ORACULAR‐WINGS■
 ■朱と蒼のフォトメモリー■    <SCENE1:んー。夏、っぽい。>


 六月。六月といえばもう夏真っ盛りな気候が、全国民を将棋倒しにさせても不思議ではない時期であり、雨がじゃんじゃん降りうっとうしい湿気を撒き散らす時期であり、便所に閉じこもって一生懸命気張りながらふと見上げた白い壁のカレンダーに、日曜日以外の休日が存在しないことに気付かされ、何もかもが億劫になる時期でもある。そのうち誰かが本当に狂ってしまって、「湿気よ死ね、六月FUCK」とかのたまって、国会議事堂に爆竹でも仕掛けるのではないだろうか。近頃は本気でそのことが心配になってきた。今の日本には居てもおかしくない。そんな人間、居てもおかしくない。
 そんなことを終わらない計算式のように脳裏に羅列しながら、片手にどっさり菓子の詰まったコンビニ袋をぶら下げて、サンダルをぺたぺた鳴らしながら、昼間よりは涼しい藍色の夜道をタンクトップ姿の椎名千秋は歩いていた。
 店でねばり過ぎた。原因は些細な問題だった。すなわち、最後に買い物カゴに放り込む品物は、チョコレートにするか、スナック菓子にするかという二者択一。これが学校の試験だとヤマカン頼りの実に単純な問題のはずなのだが、これが日常にふと立ち塞ったとなると、壮絶なジレンマを相手に死闘を繰り広げなければならない。
 そして悩むこと二時間弱。それに店内の時計を見上げ初めて気付いてビビった千秋は、コンビニの一角に立ち塞がった何者かの陰湿かつ凶悪な『次の状況に置かれた場合の正しい対処を、下のア・イから選びなさい』という問いに、「どちらも当てはまるでしょう」という解答をレジの店員に臆面もなく提出した。それに店員は無表情に機械で商品の裏のバーコードを嘗め、レジを打った。合計は千円をオーバーしていた。千五十円払った。釣りは一円だった。もらったレシートは受け取った買い物袋に無造作に突っ込んだ。店を出た。
 すると、家を出たときは確かに、赤い絵の具を川に流したようだった色の空が、今は星も愛想もないただの黒い空となり果てていた。ぽつんぽつんと道に並ぶ街灯には、すでに白い光が灯っている。
 ぺたぺたと、サンダルが鳴っている。コンビニ袋が、がさがさと鳴っている。
 音はそれだけだった。遠くからは車のクラクションとエンジンの音と、あと変な人の変な奇声が聞こえてくるが、それは所詮遠くの事象であり、自分と異なる時空での出来事に等しかった。
 はっきり言って、心細かった。
 勝手に自分の自転車に乗って出勤していった姉を、恨めしく思う。おかげで今朝は通学に使う駅まで徒歩だったし、今だってコンビニから自宅まで徒歩だ。道の途中で見知らぬ変態オヤジに捕まってレイプされたら、絶対姉のせいだ。
 そう考えた途端、背筋がぞくりとした。
 歩きながら、一応振り向く。誰もいない。そばに電柱があるが、今の視界の角度だと、誰かが隠れてたとしても一発で分かる。あとは道の両脇にブロック塀に囲まれた一軒家が建ち並ぶばかりで、人一人が隠れる場所も余裕もない。だいいち、ここだと襲われたりしようものなら、大声を出せばそれでおしまいである。近くの誰かが出てくるなり、すぐに警察に通報してくれるなりしてくれるだろう。千秋は、自分にそう言い聞かせた。
 だけど、心細かった。
 道は、いつの間にか横に広がっていた。両脇に並んでいた住宅が、遠慮するようにお互いに距離を置き、間の道幅を開いている。路地の数も増えてきていた。もちろんそんなことはこの辺りの地理を知り尽くした千秋にとっては承知の事実だったが、もし自分を狙おうとする者がいれば、その相手にとってこの状況は、少しだけ有利に傾くのではないのか──
 ぺたぺたと、サンダルが鳴っている。コンビニ袋が、がさがさと鳴っている。クラスメイトからは「毛が生えている」ともっぱら評判の心臓が、どきどきと鳴っている。
 肌に汗が滲んでいるのがわかった。暑さのせいではない汗が、じっとりと。意志とは無関係に動く視線が、横手の路地を見た。今にも自分を捉えんとせんがために闇の刺客が放たれ、そして永遠にさらわれそうだという妄想が、椎名千秋的路地思想となって脳裏に鮮明に描かれる。だからというわけでもないわけでもないが、そのときその路地から人が飛び出してきたことに対して、千秋は懐疑的になった。のん気に「マジで?」と思った自分が、一瞬信じられなかった。
「あーっ!」
 ようやく現実を見つめる気になったのは、悲鳴に近いその声を聞いたからだった。路地から飛び出してきた人間は、自転車に乗っていた。自転車に乗った人間は、男だった。男は、思いっきりブレーキを握り締めていた。ブレーキは甲高い音を立てながらも、頑なに自分との距離を縮めようと努力してくる。千秋はゆっくりと口を開け、
「あわーっ!」
 と叫んだ。
 自転車男がハンドルを切って蛇行して石にけつまづいて転倒した。千秋はそれから身をかわすことに成功したものの、体勢の維持に失敗して仰向けに転んで、月を見た。背中を打ったので、咳が出て涙が出る。
「うう……」
 仰向けの千秋の足下あたりで、呻き声がする。ヤバい、と千秋は思った。それは転倒した男への安否ではなく、純粋にこれから自分に降りかかるかもしれないことへの不安だった。
 まず、男が身を起こす。見ると男はひどくキレた様子で、「やってくれたな、テメェ」などと言いつつ自分の顎に手を掛けてくる。千秋の力ではごつい男の力に抗っても無駄で、男はそのまま自分の身体を組み伏せてきて、「お詫びに俺の○○を××して、お前の●△に俺の○○を※□させろォ」と言ってくる。そうに違いない。
(ヤバい!)
 千秋は慌てて視界から月をぶっ飛ばし、立ち上がった。と、そこで片方のサンダルが脱げていることに気付く。そんなことをしている場合ではないのに、千秋はそばに裏返って転がっていたサンダルを、裸足の方の爪先で表返すとそのまま突っ掛け、踵を返そうとした。
 その途端、何か固いものを踏んづけた。
 またそんなことをしている場合ではないのに、視線を地面に落とした。踏んでいたのは雑誌だった。足をゆっくりとどける。その雑誌には『ASファン/7月号』と書かれていた。
 視線を動かす。左ななめ後ろ。倒れた自転車のペダルがアスファルトの地面を突き刺すような形で、未だに空回る前輪が月を見上げていた。そしてそれの傍らには、
(──ええと)
 その男──いや、少年には見覚えがあった。だが、名前が出てこなかった。自分と同じ陣代高校で、隣のクラスの──やはり名前が出てこない。ただ、おおよそ「俺の○○を××して」という台詞が飛び出してきそうにはない男子であることは、知れていた。
 横たわっていた彼は静かに身を起こす。掛けた眼鏡が砕けも外れもしていないことが、本当に奇跡に思えた。それでも若干のズレがあったのか、彼は眼鏡を掛け直しつつ、こちらを見る。
「あ……。し、椎名さん、ごめんなさい」
 彼はこちらの名前を知っていた。自分は学校ではある意味有名人という自覚があるから、そのことについては何の不思議もないとして、千秋はむしろそれに対し、彼の名前を思い出せない自分を恥じた。
 ふと気付くと、彼は千秋が転んだときにぶちまけたコンビニ袋の中身を、必死に集めていた。それに千秋は、安堵の色を乗せた溜め息をつく。そのままおもむろにしゃがみ込むと、ビニールの掛かった『ASファン』を拾い上げて、彼の目の前まで歩み寄り、それを突き出してみせる。彼ははっと顔を上げて、雑誌の表紙を食い入るように見つめると、次におずおずと千秋の顔を見上げた。そして、蚊の鳴くような声で言う。
「あの……。いくら、ですか?」
「んんー?」
 たちまち千秋は不機嫌顔になった。彼の言葉の意図を、瞬間的にバッチリ脳回路が理解してしまったのだ。彼は一体自分に対して、どのようなイメージを抱いているのだろう。このまま意地悪して本当に本を返す代わりに、金をふんだくってやろうかと思う。諭吉サン二枚出しな、じゃないと返してやんねぇ、とか言ってやろうかと思う。
 だが、やめにした。千秋は少年に人を見かけや言葉遣いなどでは判断しては駄目だよ、という教訓を与えてやることにした。雑誌をぺん、と彼の頭の上に載せ「そんなことしないよ」とつぶやくと、街灯が照らす道の上に散らばったいろいろな菓子類を掻き集める。彼も頭の上の雑誌を慌てた様子で小脇に挟むと、いそいそとお菓子を集め始めた。それから幾らもかからず、コンビニ袋が元の状態よりややぱんぱんに膨れ、全ての購入物が元に戻った。
「んでさ」
 彼が倒れたままの自転車を起こして、前カゴに雑誌を放り込んだその時ぐらいに、千秋は声を掛けた。すると線の細い、ガキみたいな顔した彼が虚を衝かれた様子で思いっきり目を丸くして、「え?」と言葉を返す。面白い反応をしやがるなぁ、と思いながら千秋は続けた。
「あんたの家、どっち?」
 未だに彼の名前を思い出せないので、自然に彼を呼ぶ際は人称代名詞となる。少し険が混じった感じになっちゃったかな、と思っていると、彼は素直に「こっちだけど」とつい先程飛び出してきた路地と対面する道を指し示した。さっきの教訓が多少効いたのかもしれない。それはともかく、千秋はとっとと用件を告げる。斜め四十五度の角度で彼の自転車を指差しながら、
「じゃああたしもそっちだから、乗らせてもらってもいーかな」
 言ってから、このままだと彼は自分が「自転車をよこせ」と要求しているように解釈しかねないので、今の言葉に「後ろに」と補足した。
 彼は一瞬難しい顔をしたが、すぐに折れたようだった。自転車のハンドルを両手で握り、タイヤを転がし歩み寄ってくる──
 が、回るタイヤから変な音がした。がたこんがたこんという、電車がレールの継ぎ目を踏み走る音に似てなくもないが、そこまで激しいわけがなく、これは単にタイヤがパンクして中のチューブがすっかり空気を持っていかれていかんともしがたい状態になり、仕方なくホイールの硬さが直接アスファルトを噛んでいる音だと知れる。彼はそれを悟り、愕然となったようだった。
「うう、パンクしてる」
 たかがそれだけで彼は半泣きになっていた。男らしくねぇなー、と千秋は口に出して言おうと思ったが、自分もよく女らしくないと言われるので、おあいこにしておく。それで、相手が泣いてるのならこちらは笑おうという精神で、千秋は彼の涙を快活に笑い飛ばして、その狭い肩をぽんと叩いてやった。
「あははっ、じゃあ一緒に歩いて帰ろうよ」
 そういうことになった。
 千秋の歩調はぺたぺた、彼の歩調はトボトボ、彼の伴侶の自転車の歩調はがたこんがたこん。何だかやけに、微笑ましい光景だった。少し先の街灯が、エネルギー切れでも起こしたのか、ぱぴんぱぴんと音を立てながら、白と黒の明滅を繰り返している。おかげでその辺りの道が不気味な陰影と深い静けさを内包してしまっていた。一人だったら、絶対にうつむいたまま小走りで駆け抜けてそのまま自宅の玄関に飛び込むまで、安堵の息がつけなくなる──そういった空間だ。
 だが、今は違う。隣には名前を思い出せない少年と、パンクしてその価値を失ったお荷物がいる。夜道の暗闇など敵ではない。そう思うと、千秋のテンションはパンクした自転車の分を補いますとばかりに、ますます上昇した。
 自宅まではもうほとんど間がないが、それでも始終黙っているのはトルクの上昇した気分が許さない。千秋は適当に話題を振ってみた。
「本屋行ってたんだ」
 横目に彼の自転車のカゴにある雑誌『ASファン』を見やる。千秋にある情報によると、彼は彼と同じクラスの相良宗介に並ぶミリタリー・マニアだとなっている。このアーム・スレイブを中心に据えた雑誌もその一端であることは間違いないだろう。
 彼はこっちを向いて、やや戸惑ったように間を空けると、こくんと頷いた。
「うん。──椎名さんは、そのお菓子……全部一人で食べるの?」
 突発的にそんなことを聞かれた。千秋は思わずコンビニ袋を小さく掲げて、意味もなく中身を確認する。千とんで四十九円した種々雑多な菓子類は、『何睨んでんだ、コラ』と覗き込んた千秋を睨み返しながら毒づいているような気がした。千秋がそのまま黙りこくっていると、彼は命乞いするように声をひっくり返して何度も言葉をつまづかせながら、そのままゲロでも吐きそうな勢いでようやく日本語らしい日本語を、今にも泣きそうな何とも情けない表情で吐き出した。
「ごめんなさい。ごめん。勝手だよね。お菓子、勝手だよね。一人で、勝手だよね。お菓子、勝手だよね。一人で食べようが、に、に、煮て焼こうが勝手だよね。頑張ってください。頑張って。一人で食べれる? !! ──たっ・食べれるから買ったんだよね! あああ、ごめん!! ってか、勝手だよね!!」
 腹がよじれそうだった。「勝手だよね」。心の名言集に残そうかと思った。ついでに座右の銘にでもしてしまおうかとも思った。「勝手だよね」。あれ、そういえばこの少年の名字の一番最初には『か』の文字があったような気がする。千秋は噴き出すのを堪えて、『か』の次に当てはまる言葉を、五十音順に検索してみた。『か・あ』、『か・い』、『か・う』……違う、この感覚だと、ア行は当てはまらない。次はカ行だ。『か・か』、『か・き』……
 やめた。後にしよう。千秋は肩の力を抜くと、彼の方を向いた。寂しそうな街灯の光に照らされて、白い肌がますます強調されている。綺麗な子だな、同性にすら抱いたことのない感想を、千秋は心の中でつぶやいた。気が付くと、また沈黙が続いていたので千秋は少し考えて、また話題を振ってみる。コンビニ袋を両手で、後ろ手になど持ち替えながら、
「あのさ、君さ」
 今度は人称代名詞を『君』に変えてみる。しかしこれはこれで妙によそよそしい気はする。ま、いっかと思い、千秋は続けた。
「眼鏡、コンタクトに変えたほうがよくない?」
「へ?」
 彼は素っ頓狂な声を出して、自分の眼鏡のフレームを人差し指と親指で触った。そしてもじもじした声で、「そうかな」とつぶやく。千秋はその隙を狙うようにして、
「あ」
 彼の前に立ち、コンビニ袋を肘あたりに引っ掛けると、両手を伸ばして眼鏡を外してやった。途端、彼の目は大きく開き、その瞼をぱちくりさせる。
「──うん、やっぱり眼鏡ないほうがいい。コンタクトだ。コンタクトにしれー」
 言いながら千秋は、奪い取った眼鏡を自分の目の前へと引き寄せてみると、三センチ手前ぐらいで「キツッ」と歯の間から息を漏れさせたかのような声で言い放って、さっと彼に向かって突き返した。がさっ、とコンビニ袋の音がする。彼はその眼鏡をどこかポカンとした様子で受け取った。その際に少しだけお互いの指が触れて、千秋は突き返したときと同じ勢いで手を引っ込めた。がさっ、とコンビニ袋の音がする。そして彼が眼鏡を掛け直すのを待つと、再び歩き出した。
 やがて自宅が見えてきた。ごく普通の、二階建ての一軒家。二階の部屋には明かりが灯っている。どうやら姉はもう帰ってきているらしい。千秋は少しだけ不機嫌な顔付きになると、だがそれを悟られぬように彼の方を振り返り、
「んじゃあ、ソコのソレがあたしの家だったりするんで」
「あ、うん」
 千秋はコンビニ袋の底辺のほうをごそごそ探った。指の感触のみで目的のブツを探り当てる。
「せんべつ」
 取り出し、言って、放り投げたそれは綺麗な放物線を描いて、彼がとっさに水をすくうように差し出した両手の中に落ちる。
 ベビースターラーメンだった。
 それと同時に、面白い子だったな、と千秋は名残惜しさを感じながら彼に向かって手を振った。また機会があったら学校で、そんな意味合いを含めて──
「んじゃ」
 玄関の前に立った。門を開けて、中に。振り向くとその場所には玄関の灯りの干渉があるだけで、少し先の道を彼はがたこんがたこん鳴る自転車を押しながら歩いていた。その前カゴには、『ASファン/7月号』と、ベビースターラーメン。千秋は小首を傾げるようにして小さな声で笑うと、後ろ手に門を閉めて、家の中へと入っていった。


 そして、また姉と喧嘩した。
 「なんで勝手に人の自転車持ってくのよ!」「仕方ないじゃない、わたしのがパンクしちゃってて時間もなかったんだから」「何回パンクさせれば気が済むの!?」「そんなの自転車に聞いて」「あんたの乗り方が悪いんじゃない!」「うるさいなぁ、もう」「ふざけンなっ!!」「……痛っ。何するのよ!」「いっぺん死ねよっ、ボケ!!」「あー! 血、出てきたじゃない!! どうしてくれるの!?」「死んじまえよっ!! 死ね死ね!!」「……あーあ、いつになったら大人になれるのかしら、この子は」「あ?」「あーあ、いつになったら大人になれるのかしら、この子は」「ッ」「──あんたらっ、いい加減にしなさいっ!!」
 そして、母がまた間に入って怒鳴り散らして、両者不満バリバリで喧嘩は終わった。


 大っ嫌いだ。
 眉をボーゲンの形に歪めながら、千秋は自室のベッドの上にうつ伏せに倒れ込んだ。がさっ、とコンビニ袋の音がする。左手には未だにそれが握り締められていた。千秋はそちらに目をやると、戦の後には腹が減るとばかりに、その場であぐらを掻いて中の物を全部ベッドの上に散らかす。まずはポッキーを手にとって、横向きにミシン目の入った封をぺりぺりぺりっ、と開けると、ポッキーを一本、口にくわえながら横手の窓を開け放ち、枠に肘をついて外を見下ろした。涼しい風が吹き込んで、肩までの黒髪を静かに揺れ動かせる。
(そういえば、家、どこなんだろう)
 思った瞬間、千秋は唐突に思い出した。
「あっ、カザマだ」
 風間。彼の名字は風間だった。ようやっと思い出した。風間風間。風間だった。風間──風間だった。風間……。
 今度は下の名前が思い出せなかった。
 千秋は苦笑しながらポッキーをかきんっ、と囓り折ると、窓枠から上半身を乗り出し、目を閉じる。どこからか犬の遠吠えが響き、近所の電柱の下あたりでたむろってる若者の下品な笑い声が聞こえ、そして風間が自転車をがたこんがたこん押していっている音が聞こえるような気がした。
 つい今し方までの憤懣やるかたない激情は、つい今し方吹いた心地よい風と共に、どこかどうでもいい場所へと、いつの間にか流れていってしまったようだった。


 数日後、昼休みに一緒に喋っていたクラスメイトに、千秋は「うんこ」と言って教室を出て、その帰りの廊下。
 風間とすれ違った。
 その隣にはなぜか後頭部を痛そうにさすっている相良宗介がいた。会話の内容からして、どうやらこれから二人して生徒会室に用事があるらしい。
 風間はこちらに気付かなかった。
 だが、そんなことはどうでもよかった。千秋は彼らと少し距離を開いてからぷっ、と笑う。風間って子は、本当に面白くて可愛い子だ。想像通り、風間には野暮ったい眼鏡より、コンタクトの方が似合っている。
 やがて千秋は教室に着く。そしてクラスメイトとお喋りを再開した。風間のことを頭の片隅に残しながらも、語るは姉貴の悪口と、懐かしのゲームの話題。学校に居る時が一番楽しい。このままずっと学校に住み着きたい気分だった。ずっと、ずっと。
 それから、梅雨が終わり本格的に夏になった。水泳の授業が始まり、皆の心が浮き立つ。空は高く、暑い太陽の光は雲を突き抜け地面を焦がし、色鮮やかな生命の躍動が始まる。文字通り輝かしい季節だった。
 だが、あれから折悪しく、千秋と風間に会う機会は来ず──
 長かったはずの夏が、終わる。


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