ORACULAR‐WINGS■
 ■明日へのワン・ステップ■    <過去編第四話 『刻の流れ』>


 少数剣術流派『術式刀武流』の夏季合宿も、最終日を迎えていた。
 人は出来事の終わりをもうすぐ迎えるとなると、この出来事が『あっという間だった』という言葉を口にすることが多い。実際はそんなに短いということはないのだが、それを言ってしまえば元も子もないというものだ。この合宿の稽古をやり抜いてきた『刀武流』の剣士の中にも、そういう感慨を持つ者は少なくない。
 だが。
「長かった……」
 昼時もあって程々の賑わいを見せている食堂にて、閑散としたテーブルに突っ伏して、そんな呻き声を漏らす少年が一人。紺色の胴着の袖を腕枕にして、ぐてーっとだらしなくかつ力なく、小柄な全身の体重を投げ出している。江笊である。
「おまえ、それ今日で何回目だ……」
 向かいの席では、恭平が頬杖をつきながら麦茶などを飲んで、突っ伏している江笊を半眼で見下ろしている。狐みたいに細い目元はきりりと更に細くなっていた。
 今は昼時なのだが、彼らのテーブル上には何もないことから、二人とも昼食を済ませたあとらしい。午後の稽古の時間まではまだ間があるようである。
「何回目かと問われると、答えられる自信がない」
「いや、答えなくてもいいけどな。てか、朝にもそれ何っ回も聞いたから、そろそろ飽きてきたぞ」 「……長かった」
 恭平が皮肉っぽくぼやくも、江笊はそれをものともせず、またこのうめきを繰り返す。
 突っ伏した顔をそのまま横に向けて、虚空を見るかのように視線をさ迷わせている。視線の先には、料理受け取り窓の向こうの厨房で、食器の後片付けをしているおばさん達しかいない。だが、そんな視界のなかでも、江笊は別のものを見ているのだろう。だらーんと考えなしに垂れてはおらず、しっかりと物事を考えている顔である。体の方がだらしない格好でも、頭の中はちゃんと動いているようだ。
「オレなんかあっちゅう間だったけどな。稽古が毎日ハードでひーすらひーすら言いながら、付いてくのに一杯々々で。でも、楽しかったって言えば楽しかったし」
「……俺も楽しかったぞ」
「にしては、『長かった〜』とか言ってるな。つまらなかったとか楽しくなかったとか、自分にとってマイナスだったときに普通そう感じるもんだぜ?」
「知らん。人それぞれの感じ方だ。どんなに長く感じても、少なくともつまらないと思ったことはない」 「そういうもんかい?」
「そういうものだ」
 答えながら、江笊は突っ伏した顔をゆっくりと上げ、今度は肘をついてだらーんと俯いてしな垂れる。  なんと言うか、今日の江笊はかつてないほど行儀が悪い。『それほど疲れているのか?』と恭平は思ったのだが。
 ま、走りこみあれだけ追加されたら普通、なぁ……。
 あの、『薪割りを失敗するにつれて走り込みの時間が増える』というペナルティを思い出して、恭平は背筋に冷や汗が浮かぶのを感じた。毎日、定例で行われる三〇分の走りこみに、江笊は更に追加して三〇分以上走り込んでいるのだ。今、彼が五体満足で動けているのは、不思議といってもいいかも知れない。
「で、結局。薪割りは上手くいったのか?」
「…………」
 そういえばと思って恭平は問うたのだが、江笊からの答えは返ってこない。様子からして、肯定ではないだろう。
「……てことは、スランプ脱出はまだ先か。がっくりだぜ。おまえが立ち直ったら、この合宿中に一回は戦(や)りたかったってのに」
「すまん」
 流派は違えど剣術を同じ時期に始めたこの二人は、幼い頃から合同練習の度に何度となく実戦形式で手合わせをしている。ただ、『こういうのは二人とも万全の状態でないとフェアじゃねーよな』と恭平の方の妙なこだわりと、今回の江笊の稽古は恭平達の稽古と全くの別項目であったことから、今回の合同練習による二人の手合わせはお流れになっていた。
 ちなみに、これまでの手合わせの成績は、恭平が二九勝、江笊が二八勝、引き分けが九つ。わずかに恭平の方がリードしている状態である。
「だが恭平、俺はこの風吹殿の指導は無駄ではなかったと思うぞ」
 今度こそ顔を上げ……たが、お次はテーブルに顎を置くと言った姿勢で、江笊は何ら変わらない口調で言う。行儀の悪い体勢と言ってることのギャップに恭平は頬に汗を垂らしたりしていたが、そのまま相槌を打っておくことにした。
「ほほう。その根拠は?」
「ない」
「おいおい」
「ただ、風吹殿はこの指導で、俺に何かを得させている。そんな気がしてならない」
「……うむ、それはそれでおまえらしくないセリフだな」
 と、だらだらと二人で話を続けていたところで、第三者の声が割って入ってきた。二人とも一瞬ギョッとなり(行儀の悪かった江笊に至っては瞬転してピシッと姿勢が良くなるほど)、その第三者を注視する。そこには――
「老師」
「じーちゃん」
 江笊の祖父であり、『豪槌流』の現継承者である老人、鐘鳴邑が二人の近くのテーブルにある椅子に座ってのほほんと茶を啜っていた。いつの間にか。二人に全く気配を感じさせずに。
 今日は稽古に参加していないらしく、胴着ではなく薄着の甚平姿で妙にくつろいだ様子だ。夏のこんな暑いときだというのに熱い緑茶を啜っている辺り、江笊との稽古時に見せていた圧倒的なものがなく、今はどこか浮世離れした雰囲気があった。
「ふっ……江笊、恭平」
 一通り緑茶を啜って一息をついた(何気にその仕草が渋かった)後に、鐘鳴邑はいきなり用件を切り出す。
「二人とも、この昼は皆に付き合ってもらうぞ」
『……はい?』
 異口同音で、二人は呆けた返事をした。


 昼下がりの『術式刀武流』合宿所の道場。
『豪槌流』と『刀武流』共に機動力を重視しているためか、広さ的に言えば中学校の体育館くらいにあり、屋根も高く造られている。床は板張りで、ささくれ立った箇所はない。掃除も良く行き通っているのか、小奇麗である。一日最低一回は雑巾がけがされているようだ。
 建物の最奥にある上座もそれなりに綺麗で間取りも広く、数枚の座布団が用意されている。壁には『日々精進』と達筆な習字のある掛け軸。隅っこでは赤茶けた鉄製の蝋燭立て数個がどこか哀愁を漂わせて鎮座している。
 そんな特徴の、ただっぴろい道場の中央で。
 一振りの竹刀を得物として、準備運動をしているふたりの少年が居る。双方とも同じくらいの背丈と体格で、男子としては総じて小柄な方だろうか。
 ひとりは、鐘鳴江笊。『術式刀武流』の兄弟流派『豪槌流剣術』の剣士である少年。紺色の胴着と袴姿で、どこか釈然としない面持ちで竹刀の柄と刃をそれぞれ手に持ちつつ、膝の屈伸などをして関節をほぐしている。
 もうひとりは、秋月恭平。こちらは正式な『術式刀武流』の剣士である少年。赤紫色の胴着と袴。こちらもあまり納得の行かない様子で、竹刀を足元に置きつつ、腕をぐりぐり回している。
 少年ふたりを囲って、遠巻きでは、赤紫色の胴着と袴を纏った『刀武流』の剣士である少年少女十数名が、適当に座ってひそひそ声で囁きあっていた。『どっちが勝つんだろう?』だの『江笊は実際どうなったんだ?』だの『俺は恭平にジュース一本だ』だのいろいろ。中には、私服姿の実河梨津も混じって、同年代の少女と楽しげに話していたりする。
 今、この道場全体が織り成す状況からして。
 これから行われようとしていることは――
「はいはいはい、静かに静かに〜。もうちょっとで始めるよ〜」
 赤紫色の胴着と袴を着用している実河風吹が、対峙する二人の少年の間で、場に合わない朗らかな声音で宣言する。『お〜』とのんびりとした歓声と拍手がまばらに湧いた。
「いい、二人とも? 勝負は一本。制限時間はなし。だから判定もなくて引き分けもなし。あと、場合によっては殴っても蹴っても投げてもいいけど、一本の判定はあくまで剣の一撃で取るからね。手加減と情けは無用の方向で。だけど、なるたけ怪我はしないように。もし二人に怪我なんかされたら……もう、風吹ちゃん泣いちゃうんだからぁ、ぐっすんめそめそ」
 淡々とした説明の最後の部分、全く緊張感の無い猫なで声で愛嬌を振る風吹に、周りを囲っている『刀武流』の皆からドッとした笑い声が響いた。説明を受けていた当の二人はというと――江笊は片手で頭を抱えており、恭平の方は『クック』と肩をひくつかせて笑いをこらえている。
 何はともあれ、この手合わせの大まかなルールが風吹からふたりの少年に説明された。
 ――そう。今、この道場で、ふたりの実戦形式による手合わせが行われようとしていた。
 江笊の祖父である鐘鳴邑から、食堂にてこの手合わせの通達を受けたのが三〇分前。それで、道場を訪れたふたりを待っていたのは、今の出で立ちである実河風吹と、いそいそとこの手合わせの準備を進めている『刀武流』の皆さん。今、ふたりを取り囲んでいる形にあるのは、彼らはこの手合わせのギャラリーだからである。
 これは何ごとかと問う江笊に、『江笊くんのこの一週間のテストだよ』と風吹が朗らかに告げるのに、ふたりは唖然となったのだが……流されるままに、今に至っている。何しろ、この手合わせのために流派の全員がお膳立てをしているのだから。最年少と言うわけではないのだが、やはり流派の中では若輩の少年である江笊と恭平に、拒否権は無い。
 そして、この手合わせの審判は、風吹が務めることになっていた。
「さてさて、手合わせ前に心境を訊いて見よっかな。まずは恭平くん、この合宿の調子はどうだったかね?」
「うっす、好調といえば好調だったかな」
「おー、結構結構。で、江笊くんと手合わせすることになったんだけど、その辺は如何に?」
「うーん……いいのかなぁ? 今の江笊、ちょいスランプ中だし、それにオレとしちゃハンデなしの対等で戦りたかったんだけど――」
「恭平」
 と、躊躇がちに答える恭平に、ギャラリーの中から冷たい声が飛ぶ。恭平の一つ年上の従姉で、実質姉的存在である少女、差音士乃からだ。
「手加減と情けは無用。さっき風吹が言ったはずだぞ」
「うー……」
 それでも恭平は未だに気の進まないようだったが、
「ふっふっふ。負けたら、お祭り返上で私が特別に鍛えてやってもいいぞ?」
「それだけはやめてください」
 そこはかとなく含み笑いが混じった士乃の非常な宣告に、彼はあっさり折れてしまっていた。冗談じゃないとも言わんばかりに、竹刀をブンブカ振り回して急ピッチでウォーミングアップを進める。
 ちなみに、彼女の言う『お祭り』とは、今夜、近くの大きな神社で行われる縁日のことを指していた。金魚救いや射的、綿菓子屋さんや焼き鳥屋さん、たこ焼き屋さん諸々、出店屋台なども豊富にそろっており、その上最後には花火大会もあることから、規模的にはとても華やかな縁日である。『刀武流』の剣士達はその縁日を目一杯に楽しんで、合宿で溜まった疲れを癒すのだ。
 恭平は祭りや大会などそういうイベントは特に好んでいるので、それを返上させられる危機があるとなると――
「江笊、おまえの状態は状態だが、今回は話が別だ。オレのために死んでくれ」
 ビシッと、どこぞの物語の武士の如く竹刀を掲げて、高らかに言い放つのだった。本気である。ギャラリー陣がこのやりとりにケラケラと笑い、江笊は半ば諦めた様子で溜息をついた。
「はい、素敵な宣戦布告をありがとね〜。てことで、今度は江笊くんね。一週間ぶりに剣を持てた感想は?」
 明るい調子のまま、今度は、江笊に質問をする風吹。江笊はまた調子が狂わされたような何とも言えない表情をしたのだが、気を取り直して、今、両手で握り締めている一振りの竹刀に、改めて視線を落とした。
「……久しぶり、といえばいいのか。離れていたからこそ、気持ちが湧いてくる」
「お〜お〜お〜。やっぱり、嬉しい?」
「嬉しいぞ」
 即答する江笊。実際、彼はこの一週間、素振り用の竹刀すら握っていなかった。
「ふふふ、素直でよろしい。で、いきなりの実戦なんだけど、勝算は?」
「……わからない。俺は俺の全力をただぶつけるのみだ。この合宿で風吹殿から学んだことも含めて」
「わたし、薪割りのアドバイスしかしてないよ?」
「いや……」
 頭を振る江笊。
「……風吹殿の指導は、それ以上に価値あることだったと俺は思うぞ」
「――……」
 ただ真っ直ぐに見据えて言うのに、風吹は一瞬だけ目を丸くしたようだが、
「ふふ、ありがと」
 やがて彼女特有の笑顔とは違った穏やかな笑みを浮かべて、江笊に小声で囁いた。

「んじゃ、両者前へどうぞ〜」
 告げられるままに、ふたりの剣士はウォーミングアップを済ませ、獲物である竹刀を手に前に出て、それぞれ構えて対峙する。
「審判は不肖ながらこのわたし、実河風吹が務めさせてもらうよ。ちゃんと公平に取るからよろしくねってことで、ではでは……」
 風吹が黙ると共に、ギャラリーの話し声も途絶え、道場には静寂が訪れた。対峙から手合わせ開始の合図までの、ささやかな空白。ピリピリとした緊迫の空気が道場を隅々までに満たし、建物を囲っている蝉の鳴き声がやけに大きく聴こえる。
 竹刀を構えて対峙するふたりのフィールドに至っては、特にその空気が濃かった。本格的な手合わせをまだ始めていないながらも、お互いの見えない気迫の叩きつけ合いはもう始まっている。
 いつもは軽そうな雰囲気だった恭平も、表情こそ笑っているが目が笑っていない。江笊も江笊で、いつもの厳しい顔のまま、鋭い眼差しを相手に向けている。だが、江笊の場合、まだ何か引っかかるものがあるのか、少し覇気が伴っていない感もあった。
 そして、その空気のど真ん中にいる、実河風吹は。
「始めぇっ!」
 それをものともせぬ笑顔のまま、この手合わせの開始を宣言した。


「どちらが勝つと思います、お爺様?」
 ギャラリーの中に混じって、差音士乃は隣に座って二人の手合わせを眺めている老人、鐘鳴邑に向かって静かに問い掛けた。
「江笊の不調と恭平の好調から、七と三で恭平に分があるかな。士乃殿はどう取る?」
「わかりません。ただ、江笊が勝つと思います」
 きっぱりかつ簡潔なこの答えに、わずかに、邑が眉をぴくりと動かす。
「ほう。お互い、相手流派の方を有利と見ているな」
「恭平には悪いですが、私としては今回、江笊に勝って欲しいと願っています。……風吹のためにも」
「…………」
「……恭平の従姉としては、本当は、こんなこと言ってはいけないのですけどね」
 自嘲気味に笑いかける士乃。
 気のせいか、目が潤んでいるようにも見える。涙らしきものはどこにも浮かんでいないのだが……その鋭い黒眼からは、いつ熱い雫が零れてもおかしくないように、邑には見えた。
 ――彼女がそのように笑う理由を、知っている。
「いや、誰も咎めることはあるまい」
 だからこそ、邑もわずかに笑みを見せた。



「おっしゃああぁぁっ!」
 妙に気合のこもった雄叫びを上げながら、恭平は江笊に襲い掛かった。初速の足の踏み出しから一気にスパート。猛烈な勢いから、間合いが一気に詰まる。
「……!?」
「ていっ!」
 開戦直後の先制攻撃に、江笊の反応はわずかに遅れた。
 袈裟懸けに振り下ろされてくる一撃を、江笊は竹刀を斜めに構えて捌き……きれない。打突の衝撃が重くて、足がぐらりとよろめく。知っている限りでは、あいつの打突はこれほどまで重くなかったというのに。
 また腕を上げたか。
「ていていてててていっ!」
 江笊が衝撃に圧されているのを感じてか、恭平が容赦なく畳み掛けてくる。その振り一つ一つが重みを持っており、防ぐ度に、竹刀を持つ手に若干の痺れが生まれる。このままでは不利だ。いったん、距離を置かなければ。
 後ろに跳んで間合いを離したのも束の間、
「逃がさねぇっ!」
 恭平は連撃の踏み込み足を軸にして身を回転させ、そのまま遠心力を加えた横薙ぎを繰り出してきた。左手で竹刀の塚尻を持ち、後ろ回し蹴りの要領でこちらの胴を狙ってくる。間合いが充分でないために一本には至らないだろうが、当たり所が悪ければ、この一撃は確実に自分からダメージを奪う。
「くっ!」
 さっきの跳躍の着地からさらに後ろに跳んで、間一髪で避ける。遠心力の一撃がちっと胴着の裾を掠め取り、繊維の一部が千切れ飛ぶ。胸にわずかな摩擦熱が伝わってきた。
 痛みはない。ダメージゼロ。だが、先手を取られっぱなしで反撃できなかったのが流れ的には痛い。体勢を立て直しながら、江笊はわずかに顔をしかめた。
「へっへー、よく避けたな、江笊」
「恭平、おまえも腕を上げたぞ」
「おいおい、まだまだこれからだぜ?」
「俺もこれからだ」
 短い掛け合いの後に、今度は江笊が仕掛けに入る。反撃をするにはまだ遅くない。手数を出して圧力をかけ、相手の隙を覗う。
 グッと足を踏ん張り、力を込め、一足飛び。竹刀を右手に短く持ち、ボクシングのジャブみたいに、剣の振りを恭平に向かって展開する。
「とっとと」
 恭平はそれを難なく捌いていく。この合宿でやった薪割りで、心持ち、片手の振りがスムーズになった気がしないでもないが、恭平の隙を誘うまでには行かない。
 ――当然といえば当然か。
 結局、風吹がやって見せたように、薪を『斬る』みたいな芸当ができなかったし、それに近づくような技術が伴ったという実感もない。どんなに努力してもあの訓練をこなすのは難しいもので、あの訓練をものにできていないということは、技術的な進歩は微々たる物だ。言ってみれば、この一週間で進歩があったのかといえば、それは否、である。
 ……ならば、何故だ?
「どっせぇいっ!」
「――――」
 繰り出される恭平の鋭い唐竹割りを、横に身をずらして避けながら考える。
 スランプ解消のために受けた風吹の指導。それで進歩が少なかったというのに、焦っていない自分がいる。合宿の初日にあったもやもやした胸のつかえが今は無く、何だか心がスッとしたみたいで……妙に落ち着いている。
 体の切れが今ひとつ悪いというのに、恭平の攻撃をかわせているのはそのためだ。
 相手の動きが、よく見える。
 自分で味わったことのない感覚。
 自分が自分でないような感覚。
 奇妙な、違和感。
 ……これは、知っている。
 そう、風吹の指導が始まって三日目くらいに、持ち始めたもの。

 恭平は額に汗を浮かべていた。
 最初の一連の先制攻撃は有効打を奪えなかったもののしっかりとした手応えはあった。だからこそ、『この調子で最初から全力を出して行けば、今回は行ける』と感じつつ、江笊の小手調べのような反撃を難なくかわし、その隙間を見て唐竹割りを敢行したのだが。これはあっさり避けられてしまった。
 本気の一撃だったというのに、余裕で。
 少しびっくりした。
「…………」
 だが、一度避けられた程度で動揺して攻撃の手を休めるのは、自分のペースを乱すことになる。攻撃は続行しなければならない。
 フェンシングの要領での、竹刀を片手で持っての突きの応酬。これは江笊が同じく片手で竹刀を持ち、斜めに構えて全て捌ききる。
 間合いをゼロ距離に詰めてのショルダータックルから、横薙ぎへの攻撃。タックルは入ったものの、本命の横薙ぎに関しては、江笊が身を前転させて恭平の脇をすり抜けて回避し、そのまま地を二回転ほどして間合いから離れていく。
 後を追って蹴足を仕掛けようとするも、その時にはもう江笊は体勢を立て直しており、横に跳んで避けられた。
 ……あ、当たらねぇ。
 見た感じ、今回の江笊の動きにはそれといったキレはない。なおかつ、自分の動きは良いものの部類とも自覚できる。好調不調などは、今までの手合わせから何となくわかる。だが、攻撃は当たってくれない。
「よーし、江笊は怯んでるぞ、恭平。一気だ一気! 畳んじまえ!」
 ギャラリーから声が飛んでくるが、それができたら苦労はしない。江笊の防戦一方のように見えるが、今のこいつはこちらの攻撃を確実に防いでいる。相手の攻撃で追い詰められるよりも、こちらの方がなんというか気持ち悪い。
 ……これは正直。いくら本気を出しても、何とかしないと、勝てない。
 なら、何とかするしかねぇよな。
 額の汗を拭って上唇をなめつつ、恭平は竹刀を構えて足に力を溜め、次の策の模索を始めた。

 何故、こんなにも恭平の攻撃を見切れるのか、江笊は自分でさえもわからなかった。
 相手が何をしてくるのか、それをどうすれば回避できるのか。無意識のうちに考え、行動する。その行動は図らずも良い方向に行ってくれる。動きが鈍い体がそれに付いていってくれているのは奇跡的なのかもしれないが。
 本当に、何故だ?
 これができる理由に、思い当たる節は――
『だからね、今、君は自分ができることを、後悔のないように精一杯やらなきゃ駄目なんだよ。わかる?』
 ふと、頭の奥で風吹の声が響く。
『敵の位置を常に把握し、それに適応した間合いを取らなきゃ、戦局を有利に進められないね』
 ……ああ、そうか。あの人が、最初に言っていたことか。
『君は、さっきわたしの言った通りに、自分のするべきことをした。違う?』
 その通りだ。あの人は強い。口で大きいことを言うだけではなく、実際にその大きいことを目の前でやって見せてくれる。だから、自分はあの人を信じてみようと思った。彼女から課せられた薪割りという滑稽な訓練を黙ってやっていたのも、それがあったからかも知れないし、それに。実際に変化が生まれたと自覚したのもあった。
 ……そう。この一週間やった、薪割り、という訓練。
 当初はがむしゃらにやっていたが、三日目くらいから、失敗が気にならなくなった。失敗のことをあれこれ考えるよりも、どうやったら割れるのか、どうやったら斬れるのか、それを考えるようになった。そうすることで、どんなに失敗が重なっても、こう……どこか心の中に、『ゆとり』みたいなものができていた。
 あの時、梨津に何となくで言った『掴めそうな何か』というのは、この心の『ゆとり』のことだったのだろうか? いや、それで確定に至るにはまだ足りないと思う。何故こんな風に『ゆとり』を得れたのかはわからないままなのだし。
『何か』とは何であるか?
 口や頭の中では、表現のしようはない。
 だけど、何となく体でわかってはいる。
 だからこそ、恭平の動きが見える。
 ならば。
 何となくでも、わかっているのならば。
 今の防御から攻撃にも、転じれるのではなかろうか?


 ああっ、鐘鳴先輩、危ない……あ、かわしたかわした。そこから……無理か。うーん、返せそうだったんだけどね。
 この内なる歓声を表に出さずに、実河梨津はギャラリーに混じって、二人の手合わせを目まぐるしく見守っていた。
 もう、なんというか、すごい。
 恭平の豪胆かつ容赦のない攻撃もすごいし、それを全て避け切ってる江笊もまたすごい。今まで剣術の実戦形式の手合わせというものを何度か見てきて、どれもこれもすごいとは思ったが、これもまたすごい。月並みな言葉かも知れないが、少なくとも運動音痴な自分には真似ができないし、こうとしか言いようがない。
 目が離せない。手に握るはじっとりとした汗。呼吸をするのも忘れてしまいそうに、息が苦しい。
 って、また鐘鳴先輩ピンチ。おお、またかわした。すごいすごい。それいけっ。……ああ、駄目か。惜しい、もうちょっとだったのに。
 二人ともすごいすごいと思いつつも。
 どうにも、江笊の方に目が行ってしまう自分を、梨津は認識していた。この一週間の指導を見守ってきた者としては、彼にはやっぱり勝って欲しいと言う念もあるのだが……それ以外にも。勝って欲しい理由は、ある。
『好きでやっているのに、嫌がる必要があるのか?』
 あの時、彼が言った言葉。今でも、頭の中から離れない。
 やっぱり、感動したんだな……。
 自分でも思う。思い返す度に、そう思う。そして思い返す度に――今、自分の中で微かに芽生えている気持ちも、自覚する。
 これってやっぱり、初恋なのかな。
 認めざるを得ないらしい。改めて思うと赤面ものなのだが、正直になってみると、やっぱりそうなのだろう。
 だって。
 見てると、いつまでも傍で応援したくなるじゃないか。あんなにも、自分の好きなことにひた向きに頑張れる人は。
「……先輩」
 だから。今、ちょっとだけ、叫んでみようと思う。



「ぬぬぬぬぬぬぬっ……」
「…………」
 唸り声を上げながら、竹刀の鍔元でせめぎ合いする恭平と江笊。ちょっとした力の駆け引きで均衡が崩れ、相手に致命傷――つまりは、一本を奪うことだってこれでも可能な状態だ。ボクシングのクリンチみたいにのんびり体力回復を待つではなく、こんな時でも集中して、どこに打ち込むべきかを考えなければならない。
 それでも、江笊の心の中はひどく落ち着いていた。
 大丈夫だ。恭平の動きが、今でも見える。落ち着いてよく見ろ。剣だけではなく、恭平の全体をよく見ろ。どのように仕掛けてくる? どのように仕掛ければいい? どのように――
「せんぱーい、頑張って――っ!」
「!?」
 後ろからいきなり飛んできた大きな声に、江笊はびくりと肩をふるわせた。これは……そう、梨津の声だ。間違いない。ついでに、すぐ近くで、審判の風吹が『お〜』とのほほんと間抜けな声を出したのも耳に届いた。
「……っしゃあ!」
 と、江笊の思考が妙な方向へと傾いたのに気付いてか、恭平が一気に均衡を崩した。力押しで鍔元から江笊の竹刀を封じて、足を踏み込む。それから横に跳んで……いや、違う。これはわずかに跳んだだけだ。着地した足をさらに跳躍に使って、恭平が仕掛けるのは、江笊の背中。
 つまりは、背後を取られた。
「――――!」
 だが。それもまた、江笊には見えていた。
 我が身をコマのように勢い良く回し、振り向きざまに剣を一閃。竹刀を振りかぶっていた恭平の右手首に綺麗に直撃する。
「うえ……!?」
 恭平の口から調子の狂ったような呻き声が漏れた。完全に虚を突かれたらしい、そんな調子。
 ……まさか、ここまで恭平の動きが見えてしまうとは。梨津がいきなり声援を飛ばしてきたのは流石にびっくりしたが、この局面で自分の落ち着きを保てたのもびっくりだ。とりあえず、これについて考えるのは後回しにするとして。
 打った一撃の威力もあいまって、恭平が得物を取り落としている今のこの好機。
 逃がさずに置くべきはない。
 一撃に全てを込めるのは、今!
「おおおっ!」

 裂ぱくの気合と、乾いた竹の音が一つずつ。
 その二つが道場内に響いて、手合わせの勝敗はそのまま決した。



「しくしくしくしくしくしく……」
 雲一つない満天の星空の下、あからさまに声に出している情けないすすり泣きが、明かりの灯った川原から聴こえてくる。竹刀の素振りによる風切り音もその場にはあったのだが、このすすり泣きのほうが、明らかに音量が大きい。
「泣くな。あと一〇〇〇本だ」
「おろろーん……」
 厳しい声が告げられるも、すすり泣きは止まない。デッサンの崩れた表情で、狐のような細目からぶわーっと目の幅涙を流しながら、そのすすり泣きの源――恭平が単調な素振りを繰り返している。今の状態が状態であるためか、素振りの軌道にも切れ味というものが全く見られなかった。
「……恭平、そんなにショックか?」
「とほほほ……」
 その素振りに付き合ってやっている士乃が半眼ながら問うてやっても、恭平のみじめな涙は一向に止む気配はない。一応、その反応を士乃は肯定と受け取っておいた。
 まあ、無理もない。士乃の眼から見ても、今日の恭平の動きはとても良かったし、剣の鋭さも重さも、ちゃんとした上達を見て取れた。言ってみれば、恭平は絶好調で、彼自身もそれに自信を持っていた。
 だというのに。
 あの手合わせでは、手ごたえのあった攻めは最初の先制攻撃だけで、後は全て江笊に見切られて。あの、梨津の声援の際にできた江笊の隙に、フェイントまで織り込んだ攻撃さえも回避されて、反撃まで受けて。そして、あっさりと一本を取られて。
 勝てると思っていた手合わせに、敗北してしまったのだ。
「なあ、士乃姐さん……」
「なんだ?」
「やっぱり、これ全部終わる頃には、祭り終わってるっぽい?」
「……そうだな」
「しょんぼりしょっぼーん……」
 そうだった。この手合わせの勝敗には、恭平の大好きな縁日に行けるか否かも懸かっていたのだった。負けたとなるとこれは悲しさ倍増である。従弟の限りないテンションのデフレに、悪いことをしたのかもしれないなと、士乃は少し罰の悪い顔で苦笑した。
「…………」
 しかし。
 ああでもしないと恭平は本気にならなかっただろうし、相手が本気の状態の恭平でないと、江笊はこの訓練の『成果』にまったく確信が持てなかっただろう。……今でも江笊にその確信があるのかどうかは怪しいが、何かきっかけらしきものは感じているはずだ。
 これだけでも充分である。
 そうだろう、風吹?



 この縁日全体を簡潔に表すならば、ささやかな賑わい、とでも言うべきか。いろんな種類の出店の屋台が連なり、人通りも良い。
 合宿の舞台である山を降りて数分歩いたと神社で、それは開かれている。
 江笊はこの神社の名前は知らなかったが、由緒や歴史のある神社だということは聞いている。普段の参拝客もほどほどにいるらしい。敷地もとても広いので、ここで縁日が開かれるのも納得できる。
『刀武流』の皆も、それぞれ楽しんでいるようだ。中には浴衣姿の者も見受けられる。その中に約二名知っている顔が足りなかったが、その辺の事情は知っている。
 境内の外れの草むらで座って、ノースリーブシャツとハーフパンツといった簡素な夏服姿の江笊は、その風景をボーっと遠目に眺めていた。
 なんというか、体が重い。さっきの手合わせからずっとである。終わりだと思って、ドッと疲れが来たのかもしれない。よくもここまで動いたものだ。この状態で人込みの中を歩くのは、少々辛い。
「あ、江笊くんだ、お疲れ〜」
「先輩、お疲れ様でした」
 と、うちわを片手に持っている風吹と、何も持っていない梨津がこちらにやってきた。二人とも浴衣だ。風吹は紺色で、梨津は水色。普段は背中に届くであろう長い髪を結い上げて、うなじになかなかに色っぽい情緒を醸し出している風吹もさることながら、どこか子供っぽさが残る色の浴衣を慣れた感じで可愛らしく着こなしている梨津も、それはそれで……って、まてマテ待て。
「どしたの、江笊くん?」
「……なんでもないぞ」
「でもでも、先輩、なんだか顔が真っ赤ですよ?」
「なんでもないのだ」
 まったく、何を考えているのだ俺は。阿呆みたいではないか。こんなの、完璧に俺じゃない。
 江笊は頭を振って、この妙な思考を振り払った。
「いやー、しかし。江笊くん、今日はやってくれたね、もう〜」
 バシバシと風吹に頭を叩かれる。少し痛かったが、彼女はとても嬉しそうだったので、野暮なことを言うのは敢えてやめにしておいた。
「偶然ですよ、風吹殿」
「えー? またまたまたま〜、謙遜しちゃって〜」
「お姉ちゃん、最後が『またまた』じゃなくて『たまたま』になってたよ……」
「お、リッちゃん、ナイスツッコミ」
 苦笑ながらの梨津の突っ込みも、風吹はまるで動じもせずにさらりと受け流している。いつもの太陽みたいなマイペースの上に、今はやたらとハイテンションだった。
「それにさ、リッちゃん。あの時やってくれたじゃないの〜」
「え? あ、あの時って、なに……?」
「せんぱーい、頑張って〜」
「わっ……お、お姉ちゃんっ!」
 やたらと音程を高めた猫なで声で高らかに言い始める風吹に、梨津は耳まで真っ赤になって姉を止めにかかる。江笊は、そんな仲の良い姉妹のやり取りを、ぽかーんと眺めていた。……そういえば俺は、双子の妹とここまで仲良くしたことがないなとも思った。
 ところで、梨津は何でこんなにも赤くなっているのだ?
「江笊くんさ、どうよ? あの時のリッちゃんの応援。やっぱり感動しちゃった?」
 江笊がいぶかしむも構わず、風吹がテンションそのままに訊いてくる。
「いや……どっちかというと、びっくりした。いきなりだったし……それに」
「それに?」
「――……」
 あれは恭平に向けられていたものだと思っていた。
 と言いかけて、やめた。何となく。言ってしまうと、何だか自分の価値が下がってしまうような気がした。
「そ、それに……なんですか、先輩?」
 と、梨津が真っ赤な顔のまま、訊いてくる。少しの不安と……少しの期待。その二つを顔にありありと浮かばせて、上目遣いで訊いてくる。ということは、やはりあれは自分に向けられていたものなのだろう。今ごろ気付くのも難なのだが。
 ……それでも、これはなんと言うか、困った。なんと答えればいいものか。
「あれで、いい感じに、均衡が崩れたから……な、うむ。上手く勝ちに繋がった、と思う」
 結局、あまりいい言葉が浮かばず、こういう形になってしまった。果たしてこんな答えで良いものなのかと懸念したが、思うだけ損だったらしく、梨津は『そ、そうかな? えへへ……』と照れ笑いを浮かべていた。どうやら答え方を間違ってはいなかったようだ。
 ……剣の調子は何とか戻ってきたものの、この一週間は本当に調子を崩されっぱなしだなと、江笊は感じた。
 風吹は普段だからそうだったが、今日に限っては梨津にまで。


「はい、着いたよ〜」
 神社の本道から裏手に回って、暗い林の中を、懐中電灯を頼りに真っ直ぐ一〇分ほど歩いたところに、その場所はあった。地を囲んでいた暗い木の枝と葉の天井が無くなり、ぱっと視界が開けて……顔を上げると、満天の星空が見えるようになる。この一角だけ林の木々がまるで立っておらず、言ってみれば一種の広場のようだ。祭りの喧騒から離れて、こおろぎの鳴き声だけが場に響いている。
 あの後、二、三分ほど談笑して、風吹の提案で江笊はここに連れて来られていた。『いいところに連れてってあげる』とのことで、少し歩くくらいなら問題ないので特に断る理由も無く、付いて来たのだが……。
「風吹殿、ここは?」
「ふふ、ここはわたし達だけのひみつの場所だよ。ね、リッちゃん」
「うん」
「?」
 鷹揚に笑い合う姉妹の二人。一体、ここに何があるのだろう?
「っと、そろそろ時間だね……ほら、先輩、あれ」
 と、手持ちのときを確認してから、梨津が遥か彼方の方角へと指差す。すると、それを待ってましたとばかりに、
「あ――」
 無数の彩りの花火が、夏の夜空に美しく舞った。こおろぎの鳴き声をものともせず、上空で壮大な破裂音を上げる。多用多彩の夜空の空中芸術が、紺の空を鮮やかに染めていく。
 そして、この一角から見上げる花火は、また格別だった。
 確かに、ここは花火を打ち上げている位置は神社の境内から離れているし、なおかつ林に囲まれたこの広場では、木々が彼方の上空を見上げるのには少しばかり邪魔をする。だが、それはあくまで少しのことだ。木々の背は意外に低くて、この花火を見るのには何ら問題はないし、それにこの微妙に離れた位置も――喧騒の中とは違ったこういう静かな場所で観る、という雰囲気的なものにかけては、ここは絶好の場所だ。
 ひみつの場所。なるほど、よく言えたものである。
「綺麗だ……」
「え、わたし? もう、江笊くんったら、このスケベッ」
「ち、ちがうっ!」
「あっはっは、冗談冗談。まあ、ここは我が親友のしのりんすら知らない特等席なんだけどね。江笊くんはこの一週間頑張ったご褒美で、特別ってことで、ね」
『たはは』とまた笑って見せる風吹。花火の明かりに照らされたその笑顔がまた魅力的で、江笊の胸の中がまたちりちりと熱くなり始める。いつからだろう、彼女を見ているとこんなになってしまったのは。
「……俺は、頑張れたのでしょうか」
 彼女の顔を長く正視することができず、ぷいっとそっぽを向きながら江笊は言った。
 ごまかし半分、本音半分で。
 実際、江笊はまだ、この一週間の成果というものを実感できていない。ただ、風吹の指導が間違ったことではないと感じているだけだ。あの、手合わせ中に感じていた感覚についても、まだはっきりとしたものは掴めていない。ちょっと、実戦に応用できたくらいでは、どうにも……。
「でも、先輩は今日勝ったじゃないですか。秋月先輩に」
 梨津が励ますかのように声を掛けてくれるが、それでも江笊は首を横に振る。
「あれは偶然だと、さっきも言った。それに、風吹殿に課せられていたあの薪割りは、結局最後まで満足にできず仕舞いだった」
「……もう、しょうがないなぁ」
 ふわり、と。
「な……」
 最初会った、あの時のように。そっぽを向く自分を、風吹は後ろから抱きしめた。
 背中に感じる彼女の柔らかな感触。自分を包んでいるほっそりとした手。ほのかに鼻腔をくすぐる彼女の汗の匂い。……そういえば、一週間前、彼女はあれだけ激しく動いても汗一つ掻かなかったというのに、どうして今は? と微かに思ったのだが、
「あーーーっ!」
 横から聴こえてくる、何やら慌てふためいたような梨津の声がその思考をかき消した。
「そんなにマイナスに考えちゃ駄目って、言ったでしょ?」
「…………」
 梨津にも構わず、風吹の囁きが耳元に聞こえる。今回は、反抗も何もしなかった。彼女の言うことを、素直に聞き入れる。
 胸の中に広がる熱さがまた増したようで……でも、それがとても心地よくて。どこか、安らいだ気分になる。横にいる梨津が『あーっ! あーっ!』と未だに喚きに近い声をあげているのが少し気になったが。
「今日の君、とてもカッコよかったよ。うん。わたしが保証する。この一週間、本当に良く頑張ったんだって」
「……風吹殿」
「薪割りについてはさ、できなかったの、ちょっと残念だったけど。また来年の夏、わたしとリッちゃんとで一緒に頑張ろ。江笊くんならきっとできるようになるから」
「……何気に、俺の来年のことまで決めないでください」
「いや?」
 いやです。一瞬だけ心の中で呟いたのだが、それが口に出ることは全くなかった。本当は、そんなことを言う気はないのだから。むしろ、そうしたい気分だったのだから。答えは決まっている。
 でも……やっぱり。どうしても気になることが、一つある。
「風吹殿、今一度聞かせてください」
「なにかな?」
「どうして、風吹殿は俺にそんなにまでしてくれるのですか」
 これだけが、どうしてもわからない。結局、最初に訊いたときも、そして今も。この疑問はうやむやになってしまったままだ。
「…………」
 心なしか、自分を抱きしめる彼女の腕に力がこもったかのように感じた。それが、一体何を意味しているのかわからない。ただ、その力の入れ方が、江笊にはなんだか苦しかった。
「君のことが好きだから。って言うのはダメ?」
 だけど、風吹の声音は何ら変わっていなかった。今が今の状態だから彼女の顔は見えていないが、今、彼女はどんな顔をしているのだろう。そして。何で、最初に聞かされたこんなときにまで冗談を言う必要があるのだろう。あと……梨津が横で『はうっ!?』と裏返った声を出してるのも何でだろう。
 それはともかく。
「冗談でごまかさないでください」
「んふふ、今は結構、本気なんだけどな〜」
「……え?」
「ホントだよ。わたし、江笊くんのこと――」
「っ……だ、ダメーーーーーーっ!」
 と、風吹が終わりまで言おうとした瞬間に、耳をつんざかんばかりの絶叫が、この広場の隅々にまで木霊した。江笊は反射的にのけぞろうとしたのだが、自分を捕まえている風吹がまるで微動だにしなかったので、リアクションは何も取れなかった。でも、やはり耳には痛い。
「どうしたの、リッちゃん?」
 絶叫を聞いても飄々としている風吹である。
「お姉ちゃん、そんな、ずるいよっ! わたしの気持ち、さっき聞いたくせにっ!」
「……?」
 梨津の気持ち? 一体どういうことだ?
 言っていることの意味がわからず、江笊は風吹の腕の中で頭に『?』をいくつも浮かべた。その間にも、今、梨津は目に涙を溜めて姉に非難の眼差しを集中させている。
 それでも、背中にいる風吹はからからと笑うだけだった。
「んー、わたしが江笊くんのこと大好きなのは変えようないしねぇ」
「……!」
 はっきり言われると、江笊はどぎまぎせざるを得ない。しかし、
「でもね」
 付け加えるかのようにそう言うと、風吹は江笊を右腕に抱え込んだまま、今度は左腕で梨津の身体を抱え込んだ。
「わっ……!」
「わたしはリッちゃんのことも大好きだよ〜」
 うりうり〜と腕に抱え込んだ梨津の頬に頬ずりをする風吹。突然のことだったので、当の梨津は未だに事の状況が掴めていない。困惑顔のまま、梨津は姉の抱擁を受け止めている。ちなみに、目の涙は未だに溜まったままだ。
 同じくして、この困惑は、江笊にも言えることだった。
 風吹は自分のことが好きだと言う。それは……まあ、嬉しい。だが、梨津のことも好きだとも言った。
 ……ということは、これは、
「もちろん、しのりんも恭平くんもお爺様も、『刀武流』や『豪槌流』のみんなも、とってもとっても大好きなのだ」
 要は、そういうことだった。太陽のように明るい彼女にとっては、みんなが好きということなのだ。個人への、その……そういう特別な感情じゃなくて。友達として、妹として、仲間としての『好き』。
 ……好きだと言われた嬉しさは変わらない。
 だけど、ちょっと残念な気も、やっぱりある。
「お、お姉ちゃん、それならそうと早く言ってよ、もう……」
「む、ご不満かな? ならば、リッちゃんのファーストキスもわたしが奪ってあげよう」
「あわっ……なんでそうなるのよ! それに、わたしの『も』って、まさか……」
「いや、ご心配なく。しのりんのだから」
「あ、そうなんだ……って、ええっ!? お、お姉ちゃんが、士乃先輩と!?」
「間接だけどね」
「あぅ……お、驚かさないでよ〜」
 ボーっと考えている自分のことをそっちのけで、姉妹のやり取りはテンポ良く続いていく。未だに彼女の腕に抱きかかえられているこの状況、江笊はどうしたらいいのかわからない。でも……まあ、役得だと思い、しばらくはそうさせてもらうことにしよう。
 そう思って、江笊はすっかり忘れていた打ち上げ花火のに視線を移すことにする。
 夜空に咲く彩りの舞は今もまだ続いている。
 結局は彼女の自分への親切の理由は訊けずに、またうやむやになったけど、今となってはもう、どうでも良い気分だった。
 だけど。
 これだけは……やはり、事実として受け止めなければならないのだろうか。

 初めて、好きな人ができたということを。



 長かった一週間が終わった。
 恭平や士乃殿、そして実河姉妹といった『刀武流』の人達との一時の別れは名残惜しいものがあったが、永遠に会えないわけではない。
 だから、いつものようにお別れした。
 また、みんな来年に会おう、と。

 暑い夏の終わりから、時の流れは早いものだった。
 あの一週間よりも、早く、短く過ぎていく。
 夏を皮切りに俺はスランプから復調し、成長を再開させることができた。
 まだ、風吹殿に教えられたことの要領は得られないままだったが、それでも俺は調子を取り戻せた。
 だが、剣ばかりに気をかけているわけには行かない。
 もうすぐ受験が控えていたからだ。
 たくさんの学業の勉強をこなしていかなければならなかった。

 新たな春を迎え、中学校を卒業して、兄が通っていた都立陣代高校に受験した。
 家から程ない距離にあるし、のんびりとした校風で過ごしやすいと兄から聴いたのもあってだ。
 双子の妹や、中学の友達も大概は同じ受験高校なのには、少しどうかとも思ったのだが。
 結局は、みんな無事に陣代高校を合格して、晴れて俺達は高校生になった。
 だが、それと同じ頃に。
 俺の祖父であり、剣術の師でもある鐘鳴邑が、いずこかへと姿を消した。



『試されている、のかも知れないな』
 電話にて、江笊は士乃殿に祖父の失踪の件を話したのだが、返ってきた彼女の答えはいたって冷静だった。
「試されている?」
『そうだ。おまえももう、高校生になったのだからな。おまえが「器」になれるかどうかは、この年代にかかっている。だから、お爺様は試しているのだろう』
「だからって……それに、有羽がどれだけショックを受けたことか」
『……あの子に関しても、お爺様は考えていたのだろう。いつまでも、師に甘えているわけには行かない』
「…………」
 なんというか、彼女は自分よりわずか一つ上の女性だというのに、言うことはかなり大人びている。流派の皆伝内定者という同じ境遇とはいえ、こんなとき、士乃には敵わないということも、江笊にはしばしばあったりする。
「正念場、というわけなのだな」
『そういうことだ。となると、おまえがその「器」になれるまでは、「豪槌流」はしばらく休止状態ということになるな』
「…………」
『そんなに気を落とすな。おまえが一日でも早く成長すればいいのだ』
 いくらか堅いものが抜けた声で言われると、こちらも少し気分が落ち着いた。何はともあれこれからは、自分自身で剣の腕を磨いていかなければならないのだ。かといって、全ての土台が出来上がっているわけでもないし、それに。
 彼女から課せられた課題が、まだ残ったままだ。
「今年の『刀武流』の夏合宿、俺だけでも行っていいか?」
『? しかし、おまえは……いや、そうか、そうだったな』
「ああ、風吹殿や梨津にも伝えておいてくれ。今年の夏、またよろしくお願いします、と」
『…………わかった』
 電話による会話はそれで終わった。
 だが、やる気を高揚させていたその時の江笊には。
 彼女の名が出た時の士乃の声に、一拍の間が空いたのに気付いていなかった。


 多分、このメッセージは彼女に届いたのだろう。
 だが、彼女がそれに応える前に。
 運命の刻は、迎えられていた。


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