ORACULAR‐WINGS■
 ■明日へのワン・ステップ■    <過去編第三話 『兆し』>


 猛暑とも言える真夏の気温の中、江笊がこの一週間で課せられている薪割りのトレーニングが始まって、早くも三日が経とうとしていた。
 台の上に薪を置いて、それを割る。
 訓練自体は至ってシンプルなのだが、一日に割る薪の数が数であるので、全てを割り終える頃にはそれなりに時間が潰える。
 だから、江笊がこの日の薪を全て割り終わる時刻は大体夕方に近い。この時刻では、ここから離れた道場にいる『刀武流』の門下生達の稽古も終わる頃なので、言ってみれば、稽古の終了時刻は双方とも同じくらいである。
「リッちゃん、これで三日目が終わりなんだけど、これまでの結果を一日目から総ざらいで教えてくれる?」
 その合宿組の走り込みが始まるまで、江笊に山刀の素振りを命じておいた風吹は、さっきまで彼が薪を割れたか否かをカウントしていた梨津にそう問い掛けた。
「えっと、一日目は成功が一七、失敗が二八三。二日目は成功が三一で失敗が二六九。それで、三日目の今日は成功が四三、失敗が二五七。……ホントにちょっとずつだけど、成功の割合が増えてるって感じだね」
 クリップボードに記録している薪割りの成功と失敗の数を、梨津はそのまま姉に報告する。梨津からして、『これでは成長が遅くないだろうか?』と少しずつ揶揄し始めているのだが、一方で、風吹はにんまりと笑いながら『うんうん』と頷いていた。
「よし、おっけーだね。順調順調」
「え? お姉ちゃん、こんなのでいいの?」
「うん、わたしが考えるうちでは正に理想型だよ。おもしろいぐらいに」
 そう言って、満足そうに目を細めている風吹。そんな姉に、梨津は頭に『?』を浮かべる。
 このペースのままでは、大した成長を望めないことは素人である自分でもわかる。よくいって……そう、最終的には成功率約三〇パーセントで、この指導の期間である一週間が過ぎてしまうことだろう。しかも、成功といってもそれはあくまで薪を『割る』だけの話で、風吹が稽古初日にやって見せたような『斬る』レベル以前の問題だ。
 これでは、本当に気分転換のようなもので、彼のスランプが克服されるという大それた事になるとは到底思えない。
「リッちゃん、このままじゃ江笊くん何も成長しないとか思ってるでしょ?」
「はうっ……」
 と、姉に自分の思ったことを完璧に見透かされ、梨津はぎくりとなる。
「はい、思ってたね。ダメだよ〜、マネージャーがそんなことじゃ」
 そして、その多少の仕草が仇となったのか、そう思っていたことを、完璧に姉に教えてしまう結果となった。
 姉は、こういう他者の心理を読み取る能力に秀でている。顔に出そうものならば、その思考の内容をほとんど詳しく読み取られてしまうほどだ。まったく、自分の姉だというのに、そんなところは不思議な違和感を覚えずにいられない。
 といっても、姉のこういう特技が自分にとってたまに迷惑だったり、はたまたとても尊敬できたりするのだが。
「だけど、このままじゃ遅すぎるよ。もっと、ちゃんと割れるようにペースあげないと」
「んー、そうだねー」
 そんなことを言いつつも、風吹は何の不安もなさそうににカラカラと笑っている。そして頃合を測ったかのように、彼女は江笊に声をかけた。
「はい、これまで〜。江笊くん、今日は計二五七回のミスってことで、えっとぉ……走り込みに四二分五〇秒の追加だね。こんな感じで、おっけーかな〜?」
「……わかった」
 テンションの高さとは裏腹にやたらと厳しいことを告げる風吹に、少し渋々といった感じで頷いている江笊。
 彼の重たい気持ちはわかる。だけど、それでも何一つ文句を言わない辺りは本当にえらい人だなと、梨津は思った。
「リッちゃん、いつものように、江笊くんの監視兼応援頼むよ〜」
「うん。先輩、今日もあともう少しです。頑張りましょうね!」
「ああ……」
 文句を言わないながらも、江笊の返事は気のない感じだ。訓練当初はがむしゃらな感じだったのだが、今は何やらうわのそらで考えているようにも見える。
 そんなに疲れているのだろうか、と梨津は考えたのだが、
「よし……行くか」
 前を歩いていく彼の足取りは、結構力強い。精も根も尽き果てていないらしく、それどころか体力的にはまだまだ元気だ。
「…………」
「どうした、梨津? 早く行くぞ?」
「あ、は、はい」
 彼が何を考えているのか気になったが、今の自分のやるべきことを思い出し、梨津は江笊の後に続く。途中で訊いてみようとも梨津は思ったが、彼は走り込みに向かう中ずっとぶつぶつと独り言を呟いていただけに、訊こうにも何だか声をかけづらかった。

「はっ、はっ、ふっ、ふっ」
 二回息を吸い、二回吐くという、持久走に於ける正確な呼吸法を繰り返して走っている江笊の後ろ姿を自転車で追いかけながら、梨津はもやもやと考えていた。
 彼に、焦りはないのだろうか、と。
 姉の友人である差音士乃から聞いた話、鐘鳴江笊はミスが重なったり成長ができずにスランプになったりすると、それを深く考え込んでしまい、時間をかけないと立ち直れない傾向があるとのことだ。
 だが、今の彼は――確かに考え込んでいるようだが、悩みとかそういうものではなく、ただ漠然と何かを考えているような感じだ。その内容を、梨津にはまるで読み取れない。……本当に、彼は何を考えているのだろう?
「梨津」
 姉が『大丈夫だ』と言っているのを、そのまま信じているのだろうか。だけど、何の根拠も聞いてないのに信じるというのもおかしいだろう。
「梨津、待て、そっちは違うぞ」
 それとも、彼も彼で何かを感じているのだろうか。結果が出てないながらも、何らかの手ごたえが――
「梨津っ!」
「え?」
 そこで、江笊の声が聞こえて、梨津は現実に呼び戻されるが――呼び戻された時には、
「――って!?」
 自分が漕いでいる自転車は、一直線に林の木に向かって直進していた。慌ててブレーキをかけようにも、もう遅い。自転車の前輪が木の幹にぶつかり、その衝撃で前輪がつんのめってふわっと後輪が浮き上がる。梨津はサドルから身を投げ出されてしまい、
「きゃんっ」
 その自転車とぶつかった木の幹に、顔面からぶつかった。
「はぅ……」
 そして、そのままゆっくりと横に転倒。運悪く、転倒した先の林の中は斜面になっており、その結果、『ゴロゴローッ』と梨津は勢いよく林の中の斜面を自転車と共に転がり落ちていくことになった。
「あああああああっ!?」
 もうこれは痛いというより、自分がどうなっているかわからない。体のあちこちにぶつかっていく衝撃に翻弄されるし、頭の中の冷静な部分は『早く止まってくれますように』とのほほんとお願いをしていたりするし。
「梨津っ!?」
 そして、そのお願いがようやく叶ってくれた数秒後。
 江笊の切迫したような声と『カラカラカラカラ』と自転車のタイヤがやたらと速く空回りしている音が聞こえたが、それもやがて遠のいていく。多分、意識がなくなりかけているからだろう。さっきまであった体中の痛みも徐々に感じられなくなっていくのもそのせいか。
 わたし……どうなっちゃうんだろう?
 その思考を最後に、梨津の意識は闇に沈み込むかのように途切れていった。



『刀武流』合宿所の医務室の待合廊下。
 廊下に備え付けられてある長椅子に座りながら、鐘鳴江笊は膝に肘をついて手を組むといった形の体勢で地面を見つめていた。後悔、後ろめたさといった感情が、その顔からは窺える。
 あの事故で梨津が気を失ってから、江笊は彼女を背負って合宿所まで運んだ。風吹が玄関で自分達の帰りを待っていたので、とりあえず緊急で合宿所にかかりつけてある医師に診せることになった。
 そして、今は風吹が医務室で医師に診断結果を聞いて、江笊は廊下で待機という形に至っている。
 走りこみはまだまだ途中だったのだが、状況が状況なのでそうも言ってられないし、風吹も容認してくれた。
「…………」
 しかし、何とも情けない話だ。年下の女の子を怪我させてしまうとは。確かに彼女にも不注意はあったかも知れないが、『不注意』というなら自分にもそれは言えることだ。走りながら、何かと考え事をしていたのだから。
 自分のことばかりに躍起にならないで、もう少し彼女にも気を払っていてやれば、この事故は回避できたはずである。
 情けない。
 心の中でその言葉を繰り返しながら、仰ぎ見るように天井を見上げようとしたところで、ガチャリと医務室の扉が開いた。ほどなくして、風吹だけがこの廊下に出てくる。
「……お、待っていたんだね。エライエライ」
 と、椅子に座っている自分を見かけた途端、風吹は以前のようなマイペース調で声をかけてきた。気絶している梨津を医務室に運ぶまでは、さすがの彼女も心配そうにしていたが、この様子からして、どうやら深刻なことにはならなかったらしい。
 だが、念のために状況は訊いておかねばならない。
「風吹殿、梨津は……」
「ん、打撲が数箇所といったところだよ。擦り傷とか切り傷とかそういった外傷はなし。氷野センセーによると、土も軟らかかったようだし、斜面におっきな石っころとかもあまり無かったのが不幸中の幸いだったって」
「そうか……」
 少しホッとする。と言っても、それで責任が軽くなるとは到底思えないことなのだが。
「今日明日は安静にしとく必要があるから、明日はリッちゃんお休みだね。他の人にマネージャーを頼まないと」
『参ったね〜』と少し困ったように笑いながら、風吹は頭をポリポリと掻いている。……その笑顔を見ていると、何だか居たたまれない気持ちになる。
「風吹殿……」
「ん、なに?」
「怒らないのですか、俺を……」
 そんな言葉が、江笊の口からついて出た。
「怒るって、わたしが?」
「確かに梨津にも不注意があったかもしれない。だが、この事故は俺にだって責任があるはずだ。なのに、風吹殿は――」
 そうしてくれれば、この居たたまれない気持ちも少しは楽になるようなものを。彼女には、そんな素振りが全く見られない。
 それどころか。
 何を思ったか、数秒もしないうちに、彼女は『プッ』と可笑しそうに吹き出していた。
「な、何が可笑しい?」
 江笊はその笑い顔を見て困惑するが、風吹はそれでも未だに笑いを堪えている様子だった。
「くは、いや、ちょっとね。ふーん、江笊くんって、わたしに怒って欲しいんだ」
「な……そうされて当然だろう。それにそうじゃないと、俺の気が済まない」
「んー、確かに言われてみればそうかも知れないね〜」
『クックック』とまだ可笑しそうにしながら、風吹は続ける。
「でもさ、それって自己満足なんじゃないのかな?」
「なに?」
「だってそうじゃない。怒られる、シュンとなる、でも、後々に気が楽になる。それは江笊くんだけの気持ちの問題で、リッちゃんの気持ちはどうにもならない。それじゃ何も責任を果たしたことにはならないよ」
「……!」
 愕然となった。へらへらと笑いながらも、風吹は核心をグサリと突いてきたからだ。
 彼女は正しい。なんだかんだ言いつつも、自分はその自己満足で知らぬうちに責任から逃げようとしていた。『責任を果たすこと』と、『責任から逃げること』の区別を勘違いしたまま。梨津自身のことを、何も考えてはいなかった。
「…………」
 今日ほど、自分が情けないと思ったことはない。過去、剣の練習に行き詰まった時や、学校のテストの点が悪かった時、そしてさっきの『情けない』と思った時とも、比べ物にならないほど。
「あらら、ちょっとダメージ大きかったかな?」
「…………」
 もう、何も言い返す気になれなかった。今、この場で何を言っていいのかわからないし、どうやって責任を果たさないといけないか考えないといけないし、梨津に何と言っていいのかもわからないし……。
 もう、どうすればいいのやら。
「でもね、そんなに悩まなくてもいいよ」
 と、風吹の優しげな声が聞こえる。
「……?」
 その声につられるかのように、江笊は何気なく正面を見ようとすると、
「!?」
 彼女の顔が自分の視界にいっぱいに広がっていたのに、江笊は電撃が走ったかのようなショックを胸に覚えた。
 細い眉毛にかかる栗色の前髪、大きな茶色の眼、小さな鼻、薄いけど柔らかそうな桜色の唇。それを象っているきれいな顔が、江笊の視界を占拠している。風吹が自分の両肩に手を置いて顔を近づけてきているとわかったのは数瞬の後だったが、それに気付いたら気付いたで、江笊の胸の動悸は加速するばっかりだ。
 ついさっきまで重く感じていた感情を忘れてしまいそうになるほど。
「江笊くん、また考えてたでしょ。リッちゃんにどんな顔向けしたらいいかとか、そんなこと」
「…………」
 こういう風に彼女に自分の心理を読まれるのはもう慣れっこだが、それでも驚きは隠せない。そして今もこうやって、実河風吹は心の内を見透かしてくる。黙っている自分を見てフフンとにんまり微笑んでいるのが、その証拠だ。
「ん、やっぱりね〜。でも、別にそんなに難しいことじゃないよ」
「?」
「いま、リッちゃんが知りたいことを君が教えてあげればいいんだよ。リッちゃんは、君のことを考えてて事故っちゃったんだから」
「……俺のことを?」
「そーそー。結構気にかかってるようだよ。君の成長度合いとか、君が何を考えているかとか、ね」
 そう言って風吹は顔を遠ざけ、江笊の肩に置いていた手を今度は頭に『ポン』と撫でるかのように優しく置いた。
「君が本当にリッちゃんに対して申し訳ないと思っているのなら、一人で考え込まないで、もっと話してあげることさね。マネージャーっていうのはそういう相談の受け手でもあるんだし、リッちゃんもマネージャーをやっているからにはそれくらいの度量もあるんだから」
 そして、頭に柔らかな感触を残したまま、風吹は廊下を立ち去っていく。
 その後、江笊は正面を見たまましばらく微動だにしなかったが、ハッとなって後ろを振り返ると、手をひらひらさせながら角を曲がっていく彼女の背中が見えた。
「…………」
 その背中が見えなくなってから、何とも言えない気分が自分の胸の内に滲み出てくるのがわかる。はっきり、まだ胸の動悸が治まっていないが、そんなことよりも考えなければならないことがある。
 梨津のこと、自分のこと、そして風吹のこと。
 言い換えれば、梨津に申し訳ないと思う気持ち。自分が情けないと思う気持ち。そして彼女の顔を見た時の、あの、何であるかよくわからない不思議な気持ち。
 ……何だか最近、考えることが多い。今訓練している剣のことや、後々に控えている高校受験のことも考えないと行けないのに、この数日で考える種がまたいろいろと増えたような気がする。
 一体どうすればいいのだ、俺は。
 気が重い。
 でも、どんなに気が重くても、逃げ出すわけにはいかない。梨津は何のために怪我をした? 風吹は何のために、数日前まで赤の他人だった俺のことを気にかけている?
 そして。
 俺は何のためにこんなに悩んでいる?
「……はぁ」
 ここまで考えて、江笊は思考を中断させると共に溜息をついた。普段はあまり頭を使ってないから、その反動で頭がこんがらがりそうだ。何気なく額に手を当ててみると、少し熱っぽくなっているのがわかる。知恵熱とはこういうものを言うのだろうか。
 ……今日はもう休もうと思い、江笊はその場からゆらりと足を動かし始めた。
 物事を後回しするのはあまり好きではないが、この状態ではもう何もならない気がする。全ては明日からだ。
「…………」
 だが、明日以降に回すということは――これらの物事を、一つずつ、どんなに時間をかけてでも必ず解決せねばならないことだった。



 それからまた二日が過ぎた。
 医師に言われていた通りに、梨津は一日を置いてマネージャーの任に復帰した。
 まだあちこち痛いところもあるし、湿布も取れていないけど、運動はしないので医師からOKをもらえた。『自転車の運転にはちゃんと前を見るように』と、釘を刺されもしたのだが。
「お。よう、リッちゃん。もう良いのかい?」
 合宿所の玄関に向かう途中、『刀武流』の剣士である少年、秋月恭平が声を掛けてきた。
 そういえば、昨日はこの人が自分の代理で個別指導のマネージャーを勤めてくれていたと、姉に聞いている。お礼はやはり、言っておかなければならない。
「はい。秋月先輩、昨日はありがとうございました。自分の稽古もあるのに……」
「いや、なに。オレもあいつがどんなことしてたか気になってたからねぇ。それに、程よくサボ――」
 と、言いかけて、『はうっ!』と恭平は咄嗟にかつ拙そうに口を紡いだ。
「? サボ?」
「サボ……テン」
「?」
 わけがわからなかった。何でそこでサボテンが出てくるのだろうと思ったのだが、
「……あ、いや〜。それにしてもあいつ、なかなかきっついことしてるよな〜」
 気付いた頃には、彼は遠い目をしながら話題をすり替えていた。……まだ彼の口から出た『サボテン』について気になったのだが、深く突っ込むのは止めておこう。
「ん、そうなんですよ。先輩、昨日はどうでした?」
「うむ、失敗のカウントが二五〇を超えてたってことは、やっぱ駄目なんだろうな」
「……うー」
 そんなにあっさり言われると、なんだか、微妙に悔しい。
 自分が怪我をする一昨日まで、日を重ねるごとにほんの少しずつでも割れる個数が増えていたものの、昨日はどうやら進展がなかったようだ。
 姉の個別指導が終わるまで、今日を含めてあと三日。これでは本当に、目標としているものが全く遠いまま、稽古が終了してしまう。
 何で、こうも上手くいってくれないのだろう?
 彼は、あんなにも頑張っているというのに……。
「だけど、あんなに同じミス繰り返してると、傍目から見たらちょっと間抜けだよなぁ」
 ……ぴくり。
「江笊も江笊で、ただ黙々とやってるし。風吹ちゃんもミスの繰り返しに怒りも何もしないし。なんつーか、ねぇ」
 ……ぴくぴくり。
「あれで本当にスランプ脱出できるのやら。オレ、ちょっと疑問なんだけど、リッちゃんはどう思うよ?」  軽い口調で恭平の問いかける。
 これに対し、梨津は、
「――わよ」
「……お?」
「ちゃんと脱出できるわよっ! 先輩はね、とってもとっても頑張ってるんだから! ちゃんとわたしが見てるんだから! 見ててわかるんだからっ! 秋月先輩の……先輩の……えっと……バカーーーーッ!」
 凄い剣幕で一気に捲し立てた(最後辺り詰まっていたが)後、合宿所の玄関から一気に走り去っていってしまった。
「……お〜」
 後には、彼女の勢いに圧倒されてぽかんと立ち尽くしている恭平だけが取り残されていた。



「風吹殿が休み?」
「ああ、体調が優れないらしい。だから、今日は私が風吹の代理だ」
 稽古の時間。今日もいつものように、山小屋に足を運んだ江笊だったのだが……待っていたのは風吹の指導ではなく、差音士乃のこの通達だった。
 しかし、今になって体調不良とは。昨日まではあれだけピンピンしてたというのに。
「一応、病み上がりだからな。大事を取ってだ。明日には復帰するそうだから、今日はゆっくりと休ませてやれ」
「…………」
 そういえば、合宿まで彼女は体調を崩していたのだった。すっかり忘れていた。いや、この場合、普段の彼女があれだけ元気だから、忘れさせられていたといった方が正しいかもしれない。まあ、無理をさせることはあるまい。
「どうしても来れないのか?」
「どうしても、というとそうでもないのだがな。けど、あまり無理はさせられないだろう?」
「……そうか」
 ……って、ちょっと待て。
 さっき『無理をさせることはあるまい』と思ったばかりなのに、何故そんなことを士乃に訊く必要がある?
「何だ、残念そうだな」
 士乃が意外そうな感じで、わずかに眉をひそめている。
 そんなことなどない。あの女のペースにはまってここのところ調子が狂いっぱなしだから、ちょうどいいと思っていたところだ。
「……少し、な」
 だが、思っていることとは裏腹に。
 自然と、そんな言葉が突いて出た。
 何故だ?
「せんぱーいっ!」
 と、頭がこんがらがってきたところで、梨津の元気な声が聞こえてきた。
 まだ二の腕に大きな湿布が貼ってあるのが見えるのだが、どうやら医師にOKをもらえたようだ。大事に至らなくて何よりなのだが、今日は風吹がいないから、嬉しさは半分くらい……じゃない。だから、何でそんなことを考える。
「あれれ? 士乃先輩、お姉ちゃんは?」
「今日は少しお休みだ。体調不良で、大事を取っての休養。そういえば、梨津には言っていなかったか」
「そうなの……うん、しょうがないよね、お姉ちゃん病み上がりだったんだし。でも先輩、お姉ちゃんがいなくても、がんばりましょうねっ!」
「……そうだな。じゃあ梨津、薪の方を頼む」
「はーい」
 復帰直後だというのに、梨津はやけに張り切っている。まるで、自分のことのようにだ。このように応援してくれるというのはなかなかに心に沁みる。こういう快活なところは、姉の風吹に良く似ている……ってまただ。いちいちあの女を引き合いに出さなくてもいいではないか。
「江笊」
 と、梨津が薪の束を山小屋に取りに行った直後、士乃がやけに小さい声で自分の名を呼んだ。『なんだ?』と振り向こうとしたのだが、なんだか妙に体全体が重くて、思うように動かない。振り向こうとするにも一苦労である。
 だが、振り向いたら振り向いたで、顎に手を当てて何やら不適に笑っている士乃の顔があった。
 不気味だった。
「し、士乃殿?」
「耳が赤いぞ、江笊」
「ぬ……」
 赤いのか?
 反射的に耳たぶに指先で触れてみると、心なしか熱いような気がする。
「まあ、誰にもかしくも一度は必ずあることだ。決しておかしいことではない」
「……?」
『ふっふっふ』と含み笑いをもらしながらどこか明後日の方を見ている士乃。この少女とは今の今まで付き合いは長いのだが、こんな彼女を見るのは今日で初めてだった。一体何を言いたいのだ、この人は。
「せんぱーい、薪ですよ〜」
 薪を両手に山ほど抱えて、梨津が戻ってくる。
 まあ、士乃が何を考ているのかを追求するのは止めよう。下手に問い詰めると、ロクなことにならない気がする。さっさと薪割りを始めることにしよう。 
 江笊は用意していた山刀を片手に持ちつつ、梨津からもらった本日一つ目の薪を台の上にセットした。

 ――それで、江笊には見えていなかったのだろう。
 明後日の方を見ている士乃がその時に顔に出していた、わずかな曇りを。


 梨津と士乃が見守る中、昼食時になるまでずっと山刀による薪割り。合間合間で、この薪割り訓練の経験者でもある士乃が江笊にアドバイスを送ることもあったのだが、やはり。どうにも、進展は見られない。
 時折、一振りで薪が割れることがあろうとも、やはりそれはただ割れただけの話で。『斬れた』というのは、一度とてない。
 単純な作業と、時間だけが刻一刻と過ぎていく。
「はぁ……なかなか上手くいかないですね〜」
「…………」
 そして、今日も午前の部が終了。昼食時になったので、薪割りをいったん中止して合宿所の食堂へ。といっても、切り上げ時が結構遅れたためか、食堂のテーブルは江笊と梨津の二人だけの貸切になっていた。
 ちなみに、士乃は寄るところがあるとのことで、この昼食に同席していない。
「先輩、こんなに頑張ってるのになぁ」
 昼食の醤油ラーメンをずるずると啜りつつ、梨津が『う〜ん』と困ったように唸っている。彼女の言う通り、朝も朝とて、江笊の訓練には大した成果は望めなかった。
「頑張っていても結果が出ないということは、まだ俺の頑張りが足りんということだ」
「そ、そんなことないですよ。先輩、頑張ってるじゃないですか」
「……まだまだなのだ」
 淡々と、他人事のように言って、江笊はきつねうどんを啜っていた。『まだまだ』とか自分で言っている割には、彼からそれといって落ち込んだような様子は見られないのだが。
 ……そういえば、一昨日もそうだったような気がする。
 失敗ばっかりだったのに、こう、どこかうわのそらで……それでいて、マイナス思考が見られない、そんな雰囲気。それを考えていた矢先に、一昨日はあんな事故を起こしてしまったのだが。
「先輩」
 やっぱり、気になった。まだ訊きづらい部分もあるけど、答えられる範囲で答えてもらおう。
「ん?」
「焦って、ないですか?」
「…………」
 食を進める手を止めて、彼は押し黙ってしまった。
 ……訊き方が拙かったかも知れない。というか、率直すぎた。
「えっと、あの。先輩、上手く行ってじゃないですか、今まで。だから……そのぉ……」
「……そうだな」
「え?」
 短い答えに、梨津はきょとんとなった。肯定している割には、そのように感じられないからだ。その間にも江笊は食を再開し、うどんの汁を一通り啜ってから一息をつく。
「下手をすると、俺はこのまま成長を止めてしまうかも知れん。俺にとってそれはとても怖いことだ。焦りたくもなる」
「え……そ、そんな」
「けど、風吹殿のこの指導で、何かきっかけが掴めそうな気がしているのも確かだ。この、ここ最近の不調をも吹き飛ばせるような……」
 箸を置き、江笊は一度グッと拳を力強く握って、徐々に力を抜いて……それから、どこか確信めいたかのように手のひらを見つめている。『何をしているんだろう?』と思い、梨津はつられるかのように身を乗り出して、彼の手の平を覗き見る。
「わ……」
 思わず、声が出てしまった。
 皮が破れて固まってしまった無数の胼胝が、その手の平にはあった。普段から剣を握っているのもあるのだろうが、この薪割りの訓練もまた、彼の手をこんなにしているのだろう。新たに肉刺になっているところもあり、かなり痛々しかった。
「い、痛くないですか?」
「別に。いちいち痛がってては、剣術などやってられん」
「でも……嫌にならないですか? こんなに……」
「何を言うか」
 心外だとも言わんばかりに、江笊は梨津の目を真っ直ぐに見据え、こう言った。
「好きでやっているのに、嫌がる必要があるのか?」
「――――」
 例えるならば、頬を叩かれたみたいだった。
 好きでやっている。
 何気ない一言のように聞こえないでもないが、それは間違いなく、彼の本心だった。それを悟って、そんな錯覚に陥ったのだ。
 それに、その本心を聞いて、梨津は……指導開始前日に、士乃に聴かされた、彼がこんなにも頑張ってる理由を思い出した。
『豪槌流』の後継ぎに内定され、その器に一歩でも近づくべく、今とても必死なのだと。規模がとても小さいとはいえ、一つの流派の『後を継ぐ』というのは実質とても大変なことだということも。
 どんなに大変かということは、何となく素人である自分でもわかる。
 だが、そのプレッシャーの中でも、彼は一歩も引こうとしない。
 剣術が好き。好きだからこそ、後退はしない。
 なのに、そんな、『嫌にならないですか?』なんて不用意に聴いてしまうなどと……。
「ご、ごめんなさい、先輩」
 そう、謝らずにはいられなかったし、彼に対してとても申し訳なくも思った。
「いや、謝られても困るのだが」
 自分が考えていることを知らないでか、本当に困ってしまったらしく、江笊はプイとそっぽを向く。そんな仕草は、まだ一四の少年だった。
 でも、そんな年齢ながらも頑張っているのは、とても素敵なことだ。
 そして、こんなに頑張っている人をみている時。
 梨津は、その人のことを無性に応援したくなる。

「……じゃあ、行きましょうか、先輩」
「うむ」
 やがて昼食を終え、また稽古の時間がやってくる。
 今は、まだ結果が出てきていない。だけど、彼はそれにもめげずに頑張っているし、何かきっかけを掴めそうでいる。姉も大丈夫だと言っている。だから、最後まで応援していよう。それが、自分の今のできることだろうから。
 わたしも頑張ろう。
 梨津は心から思った。



 時を同じくして。
「大丈夫でなかったではないか……」
 押し殺したような声が、医務室に響いた。
 そう。ここは合宿所の医務室である。打撲や骨折のための応急セットだけに限らず、簡単な医療機器なども設置されており、奥にはベッドもいくらか用意されている。声が響いたのは、その奥からだ。
 医務室の奥にあるベッドの脇には、神妙な顔をした差音士乃が、白いベッドの上で胡座になって座っている少女に咎めるような眼差しを向けている。
「まあまあしのりん、そんなに怒りなさんな」
 わずかに呼吸を乱しながらも、そう士乃に軽口で返すのは――そのベッドの上の少女、実河風吹だった。ほっそりとした二の腕には点滴が差し込まれている。
「怒ってなどはいない。だが、倒れたんだぞ?」
「ちょっと眩暈がしただけだって。もう、しのりんったら大げさなんだからぁ」
「ふざけている場合か。あと、しのりんはやめろ」
 溜息をついて、士乃はベッド脇にある椅子に座りなおした。
「……風吹、これ以上は無理だ。江笊については、後は私が何とかやるから、おまえは――」
「駄目だよ」
 言いかけたところで、風吹が穏やかにかつきっぱりと遮った。そんな遮る声にも、わずかではあるが彼女の呼吸の乱れが読み取れる。わずかといっても、少なくとも、普通の人間がする呼吸ではない。
 それは明らかに、彼女の今の状態を表している。
「しかし……」
「駄目なものは駄目なんだったら。これじゃさ、おんなじことの繰り返しだもん」
「……おまえ、まだあの子のことを」
 気にしているのか?
 と、続けようとしたところで、風吹が人差し指で士乃の唇をさっと押さえていた。
「士乃……一生のお願いだよ。最後まで、やらせて欲しい」
 華奢な肩を小刻みに震わせながら、『何か』を隠すかのように顔を伏せ、人差し指だけを力強く押し出してくる。
「風吹……」
「もう、いやだからさ、ホントに……」
「…………」
 ――お願いどころではない。これは懇願だった。
 それほど、今の実河風吹は、感情をあらわにしていた。実の妹にすら見せたことがないであろう、感情。
 表情こそは彼女自身が顔を伏せているので覗うことができなかったが、どうなっているか、想像に尽きる。
 そして士乃は、彼女のそんな顔をもう見たくなかった。
 我慢できるものか。
 忘れられるものか。
 あの日あの時の、親友の泣き顔を。
「ありがと、士乃……」
 自分の心情を感じ取ってくれたのか、風吹は一つ呟いて、士乃の唇を押さえている人差し指をそっと退けた。それから何を思ったのか、彼女は不意に顔を上げてにっかりと笑い、その人差し指を自分の唇へとちょんと触れさせる。
「へっへー、これでしのりんのファーストキスをゲットだぜ〜」
「……阿呆」
 その様子には、先程の感情など欠片も見られず、なおかつ彼女の呼吸の乱れも治まっていた。


 風吹との会話を終え、士乃は合宿所を出て江笊と梨津が待っているであろう山小屋に向かう。
 あの二人は知らない。
 風吹のことを。
 でも、伝えてはいけない。
 それは、風吹自身の願いだからだ。
 例え、彼女が近くない運命を迎えると知っていても。
 親友の『一生のお願い』を、無碍にしたくなかった。
「……暑いな、相変わらず」
 歩を進めながら、士乃は鋭い目をさらに細めてぼやきを漏らす。
 まだ、午後一時半。
 天まで昇った夏の日差しは、まだまだ容赦を見せる兆しがない。


ORACULAR‐WINGS■
≪前のページヘ  次のページへ≫
インデックスへ戻る

閲覧室Aへ戻る

時間軸順 ジャンル順 作者順
ORACULAR‐WINGS■