリルさんは、逆に早すぎますが、お手つきをしても、その分ちゃんと取り返しています。あと、守る意識が強すぎて、相手にプレッシャーをかけられていません。だから、メリルさんは相手の陣を攻めた上で、自分の陣の札に楽に戻ることができるんです」
「攻める、守るって、どういうこと?」
「決まり字が途中まで同じ歌があります。それをとも札というのですが、そんな札が、両陣に分かれて配置されている場合、先に相手側の札に手を伸ばすのを攻めるといいます。このとき、取りに行った札が読まれた札と違うとわかった場合、あらためて自分側の札を取りに戻らないといけません。メリルさんは、梢さんの札を攻めて、それが外れていたとしても、さらに自分の札を守る余裕があるということです」
 かなめは、蓮の解説に感心した。それと同時に、メリルがどうやってそれほどの技術を習得したのかも気になっていた。いくら瞬に仕込まれているとはいえ、梢を教えながらでは……。
 そこまで考えて、かなめは「まさか」と思った。

「めぐ……」
「はいっ!」

 ちょうどそのとき、メリルが自陣にあった最後の札をはねた。梢陣に残った札は12枚。間違いなく、メリルの圧勝であった。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました……」
 勝負が終わって、ふたりはまず互いに礼をし、続いて詠み手である瞬に礼をした。すると、メリルはいきなり姿勢を崩して、
「疲れた〜」
 と大きく息をついた。見ると、メリルの着ていたTシャツは汗でびっしょりであった。
「……」
 一方の梢は、メリル以上に疲労しているらしく、肩で大きく息をしていた。うつむいたままだったので、表情は読み取れなかったが、確かめる必要もないとかなめは思っていた。
「……想像以上ね」
 とつぶやいた言葉に、かなめはふたつの意味をのせていた。梢のスランプぶりがひとつ。そして、もうひとつは、
「御崎くん」
「どうした」
「メリルに、何をどれだけ仕込んだの?」
 そう、メリルの半端じゃない実力のことであった。それが、メリルひとりで会得したものでないことくらい、考えるまでもない。
 このかなめの詰問に、瞬はさも当然のように答えた。
「時間のあるかぎり、すべてを、だ」
 その言葉を聞いた瞬間、
「……ちょっと、表に出なさい」
「カナメさん!」
 かなめは、瞬の胸ぐらにつかみかかっていた。その手は、すぐさま振りほどかれたが、かなめは引かなかった。
「あたしは、どっちの味方をするわけでもないけど、どっちかが負けるってわかってるのを、放っておくわけにもいかないの。意味が分かるんなら、表に出なさい」
 そして、かなめはふすまを開け、縁側のさらに向こうの、庭のほうに目をやった。雑草はしっかりと刈り取られ、木石が巧みに配置されているすずしげな庭である。その手入れの行き届きっぷりまでもが、今のかなめにはいまいましく思えていた。
「……」
 瞬は、返事もせずにかなめの横を通りすぎ、縁側から直接庭におりていった。そのあとをかなめも追う。縁側の下から瞬がぞうりを取り出すのを見て、かなめもそれにならった。蓮もついてこようとしていたが、かなめが目で制すと、蓮はわずかな笑みとともにうなずいた。
 先を歩いていた瞬は、振り向くこともせず、庭のすみのほうへ向かっていた。かなめがそのあとを追うと、やがて瞬は小さな池のあるところで立ち止まった。もといた部屋は、ここからは見えなかった。
「……では、話を聞こう」
 そう言って、瞬はようやくかなめのほうに振り返った。薄闇の中に見える瞬の表情は、多少なりとも緊張しているようにかなめには見えた。
「わざわざ、こんなところまで足を運んだということは、どういう話なのかわかってるということよね」
 かなめは、まずこのように前置きした。瞬は何の反応も返さなかったが、かなめはそれを肯定と解釈し、一歩踏み出して問い詰めた。
「あんた、コズエちゃんのことほっといて、どうするつもり?」
 瞬のやろうとしていることは、実のところ、かなめにはおおよそ見当がついていた。そして、瞬はまさしくその通りの答えを返してきた。
「メリルを、仮想鐘鳴有羽として、鍛え上げていた」
「あんたが、自分で相手すれば、それですむことでしょ!」
 そう来たら、こう返すつもりだったセリフをかなめは言い放った。すると、瞬はさも当然のように答えた。
「それでは、練習にならんだろう」
「!」
「最初何度かとってはみたがな。いかんせん経験に差がありすぎて、まったく勝負にならなかった。そこで、かわりにメリルに練習台になってもらうことにしたのだ」
「……」
「さすがに毎日鍛えただけあって、メリルは適当な実力を身につけてくれた。今のメリルに勝てるようなら、梢は……」
「思い上がってるんじゃないわよ!」
 かなめは、瞬に平手を飛ばしていた。その手は、瞬にしっかりとつかまれたが、そこからわずかな震えが伝わってきたようにかなめは感じた。つかまれた手を振りほどいて、かなめは続けた。
「さっきの練習、見てたんでしょ! あんな状態で、勝てるわけないじゃない!」
「……勝てるようになる」
「ならないわね」
 瞬の、確信めいた言葉を、かなめははっきりと打ち消した。一瞬、庭に静寂が訪れた。かなめは、つとめて冷静に言葉を継いだ。
「御崎くんが考えていることは、私にはわかったわ。そういうやり方もあるっていうことも、理解できる。でも」
「……」
「コズエちゃんに、それがわかると思う?」
「……思っている」
 瞬の言葉には、若干の躊躇があった。かなめは、そこに自分の優位を見出し、さらに追求した。
「根拠はなによ」
「私たちは、恋人同士だからだ」
 今度は、瞬は即答した。それだけで十分と言わんばかりの答えであった。ここで、かなめは初めから言いたかったことを口にした。
「その恋人をほったらかしにして、義妹のほうをかまうわけ?」
 瞬自身がどう思っていようが、これが客観的事実である。それを理解できない瞬に、かなめはいらだちを覚えていたのである。そして、その理由を瞬は語ってくれた。
「だが、私たちは恋人同士だぞ? それくらい理解できないか?」
「できないわよ!」
 反射的に、かなめは断言していた。そのタイミングに奇襲効果のようなものがあったのかどうか、瞬がわずかに後ずさりした。呼応してかなめは一歩踏み込み、さらにまくしたてた。
「恋人同士って、何を指していうわけ? 今日から俺たちは恋人だって言えば、それで完璧だとでも思ってるの?」
「……」
「そんな言葉や形式が重要なんじゃないわよ。問題は、恋人だとあんたが思ってる人に、何ができるかでしょう」
「だから、最善を尽くした」
「違うわね。あんたが最善を尽くしたというのは、勝つことに対してよ。あの子自身に対してじゃない」
「……そう、だろうか」
 そう言って、瞬はわずかに首をかしげた。瞬にしては珍しいといえるそのしぐさに、かなめは安堵感を覚えていた。どことなく、宗介をたしなめているときの雰囲気に似ていたからである。
「……コズエちゃんは、超能力者じゃないわ。あんただって、そう。気持ちっていうのは、言葉や態度で示さないとわかんないのよ。せめて、あんたの気持ちを伝えておけば、コズエちゃんだって、もう少し安心して練習できたはずよ」
 だから、今からでも梢のところにいって、謝ってきなさい。かなめは、そう言うつもりだった。だから、
「わかった」
 と瞬がうなずいたとき、瞬がもといた部屋と違う方角に向き直った理由がわからなかった。
「ちょっと、あんた、どこ行く気?」
 かなめの呼びかけに、瞬は首だけ振りかえって、
「私は、今から行かねばならないところがある。もはや一刻も惜しい。食事はまたの機会になるが、許せ」
 そう答えて、駆け足の態勢に入った。
「ちょっと、あんたアタシの話わかってる?」
 かなめがそう言ったときには、すでに瞬は数歩駆け出していた。が、瞬の姿は、驚くほどに小さくなっていた。その姿が、今度は身体ごと振り向いて、
「千鳥、梢に伝言を頼む」
 という言葉がかなめの耳に届いた。そして、かなめはあっという間に姿を消してしまった瞬からの伝言を、部屋で待っていた梢に確かに届けた。

『私を信じて待っていてくれ』

「だってさ」
 その言葉を伝えたかなめ自身は、正直なところ半信半疑であった。しかし、梢には、瞬のことを信じてほしいという気持ちがあった。そうすれば、かなめも瞬のことを信じられるような気がしたのである。
 はたして、先ほどまで力ない表情で座り込んでいた梢は、
「……メリル、パソコン、用意して」
 そう言いながら、部屋に散乱する札を拾い集めはじめた。その口許は、わずかにほころんでいるように見えた。
「……うん!」
 メリルは、かなめがこの日見たなかで、一番いい笑顔で応えた。そして、部屋のすみに置いてあったノートパソコンをもってきて、再び起動させた。
「梢、だいじょうぶ?」
 かなめは、取り札を準備している梢に、そっと話しかけた。梢は、つきものが落ちたかのように清々しい表情で、しっかりと答えた。
「瞬の気持ちがわかったから、もう平気です」
「そう」
 とうなずきながら、かなめは梢たちのことを少しうらやんでいた。
 「信じてくれ」というただひとことを、疑問もなく受け入れられる。ときには、さきほどのようにすれ違うこともあるけれど、それはふたりの絆の強さの裏返しなのだ。
「今度は、ユウの尻を叩いてやらないとね」
「なにか言いました? かなめさん」
 梢の問いかけに、かなめはあいまいに笑い、「がんばって」の言葉を残して御崎家をあとにしたのである。

「……と思ってきたんだけど」
 梢の練習風景を視察した翌日、かなめはやはり夕方に鐘鳴家を訪れていた。
 カルタの稽古は、鐘鳴家の一角にある[豪槌流剣術]の道場で行われていた。
 道場の中央には、板の間の上に真新しい畳が6枚敷きつめられ、そこでふたりの女性が今まさにカルタを取り合っているところである。ひとりは、もちろん鐘鳴有羽。もうひとりは、有羽ほどではないがやはり小柄な女性。有羽の姉、にも見えなくはない母親、鐘鳴曖である。ふたりとも、Tシャツの背中を汗みずくにしながら、すでに残り少なくなった取り札に向き合っている。
「こころにも――」
 畳の外に座布団を敷いて正座している長身の男性、鐘鳴笈が、快く耳に残るやわらかい声で札を詠みあげた。それに合わせて、有羽と曖は同じ札に手を伸ばした。
「はあっ!」
 掛け声とともにはじきとばされたのは、有羽の陣地の右隅に置かれた、最後の札であった。ふたりとも同じ向きに手を払ったので、どちらが札を取ったのか、かなめには判別できなかったが、
「有羽が早い」
 かなめの隣に座っていた少年――鐘鳴江笊には、双子の妹の手が、先に札に触れていたところが見えていたようであった。それを聞くと、母は微笑み、娘は安堵の息をついて、
「ありがとうございました」
 互いに礼をし、さらに詠み手である笈にも一礼した。
「あ、ちょうど終わったところみたいだね。お茶もってきたし、休憩しようか」
 とそのとき、明るい声をあげて道場に入ってきた丸めがねの少女は、鐘鳴家に居候する実河梨津である。手にしているお盆には、お茶のほかにせんべいが用意されていた。それを取り囲むようにして、一同は畳にあがって車座になった。
「……それにしても、ユウがこんなにすごいとは思わなかったわ」
 まずはお茶を一杯もらってから、かなめは率直な感想を口にした。有羽は、湯呑みを手にしたまま口ごもっていた。かわりに答えたのは、有羽の隣に座っていた曖であった。
「そりゃあ、あたしの娘だからね」
 いかにも自信に満ちあふれたセリフであったが、かなめにはその根拠がさっぱりわからなかった。それを見透かしたかのように、笈のフォローが入る。
「母は、カルタの選手だったのだよ」
 はあ、とかなめが感心すると、曖は「今でもそうよ」と訂正した。
「まあ、この年になると『カルタ小町』の二つ名も似合わないけどね」
 そう言って、ウインクをしてみせた曖のようすは、かなめから見てもずいぶんと愛らしかったのであるが、「カルタ小町」という表現からは、彼女に刻まれた年輪の数を感じざるをえなかった。むろん、そのことは口には出さない。梨津などはさらに上手で、
「おば様なら、まだまだ『天才カルタ少女曖ちゃん』で通りますよ!」
 などといったことをさらりと言ってみせた。もっとも、これには曖も苦笑するのみであったが。
「……それで、実際のところ、ユウはどれくらい強いんです?」
 かなめは、やや和んだ空気を引き締めるようにして曖にたずねた。この日は、蓮が同行していなかったので、おおまかな勝負の流れくらいしか理解できなかったのである。曖は、口許に手をやり、考えるようなしぐさを見せてから、簡潔に答えた。
「あたしよりは、弱い」
「それではダメなんじゃ?」
 かなめは落胆したが、曖は自信ありげに続けた。
「でも、あたしに勝てるからねえ。4回に1回は」
 有羽をほめているのか、単なる自慢なのかよくわからない口ぶりであったが、笈が何もつっこまないところを見ると、どうやらそれは誇ってもいいことのようであった。
「それでも、なんか自信なさそうよねえ」
 と、かなめは有羽を見やった。有羽は、肩をすくめて小さくなりながら、赤いえびせんべいをかじっていたが、視線に気づくと、
「だ、だって、4回に3回は負けてるってことだから」
 とたんにあたふたとなって、ただでさえ小さい体をさらに縮こまらせてしまった。
「あいかわらずのネガティブっぷりねえ」
「ご、ごめんなさい」
「……」
 かなめは、もう一度「あいかわらず」と言いそうになって、その言葉をのどの奥に引っ込めた。
「まあ、有羽の場合は、勝つのにまだまだ展開の助けを借りている部分があるからな。そのあたりを克服しないといけない」
 そのとき、おもむろに口を開いたのは、ひたすらせんべいを食べ続けていたように見えた江笊であった。その隣では、梨津が江笊の湯呑みにお茶を注ぎ足していた。
「あんた、そんなことわかるの?」
「ずっと見てれば、イヤでもわかる」
「案外ヒマなのねえ」
「ほうっておいてくれ」
 江笊は、かなめから目をそらし湯呑みに手をやった。が、新たにお茶が注がれていることに気づかなかったらしく、手にするなり「あちっ!」と叫び、湯呑みを転ばしてしまった。
「ご、ごめん、江笊!」
 梨津が、あわてたそぶりで江笊の手を取る。江笊は、その手を軽く振りほどいて「何ともない」と答えた。そして、用意されていたふきんで後始末をはじめようとしたが、それは梨津がひったくってしまった。
「ここはわたしがやっとくから、話の続き」
「あ、ああ……。何の話だったか」
 江笊は、いかにも不自然な咳払いをしてから、かなめに向き直った。それについては指摘せずに、かなめは改めて問い直した。
「展開がどうのこうのっていう話よ」
「そうだったな。つまり、有羽は得意な札と苦手な札があって、得意な札が早目に出たときには勝てるということだ」
 かなめはちらりと曖たちのようそをうかがったが、年長者ふたりは「けっこうわかってるじゃない」といった表情でうなずいていた。
「とくに、あのときはすごかった」
「あのときって、なに?」
 本人にそのような意図はなかったであろうが、かなめには江笊の「あのとき」という言い方がひどくじれったく聞こえた。江笊は、なおも同じ調子で続ける。
「あれは、おとといのことだ。あの勝負で、有羽はすさまじい潜在能力を発揮した……」
「だから、具体的に話しなさいってば!」
「20枚差だ」
「は?」
 今度は、あまりに唐突であった。2、3秒かけて、かなめは江笊の言わんとすることを理解したが、そのときにはすでに江笊の解説が入っていた。
「有羽がひたすら札を抜き続けて、ついた枚数差が20枚だ。母さんでも、有羽がカルタに慣れたあとは、ふたけた差をつけて勝ってない」
 百人一首は、各々25枚ずつ札を持って勝負する。単純に考えると、有羽は相手の5倍のペースで札をとったことになる。
「それが、展開に恵まれたってやつ?」
「そうだ。あのときは、有羽が一番得意な札が最初に出たんだ」
「なにそれ?」
 とたずねながら、かなめは有羽の身体もぴくりと反応したことに気づいていた。手をもじもじとさせて、落ち着きがない。江笊は、そんなことはおかまいなしといったようすで、かなめの問いに答えた。
「『しのぶれど』ではじまる札だ。俺は、有羽がこの札を取り逃したところを見たことがない」
「……!」
 かなめのみならず、江笊をのぞく全員の視線が有羽に集まる。有羽はすでにうつむいてしまっていたが、赤く染まった耳がすべてを物語っていた。
 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
 今の有羽は、まるっきりこの歌のままであった。歌の通りに物を問うような野暮な人間はさすがにいなかったが、
「有羽にとっては、よほど覚えやすい歌なんだろう。本番でも、いい場面でその札が取れればいいな」
「う、うん。そうだね……」
 空気そのものが読めていない人間は、ひとりいた。

 このように、しばらく歓談を続けたのち、有羽の特訓が再開された。今度は、笈が練習台となった。曖によると「ちっちゃいときから付き合ってくれてたから、あたしといい勝負できるわよ」ということであった。しかし、
「あふこ……」
「はいっ!」
 このときの有羽は、見るからに絶好調であった。同じタイミングで取りにいった札は、ことごとく有羽の取りになっていたし、お手つきなどはまったくと言っていいほどおかさなかった。
 そして、有羽の2連勝で迎えた3戦目。有羽の持ち札はあと1枚で、笈は6枚札を残している。ここで詠まれた札が、
「し……」
「はあっ!」
 有羽の得意札「しのぶれど」であった。笈は、自陣の右隅に配置された札が畳からはじきとばされるまで、身動き一つとることができなかった。
「ちょ、ちょっと。今、ユウって、詠まれる前に反応してなかった?」
 礼を終えたばかりの有羽たちに、かなめは驚きを隠さずにたずねる。有羽は、なんでもないような表情で、
「え、ちゃんと聞いてから取りにいきましたよ?」
 と答えた。有羽の性格から判断して、ハッタリの類とはかなめには思えなかった。
「……ま、恐るべき集中力ってとこね」
「どういうことです?」
 かなめの疑問を察したらしく、曖が解説をはじめてくれた。
「あの子、『しのぶれど』の『し』の字の、さらに頭の子音だけ聞いて動いたのよ」
「そんなこと、できるんですか?」
「できるわね」
 曖は、きっぱりと断言してみせる。
「笈も、『しのぶれど』の札がすでに『し』で取れることはわかっていたから、そこまで聞いてたら、ちゃんと取れていたはずよ。だって、取り札は笈の手元にあって、有羽からは一番遠いところにあったんだもの」
「ふわあ……」
 かなめは、感嘆の息をもらすほかなかった。よもや、有羽がこれほどまでにカルタの腕をあげていようなどとは、想像もしていなかったのである。
「なんか、ユウが負けるような気がしなくなってきたんだけど」
 だから、こんな言葉が口をついて出たのであるが、
「それは、どうかしらね」
 曖は、首を縦には振らなかった。かなめがその言葉の意味を問い返そうとしたとき、道場にチャイムの音が鳴り渡った。
「ほーら、ちょうどいいところに来たわ」
 インターホンをとりに立ち上がったのは、梨津であった。ひとことふたこと話してから、梨津は小走りに戻って来て、
「さあ、試練のときだね」
 と言ってにやりと笑った。その言葉に呼応するように、有羽は握り拳を作り、大きくうなずいた。
 その瞬間、緊迫した空気が道場を支配したのをかなめは感じた。梨津の言っている試練とは、はたして一体? と思ったところで、かなめは重要な人物がこの場から欠けていたことを思い出した。
「突撃、鐘鳴家の晩御飯!」
 その人物は、道場の扉を開けて挨拶するなり、意味不明なことを言い出した。先ほど道場に満ちみちた重い空気を、いっぺんに吹き飛ばす陽気な笑顔。無地の白いTシャツに、膝頭が薄くなったジーンズ姿で現れたのは、もちろん小百合葉兵衛であった。
「なんなのよ、その某テレビ番組みたいなツカミは」
「おお、千鳥。来てたのか」
 そう言って、兵衛はまっすぐかなめのほうに向かってきた。有羽はといえば、兵衛にかまうようすもなく、畳の上で素振りを繰り返している。兵衛は、そんな有羽の姿を確かめ、わずかに笑みをもらしつつ、かなめの問いに答えた。
「いやさあ、有羽ちゃんにカルタで勝ったら、曖さんの手料理を食べさせてもらえる約束になってるんだよ」
「昨日は私が作ると言ったのだが、拒否された」
 と、口を挟んだのは笈である。鐘鳴家の家事担当は、実は長兄の彼であるということを、かなめはこのとき梨津から聞かされた。
「そこはそれ、きれいなお姉さんに作ってもらうほうがうれしいということで」
「ちなみに、今日のメインディッシュは麻婆茄子だからね〜」
 兵衛の言葉がまんざらでもなかったのだろう、曖は楽しげな表情でひらひらと手をふった。そして「ぼちぼち仕込みに行くから」と言って、道場から去っていった。梨津も、食事の支度を手伝うつもりなのであろう、「それじゃあ」とひとこと残して、曖のあとを追った。
 そんなふたりの後ろ姿を見送ってから兵衛は、
「よし、今日もがんばるとすっか!」
 と、気合いをこめるように自分の頬を両手で打った。
「晩御飯のためにがんばるっていうのも、何だかね……」
 兵衛らしいというか、何というか。そう思って、呆れ半ばにかなめが口にした言葉に、兵衛は小さく、それでも確かにこう返した。
「それだけってわけでもないんだけどさ」
 
「みせば……」
「はあっ!」
 有羽と兵衛の一本勝負は、ようやく中盤にさしかかったところであった。
 有羽は、これまでに数本の勝負をこなしたあとであったにもかかわらず、切れのよい動きを披露していた。一方の兵衛は、自陣の札を守るのに手いっぱいで、なかなか有羽の陣の札を取りにいけずにいる。いまも、有羽が兵衛陣の最前列にある札を突いて取ったところであった。
「確かに、想像してたよりはうまいけど、晩御飯にありつけるほどではないんじゃない?」
 だから、かなめは隣で観戦している江笊にこう問いかけたのであるが、
「ここまでは、いつも通りなんだ」
 江笊からは、意外なほど厳しい口調の言葉が返ってきた。
「それって、どういうこと?」
「ここからもいつも通りだと、有羽は勝てないってことだ」
 そう答えて、江笊は視線を勝負の舞台に移した。
 もうじき、勝負が動く。
 江笊のようすから、かなめはそのことを悟っていた。兵衛が、何かを仕掛けてくるのだ。そのタイミングを見逃すまいと、かなめは兵衛の挙動に神経を集中した。
 空札――取り札として配置されていない、50枚の余り札のことである――が3枚続いて、続く「むらさめの」の札を有羽がしっかりと守った。兵衛も攻めにいったが、「む」は「むすめふさほせ」で知られる1字決まりの札である。簡単に取らせてもらえるわけはない。
 兵衛が強引に払いに行って、散らばらせてしまった取り札を、有羽は改めて配置した。すでに持ち札を一桁にまで減らしている有羽の陣は、ずいぶんとすっきりしている。対照的に、兵衛の陣は妙にいびつな配置になっていた。
 そして、ふたりが取りの構えに入ったのを確かめてから、笈が次の歌を詠みはじめた。
「きりたちのぼる あきのゆふぐれ――みか……」
「であっ!」
「!」
 一方的に動いたのは、兵衛のほうだった。払い取られたのは、有羽陣の中段左の札。笈が上の句の残りの部分を詠むのを聞いてから、兵衛はガッツポーズをとり、自陣の札を1枚送った。そのようすに、江笊がまたしても意味深につぶやいた。
「はじまったな」
「なにが?」
 そのように問いかけはしたものの、かなめはすでに気づいていた。
「小百合葉が、動いた」
「らしいわね」
 そう、先ほどの札に対する兵衛の反応は、かなめから見ても早すぎたのである。それについて、江笊の補足が入る
「『みか』ではじまる歌は、『みかの』と『みかき』の2首ある。あいつは、『みか』と詠まれたら、お手つき覚悟で飛び込むはらを決めてたんだ」
「あんた、カルタの札、覚えてるの?」
「さっき言った通りだ。ずっと見てれば、勝手に頭に入る」
「門前の小僧うんぬん、ってやつね。で、今回はその二択が当たったわけか」
「そういうことだな。あいつは、こうやって勝負を自分のペースに持ち込む。あとは、まあ、見ていればいい」
 江笊は、それだけ言って視線を有羽たちのほうに戻してしまった。江笊の横顔には、どこかしらあきらめの色が浮かんでいるように見えた。
「――なにし」
「はいっ!」
 次の札には、ふたりともが反応したが、兵衛陣の最前列に配置されたその札は、兵衛のほうへと突き出されていた。
「取り返した!」
「まずいな」
「え?」
 舌打ちをともなった江笊のつぶやきは、現実のものとなっていた。札を送っているのは、またしても兵衛のほうだったのである。その札を、有羽は唇をかみ締めながら受け取っていた。
「今度は、どういうこと?」
「有羽のお手つきだ」
「それはわかってるけど、なんでそんなことに」
「序盤に、『なにはえ』の歌が出た。有羽は『なに』の音を聞いて、しかも小百合葉の手が動いていたものだから、『なにはが』の札が取れると思い込んだんだ。でも、実際には『なにし』が残っていた」
 かなめは、背筋がうすら寒くなるのを感じた。勝負の行方が、一瞬にして兵衛の掌に握りこまれてしまったことを肌で知ってしまったのである。
 その後の展開は、一方的であった。有羽が強引に攻めると、自陣を守りきれず、逆に兵衛に札を抜かれてしまう。その次は、決まり字が短くなった札を失念して、身動きも取れぬまま自陣下段の札を取られた。そうこうしているうちに、有羽は自陣を守る一方になっていき、
「……あさぼらけあ」
「よっ」
 最後は、互いの陣に別れて配置されていた「あさぼらけ」の片割れを、兵衛が楽々守り切って決着した。有羽の持ち札は、兵衛が仕掛けてからは1枚も減らないままであった。
「よっ、千鳥。見てたか、俺様の実力を」
 礼をすませ、カルタを片付けてから、兵衛はかなめに意気揚々とブイサインをむけた。額に汗をかき、呼吸もやや荒立っていたとはいえ、その笑顔からはかなりの余裕ぶりを感じることができた。
「……やるじゃない」
 そう答えてから、かなめは自分の口調がいかにも認めたくはないがといわんばかりであることに気づいた。が、兵衛は気にするようすもなく、
「ま、相手が強ければ強いほど燃える男だかんね」
 と、有羽のほうを振り返った。有羽は、肩を落として畳の上に座り込んでいたが、かなめたちの視線が自分に集まっているのに気づくと、あたふたとあたりを見回してから、
「私?」とばかりに自分を指差し、首をかしげた。
「そうそう。そんなところで座ってないでさ、こっちで話しよう」
 即座に答えたのは兵衛だった。かなめはというと、「有羽」と「強い」というイメージが合致しなくて、声をかけるのを躊躇してしまっていた。ちょうど顔を見合わせた江笊も、どうやら同じだったらしい。
 有羽は、正座の状態のまま、ちょこちょことかなめたちのいる輪の中へやってきた。その間に、笈は「先に待っている」と言って、道場をあとにしていた。
「……それで、さっきのなんだけど」
 有羽が自分の隣に腰を落ち着けたのを見て、かなめは兵衛にあらためて問い直した。
「ん、何のこと?」
「強い相手がどうのってはなし」
 兵衛のリアクションはずいぶんととぼけたものだったので、かなめは若干の不安を覚えた。が、
「ああ、あれね。マジだよ、うん」
「ええっ!」
 と声をあげたのは、かなめではなく、有羽であった。
「ちょ、ちょっと。いきなり叫ぶから、びっくりしたじゃないの」
「あ、ごめんなさい……」
 有羽は、決まり悪そうに首を垂れた。見ると、うなじのところまで真っ赤になっている。
「……続けてくれ」
 そのまま何も言えないでいる妹にかわって、江笊が兵衛に話をうながした。兵衛は、うつむいたままの有羽に語りかけるように話しはじめた。
「有羽ちゃんは、結果として負けてるから信じられないのかもしれないけど、負けたからって、弱いってもんでもないさ」
 有羽は、何も答えない。兵衛のセリフが、単なるなぐさめにしか聞こえなかったのかも、とかなめは思った。
 しかし、
「だいたい、俺だってこないだは瞬に負けてるところばっかり有羽ちゃんに見せちまった」
「……!」
 この言葉は、有羽の琴線に触れたものと見えた。はじかれるように顔を上げた有羽に、兵衛はまっすぐな視線を向けて言葉を継いだ。
「それでも、俺は自分が弱いだなんて思わない。そう思ったら、本当に弱い力しか出せないんだ。それよりは、たとえ過信と言われようと、俺は自分を信じる」
「……小百合葉くん」
 催眠術にでもかけられたかのように呆けた声をあげる有羽。兵衛は、そんな有羽に駄目をおした。
「なんなら、この俺を信じてくれたっていい」
 ……それじゃあ、まるで口説き文句じゃないの。
 と、かなめは思ったのだが、兵衛の面差しはそんな茶々を許さぬほどに真摯であった。
 有羽は、その雰囲気に呑みこまれてしまうのか。そんな、微妙な不安感を抱きつつ、かなめは有羽の言葉を待った。はたして、有羽は、
「ありがとうございます」
 拍子抜けさせられるほどにあっさりした口調で答えて、さらに気負いもなくきっぱりと続けた。
「でも、私は私を信じることにします」
 
「……やるじゃないの」
 鐘鳴家で夕食をいただいた帰り道、かなめは隣を行く兵衛に鼻を鳴らしながら言った。
「ん、カルタのことか?」
 と、かなめのほうを振り向いた兵衛の顔が、薄暗い街灯に照らされる。何のてらいもない、自然な表情であった。
「それもあるけど、ほら、アレよ、アレ」
「アレじゃ、わかんねえよ」
 からかうように兵衛が笑う。他意はないものとわかっていたが、かなめは少しだけむっとするものを感じた。
「『俺を信じろ』とか、かっこいいこと言っちゃってくれたじゃないのよ」
 だから、かなめは吐き捨てるようにそう言い放ってやった。すると兵衛は、
「ああ、あれね」
 先ほどまでとはうってかわった低い声で、それだけ答えた。直後、一台通り過ぎていった車のエンジン音が、やけに大きく響いたようにかなめには感じられた。兵衛は、かなめに背中を向けたままで、ぽそりとつぶやいた。
「……あれは、賭けみたいなもんさ」
「?」
 「賭け」という言葉の意味を、かなめはつかみかねていたのだが、間もなく兵衛がその疑問を埋めた。
「あそこで、彼女がああいうふうに答えてくれるって、信じてたんだ。そしたら、俺ももうちょっと頑張れるような気がしてな」
「あんた、何をがんばるの」
 つまらないことを聞いた、とかなめは思った。それでも、兵衛は軽く振りかえって、小さな笑みを返してくれた。
 かなめは、誰でも悩みのひとつやふたつくらいあるのだという、ごく当たり前の事実をあらためて思い返していた。むしろ、高い次元にいるものこそ、自分の実力が見えすぎてしまって、悩みが深まるのかもしれないとも感じた。
 ユウや、コズエちゃんも、カルタに関してはその域に達してしまっているのだろうか?
 そうであるなら、もはや自分などは助言できる立場にないのではないだろうか?
 そこまで考えて、かなめはあることに思い当たった。
「そうだ、兵衛。あんた、御崎くんがどこいったか知らない?」
 あの日、瞬は着の身着のまま出かけていって、学校にも姿を見せていなかった。梢にとって大切なことであることは想像できていたので、心配はしていなかったが、好奇心のほうがわき起こってきたのである。はたして兵衛は、
「ん? あいつならぼちぼち戻って来てるんじゃない?」
 こともなげに、なにやら知ったようなことを言ってみせた。
「ていうと、あんた御崎くんの行方に心当たりがあったってわけ?」
「つうか、そこ」
 いきなり、兵衛がかなめの背後を指差す。つられて、かなめが振り向くと、
「うわあっ!」
 出かけていったときと同じ、しかし街灯のもとで見ても明らかに薄汚れている黒ずくめの服を着た、御崎瞬が気配もなくかなめの真後ろを歩いていたのである。
「あ、あんたねえ! そばにいるんなら、声くらいかけなさいよ!」
「今、そうしようと思っていたところだった」
 瞬の口調から悪気は感じられなかったし、実際その通りなのであろうが、もう少し自分がどう見えているかを考えてもらいたいものだとかなめは思った。
「たまには、普通に登場してもらいたいもんだわね……」
「これでも、殺気は抑えたつもりだったが」
「抑えすぎてて、何も感じなかったのよ!」
「なかなか難しいな」
 と、真剣に考え込む瞬の姿に、かなめはそれ以上つっこむ気力を失ってしまった。
「で、瞬。例のものは手に入ったか?」
 そこへ割り込んできたのは兵衛だった。その言い回しから、瞬が姿を消した理由を知っていたことをかなめは察した。瞬は、
「ああ」
 と淡々とこたえ、一呼吸おいてから
「一日半待たされたが」
 と同じ口調で付け加えた。それを聞いた兵衛が、かなめの隣で苦笑している。やはり、事情を知っているのである。
「それで、『例のもの』ってのは何よ」
 かなめが瞬に促すと、瞬は「ああ」とうなずいて、懐から何か小さな物を取り出して、手のひらにのせてみせた。
「……軟膏?」
 プラスチックのケースに封印されていたそれを見て、かなめは市販されている薬を思い浮かべた。そして、それが正解であることを示すように、瞬がふたを軽くひねって開けた。
「うわっ、すごいわね」
 いきなり鼻腔から胃のあたりまでを刺激してくる臭いに、かなめは顔をそむけた。それでも、ケースの中に濃緑色の塗り薬らしいものが入っていることが確認できた。
「おお、相変わらずの仕上がり」
 そのような臭いなどおかまいなしに、兵衛はケースをのぞきこんだ。かなめは、どちらにとでもなく訊ねてみることにした。
「結局のところ、それは何よ」
 すると、ふたりは同調しているかのようなタイミングでかなめのほうに向き直り、
「薬」
「薬だ」
「そんなことはわかっとるわい!」
 同時に口を開いて、同じように間抜けな答えを返してくれた。
「アタシが聞いてるのは、それを何に使うかということであって……」
「そんなもの、梢のために決まっているだろう」
「へ?」
 聞かされた瞬間は意外に思った。しかし、落ち着いて考えてみると、ごく当たり前のことだったのである。あの状況で、梢を放っておいてどこかに行くとすれば、それはやはり梢のために違いなかった。
「前に、えらい薬師を知ってるって話を、瞬にしたことがあるんだ。その人のことを、瞬が教えてくれって、この間たずねてきた。わけは聞かなかったけど、どうせそんなところだろうとは思っていた」
 兵衛が、さらにそのときの事情を補完してくれた。そして、その先を譲るようにして、瞬に水を向ける。
「……カルタをとっていると、よく突き指をする。梢も何度かやっていたが、こないだ、ただの突き指とは思えないようなケガをした。それ以来、動きがおかしくなったのだから、間違いない。千鳥も見ただろう」
 そう言われて、かなめは練習を見学したときのことを思い出した。確かに、梢の動きはメリルと比べて切れを欠いていた。
「それでも、梢が何も言わないものだから、たいしたことはないのだろうと思っていた」
「それは……」
 かなめは、そのとき梢が押し込めていたであろう思いを告げてやろうと思っていた。しかし、
「そうではなかったのだ。梢は、きっと私に気づいてもらいたかったのだろうと思う。私は、互いの気持ちは言わなくてもわかるものだと信じていた。それと同じことを梢も信じていて、私を心の中で呼んでいたのだ」
 そんな説明は、このときの瞬には釈迦に説法であるらしかった。そして、瞬は最後に、
「俺は、まだまだ未熟だった。それをわからせてくれたのは、千鳥、君だ。ありがとう」
 頭を深々と下げ、見事なまでに礼にかなっているお辞儀をしてくれた。かなめは、瞬にたずねた。
「で、その薬があれば、コズエちゃんの怪我はどうなるの?」
「一晩ていど安静にしていれば、治るだろう。医者にかかるより、よっぽど早い」
 と言って面をおこした瞬に、
「なら、さっさと帰りなさいよ。勝負に勝つんでしょう?」
 クスリと笑って、手で急ぐように促した。
「すまん」
 そう答えたあとの瞬は素早かった。軽く片手を上げたのが見えたかと思うと、次の瞬間にはその姿が闇の中に溶けてしまっていたのである。
「……なんていうか、人外よねえ」
 そんなかなめのつぶやきに、兵衛は笑うのみであった。そのかわりに、何かを叩く乾いた音。
「よしっ! こっちも気合い入れてくか!」
 それは、兵衛が両の手で頬を打った響きであった。そんな兵衛の横顔が、ずいぶん頼もしいものであるようにかなめには見えた。
「勝負するのは、あんたらじゃないんだけどね」
 かなめは、呆れつつそう言ったのであるが、瞬と兵衛の存在は、梢と有羽の戦いを間違いなく意義あるものにするという確信が、このときかなめの中に生まれていた。
 カルタ勝負の日は、3日後に迫っていた。



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