ORACULAR‐WINGS■
 ■朱と蒼のフォトメモリー■    <SCENE2:秋になりました。>


 姉が大嫌いだ。
 もはや固定観念と化したその主張を、二年三組前から数えて三番目の窓際席にサボテンの如く鎮座する椎名千秋が、腹に巻いたダイナマイトの如く抱いているのは、周知の事実である。
 だから十月の天気のいい朝っぱら、やや薄い日射しが差し込む窓際の席で椎名千秋がぶすっとした顔付きで黙りこくっていたら、
「また喧嘩したの?」
 と尋ねて、話を聞いてやればいい。だがけして無視はいけない。なぜなら発散されない過度のストレスは、女子生徒Sによる授業中の不意な奇声の起爆剤となりかねないからである。
 ゆえに今日のようにごく平凡なクラスメイトの女子が、窓際の席で「殺してやる殺してやる殺してやる」と周辺に殺意を振りまいている彼女に平然と声を掛けるのは、当然のことであり、いつもの光景でもあるのだ。
 そして肩を叩かれ声を掛けられた椎名千秋は、まるで「この醤油ラーメンのスープは市販の醤油を溶かしただけの代物か!?」という驚愕混じりの鬼のような形相で振り向き、
「聞いてくれる!?」
 と、姉──琴音という名前らしいが──へ対する千の恨みと幾億の憎悪、果ては隣家の中学生に彼氏が出来たらしいだとかPTAは何でも規制しすぎだという話題のマシンガンを、一限目の始業のチャイムが鳴るまで相手に向かってぶっ放し続ける。
 だが、今日はいつもと違った。
 椎名千秋は「あたしって、えろ漫画大量に持ってるからさ」で不意に言葉を途切れさせると、視線を一点に向けたまま綺麗に静止した。無論そんな彼女は犯罪的なくらい不自然だ。たった今まで彼女に大量の唾を顔面に浴びせかけられていた女子生徒は、訝しげに椎名千秋の視線をたどり、その向く先を見つめる。
 教室の外、廊下だった。だが、そこには赤い非常ボタンと消火栓があるだけで何もない。誰もいない。ということは、椎名千秋が陰陽道で物の怪を見たわけではない限り、たった今までそこには何かが、または誰かがいたということになる。
「どうしたの、椎名?」
 何にしろよくわからない事態なので、女子生徒は彼女本人に尋ねることとした。すると椎名千秋はやおら机の上に両手をつき、席を立ち上がると、
「おしっこ」
 と言って教室を後にした。


 女子トイレの個室、千秋はパンツをずり下げてカバーも何もない冷たい便座に尻を押し付けると、早速うーんと唸り始めた。出るものは特に何も無いが、こうしていると騒ぐ心臓もぐるぐる回転する思考も落ち着くので、しばらくはこのままで居ようと思う。
 千秋は煙草の煙を吐き出すように、ゆっくりと細い息を吐きながら、個室のドアと天井の間の隙間を見上げた。昔ああいう隙間から看護婦の幽霊が中を覗いてくるという病院の怪談を聞いたことがあるが、ここは学校の女子トイレだ。看護婦などではなく、花子さんの独壇場である。そういえば小学生の頃、トイレのドアに十四回ノックして、「はーなーこーさーん」とやったとき、中から風鈴の音がしたのには最高にビビった。そんなとりとめのないことを考えつつも、脳味噌のどこかでは風間信二のことを考えていることに千秋は気付いていた。
 二年四組、風間信二。ミリタリー・マニア。
 一瞬簡潔なその情報が、どこかの機関から漏洩したかのように思考を横切る。途端、たった今まで脳裏に浮かんでいた『花子さん・想像図』がいきなり駆逐され、代わりに先程目に焼き付いた鮮明な映像が浮かんだ。
 まず廊下を、相良宗介が横切った。そのやや後を金魚のふんのように風間信二が付いてきた。前に彼を見たのは一体いつだっただろうか、風間の背はそのときより伸びているような気がした。彼は相良宗介と会話して、どうせまたちんぷんかんぷんなことでも言われたのだろう、少しだけ苦笑のようなものを浮かべていた。
 それを見た瞬間、どうしようと思った。風間のことは面白い子だなあ、可愛い子だなあ、とは思っていた。だが、それはいつまでも自分の尻尾を追い掛け回すような子犬に対して抱くような感情と変わらないものであって、けして突然胸の鼓動が止まってしまったのではないかと、不安に駆られるほどの気持ちなど発生するとかそういう類のものではないのである。間違っても、付き合うとか恋をするとかいう対象にはなりえない男なのだ。なのに、自分は彼の姿を見て、
(男らしくなったな)
 と思った直後、胸の鼓動が止まったかと思った。
 千秋は肩で切り揃えた黒髪の隙間に両手の五指を突っ込んで、わしゃわしゃと掻き回した。うがー、くそー、という声をトイレに反響させる。しばらくそのまま両手で頭を抱えると、とりあえずこんな場所に長居は無用だろうと、やがて千秋は膝頭あたりに下ろしたままのパンツをスカートの内にずり上げ、便座から腰を上げると、水を流した。別にそうする必要はなかったのだが、一応そういう体裁は取り繕っておかなければ、個室から外へ出たときもしそこに人がいれば、自分は『用を足した後に水を流さない女・椎名千秋』という腐った烙印を押されかねない。学校でどんなイメージを抱かれようが、そういうばっちぃ系イメージだけはどうしても避けたかった。
 個室を出ると、そこには来たときと同様、自分以外誰もいないトイレの狭苦しい空間があった。千秋は洗面所に向かうと、手を洗う。水道の蛇口をきゅっと閉めて、口にくわえておいたハンカチで手を拭きながら外へ出る。
 そこには、風間が歩いていた。
「!?」
 なぜ今日、よりによって今のタイミングで何度も彼に出くわすのか。そんな思いと同時、記憶にフラッシュバックするのは、もうずいぶんと前のような気がするのに、妙に色褪せないいつだったかの夜の出来事。それは出来事といえるほどの出来事ではなく、そして残るほどのものでもない記憶だったはずだった。だが刹那の記憶との邂逅は、すぐに幕を閉じる。前を歩く風間は、手元のデジカメの記録を見るのに気を取られ、こちらに気付いていなかった。というか、気付く前に立ち止まれなかった千秋が、勢いよく彼に激突してしまった。
 ひょっとしたら彼も今この瞬間、あの夜のことを思い出したかもしれない。そんなことを思いながら、千秋は背後の女子トイレの薄いピンク色したタイルの床に尻餅をつき、風間は彼にとっては左側の壁に肩をぶつけ、うずくまった。千秋は瞬時に、その手からデジカメが消えていることを悟った。焦る。風間の真上あたりを見上げた。予想通り、デジカメは宙に舞っていた。千秋は迷うことなく、その場から風間のいる方向目がけて人間ロケット砲のようなヘッドスライディングを行う。その途中で無理矢理身体を反転させて仰向けにし、片手を高く伸ばした。背中が固く冷たい廊下の上に落ちる。だが今回見上げるものは月ではない。カメラだ。千秋は無意識に叫んでいた。
 そして。
 風間は嬉しそうに手を叩いた。
 千秋は自らの手の内に確かにある感触に、片手を上げるガッツポーズをとる。デジカメは無事にキャッチできた。周りで緊張を孕み、事の成り行きを見守った数人の生徒達も拍手している。とにかく自身が感慨に浸るのは後にするとして、千秋は額の汗を拭い立ち上がると、まだしゃがみ込んだままの風間に、デジカメを手渡した。
「あたしのせいで壊れたら、どうしようかと思った」
「ありがとう、椎名さん」
 風間は微笑んで、受け取った。そして、デジカメの中の画像を端々から見ていった。どこかに不具合が生じていないかチェックしているのだろう。
 千秋はいつの間にか思考が停滞していたことに驚いた。夢から醒めたような心地に、何となくその場に居づらくなるような気分になり、このまま底なし沼のように廊下を沈み込み、下の階の教室にまで突き抜けてしまいそうな感覚に陥る。千秋はそんな自分を騙し、風間にさらけ出してしまうことを防ぐべく、彼に近付き、その横からデジカメの画像を見て、適当な感想をつぶやいた。
「へー、かっこいいねー」
 そこに映っていたのは、自衛隊に配備されているようなアーム・スレイブや、千秋にはその種別は判然としない航空機群だった。ASに至ってはただ突っ立っている機体を、あらゆる角度から撮影したらしい。千秋は様々な角度・体勢で踏ん張りながら撮影を続ける風間の姿を想像して、少し笑いそうになった。
 異変が起きたのはそのときだった。急に風間が千秋の方を向いて、瞳を輝かせる。そのコンタクトレンズの濡れたような光沢が、ことさらに他人を退かせる光となって、銃器のレーザーサイトの如くターゲットの心理を追い詰めんとする。やがて風間は決意が鈍る前にターゲットに向かいそのトリガーを引き絞り、マシンガンをぶっ放した。マズルフラッシュが迸り薬莢さえ飛び散る幻覚すら見たような気のする千秋は、一瞬で無数の弾丸に貫かれ蜂の巣と化した。


 風間信二はニコニコマークを顔面に貼り付かせたようなにこにこ笑顔で、自分の教室に戻ってきた。手に持ったままだったデジカメをポケットにしまい、教室を見渡すと自分の席へ一直線に向かう。笑顔のままで、信二はよいしょ、と椅子に腰を下ろそうとした。
 だが、彼はその動き半ばで身体を硬直させた。さながら彼の周囲の時間のみが停止したかのように。
 やがて教室正面右上天井近い部分に設置された古ぼけたスピーカーから、『ブツッ』という音がした直後チャイムの音が鳴り響いた。それと共に、クラスの者は全員ダベりながらも椅子を引く耳障りな音を立てつつ席に着く。間もなくして教室の扉が開き、一時限目の授業の英語担当教諭・神楽坂恵里が入室してきて、教卓に出席簿と教材を置くと、日直の号令に『きおつけ、れい』をした。そしてすぐさま異常事態に気付く。
「風間君? いつまでも立ってないで座りなさい」
 信二は従わなかった。教室の中でたった一人いつまでも中腰のまま、脂汗を額に浮かべる。今、彼の中ではかつてない戦慄が地獄の花園で一方的な追いかけっこをするように駆け巡っていた。
 自分は、自分は椎名千秋にとんでもないことを言った。あの椎名千秋にだ。彼女はクラスメイトの千鳥かなめ以上に苦手なタイプだというのに、自分は何てことを言ってしまったのだろう。今からでもあの発言は撤回しに行ったほうがいいだろうか。いや、そんなことをすれば「なんだとクヌラァァ」とか言われて校舎に貼り付いてるあのでっかい時計の文字盤の、短針と長針の間に挟み込まれて『カリオストロの城』の悪役の最期みたいな目に遭わされそうだ。それだけは嫌だった。待てよ、そこまで大きかったかな、あの時計。いや、そんなことはどうでもいいんだ。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう──
「座りなさいってば! ねえ……風間君! 聞こえてるんでしょ!? 座りなさいっ! 座りなさいってば…………わ──────────ん!!」
 神楽坂恵里教諭は何を言っても自分を無視する信二にとうとう泣き出して、教室を飛び出して行ってしまった。
 静まり返る教室の中、後ろの方の席で千鳥かなめが、
「何やってんの……? 風間くん」
「うむ」
 信二に代わるようにして、相良宗介が何やら感慨深げに頷きながら、親指を立てる。
「密林での戦闘は隠密行動が要だ。ゆえに何事にも動じない精神力を必要とする。風間のあの精神力は大したものだ」
「だからここは、あんたの育った戦場じゃないって……」
 言いながらかなめは席を立ち、学級委員として中腰のままの信二の頭に「とりゃっ」とチョップを叩き込み椅子にとすん、と座らせてやり、学級委員として飛び出して行った神楽坂恵里を迎えに教室を出た。
 信二は未だにどうしようどうしよう、と誰にも聞こえない声でつぶやき続けていた。


 千秋はゆったりと自転車を漕ぎながら、学校からの家路を辿っていた。空は淡い夕暮れ近い黄色の光に揺らぎ、雲は空の彼方の引力に引かれているかのように、ちぎれながらゆるゆると流れている。道の脇に立つ一軒家の塀からは、敷地をはみ出し太陽に向かって成長した木が、すっかり青さを失った葉をその枝の先で乾いた音を立てながら揺らしていた。
 太陽がゆっくりと傾く。茜の色彩が空を浸食し始め、そよ風が町を通り抜ける。肌に染みる空気は柔らかく、しかし冷たい。冬の足音が、穏やかに近付いてきているのを実感した。
 家にたどり着く。自分以外は誰も帰ってきていなかった。二階にのぼり、自室のドアを開け、部屋に鍵を掛けると、カバンを放り投げ制服のままベッドに倒れ込もうとして、失敗して縁に身体をぶつけて床に倒れ込む。千秋はそのまま動かなかった。別に死んだわけではない。むしろ、
「ぷぷぷっ……」
 笑っていた。
 電灯のぶら下がった白い天井を見ながら、千秋は回想する。真っ先に浮かび上がるのはトイレの前で激突した風間が吹っ飛ぶ瞬間。千秋はその映像を頭の中で早送りし、任意の映像が記憶に閃いた瞬間に、それにビデオのリモコンを向けるような心持ちで再生させた。
 瞳を子供のように輝かせた風間が、一気に喋り出す。半分以上は専門用語らしき単語や「うわー」だの「うはー」だの「はぁはぁ」だのといったブレス系の言葉が頻出していたので、何を言っているのか全くわからなかったりしたが、それでも一部、はっきりと理解できた部分があった。
 ──ねえ椎名さんこういうのに興味があるんだったらさ今度の日曜日に木更津の自衛隊基地で航空祭があるんだけどさ一緒に行かない?(専門用語)とか(日本語?)とかもあるし基地の中で(どうたらこうたら)やったりもするんだよもちろん(ピピー)は(ブブー)だけどさそれでも間近で見れるっていうのは凄いよねえ行ってみない?えっ本当約束だよ!──
(要するに)
 要するに。
 デートのお誘いだったのだ。
 風間にあんな度胸があるとは思わなかった。ましてや自分さえも圧倒するほどの迫力が備わっていたとは。意外と彼はリードしてくれるタイプの男子だったらしい。千秋は思わずエロい想像をする。
 と、その妄想から千秋は唐突に現実に帰還すると、ばっ、と身を起こした。そして部屋のタンスをあさり、今までの自分のファッションセンスに狂おしいほどの後悔を味わい、「あたしは女だろう!?」と自身の歴史にツッコミを入れると、タンスの中身を噴火させたかのように盛大に撒き散らした。ダーク系統の服の山が周囲に積もるその半円の中、両膝を床につけた体勢で、右手の五指を黒髪に突っ込みながら考え込む。
(琴音の服を借りてみるか……?)
 だがその考えは即刻破棄された。よりによって風間とのデートに、なぜ姉の服など着ていかなければいけないのか。お下がりはもう御免である。第一モデル並に背の高い姉の服など、自分に合いはしない。千秋は手近のトレーナーを引っ掴むと、それを眼前のタンスにぶつけて姉の幻影を駆逐した。あんただけがモテる時代は終わった。自分にも、言い寄ってくる男がいるのだ。
 千秋はすっくと立ち上がると、財布を握り締め制服のまま家を飛び出し、自転車を立ち漕ぎしながらデパートへ向かった。
 その最中、日曜日に待ち合わせの駅で佇む自分と風間の姿を思い浮かべる。それはとてもくすぐったい光景で、今の自分には全景の見えない未来予想図。それでも今、確かに千秋にはある感情が芽生えているのがわかる。素直に認めよう。自分は、風間のことを──


 執行猶予の日々は瞬く間に過ぎ、いよいよ刑が執行される時が来た。闇の彼方へ通づる死刑台にのぼる風間信二の目は、真っ赤に腫れていた。それは世を儚み夜を徹し泣き続けたせいか、それとも身に迫る死を恐れるあまりに、眠り、瞼の裏の闇すら恐れた心の病みの残滓か。力無く、数分先の絶望を見据える。一段一段、死刑台への階段を踏みしめる。
 どれくらいのぼっただろうか。やがて信二は目の前に巨大な物体を見上げた。大時計だった。その瞬間に、むき出しの文字盤は、がっちん、と壮絶な轟音を立てて、やたらとぶ厚い長針に分の経過を刻ませる。
「さあ」
 いきなり横で声がした。振り向くと、闇の奥、そこから滲み出てくるように高いブーツの音を鳴らしながら、女が姿を現した。胸と腰を申し訳程度の黒い布で覆い、太股とケツはほぼ丸出し。両肩にはでっかい針が何本も生えた肩当てが装着されており、それからは裏地の赤い真っ黒なマントが垂れ下がっていた。官能的なその姿は、まさに特撮ヒーロー物の悪の女幹部。しかも顔と声は椎名千秋だった。
「さあ、風間くん。さっさとその文字盤の太くてたくましい〜ん長針と短針の間に身体をねじ込みなさい。そしてカリオストロの城の悪役の如くエグいことになるのよ」
 ずいぶんと具体的な台詞だなぁ、と信二は思いながら、よいしょ、と悪の女幹部の言葉に従って横向きになって短針にしがみつきながら、すぐ背後にある長針に背を預けた。今この大時計の時刻は、11時56分。つまりあと四分もすれば、自分は「おわーっ」とか言って長針と短針に挟み込まれて圧死しなければならない。そう思うと、途端に今まで麻痺していた恐怖と絶望が全身を駆け巡った。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! たすけてーっ!!」
 叫ぶが、なぜか身体が動かない。正面に立った椎名千秋が「ふっふっふ。無駄よ」と言った。
「なぜかはあたしにもわかんないんだけど」
 信二は圧死した。


 まあそのような夢を見たわけなのだが。どちらにしろ憂鬱な寝起きだった信二は、日曜日の朝っぱらからうるさく鳴り響く目覚ましを手刀で止め、頭をもさもさ掻きながら寝ぐせの比率を増加させつつ、そしてベランダから見たその光景に絶叫を上げた。
「ぃやったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! イエス!!」
 雨が降っていた。
 木更津航空祭は別に雨天で中止になったりはしないが、どうせそのあたりの事情は知らないだろう椎名千秋には、「今回のイベントは中止ということで」という口実が出来る。それで今し方の夢のような目に遭わされることはあるまい。自分は正論を言っているのだから。自分は正しいのだから。
 そうなると、今すぐにでもそのことを伝えなければいけない。彼女の電話番号は知らないので、直接家に行く必要がある。女の子の家に単身で赴くのは少し度胸が要ったが、あの椎名千秋相手にそんなことを言っても仕方がない。信二は以前見たことのある彼女の家までの道順を思い出しながら歯を磨き、寝間着からパーカートレーナーに着替え、コンタクトを入れて髪を整えると、傘を持って家を飛び出した。
 片手に傘を差しながら自転車に乗り、濡れたアスファルトの路面を滑るように走る。斜めに降り注ぐ透明な矢は、黒々とした地面を隙間無く穿ち、白く縦に大きな字で描かれた『止まれ』の文字をミリ単位で水没させる。空は低く、重厚に閉ざされた灰色の向こうに、澄み切った青があるということがとても信じられない。回転するタイヤが、跳ね上げた水をチェーンに巻き取り、ペダルを漕ぐ足に空回りするような感覚を与える。
 彼女の家はもうすぐそこだった。屋根が見えてくる。あと二十メートル、十メートル、五メートル、着いた。
 信二がブレーキをかけて、その場に片足立ちに止まったときだった。門の向こうの玄関のドアが開き、中から傘を差しながら誰かが出てきた。
 一瞬あれが噂に聞く椎名千秋の姉かと思ったが、違った。彼女はこちらと目を合わせると、近付いてくる。
「おはよう」
 千秋は門越しに自転車に乗ったままの信二に、そう声を掛けた。なぜか嬉しそうに笑う彼女の姿は、無論いつもの制服姿などではなかった。前に一度だけ彼女の私服姿を見たことがあったが、あの時は暑い時期だったこともあって、タンクトップにハーフパンツという至ってラフな格好だった。だが、今の彼女は、チェックのシャツの上に、デニムのジャケットを羽織り、下にはコーデュロイスカートといった──普段の彼女とは著しく印象の変わった、“大人の女性”といった風格を漂わせていた。
 まるでデートにでも行く、というような出で立ちだ。
 ひょっとして他に予定が出来たのでは? と信二は思って、なら別に今日が照ってようが降ってようがどっちでもよかったんじゃないか、と安堵混じりの疲れた溜め息をついた。だが、そんな信二に千秋は、
「どうしたの? 待ち合わせ場所は駅だったよね? ……ひょっとして、迎えに来てくれたの?」
 信二は思わずきょとんとなった。どうやら千秋は、この格好で自分と航空祭に行くつもりだったらしい。そうすると、遠出をするときはいつもめかし込む習性でも身に付いているのかもしれない。一応彼女も女の子だ。信二は納得するとともに、となると用件を告げなければいけないことを思い出した。
「あ、それっ。あの。そ、その事なんだけどさ」
 喉に唾を押し込む。千秋が「?」という表情をして、小首を傾げた。おかしいな、いつもの彼女となんか違うな、と思いながら信二は二の句を継げた。
「ほら、雨。雨降ってるからさ。航空祭、中止になるんだ。だから、今日は」
 言えた。と共に、細く長い息を吐いた。これで四日間の悪夢から解放される。カリオストロの城も普通に鑑賞できるようになる。このあと改めて一人で航空祭を楽しむとしよう。まあぶーぶー彼女は文句を言うだろうから、それぐらいは聞いてやろうと思う。
 だが、
「そっか」
 返ってきた言葉は素っ気なかった。
 信二は彼女の顔を見る。
「仕方ないね」
 困ったような顔で笑いながら言うと、千秋はこちらに背を向けて、玄関の方へ歩いていく。
 信二はそれを呆然と見た。
 ……自分は、何か彼女に対して大きな勘違いをしているような気がした。彼女は、ひょっとして航空祭ではなく、自分と一緒にどこかへ出掛けることを、楽しみにしていてくれたんではないだろうか──なぜかそう思う。自惚れなどではなく、なぜか自然に、そう思えた。
 だとすれば、自分は彼女にひどいことをしてしまったのではないだろうか。
 胸が痛い。なんだかとても──胸が痛い。
 信二は去りゆく彼女の背中を──姿を見た。その服装は、よく見れば皺一つ付いていない、おろし立ての服のようにも見える。この日のために買ったのだろうか? 雨が邪魔をする視界のせいで、確かなことが言えない。だけど──
 雨に滲むその背中は、とても悲しそうに見えた。
「椎名さん!」
 信二が裏返った声で呼ぶと、彼女が傘を畳み、玄関ドアのノブを掴んだ手を、止めた。そのまま、振り向かない。だが信二は、そのまま言葉を続けた。
「航空祭は……中止だけどさ」
 でも一度ついた嘘はつき通す。
「──適当にさ! 適当に……どっかそのへんで、一緒に、あの」
 女の子など、どうやって誘い出せばいいのかまるでわからなかった。こんなんでいいのだろうか。信二は「あわわわ」と不安になって、彼女の様子に注視した。
 千秋はまだ掴んでいたドアノブから、手を放した。そして、横を向き、傘の開放スイッチを押して、ばっ、とそれを水滴を飛び散らせつつ広げさせ、自分の頭の上に斜めに差す。
 その表情は髪に隠れて、よく見えない。よく見えなかったが──彼女が静かに首を縦にこくん、と振るのだけははっきりと見えた。
 その時初めて信二は、彼女──椎名千秋を、かわいいな、と思った。


 信二は一度自宅に戻り、財布と、特に意味はないがデジカメをトレーナーのポケットに押し込むと、すぐさま家を飛び出した。雨の中に女の子を待たせるのはあまり良くない。信二はビニール傘を差しながら彼女に「ごめん」と言うと、濡れたアスファルトを一緒に歩き出した。
 その最中、カラオケボックスに行こうか、と提案した。しかし千秋は首を横に振り、「歌へただから」と言った。よく考えたらいきなり狭い部屋に二人きり、という状況は自分にとってもどうかと思ったので、信二はあっさり自らの案を却下した。
 腕時計を見る。まだ朝の九時半を少し過ぎただけだった。信二はそういえば朝ご飯食べてないなぁ、と思うと、隣で千秋の腹が鳴った。
「………………」
 彼女は一瞬だけ信二の方を見て、恥ずかしそうに傘と一緒に顔を伏せる。彼女もどうやら朝食を抜いてきたらしい。それにしても今日は本当に、いつもの学校での彼女の態度とはまるで違う。ひょっとして緊張しているのだろうか。いや、それよりも、そもそもなぜ自分などと付き合ってくれているのだろうか。彼女が何かしらの悪意を抱いているとはもう思わない。信二はむしろ女子には嫌悪されるタイプであるということに多少の自覚はあった。それだというのに、よりにもよって椎名千秋のようなタイプの女子が、自分に近付いてくるというのは……さっぱり理解出来ない。
 いつも陰で、クラスメイトの相良宗介や千鳥かなめのことを『鈍感』と評している自分が、これではうかつに他人のことを言える立場ではない。
 信二は自分達がずっと無言のままで歩いていることに気が付いた。横で千秋は、未だに顔を伏せている。
 少し顔を上げて空を見上げた。そこからは全く止む気配を見せない無数の雨の粒が、先程より勢いをさらに増し傘を叩き続ける。その音がまたスゴくて、『ばらたたたた!』とまるでヘリのローターが大気を打ち震わす音に似ていた。
 信二は苦笑を浮かべながら、千秋に言った。
「……喫茶店、入ろうか」
 千秋は頷いた。


 喫茶店には小一時間ほど居た。千秋に「好きなの頼んでよ」と言った直後、一度彼女が一人で食うらしい大量の菓子を購入していたのを思い出し、急に財布の中身が不安になったりしたが、彼女は思ったよりほとんど食べなかった。コーヒーとピザトーストを食べただけだ。ピザトーストは、パンの耳を丸々と残していた。信二も同じ物を頼んで、自分はコーヒーも耳も残さず完食した。勘定を払って表に出ると、雨はまだぽつぽつと降っていたが、それでもだいぶましになっていた。
 何もすることがなかった。でもだからといって、このまま解散するのはもったいないような、せつないような、もっといたいような。それにまだお互い、ほとんど何も喋っていない。いっそ千秋がいつもと同じテンションなら、どれだけ安心出来るだろうかと思う。
 気が付いたら二人は井の頭公園に着いていた。その時には灰色の雲が扉を開くかのように分かたれ、その隙間から突き抜ける青と透明な太陽の輝きが、ずぶ濡れの大地をきらきらと輝かせた。
 信二と千秋は片手に閉じた傘を携えながら、公園を歩いた。ベンチに座ろうとしたが、水滴で濡れていたせいで座れない。仕方なく二人は池のほとりまで歩き、その柵に両腕を載せてもたれかかった。
 さて、何を喋ろうか、と思った。思ったが、何も言葉が浮かんでこない。ぐぬぬぬぬぬぬ、ときばってみせたが、やはり何も出てこなかった。自分で自分がもどかしく、情けない。くはぁー、と溜め息をついて、柵の上の両腕に、顎を埋めた。
「……ごめん、あんまり喋んなくて」
 言ったのは、信二ではなく千秋だった。信二はそれに弾かれたように顔を上げ、
「あ、ぼ、僕も喋んなくて、ごめん」
「…………」
「…………」
 だからといって会話が円滑に進むということはなかった。
 ぼーっと光る池の水面を見た。隣で、千秋も同じようにしている。腕に引っ掛けた傘の先端から、ぽたりぽたりと水滴が地面に降っていた。
 しばらくして、信二はおもむろに柵に背を向け、そのまま身体を預けると、両手で柵を掴み込みぴょんとその場を跳躍して、両腕の間に身体を挟み込むようにして柵の上に座り込んだ。行動に特に意味はなかったが、同じ体勢のまま佇んでいるというのも居心地が悪かったのだ。信二は腕をいっぱいに伸ばし、背中を反らした。灰色と青色の混ざり合った空を越え、太陽を越えると、その視界はたった今まで見ていた池の水面に移される。隣では自分と同じ事をしようとしている千秋の姿が、ちょっとだけ見えた。信二は苦笑する。
 途端。
「うわっ!?」
 尻が滑って、背中を柵に強打して、そのままずるりと頭から池に落下しかけた、その一寸手前、
「んりゃッ!」
 物凄い声を上げて、千秋が信二の両足首をその細い両手で掴み取った。瞬間、ぴたりと信二の落下が静止する。女の子なのに、すごい力だった。信二はびっくりしながら、「あ、ありがとう」と言った。その途端、逆さまになったポケットから、ぽろりと財布とデジカメが落ちてくる。信二は「わ、わわわわっ!」と慌てながら右手で財布を、左手でデジカメをかろうじて受け止めた。
「ないすきゃっち」
 上で、千秋が言う。信二は見上げると、太陽の逆光の中、彼女は笑っていた。
 信二はある程度彼女に引き上げてもらうと、あとは自力で柵を乗り越えて地面に足を着いた。千秋はその前で膝に手を当てながら、顔をうつむかせて息を切らせている。周囲に人の姿がほとんどなかったことが、何よりも救いだった。
 やがて顔を上げた彼女は、
「風間くんってさ、女の子みたいに軽いよね」
 信二は少しムッとなって、
「そうかなぁ。そういう椎名さんが男並に」
「男並に?」
「いや、『男並に』なんて言ってないけどさ」
「それ、ごまかしてるつもり?」
「僕、ごまかしてなんていないよ。男だから」
「えっ、それどういう意味?」
「ほら、僕も一応男だし」
「……風間くんってさ」
「え?」
「女の子みたいに軽いよね」
「…………」
 それまでの空白だった時間を互いに気にして埋めるように、信二と千秋は話し続けた。公園を何周も歩きながら、どうでもいい他愛のない話をした。灰色の雲はいつしか白い雲に入れ替わり、木々で羽を休めていた鳥達は澄んだ鳴き声で言葉を交わしながら、流れる雲を追うように空を飛ぶ。
 そのうちに段々とまわりに人の姿が増え出し、恋人同士や家族連れの人々で賑やかになった。信二達の姿も、ごく自然に彼らの中へ埋没してゆく。
 秋の透明な日射しが、ゆっくりと西に傾き始めた。


「実はこれって、不法侵入なんだよね」
「ウソっ」
 夕暮れに空が蒼と朱の二色に薄く塗られ始めた頃、信二の提案で、彼と千秋の二人はとある女子医大の裏手に存在する廃墟の中にいた。
 建物はとても都内に存在するとは思えない程に中世的で、『神殿』と呼んでもおかしくない佇まいをしていた。放置されて長いらしく、あちこちに苔が生えてたり蔦が絡まってたり身長よりもデカい亀裂が入っていたりする。
 信二達はあからさまに誰かのブチ破った形跡のある、廃墟の四方を囲った緑のフェンスをくぐり、そこから建物のエントランスに侵入していた。
「前にオノDや相良くんとかと来たことがあるんだ。ここ。その時は単にサバゲーやっただけだけど。警察が来たときはびっくりしたな。昼間からぱんぱんエアガンで撃ちまくってたからだけど。──あっ、床抜けるかもしれないから気をつけてね」
「げっ」
 エントランスのとことんまで高い天井部には、巨大なシャンデリアがぶら下がっていた。ちょっとした振動でも与えれば食いつくように地べたに降ってきそうだ。千秋はなるべく足に体重をかけないようにしながら、音を立てないようにして小走りで先を行く信二の背中に追いついた。信二は自分の背後に彼女がいるのを振り向いて確認し、
「これから階段のぼるから。のぼるときは注意してね。一応僕が先行するけど、廃墟を探索する鉄則として、『階段は一段一段慎重に』っていうのがあるから」
 千秋はこくんっ、と頷いた。
 真っ白な埃が積もった階段をみしみし言わせながらのぼるたび、カビ臭い匂いが空気に拡散する。果たしてこんな危険な場所を進んでいくことに意味はあるのだろうか。千秋がその思いに朧気に到達すると、場の沈黙を埋めるためか、はたまた彼の冒険心が熱を帯び始めたのか、信二が話し出した。
「ここはね。昔は病院で、地下には霊安室が残ってて、そこにある棺桶を開けると、中から手が出て引っ張り込まれるって噂があったんだ」
「………………」
 千秋の背筋にぞくりと寒気が走った。
「でもここ、相良くんが調べたんだけど、病院なんかじゃないって。元々大正から昭和の間ぐらいに建てられた個人の邸宅だったんだって」
 千秋は溜め息をついた。
 それから、約十分間階段をのぼり続けた。信二に言われたとおり、一段一段慎重に、慎重に。途中の壁にスプレー塗料で『SEX』とか『夜露死苦』とか『魔亜苦痛参上』とか『右を見ろ』だとかが描かれていた。どうやらときどき暴走族か何かが入り込んでいるらしい。
「着いた」
 千秋の目の前で、信二が立ち止まって言った。彼の正面は行き止まりだったが、だがそれを開放する錆び付いた扉はある。信二はそのドアノブに手を掛けていた。
 ゆっくり回す。鍵は掛かっていなかった。意外と素直に扉は内側に向かって開く。途端、冷たい風と新鮮な空気が流れ込んできた。ぎぎぎぎぎぃ、とドアは信二の手が引く限り開き続ける。そして。
 信二と千秋は、扉の外へ踏み出た。
 茜の雲が流れている。朱色の空が、遠い高速の果てまで続いている。ドブ川が、紅に染まっている。町が──真っ赤に燃えている。
 千秋は屋上の亀裂の入ったコンクリートの上を走り、縁の柵に掴まって、町を見渡した。言葉が出ない。言葉が出ないほど、美しかった。そんな感情は、生まれて初めてだった。
「──前に警察が来たときにね。焦って僕達はこの屋上まで来ちゃったわけだけど……」
 信二は彼女の背後に向かい、喋りながら歩み寄る。
「綺麗でしょ?」
 彼女の横で立ち止まり、尋ねる。すると、信二は──
「──あははっ」
 彼女が笑った。
 その瞬間を、貴重な一瞬を──信二はポケットから取り出したデジカメに、町の景色と共に収めた。


 それから、椎名千秋と風間信二はよく会うようになった。
 週末になる度、どこか適当な場所へ二人で行き、どうでもいいことを話し、どうでもいいことを重ねた。
 季節が加速し、寒さが増してもそれは変わらなかった。
 だが、二人は学校では示し合わすことなく、全く興味のない他人同士を演じた。それは半ば無意識にお互いの領域は守っておこうという、自分達の性格がなす行為であったのかもしれない。
 だから週末に会うときに、二人はまるで止めていた呼吸をようやく再開したかのように、往年の親友のように話し合うのだ。
 だがそのことは、友人の相良宗介だけには知られてしまった。信二の微妙な変化をあっさり看破した彼は、信二を問い詰めると事の次第をちんぷんかんぷんながらも理解した。これは相手がオノD──小野寺孝太郎であったなら、信二は絶対に話さなかったであろう。彼は口が軽そうだし、何より『女の子と会っている』などといえば「チーム脱退を言い渡す!」とか泣きながら言われそうだったからだ。いや、何のチームかは知らないが。ともかくそんなことを言いそうなのである。何はともあれ、宗介だけは絶対に他に口外しないという確信があった。だから、信二は彼にだけには話した。
 だから二人は、おおむねうまくやっていけた。
 そのままゆっくりと──時は流れる。


 姉が大嫌いだ。
 もはや固定観念と化したその主張を、二年三組後ろから数えて二番目の窓際席に上司に肩を叩かれる五秒前のサラリーマンのように座り込んだ椎名千秋が、腹に巻いたダイナマイトの如く抱いているのは、周知の事実である。
 だから十二月の天気のいい朝っぱら、見るからに寒々しい日射しが差し込む窓際の席で椎名千秋がぶすっとした顔付きで黙りこくっていたら、
「また喧嘩したの?」
 と尋ねて、話を聞いてやればいい。だがけして無視はいけない。なぜなら発散されない過度のストレスは、女子生徒Sによる授業中の不意な奇声の起爆剤となりかねないからである。
 ゆえに今日のようにごく平凡なクラスメイトの女子が、窓際の席で「何回パンクさせれば気が済むんだあんにゃろう」と周辺に殺意を振りまいている彼女に平然と声を掛けるのは、当然のことであり、いつもの光景でもあるのだ。
 そして肩を叩かれ声を掛けられた椎名千秋は、まるで「あんた去年も成人式出てなかったか!?」という驚愕混じりの鬼のような形相で振り向き、
「聞いてくれる!?」
 と、姉の椎名琴音へ対する千の恨みと幾億の憎悪、果ては隣家の中学生は彼氏にフラレてかわいそうだとかPTAは何の略なのかとかいう話題のマシンガンを、一限目の始業のチャイムが鳴るまで相手に向かってぶっ放し続ける。だが今日はその途中で、
『二年三組の椎名さん、二年三組の椎名さん、至急職員室まで来てください、繰り返します、二年三組の椎名さん、至急職員室まで来てください』
 自分を呼び出す放送に遮られた。
 担任の声だった。この学校へ入って、放送で呼び出されるのは初めてである。千秋は職員室へと至る廊下を歩きながら、様々な心当たりを脳裏に浮かべていった。まさか風間と付き合っていることがバレたとか──いや、この学校には人様の恋愛に制限を掛けるような校則は存在しない。だとすればなんなのか、と思っている内に職員室に着いた。
 失礼しまーす、と教室と同じようにスライドする扉を開けて中に入ると、がやがやと騒がしい音が耳に飛び込んでくると共に、すぐさま担任の姿が目に入った。担任は自分の席で電話の受話器を持って立っており、千秋と目が合うとすぐに手招いた。やだなー、怒られるのかなー、と思いながら千秋が歩み寄っていくと、担任は握り締めた受話器を手渡してきた。どうやら自分宛に電話が来たらしい。
 千秋は受け取った受話器を耳に押し当て、眉をひそめながら応対した。
「もしもし……?」
 電話の内容は、簡潔に言えばこうだった。
 あなたの大嫌いなお姉さんが死にましたよ。


ORACULAR‐WINGS■
≪前のページヘ  次のページへ≫
インデックスへ戻る

閲覧室Bへ戻る

時間軸順 ジャンル順 作者順
ORACULAR‐WINGS■