ORACULAR‐WINGS■
 ■朱と蒼のフォトメモリー■    <SCENE4:また機会があったら、一緒に遊ぼーね。>


 さて。ほんの少しだけ、時間を遡ってみよう。
 実は彼女・椎名千秋はひとつだけ嘘をついている。
 それは何か? そう、彼女が『いつもと変わらない一日』と称した今日この日。
 あった。本当は、いつもと全然違うことがこれ見よがしにあった。
 放課後に、トイレから出てきた風間信二と、思いっ切りぶつかったのだ。千秋は激しくこれに三流役者のような、だが彼女にとってはおそらく恐ろしいほどに真に近い表情で、まともに動揺した。そして、その際に出てきた言葉が「何すんのよ、このメガネッ!」である。風間はコンタクトだというのに。彼にコンタクトを勧めたのは彼女自身だというのに。だがそのことに気付くことなく、彼女は風間のほっぺにぶぁちこーんと平手の手首の骨の突き出た部分を叩き込んだのだった。これは間違いなく「痛い」どころか被害者を「死ぬっ……!」と言わしめるほどの破壊力を秘めていたはずなのだが、あろうことか彼はにへらにへら笑いながら、「いやぁ、ごめぇん」などとのたまったのだった。当然千秋は燃え盛る炎にガソリンを放り込まれた。
 千秋は凄まじい形相で、持っていたカバンを放り出し風間を元居た便所に肩を掴んで押し込んだ。言うまでもなくそこは男子トイレであり、さすがに風間も狼狽していた。トイレには他に男子の姿がなかったのが幸いだったが、そんな意識があるのなら、元より千秋はそんな場所に踏み込まない。あちこち泳ぎまくる風間のレンズ越しの瞳を覗き込みながら、千秋は真っ赤にした震える瞳でもって、彼に告げた。
「今まで、ありがとう」
 精一杯考えた、別れの言葉。その酔ってもどすときのような声に、風間の瞳の遊泳がぴたりと止む。
 それから、千秋は勢いで五分間くらい話した。あたしは人を殺したんだよ、人っていうのは姉貴のことで、あたしのせいでね、姉貴は死んだんだよ。そしたら嘘に気付いた。あたしが風間くんを好きだっていう『嘘』に気付いた。あたしはね、姉貴に相手してもらいたかっただけなんだと思う。だから、風間くんじゃなくてもよかったんだ別に。あたしの一番好きな人は、姉貴だったんだ。なのに、なのに、
 そこから先の言葉は、日本語になっていなかった。千秋はそれに気付かず、異次元の言葉を嗚咽混じりに巧みに操り続ける。その間彼女がずっと思っていたことは、「あたしは最低だ、最低女だ、どうしよう、死のう」であった。姉貴の血だらけの財布を見ただけで胃液を逆流させたくせに、「死のう」とか思っていた。
 一方の風間は、彼女の異次元言語を、なぜか理解していた。同時通訳の要領で、彼女の言っている言葉の意味が頭の中に流れ込んでくる。それはとても悲しく、切なく、滑稽で、優しかった。だから風間は、彼女の話を聞き終えたあと、「うん」とだけ頷いた。
 千秋の瞳からぽろぽろこぼれていた涙は、いつの間にか風間の詰め襟に吸い込まれ湿らせていっていた。気が付けば、千秋は彼の胸の中にいる。小便の臭いしかしない男子トイレだったが、その詰め襟からは、外気の甘い冬の匂いがしていた。
 千秋はガキみたいな顔をした風間を、自分より大人みたいだと感じた。
 だから、というわけでもなかった。
 あるいは、自分より大人に見えてしまった風間が許せなかったからなのかもしれないが。
 千秋は風間の頬にキスをした。
 せめて彼の中には、あたしとの思い出がいつまでも幸せなひとときだったと、記憶に残りますように。
 それが、椎名千秋の『さようなら』。
 いつもと変わらない一日の、たったひとつの出来事。
 だからこそ、椎名千秋はこの日を『いつもと変わらない一日』だと思うことにしたのかもしれない。
 彼女自身の記憶にも、そっと残るように。
 それがどういう類の決断なのか、彼女には自覚がなかった。
 千秋は男子トイレを出て、たまたま外を歩いていた生徒にびっくりされて、放り出したままのカバンを手にとって、校舎を出た。
 風間はしばらくの間放心状態で、少しいびつな手形の判を押され、唇の判も押された左頬を片手で押さえていたが、やがて慌てたように腕時計を確認すると、彼もトイレを出た。


 ──さて。そろそろ時間軸を元に戻そうではないか。


 見覚えのある景色。並ぶ禿げ上がった街路樹。乾いた風にかさかさ一個の生命体のように移動し続ける空の菓子袋。人の姿はなく、車も滅多に通りそうにはない、砂にまみれた道路。周囲にはパッとしないビルがぽつぽつと建ち並んでおり、なぜかそこにも人の気配は感じられない。それでも、大声を出せば誰かが出てくるのではないかと思ったりするが、そうするつもりはなかった。
 適当な場所に停められたワゴン車から、千秋は二人の男に両脇を抱えられながら降ろされ、歩いた。後ろ手に掛けられた手錠が皮膚にこすれて、痛い。だがそんな不平も猿ぐつわを噛まされているせいで、言うことは叶わない。
 やがて先導していた車を運転していた男が、明らかに人為的に破った跡の緑のフェンスの穴をくぐり、そこにある建物の敷地内へと足を踏み入れた。自分の脇を固める男二人もそれにならって、男、自分、男の順に身体を横向きにしながら入り込む。ストッキング越しの伸び放題で放置された雑草の感触に、少しだけ鳥肌が立った。
 そして、千秋はその建物を見上げ、見つめる目が心の奥底に落っこちる感触を覚える。
 そこは、いつか風間が連れてきてくれた神殿のような佇まいの廃墟だった。世界で一番綺麗な景色を見渡せる──城だった。
(ごめんね)
 千秋は伏し目に風間に謝った。彼の好きなこの場所が、今から汚されることになるだろう。でも、終わるのならここで終わりたい。だから同時に、風間に感謝したい。この場所へ連れてきてくれたことを。遥か彼方、古の時のようなあの日に、ここから夕焼けに染まる町並みを見せてくれたことを。
 ふとあるとき気が付けば、千秋は埃とコンクリートの破片が散らばった廃墟のエントランスに転がされていた。だがそのまま動くことなく、天井の巨大なシャンデリアを眺めながら、ただ時が過ぎるのを待つ。
 三人の男達は何やら準備をしているようだった。目を凝らせば、彼らは手に手に異様な物体を持っている。成人指定の漫画で見たことのある、いわゆる“道具”だった。だがその中の一人は比較的まともな物を手にしていた。
 ビデオカメラである。
 カメラの男はおもむろにしゃがみ込み、猿ぐつわを噛まされ手には手錠を掛けられ、転がされた千秋の姿を足下から嘗めるように撮影しながら、初めて口を聞いた。
「何でこんなことするか、聞きたい?」
 千秋は頷いた。
「俺をフリやがった、お前の姉ちゃんがムカツクからだよ」
 男はスカートに手を伸ばす。
「そのうちヤってやろうと思ったんだけどな、何か知らねーけど、逝っちまったろ? それじゃー、俺の気は晴れないわけよ」
 スカートの裾をつまむ。
「──妹ちゃんも、それなりにカワイイよねぇ」
 姉に対する恨みなら、全部自分が引き受けようと思う。それで少しでも罪滅ぼしが出来るというのなら、喜んで受け止める。だから、千秋は一ミリたりとも抵抗はしなかった。
 それが、男には面白くなかったのだろう。
「おい」
 彼が、後ろに控えるニヤけた笑みを浮かべた男に声を掛けた。
「お前、ちょっと撮ってろ」
 そう言って男にカメラを手渡すと、彼はおもむろに右手に拳を作り、千秋の上にまたがると、
「──!」
 千秋の視界が回転した。カビ臭い床に勢いよく横っ面が激突する。頬骨と鼻に鋭い痛みが疾り、鼻血が飛び散って、眼前のコンクリートに疾病患者のような赤い斑点を張り付かせた。
 思わずびっくりした千秋は、慌てて視線を戻し、男の目だけが笑った顔を見上げる。
「おっ……。おおおー」
 男はぞくぞくと肩を震わせた。ひどく興奮し出した様子だ。今この瞬間、自分の中にあった特殊な嗜好に気付いたとでも言うように。
 続けて、迷わず男は左の拳をふるった。今度はさっきのよりキツめの一撃。脳味噌がシェイクされたかのような感覚とともに、口の中を思い切り噛んだ。ぶづっ、と肉の途切れる音が喉の奥を貫き、撹拌された脳に直接響いた。猿ぐつわが緩み、べっ、と頬肉を吐き出す。ぼたぼたぼたっ、と赤黒い血が口の端からこぼれた。鼻血も、止まらない。
 千秋は、薄く「ひぃ」と声を上げた。それに男は唇の両端を吊り上げた。仲間から持たせていたカメラをひったくると、彼は目玉にレンズを押し付けて、彼女のスカートに手を突っ込んだ。
 千秋の目から、涙が止めどない血のようにこぼれる。今し方脳を揺さぶられたせいか、視界が緑に染まったり赤く染まったりする。記憶が、ノイズを受け入れる。途端、古い記憶の引き出しが、開放された。
 夜道。コンビニからの帰り。ひとりぼっちで心細かった。懐かしい音。自転車の後輪がパンクして、がたこんがたこんと鳴っている。雨の日。嫌われてるんだと思って家に帰ろうとしたら、呼び止める声。振り向けばそこに、懐かしい人。雨上がり。公園の池に落ちかけた彼。ひっぱりあげる自分。笑った。夕暮れ。見渡した町に、隣に彼がいること。笑った。
 思い出すのは、彼のこと、彼と居た場所、彼と過ごした時間、風間信二のこと。風間。風間、風間、風間、風間──
「たすけて」、と、叫ぼうとした。


 身体が不意に軽くなった。思ったその時には、千秋の上にまたがっていた男は、カメラを目に押し付けたまま、横に吹っ飛んでいた。いや、吹っ飛んでいるのは彼一人ではない。彼が吹っ飛ぶこととなった要因と、一緒くたになって吹っ飛んでいた。
 その手からカメラがこぼれ落ちる。千秋はその様子から、井の頭公園の池でデジカメを取り落としかけた風間の姿を思い出した。だから、すぐさま男にタックルをぶちかまして、ただ今一緒に吹っ飛んでいる真っ最中の人間が、風間信二であることが瞬時に理解出来た。
 刹那の後、複雑に絡まり合った二人はコンクリートが散らばった床の上に、勢いよく倒れ込む。風間の下敷きになった男が、「あがっ!」と鋭い悲鳴を上げた。
 風間が小さなコンクリート片をぱらぱらと詰め襟から落としながら、ゆっくりと立ち上がる。その表情は、今まで誰も見たことのないような鬼のような形相で、肩からは心なしか湯気が立ち上っているように見える。彼は荒い息をつきながら、仰向けに倒れ伏して呻く男を見下ろし、片手で懐をまさぐった。
 しかし、残りの男二人が黙っているはずもない。
「いきなり何だオメェは、コラッ!?」
 手に持った“道具”を武器にでもするつもりなのか、彼らは攻撃兵器にするにはあまりにも滑稽な代物で、風間に飛びかかった。
 風間は逃げなかった。懐から取り出したそれを彼らに向け、「ふッ!」と鋭い呼気を吐き、そのスイッチを押し込んだ。
 ──スタンガン。
 青い電光が迸った。耳障りな激しい電流音が廃墟を満たす。だが、
「っ──!?」
 風間は焦って、スタンガンで宙を引っ掻いた。男二人が、あっさりと避けたのだ。
「風間くんっっ!!」
 千秋が甲高い声で叫んだ。顔面その他諸々の痛みなど無視して、手錠で縛められた両手を使ってバネの要領で何とか立ち上がる。手錠をがちゃつかせながら、足元はふらつかせながら、走った。だが、途中で床の雑草のはみ出した亀裂に引っかかって転倒する。膝を思い切り打った。それでも千秋は毛虫のように這い、再び立ち上がり、
「風間く──」
 瞬間、風間が殴り倒された。ごん、と思い切り後頭部を床に打った。衝撃で一瞬だけ頭部が跳ねる。「ハッ──」と苦しみながら風間が息を漏らすと、先程体当たりされた男が復活し、倒れた風間の肋骨当たりに突き刺すような蹴りを食らわした。
「──てっめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
 千秋が切れて、手の肉が削げ落ちることも構わず、がきん! と、無理矢理片手を手錠から抜き出して涙を撒き散らしながら、特攻した。
 が、ニヤけ顔の男にあっさり足払いをかけられる。再び転倒して、肩を強く打った。
「あ……う……」
 意識が遠のく。真冬の低い空のように、胸の内に全てを閉ざす灰色の雲が広がった。瞼が腫れ上がったときのように重くなり、勝手に閉じようとする。鼓膜が閉塞したような感覚に陥り、男達の「おいおい、死姦になっちまうだろ」という声が飛び込み、そして風間が「ごめん」と言ったような気がした。
(ううん……ありがとうね……)
 千秋は、心の底から、そう思った。


 静かになった廃墟に、男達だけの声が響く。
「何なんだよ、コイツはよォ」
 カメラを持った男が、意識を失った風間の髪を引っ張り上げてぶんぶん揺らした。風間はわずかに顔をしかめる。
「ついでにソイツも恥ずかしい写真撮っといて、ネットに流せばァ?」
 箱に詰め込んだ“道具”をがさごそいじりながら、二人目の男。
「ケツの穴にでも、何か突っ込ませるか? いろいろあるぜ」
 と、三人目の男。
 カメラの男が大笑いした。
「ぎゃははははははッ! それ! それ決定!! んじゃー妹ちゃんはあとのお楽しみにしといて、先に汚いモン撮影しとくか」
 その時だった。
 彼らの背後の扉がいきなり轟音を立てて、観音開きの限界に挑戦するかのような形に歪んで蝶番ごと吹っ飛ぶ。扉は一度床でバウンドすると、手裏剣のように回転しながら奥の壁に激突してばらばらに砕け散った。
 三人は揃って口を半開きにして、扉の消失した出入り口を振り向く。するとそこには、
『ふもっふ』
 ボン太くんがいた。
『………………っ!?』
 全武装スタンバイ。
 ボン太くんはくりくりとした愛らしい瞳を、冷徹に輝かせた。


 信二が意識を取り戻すと、最初そこはどういう場所なのかがまったく見当がつかなかった。
 だが、目の前で巨大なシャンデリアが砕け散って床にうずくまっているのを見て、ここが廃墟の中であることを朧気ながら理解した。
 あちこちから細い煙が上がっていた。ガラスの破片が散らばり、床を固めたコンクリートには何かの木片が、来たときより明らかに増えている亀裂の隙間に突き刺さっている。不思議なことに自分のいる方には被害はなかった。
 床には無数の弾痕があった。信二は手近なそれを手で触れてみて、
「三八口径……?」
 ぽつりとつぶやいた。途端、どこからか声が聞こえてきた。それは弱々しく、もはや断末魔に近い。
『うぐぅ……もう二度としませんもう二度としませんから、許して……もう二度と……もう二度と……』
『か、家族は関係ないですぅ……や、やめて……お願いですぅ、家族だけは……お、お母さぁ〜ん!!』
『ケツの穴はもう勘弁して。ケツの穴はもう勘弁して。撮影しないでぇっ!! あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ』
 聞くからに色々な意味で痛々しい。もはや再起不能だろう。
「!」
 信二は刹那、ようやく記憶の糸が繋がるのを感じて、椎名千秋の姿を探した。が、彼女はすぐ隣で壁にもたれかかり、静かな寝息を立てていた。ほっと胸を撫で下ろすとともに、信二は彼女の足や手などに湿布や包帯が巻かれていることに気付いた。いや、彼女だけではない。よく注意すれば、自分にもその処置は施されていることがわかった。誰かが治療してくれたのだろう。信二には、その“誰か”が一体誰なのか、十分以上に心当たりがあった。
(そっか……)
 信二は左腕の腕時計型のデジタル・マップを見た。GPSを搭載したそれは、小範囲でありながらも、今日トイレの前でぶつかったとき、彼女のカバンと制服に仕掛けた小型発信機の電波を実に正確に追い掛けてくれた。おそらくそれをキャッチできる端末か何かを、“誰かさん”も持っていたのだろう。そして自分と同じく、制服に取り付けた側の発信機がいきなり高スピードで移動し始めたのをきっかけに、彼女を追い始めたのだ。
“彼”には全く、たくさん借りを作ってしまった。このGPSといい、スタンガンといい。あまつさえ助けに入ってくれるとは。
 自分が情けなくて情けなくて、本当にしょうがなかった。
 信二は隣を見た。千秋が静かに胸を上下させている。
 彼女が聞いていないことをいいことに、話をしてやろうと思った。
 正面の扉の無くなった出入り口から、廃墟の至る隙間から、茜色の光が建物の中に射している。
「僕、思ったんだけどさ」
 胸がどきどき言っている。全身の血液が顔面に巡っているような火照りに、信二はぼろぼろになった廃墟の隙間から吹き込んでくる寒風をむしろ涼しく感じるが、千秋はそうでないだろうと思い、彼女の身体に寄り添った。
「椎名さん、きみのお姉さんは、たぶん、椎名さんのことがずっと好きだったんだと思うよ」
 彼女は本当によく眠っていた。触れ合った肩に、彼女の呼吸が伝わってくる。
「だってさ、嫌いならさ、いつも椎名さんが言ってたみたいに、わざわざ嫌いなひとの自転車には乗らないと思うし、ケンカだって、たぶんしないよ」
 ──信二は気付いていない。
「ただ、どんな形でもいいから、コミュニケーションをとろうと思ったんじゃないかな。……そういう気持ち、お姉さんのことが好きだった椎名さんなら、わかるよね……?」
 彼女が、起きていることを。
「──相良くんがさ、最近おかしかったんだよ。海兵隊のM6みたいに、もろもろのバランスが悪かったっていうか。ともかく何だか油を差してあげたいぐらいに、なんか動きが悪かったんだ。……このたとえ、ちょっとヘンだね。メチャクチャだね」
 彼女が、自分の話を聞いていることを。
「でさ、ようやく昨日、相良くんの最近の不調の理由がわかったんだ。──いつもはさ、僕と相良くんって、某国の情勢とか最新鋭のASのこととかさ、空を飛んでる輸送ヘリとかをぼーっと眺めては、なんかソレっぽい会話してたはずなんだよね。それをここしばらくしてなかったみたいだから……」
 信二は、気付かない。
「だから相良くんは、僕となんとかコミュニケーションとろうとしてたみたい。でも彼ってさ、ほら、そういう面では不器用だから……」
 千秋はずっと寝息を立てるふりをしていた。
「だから、だからさ、椎名さんのお姉さんも、たぶん……。……相良くんは『希望的観測は危険だ』って言ってたけどさ、こいうのは別だよね。誰も損しないしね」
 茜の廃墟に伸びる二つの影のかたわれが、すっくと立ち上がる。座ったままでいるのが苦痛だったので、信二はまだ痛む身体に顔をしかめながら、ちゃんと病院には行くべきだな、と思って一歩踏み出した。途端、足がガクガクと震え出す。痛みのせいだけではない。自分が、あんな突撃をぶちかましたことが、とても信じられない。どちらかというとまだ、かの物理学者ホーキングが「へ? 宇宙って何スか? 地球はゾウとカメっスよ」と発言したほうが、まだ真実味はあると思う。だが痛みは現に存在するし、今頃身を苛む恐怖も心拍音を高めている真っ最中である。だからよろよろとしながら信二は、
「……もっと身体鍛えよ」
 二歩、
「せめて相良くんレベルには」
 三歩、
「遠いかなぁ……」
 ぐるっと、バランスを崩しそうになりながらも踵を返して、戻る。
 そして、気付いた。
 滲む夕焼けの光が、彼女が目を開けて黙って自分の方を見ている姿を、幻想的なスポットライトのように照らし出している。
「大丈夫だよ」
 彼女が言ってくれた。
 信二は顔が真っ赤っかになるのを感じたが、背景赤いからばれないばれない、と自分に言い聞かせて、なるたけ笑顔を浮かべてみた。
 彼女が立ち上がろうとしている。信二は慌てて手を伸ばし、千秋の手をとって、起き上がらせた。その際に、涙が出ないよう、最大限の努力をした。
 信二は、自分の決断の意味を知っている。
 彼女の手を握っているはずなのに、どうしようもない寂しさが込み上げてくる理由を知っている。
 それは寒い寒い、冬の日のことだった。
 クリスマスが、近かった。
 遠くから、パトカーのやってくる音が聞こえてくる。
 終わりの音のように。


 翌日学校に行くと、みんなにびっくりされた。信二は「今頃椎名さんも見られまくりだろなぁ」と思いながら、同時に彼女なら「喧嘩した」と言い訳しそうだとも思った。いてててて、とつぶやきながら包帯だらけの身体で教室の席に着く。無論クラスメイトや担任からの質問の十字砲火をくらいはしたが、そのへんは適当にかわしておいた。小野寺孝太郎は「女か! 女にやられたんだな!?」などと言ってきたが、これはもう論外。
 昼休み、昼食を終えると生徒会役員である信二は生徒会室に向かった。ちょっとした会議を終えると、備品のノートパソコンをいじっていた宗介に、信二は声を掛ける。
「相良くん、昨日はありがとう」
「何の話だ?」
 宗介は、マウスをかちかち鳴らしながらスクリーンから目を離さず、淡々とつぶやいた。
 信二はニコニコしながら、
「────。発信機のことだよ。貸してくれて、ありがとう」
「────。ああ」
 宗介が相変わらずのむっつり顔で、パイプ椅子を軋らせながらこっちを振り向き、
「あの取り付け方は頂けない。制服や鞄などに付けて、もし途中で彼女が発信機を取り付けた装備品を脱いだり外したりしたら、どうするつもりだったのだ」
「うん、そうだね。あれは危険だった」
「気を付けることだ」
「うん、気を付けるよ」
 宗介は再びノートパソコンに向き直った。よく見たら、彼はギャルゲーをプレイしていた。しかも今やっているのは十八禁シーンど真ん中だ。宗介曰く、『生徒会安全保障問題担当として、高校生の恋愛についての習慣を学んでいる』のだそうだが。その彼は「むぅ」と唸りながら、アニメタッチの女の子キャラの微妙な部分を無意味にクリックしている。信二は改めて彼を「大物だなぁ」と思いつつ、
「ねぇ、相良くん」
「何だ」
「発信機とGPSウォッチ、もらっちゃっていいかなぁ」
「だめだ。すぐに返せ」
 信二は溜め息をついて、ギャルゲーのアドバイスをした。


 姉が死んで、一週間以上が経過した。
 いい加減肩の包帯を取って、関節をこきこき鳴らしながら、ブラジャーのホックを留めて、ブラウスを着て、スカートを穿いて、ブレザーを着込んで、さて、椎名千秋は腰掛けていたベッドから腰を上げる。
 一階へ下りて、居間の仏壇の前に正座をする。蝋燭に灯った火に線香の先端を当て、香炉に突き立てると、彼女は合掌して短い黙祷を捧げる。やがて静かに目を開けると、傍らに置いたカバンを膝の上に載せて、
「じゃあ、行ってくるね。お姉ちゃん」
 遺影の中の椎名琴音は、柔らかな笑みを浮かべている。


 唐突に、何かが変わったわけではない。父と母は、まだ暗い面持ちで朝・夕食を千秋と共にしている。だから、自分がそれまでの姉に代わって、食卓を盛り立ててやらねばならない。それは自然な役回りで、至極当然なことなのだ。だから、何かが変わったわけではない。強いて言うならば、あれから夜道が一層恐くなってしまったのだけれど。
 ただ、そんな姉の代役に徹することが出来るのは、それは風間のおかげかもしれない。風間の言葉が、今でも耳の奥に残っている。本当は姉は、自分のことを好きでいてくれたんじゃないかという、希望。姉は死んでしまったけれど、そう思うだけで、千秋の心は幾らか救われたような気がした。
「おはやうー」
 教室にたどり着いて、ドアをがらりと開けて第一声。いつもと変わらない一日が始まる。
 わいわいがやがやと騒がしい教室の唯一の聖域、窓際。千秋はそちらに机をくっつけて窓から顔を出し、顎の下に両手を敷いて空を上目遣いに見上げた。
 鳥の影が高く澄んだ蒼穹を斜めに横切った。雲の手が太陽をかすめ、冷たい風が色褪せた木々を揺らす。そんな風景に抱かれながら、千秋は片手の五指を黒髪に突っ込んで、目を閉じた。
 この教室の隣には、風間のいるクラスがある。そう思うだけで、胸で呼吸が固まったかのようにいとおしく、とても悲しくなって、涙と鼻水がぼたぼたとこぼれ出す。
 千秋は誰にも見られないように涙を拭いながら、苦笑を漏らす。
 別れを切り出したのは自分だというのに。それもひどい別れの告げ方だった。なのに、彼はそれを受け入れて、あの日、彼は自分を自転車の後ろに乗せて一緒に帰ってくれた。
(風間くん)
 止まらない涙と鼻水に手のひらがべちょべちょになって、彼女はけして届かない声でその名を呼ぶ。
 風間のことが好きだった。頭がヘンになるほど、風間のことが好きだった。なのに自分達は、別れを選んでいた。今さら気付いた、いつのときもけして嘘ではなかった本当の気持ちが、胸に深く傷をえぐっていく。
 いつか、この気持ちも嘘のようになくなり、また違う誰かを好きになるときが来るのだろうか。今の千秋にはそれがとても信じられなかった。この恋もいつか忘れてしまって、どこかで自分は、違う誰かの背中を見ているのだというのだろうか。そんなのは、そんな自分は、いやだ。
 空が高い。世界が冷たい。鳥が飛んでいる。季節はまだ変わらない。されど、時の流れは残忍だ。何でそんな平気な顔してひとの想いを真っ黒に塗り潰そうとしてくれるのか。でも、それは本当に悲しいことなのか、それとも、そうではないのか。千秋にはわからなかった。どうしてもわからなくて、苦しむ。眠れない夜が続きそうだった。だけど、今はとにかく泣き止もうと思う。だって、格好悪いじゃん。


 千鳥かなめは校内に出張販売に来ている『ハナマルパン』のパンを、他の生徒達とのデッドヒートの末に何とか獲得しほくほく笑顔で教室に帰っていく途中、向かいから同じくパンを抱えてえっほえっほと風間が走ってくるのを見た。
 それはとりたてて珍しい光景でも何でもなく、むしろ変わり映えしない日常という平和の光の産物だ。だからかなめはごく普通に「パシリかしら?」などと思ったりしたし、それ以上構いはしなかった。教室には恭子達がお昼の弁当を開けて自分のことを待っている。急がなくては。
 そのとき、後ろから誰かが歩いてくる気配があった。何とはなしに少しだけ首を動かし振り向けば、そこにいたのは隣のクラスの椎名という女子だった。いつもは飛び跳ねるぐらいの元気を爆裂させているというのに、今日はどこか大人しい。身内に不幸があったと聞いたし、そのせいかもしれないな、と思いながら歩く。彼女は自分より少し早めの歩調だったので、あっさりと追い抜かんとしてくる。かなめの中に、あたしも急いでるんだっつーのー、ぬおー、とかいう対抗意識が燃えて、さりげなく抜き返そうとする。その瞬間に、向こうから走ってきていた風間とすれ違って、同時に椎名が自分より二歩ほど手前に歩み出た。かなめは立ち止まった。
「ん……?」
 後ろに走り抜けていった風間を、自分を追い抜いていった椎名を、交互に見る。
 二人の距離は平行線上に、永遠に開いていく。かなめはそれがどうした、と思って止めていた足を再び歩ませ始めた。
 気のせいだと思うことにする。廊下の窓から、ハナマルパンのパン売り場の前で押し合いへし合いを続ける生徒達の怒号が届いてくる。その中から、「もうカナちゃん、遅いよぅー」という恭子の声が聞こえてきたような気がした。もちろんそれは、幻聴だった。


 このくそ寒い中、風間信二と小野寺孝太郎、そして相良宗介の三人は校舎の屋上に出てやや強めの風に髪をむっちゃくちゃにされながら、給水塔の正面に座り込み昼食をとっていた。
 信二は焼きそばパンにパックのコーヒー牛乳、オノDこと小野寺はカレーパンとあんぱん、サンドイッチにおにぎり二個とパックの牛乳。宗介に至っては肉厚のナイフに干し肉をぶっ刺して食していた。
「いやー、こういう環境下だと他に人がいなくていいなー」
 サリーちゃんのパパみたいな髪型になったオノDが、パックの牛乳をちゅーと吸いながら朗らかに言った。
「僕達がここに来なければならなかった理由を説明してくれないかな、オノD」
 ぶるぶる震えながら、口の端から焼きそばを垂らしつつ、信二。それにオノDは飲み尽くした牛乳パックをぎゅっと握りつぶすと、突き刺したままのストローからぴゅいっ、と飛び出した少量の牛乳が彼の詰め襟に引っかかった。だがオノDは気にした様子すらなく、
「サバイバルだっ!!」
 わけのわからないことを言った。信二は眉根を詰めて目を細めると、口の端から垂れ下がったままだった焼きそばをちゅるるっ、と吸い取った。そして、溜め息をつく。
「サバイバルっぽいかなぁ」
 宗介に話題を振ってみた。すると彼は干し肉付きナイフの明度を確かめるかのように、太陽の輝く方向へ刃先を向けながら、
「む。この程度の風ならば、問題ない」
「だってさ」
「うるせぇ。この際何だっていいんだよ、何だって」
 我が儘だなぁ、と信二は再び溜め息を付きながら、腰を上げた。
「おっ、どこ行くんだよ?」
「ちょっとそっち行ってみるだけだよ」
 上履きですたすた歩く。耳元では風の音がしていて、頭の上では髪の毛が縦横無尽に踊っている。信二は立ち止まり手を伸ばすと、屋上にそびえ立つフェンスの隙間に指を差し込んで掴み取った。
 ここからはグラウンドが見える。少人数でルール無用のサッカーを行っている男子、五時限目の体育の授業のために早めに着替えて出てきた生徒、グラウンドを一生懸命走っている女子の一団、ジャージ姿で消えかかった白線を引き直している体育教師。みんな若いなぁ、と思う。
 信二はズボンのポケットに手を突っ込みごそごそ探ると、デジカメを取り出した。片手で中の画像を片っ端から見ていく。あらゆる角度で撮影されたASや航空機群がコマ単位の動画のように表示されていく。そして、最後には、
「…………」
 彼女の笑顔があった。
 あの廃墟の屋上でこっそり撮った、町ごと茜に燃える椎名千秋の横顔。
 自分はこの写真を見て、あの時、宗介に協力を申し出て、彼女の後を追ったのだ。
 今でもその時の気持ちは変わらないでいる。
 それをきっと彼女も、分かってくれている。
 だから、二人は他人同士に戻った。
 お互いの弱い部分を知っているけれど、今でも彼女のことが好きだけれど、だからこそ、このまま変わらないでいる努力は必要なんじゃないか、と信二は思う。もしこのままでいれたなら、二人はきっと、良い方向へ向かえると思う。それが二人、ずっと交わらない平行線の上に立つことになるのだとしても。
 信二は泣き笑いのような顔で、二度と色褪せることのないデジタルの記録に残った、お互いが確かに恋をしていた瞬間を切り取ったその写真に、不思議な感慨を込めてじっと見入る。
 その時、いつの間に近付いてきたのか、やおら隣からオノDが顔を出して、デジカメを覗き込んできた。
「何見てるんだよ」
 信二は慌てて一つ手前の画像を表示する。
「なんだよ、またASとかヘリコプターとかそんなんかよ」
 はははっ、と信二は取り繕うように苦笑いした。だが、またその時、オノDとは反対側から魔の手が。
「む。それは興味深いな。俺にも見せてもらおう」
 宗介が完全に油断していた信二の手から、いきなりデジカメを取り上げた。信二は慌てて手を伸ばし、彼の手に身体ごと肉薄する。
「む。む、む、む、む、む、む、む」
 宗介はいじめっ子のように、反射的に信二にカメラを奪い返されまいと、彼の届かない位置にまで高々とデジカメを持った手を掲げる。だが信二は諦めない。思い切りジャンプをし、がしっ、と両手でその手に掴まった。そのまま力ずくでカメラを奪い返そうと奮戦する。
 それをオノDが呆れた表情で見守っていた。
「何やってんだよ、お前ら……」
 その時、組んずほぐれつやったおかげで、偶然シャッターが切られてしまった。
 あとで確かめると、その時の写真には、おかしなアングルになってしまっているものの、奇跡的に三人が枠内に収まっている写真が撮れていた。
 風にいいようにされたおかしな髪型のオノD、「どうしてそこまで」と言えるほど無表情でカメラ目線の宗介、その宗介の手に押さえつけられている信二。角度の関係でごちゃごちゃな立ち位置になってしまっている三人だったが、それがデジタル・カメラに収められた最後の写真となると、信二はさらに深く切ない感慨を覚えずにはいられなかった。
 これは、大切な瞬間なのだから。
 これは、自分の恋が終わりを告げた瞬間なのだから。
 これは、いつか思い出に変わってしまう、かけがえのない一瞬なのだから。


 友達同士机をくっつけて、千秋はハンカチの上に広げた弁当箱に箸を運び、タコさんウインナーを転がす。
 ふと背中を振り向き、窓から立ち上がる雲の浮かぶ狭い空を見上げた。
 視界の端。寒々しい太陽の逆光に、黒い小さな影が横切り風を切った。
 鳥が宙を舞う。
 軌跡に羽が残る。


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