ORACULAR‐WINGS■ |
■朱と蒼のフォトメモリー■ <SCENE3:冬です、寒っ。> |
「うわっ、雪だよ、カナちゃん」 ホームルームも終了し、さて帰ろうかと風間信二が鞄に机の中の教科書類を詰め込んでいたところ、同じクラスの常盤恭子が、おさげ髪がぴょこんと動きそうなまでの喜びを湛えた声で、窓際に立ちながら言った。 それに信二は首を動かし、外を見る。墨色のような空から、白い欠片が舞い降りていた。 「おおっ、珍しいわね。ちょっとどいてどいて」 信二が座る席の後ろを通り、千鳥かなめが恭子のいる方に寄った。窓枠に手をつき、がらりと窓を開けると、外に片手を伸ばす。そして彼女が「うっひゃー! ちべたい!」と酒の味に酔うオヤジのように身を震わせると、オノDこと小野寺孝太郎に「千鳥、寒ィーよ!」と怒られた。かなめは素直に謝ると、窓を閉めた。それでもなお、恭子と並んで穏やかに降り続ける雪を見つめ続ける。 信二はひとしきりかなめの尻に見入ると、席を立ち廊下へ出た。途端、猛烈に冷却された空気が、肌を突き刺してくる。信二は身を縮ませながら歩き、二年三組の教室の前を通り過ぎた。 (今日、椎名さん見掛けなかったな……) 廊下の窓からも見える降り注ぐ雪に、信二は白い吐息をつく。いつもなら休み時間や放課後などにお互い顔を合わすぐらいのことはしていたのだが、今日は一日中、全く椎名千秋の姿を見ることはなかった。ためしにこっそり彼女の教室をのぞいてもみたが、いなかった。 その時、後ろから声を掛けられた。オノDだ。彼の他にも相良宗介、恭子、かなめの姿もあった。五人で途中まで一緒に帰ることになった。 その途中で、最近信二は付き合いが悪くなった、という話題になった。信二は「そんなことないよ」と否定するが、オノDはしつこく食い下がる。いーや、怪しいね、さては女か! 女だな!? などと冗談めかして言うものだから、信二は不機嫌になって「違うよ」と冷徹に否定した。本当は違わないのだが、よっぽど「そうだよ」と肯定してやりたかったが、信二は堪えた。それは自分と千秋、そして宗介のみが知る秘密なのだ。他の誰にも教えるつもりはない。 しかしオノDはしつこかった。宗介に「風間に発信機仕掛けようぜ」、と本人は聞かれているつもりではないらしい丸聞こえの小声で言っていた。だが宗介はそれにあっさりと「必要ない」と断った。その隣で、かなめが「でも最近、風間くん、ほんとヘンじゃない?」と言ってくる。信二は彼女とは視線を合わすでもなく、「そうかな」と曖昧な言葉を漏らす。 「うん。ソースケとあんまし話さなくなったよね」 そうだったかな、と思って信二は宗介の方を向くと、彼はむしろかなめに向かって、「む。問題ない」と言った。宗介はどちらかというと、今は降りそそぐ雪の方を気に掛けているようで、電線で区切られた空を見上げながら歩いている。その目はどこか懐かしいものを見ているようであり、同時に危険な物を見ているようでもあった。 信二のことに関しての話題は、恭子が駅前のクレープ屋の話をし出したことによって、結局流れていった。信二はその会話には参加せず、椎名千秋のことに思いを馳せる。彼女は今、どうしているだろうか? 彼女は今、何を考えているだろうか? 彼女はどうして今日、姿を見せなかったんだろうか? 残念だなぁ、一緒に雪を見たかったのに。明日も降るといいなぁ── 「かーざまぁ!」 その時、いきなり後ろから腕を回され、首を絞められた。相手は確かめるまでもない、小野寺孝太郎だ。信二はその腕を引き剥がそうと必死になりつつ、「うぅぐぁぁぁぁ」と唸りながら、 「な、なにするんだよ! いきなりっ!」 「いきなりじゃねーよ!! さっきから呼んでるだろ! お前、今何考えてた!? 女か! 女のことだな!?」 「だから違うって……!! ゲフッ」 「オノD、どーどー。風間くん死んじゃうって」 恭子のやけに落ち着いた声に、ようやく解放された信二は、けふけふっ、とぜんそく患者のように咳をしながら制服の襟元を正した。そして「で、何なの?」という目をオノDに向けると、彼に代わるようにして恭子が人差し指を立てながら言った。 「んとね、これからみんなで駅前のクレープ屋さんに食べにいこうか、って話をしてたの」 それに信二は自分でも愛想もくそもないなと思えるほどの口調で、「へぇ」と言った。視界に雪はちらちらと舞い、上空はまるで夜の静寂のように黒く濁っている。雨の時ほど不快に思わないのは、きっと雪の綺麗なイメージのおかげで、あと無神経にばかすか降ったりはしないからだと思う。 「風間くん、行かないの?」 かなめがどこか訝しげに聞いてきた。信二はうーんと唸る。別にクレープなんて食べたくない。 「あ──いや、僕も行くよ」 信二は曖昧に笑って応えると、かなめ達の歩調のリズムに合わせて歩き出した。だが、そのリズムはすぐに崩れ始め、彼らに「ちょっとみんな、歩くの速いよ」と言おうとして──自分が遅いのだということに気付く。 しばらくして、雪は誰に断ることなく、ひっそりと止んでいった。 相変わらず町は一足早い眠りに陥るかのような暗さを保ち、もはやその微睡みを離したくないのか、陽の光を遮る雪雲を抱き枕の代用品として空に浮かせ続けている。信二はそんないい加減でアンニュイな空の下を駅から自転車で走り抜けながら、自身もアンニュイな状態に陥っていた。クレープ無理して食べ過ぎた。オノDの自白強要チョークスリーパーがまいった。 これから家に帰ってどうしようかと思う。いつもどうもしていないような気がするが、今日はなぜか何かしなければいけない気がした。ずっと何かが引っかかっている。自分は何かをしなければいけない。それは何であるのか。思考が現実から分離して、身体はほぼ本能的にペダルを漕ぎ続ける。僕は何をすればいいんだろう。ええと、何だったかな── 思い出した。 (おととい出たASファン、買ってなかった) 進路変更。信二は見るからに冷えきったアスファルトの先を見据えると、行き付けの本屋に至る十字路を目指した。 そして、それは偶然視界に入った。 再び進路変更。前輪を持ち上げて、脇道にがたん、と下ろす。ペダルを漕いだ。前を歩く背中に向かって。前を歩く女性に向かって。前を歩く陣代高校の制服に向かって。前を歩く肩で切り揃えた黒髪に向かって。前を歩く椎名千秋に向かって。 「椎名さん!」 ぴくん、と肩を震わせ、彼女が立ち止まった。 信二は後輪にブレーキをかけてゆっくりと停まると、片足を支えに自転車に乗ったままその場に立つ。その顔には小さな安堵と喜び。たった一日見なかった彼女の後ろ姿が、百年振りの再会のように霞み、ぼやけながらも光っているように見えた。 彼女が振り向く。 信二のバカみたいな笑顔が輝きを増す。 雪が降った。 二人の間を、というロマンチックでB級な効果ではないものの、それでも信二の視界を遮ったのには違いなかった。雪はそのまま白いノイズと化して、意識すら白濁しかねないほどに、町の全てを埋め尽くすかのようにして降り注ぐ。 大気が動く音がする。誰かの呼吸の白が空へのぼった。風のワルツに雪が舞い踊る。静謐な幻想風景に 心奪われて、音が閉ざされる。彼女の呼吸も、心音さえも。信二のバカみたいな笑顔が次第に消えていく。 彼女は背を向けたまま、肩越しにこちらを顔半分だけ振り向かせている。その前髪は少し乱れているように見えた。 信二はもう一度彼女の名を呼んでみようとした。だが、やめた。なぜかはわからなかった。いや、わかっている。はっきりとその理由はわかっている。信二は息を呑んだ。彼女に対して、恐いと思ったから、息を呑んだ。 やがて彼女がゆっくりとつぶやくのが、はっきりと聞こえた。 「……来ないで」 雪が止んだ。解放された視界に、彼女の姿はもうなかった。追おうと思ったが、思考は身体を支配できず、信二は当初の目的であった本屋に向かった。そして、死ぬほど後悔する。追えば良かった。信二は本屋で軍事書籍を立ち読みしながら、そう思って涙ぐんだ。なぜなら、もう二度と彼女に触れることは出来なくなってしまったと、わけもなくそう気付いたからだった。 彼女の姉が踏切事故で死んだことを、その日のニュースは報じた。 風間に会ったら話したいことがあった。だが、そうすることは出来なかった。千秋はずずっと鼻をすすりながら、自室のベッドの上で履いたストッキングを腿まで引っ張った。窓の外を見て、天気を確認する。分厚い灰色の雲が空を覆っている。最悪だった。天気予報を見ていなかったのでわからないが、たぶん雨が降ると思うので傘を持っていこう。 風間に会ったら話したいことがあった。だが、そうすることは出来なかった。それは風間でなくてもいいからだった。相手が風間でなくても、話を聞いてくれるなら犬でも観葉植物でも七味唐がらしの空きビンでもいい。そうわかったからだった。姉が死んで、それがよくわかった。 自分は、風間に一般の意味での特別な感情は一ミリたりとも抱いちゃいなかった。それは最初からわかっていたはずなのだ。風間は、自分の恋愛対象にはなりえない。それを何だかよくわからん拍子に風間を『意識し出した』という錯覚に陥って、恥知らずにも自分は、月9ドラマのヒロインみたいな気分になっていた。風間に心の中で謝る。あたしの、勘違いでした。 千秋は喪服に着替え終えると、ベッドの上に膝で立っておもむろに窓を開けた。外ではびゅーびゅー風が吹いている。当然めちゃくちゃ寒い。この低気温の中でとぽとぽ出歩いていたら、途中で冷凍保存されること必至だ。 だが、千秋は窓を開け放ったまま、風の音に紛れさせるようにぼそぼそ喋り出した。相手が風間でも犬でも観葉植物でも七味唐がらしの空きビンでもいいのなら、風でも町でも世界でも問題はないはずだった。 「あたしの姉貴がね、あたしのせいで死んだんだよ──」 千秋は姉が電車に跳ねられ数十メートルの距離をぶっ飛び、即座に死んだ踏切のあたりに視線を据える。遮断機の下りるカンカンカンという音が聞こえてくるような気がした。千秋は痛々しい表情で痛々しい言葉を続ける。町は深々と冷気をかぶり続けていた。よし、話を聞いてやろう。だから何もかもさらけ出せ。俺は君の味方だ。千秋には町がそう言っているように聞こえて、いよいよ自分の脳味噌が腐り出したかと自嘲しながら、 ──もしもし、千秋? お姉ちゃんがね、琴音がね、死んだって。母さん信じられない。今から病院行くから、千秋もすぐに来なさい。着替えなくていいから、そのままで、すぐに来て。じゃあ、切るわね。 職員室で受け取った、黒い受話器の向こうから聞こえたいつもと違う母の声。それが一字一句、どこにそんなものを記憶している余裕があったのかと疑うほどに、千秋の耳の奥に再生される。それをしっかりと胸のどこか空虚な部分を埋めるために受け取りながら、千秋は己の罪と、黙っていると自分を押し潰してしまいそうなほどに暴れ回る感情を、空の彼方の懺悔室に居る神父に向かって告白した。 人間は、生まれてからその目で見、感じたものは全て脳の皺のひとつひとつに刻み込まれているという。ただ、無数にあるそれらの引き出しを開ける術を、ほとんどの人間は知らない。ただ、ふとしたきっかけで、その引き出しが不意に解放される瞬間が、人生にはしばしばある。今千秋に起きている幼い頃から現在へ至る記憶との邂逅も、まさにその瞬間だと言える。 それはもう、数十億年前のことだと思う。幾つもの偶然が重なって地球が誕生したころ、自分と姉貴は仲が良かった。自分と毎日遊んでくれるお姉ちゃんが大好きだった。お姉ちゃんのお下がりを喜んで着た。良家のお嬢様っぽくお姉ちゃんのお古を着こなした自分は優雅に一回転してみせると、「にあう?」とよく聞いたものだ。それにお姉ちゃんは「似合う似合うー」と喜色満面の笑みでぱちぱち手を叩いてくれたものだった。一緒に風呂もよく入ったので、姉の身体の変化にいち早く気付いたのも、自分だった。わーお姉ちゃんおっぱい大っきいねーもみもみもみもみもみもみ。姉は自分を置いて、どんどん大人の女になっていった。 千秋が小学五年になると、姉は中学三年になった。それから、自分は姉に対してあまり口を聞くことがなくなった。お下がりを着るのも嫌になった。一緒に風呂にも入らなくなった。姉が嫌いになった。 たぶん、姉が中二のころ、家に男を連れてきたことが原因だったと思う。姉が汚らわしいばい菌にでも汚染されてしまったかのような衝撃を覚えたからだったと思う。 そしてその半年後ぐらい、姉は自分を映画に誘おうとしてくれた。何とか自分と元通りのコミュニケーションをとろうと思ったのだろう。だが、自分は思いきり憎まれ口を叩いて映画のチケットをびりびりに破いて、しまいにはストレートに「死ね!!」と言い放った。そのとき、姉はとても悲しそうな顔をした。それが、姉が自分を妹として扱ってくれた、最後の瞬間だった。それからは、理由なんてどうでもいい喧嘩しかしていない。 千秋はぽろぽろ涙をこぼしながら、乾燥した冬の冷たい風に頬を洗わせた。あたしはなんてヒドい奴なんだろう、と思った。姉は何にも悪くないのに、どうしてこんなことになったのだろう。 姉は今でも憎んでいるだろうか。妹のブレーキの壊れた自転車に乗って出勤さえしなければ、姉は死ぬことなどなかったのだ。姉を一方的に嫌い、姉を一方的に責め立て、そして姉の命を一方的に奪った。もうこの世にはいない姉の狂おしい感情が、自分の胸に流れ込んでくるようでとても苦しかった。姉が死んだときに持っていたという、レシートと福沢諭吉と夏目漱石とアルミと銅とキャッシュバックのカードとレンタルビデオの会員カードと一度も使っていないテレカの入った財布に付いていた血の染みが、彼女の遺した呪いであるかのようにも思える。 姉は妹を憎んだまま、妹に殺されて逝ってしまった。 千秋は窓を閉め、ベッドに大の字になって虚ろに霞んだ目で天井を見上げた。静寂に澄んだ空気に、下の階で喪服に着替える父と母の衣擦れの音が伝わってくる。 千秋は瞳から右のこめかみに向けて涙を流しながら、これが自分で自分を殺したいと思う人の気持ちかな、と思った。 翌日、陣代高校二年四組の教室では、朝も早くから死体が発見されていた。その死体は椅子に腰掛け机に突っ伏しており、ぴくりとも動こうとはしない。おそらく耳元でフーリガンが鬼神のように地を揺るがす絶叫を上げても、反応することはないであろう。死体である意義とは、そうした状態であることなのだから。 死体の身許はあっさりと割れていた。小柄な身体に瞳にコンタクトレンズのはめられたガキみたいな顔、姓は風間、名は信二。人呼んで“爽やかな変態”。 そんな故・風間信二を呼びかけるかのように、彼の傍らに何者かが立った。その何者かが発する独特な硝煙の匂いが、何とのそりと糸を引く納豆のように、死体であった風間信二の顔を起き上がらせた。彼の伏せていた机は、よだれでもべったり張り付かせたかのように濡れた茶色の光沢を放っている。彼は死んでいたのではなく、ちゃんと規則正しく呼吸をしていたという証だ。 信二が傍らを見上げたそこには果たして、 『ふもっふ』 片手を挙げたボン太くんが立っていた。 ずんぐりとした胴体に、無駄にでかいへんぺい足。そしてどう足掻いてもかゆい部分には永遠に届かなさそうな極端に短い両手に、くりくりとした愛らしい両瞳に犬とネズミの可愛い部分を微妙な配分でミックスしたような顔立ち。どこをどう見てほっぺたをつねって現実を見直してみてもそれは某遊園地のマスコットキャラクター・ボン太くんなのであった。 信二はどうしよう、と思った。 「なんで学校でそんな格好してるの? 相良くん」 とりあえず極力平静を取り繕ってそう言ってみることにする。するとボン太くんは不意に短い両手でやりにくそうに己の首をもぎ取ると、その下から壮絶な血しぶきが噴き出すこともなく、代わりに何回りも小さな、ボン太くんとは対照的なむっつり顔の少年の首を出した。 相良宗介である。彼は片腕の脇にボン太くんの生首を抱えながら、 「以前、旧知の武器商とこの装備の開発に着手したのだが、ほとんど買い手が付かなくてな。その際の反省点を活かして現在カスタマイズ中だ。今着ているこれはとりあえずの試作型で、前回と比較すると足音がしなくなっている。今、実地で慣らしてみているところなのだが」 「硝煙の匂いがするよ」 「むぅ」 話はそこで途切れた。信二はわざわざ学校でやることないのに、と思いながら宗介の用事はそれだけだと勝手に判断して再び机に突っ伏した。 それから二分、三分。傍らからの硝煙の匂いは未だに残っていた。訝しげに顔を上げると、まだそこには宗介が生首抱えて突っ立っている。「どうしたの?」と信二が尋ねようとすると、 「──何か問題があるのか?」 「え?」 「いや、ただそう思っただけだ」 それは相良宗介らしからぬ言葉だった。少なくとも信二はそう思う。そして、問題あるよ大ありだよ、とも思う。 昨夜、椎名琴音の通夜が近所の集会所で行われた。それには椎名家の身内の他に椎名千秋のクラスメイトや担任、琴音の勤め先の同僚や上司も来ていたらしかった。 信二もそれに参加しようとした。だが、途中で帰ってしまった。夜道をびくびくしながら、帰った。途中で会ったこわそうなにーちゃん達とも目を合わせないよう努力しながら、帰った。そんなヘタレ根性に自分は情けないな、と泣いた。 だがそんな自分の情けなさを露呈するようなことを、信二は口に出して言いたくはなかった。だから信二は宗介に向かって、 「問題ないよ。大丈夫だよ」 と、むりやり笑って応えた。それに宗介はそうか、とだけつぶやき、試作型装備のへんぺい足でもって踵を返し、自分の席へ向かっていった。確かに足音はしない。どうでもいいが、宗介は一日中あの格好で居るつもりなのであろうか。思いながら視線で追う内に、彼は席に着いて再びボン太くんの頭部をかぶると、『ふもっふ』と鳴いた。その声は、どこか何かに空回りして打ちひしがれたような、そんなせつない響きを伴っているような気がした。 今日は椎名琴音の告別式だった。外にはちらちらと雪が降っている。天気予報よれば今年は珍しく降雪量が多いらしい。だが、何も葬式の日に降らなくたって、と信二は内心独りごちる。モノトーンの風景は言わずもがなで物寂しいし、それに加えて真っ白な冷たい雪がヒラヒラと表を舞っていれば、否が応にも暗い心はますますの湿り気を帯びる。 信二は学校帰りの道の途中、僧がお経を唱える声の聞こえてくる集会所の前で自転車を停めた。葬式はまだ続いているらしかった。中をこっそり覗けば、昨日よりはやや人数を減じた喪服の人間達が座敷に正座をし、それぞれ思い思いの方向に視線を散らしている。ときどき幼い子供の「ねぇー、まだ終わんないのー?」という無慈悲な声が聞こえてくるたび、信二は胸が重くなるのを感じていた。 ここからは、中に居るであろう椎名千秋の姿は確認出来ない。それをもどかしく思うが、もう少し中に踏み込む勇気が、信二には持てない。膝がぶるぶる震えていた。全身の血液が激しく駆け巡る。脳の電気信号は足を前に踏み出せ、踏み出せ、と命令しているはずだった。だが、足が動かない。ただ、千秋の姿を確認するだけなのに。 ただ、彼女と会いたいだけなのに。 そう心で望むたびに、「来ないで」と自分を拒絶した彼女の横顔が胸を過ぎり、心臓を削り取っていく。あの横顔が、大ダメージだった。表情がどうだったとかではない。横顔しか見せてくれなかったのが、痛かった。女性の横顔に付随した言葉というものには元来とても深い意味があって、それは果てしなく広い宇宙の底のとある惑星に根付く限りない真実と同様に、どうしようもないリアルと事実を容赦なく胸に突き立ててくる。 そこでは、葬儀が行われていた。 信二は、そのことを思い出した。 何遍も何遍も削り取られてすっかり小さくなってしまった心臓は、今や弱々しいビートしか刻まない。 (もともと僕は、関係ないんだよね) 椎名家と風間信二は繋がりがない。従って、この場所に居る資格はない。信二はそう自己完結すると、くるりと振り返って再び自転車にまたがると、ペダルを漕ぎ出した。 昨日のこわそうなにーちゃん達とすれ違う。 気になった。 視界に何とか今し方の彼らを収めようと、一瞬だけ首を振り向かせ、見る。 彼らは明らかに集会所の前で立ち止まり、中を覗き込み、何かを品定めするかのようにじっくりと嘗め回すと、また元来た道を戻ってきた。 慌てて視線を逸らし、ペダルに意識を戻す。 何事も起きなければいい。 信二は思いながら低い空を見上げ、冷たい空気を肺に送り込み、降りそそぐ雪に危険な目を向ける宗介の顔を思い出した。 (希望的観測は身を滅ぼす) 彼のよく言う言葉も思い出す。寒さに身が凍えた。白い吐息が、上空にのぼってかき消える。雪が、肌に当たって冷たい。帰りに温かい缶コーヒーでも買って帰ろう。信二は片手で詰め襟のポケットから小銭入れを出そうとすると、不意にその指は小銭入れ以外の硬い感触に触れた。その正体ははっきりと分かっているものの、取り出してみる。真冬の気温にすっかり冷却されたデジカメだ。中の機能も凍結しているのではないかと訝り、走る方向に危険はないか注意しながら画像記録を確認するが、無論そんなことはなかった。 自衛隊のアーム・スレイブや航空機がたくさん写っていた。すべて実際に出動している場面である。この写真、凄い角度にこだわりがあるんだなぁ、と他人事のように思う。意識せずその場に立ち止まり、むちゃくちゃ寒いことも忘れて信二は自分がかつて撮った写真に見入った。 「………………」 デジカメをポケットに収める。信二は近くの自動販売機に自転車に乗ったままやりにくそうに小銭を突っ込んで、『あったか〜い』缶コーヒーを選び、取り出し口にブツを吐き出させると、それを手に取りカイロ代わりに内ポケットに突っ込んで、入れ替わりに携帯電話を取り出した。 外には降り注ぐ雪。生徒会室内には電気ストーブのじじじという音と、ぬくもり。そして今この部屋には宗介と二人きり。 かなめは何とはなしにそんな現状に満足しつつ生徒会書類に目を通していきながら、たった今携帯の通話スイッチを切った宗介に、「誰?」と軽い気持ちで聞いてみた。すると、 「残念ながら君には知る資格がない」 などと抜かされた。人を色々とどえらいことに巻き込んでくれるくせに、未だにこういう態度をとるとは思わなかった。ので、かなめは宗介にヘッドロックをかまし、自分の胸が彼のどたまに当たったことに赤面し、不自然な体勢で技を解いてしまったがゆえに宗介は派手に転んだ。その拍子に熱量全開の電気ストーブに抱きついてしまい、ストーブを蹴倒しそのへんをばったばったと転げ回る。 ところで、かなめはつい今し方の宗介の微妙な変化に気付いていた。 ごくごく短い会話で、一体電話の相手と何を話していたのかは知らないが、彼はその間、ほんの一瞬だが、まこと珍しいことに、どこかイキイキとした笑みを浮かべたような──そんな顔をした。 (誰なんだってのよ、全く) 彼にそんな表情をさせた相手が、少しだけ気になった。だが彼女が、その相手が風間であったことを知ることは、この先一生涯無かった。 今日は普通に学校に行った。昨日降った雪はやはり結局積もるつもりはなかったらしく、少しの期待を抱いた者達を嘲笑うかのように、朝からまあよくも青空に陽光を咲かせてくれた。だが椎名千秋はそれに別段腹を立てることもなく、むしろ自分を混迷の闇から日常に立ち返らせる気分にさせてくれたお天道様に感謝した。 今は西日射す帰り道を歩きながら、通称『中尾巻き』のマフラーに手を当て、思考は今日一日の出来事を反芻する。教室ではクラスメイトがやや遠慮がちに、無理して普段の話題を口にしてくれた。担任のぎこちない授業とホームルームは、どうやら自分を気遣ってのことらしかった。昼ご飯は何となく一人で食べた。体育の時間はいつもより妙に疲れた。数学は元よりからっきしだった。放課後、帰る用意を終えて廊下を歩いていると、トイレから出てきた風間とぶつかった。 まあおおむね、いつもと変わらない一日、と言ってしまっていいだろう。 そう思ったそのとき、千秋はゆっくりと後ろから迫ってきていた、ナンバープレートのはぎ取られた黒のワゴン車から降りてきた二人のブリーチヘアの若い男に抱え込まれ拉致されたが、特に抵抗はしなかった。 開け放たれた後部座席に押し込まれて、後ろ手にアルミの手錠を掛けられて、口には猿ぐつわを噛まされて、千秋を乗せたワゴン車は急発進する。 周囲に他の人の姿は見当たらず、十二月の半ばにしては、ずいぶんと天気のいい一日だった。 風が吹いて、道端に落ちた少女のマフラーが、ふわりと裏地を向けて数センチだけ飛ばされる。 |
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