ORACULAR‐WINGS■
 ■突然生まれるスライト・ホープ■    <前編>


 8月28日

 道場。
 誰の気配が感じられるわけでもなく、何の音もしない広い空間。
 いつも日常に感じている世界とまったくの別世界なのかとも錯覚するような、静かな空間。
 ――その中央で、竹刀を片手に目を閉じながら、紺色の胴着と袴姿の小柄な少女が立っている。
 コオオオオ……
 呼吸。この広い空間に微かに響く呼吸の音。深く、大きく、それでいて静かで……あまりに普段のする呼吸とは、迫力が違いすぎる。
 この少女にとって、それは『自分のする呼吸なのだろうか?』とも思えてしまうほどだった。
「…………」
 閉じていた目をスッと開ける。
 自分が住んでいる家の一部とも言える、見慣れた道場の中。木造で屋根の高い、古風な造り。昼時だから中は明るく、この建物の入り口からだったら全体を見渡すことも可能だろう。
 音は、やはりしない。それは目を閉じていても開けていても同じことだ。ここが別の世界であるような錯覚は、まだある感じがする。
 その錯覚を感じたまま、少女は手に持っていた竹刀を静かに、ゆっくりと構えた。
 目の前に、何かが見える。白い靄みたいな、何か。
 意識を集中すると……その目の前の『何か』は、徐々に姿を容どっていく。
 その『何か』――人型のようなその白い影は、自分とは少し違う、白い色の刃を持ってこちらに向かって構えを取っていた。……それは、自分が作り出した倒すべき敵。
 ジリジリ……と、少女は剣を構えながら間合いを取る。今、目の前にいるその白い影も、自分に合わせるかのように距離を詰めてきていた。

 ……来る!

 恐るべき速さで、その白影が自分に向かって斬りかかってくる。
 振りかざされた白刃を自分が持つ全反射神経と敏捷性をもって回避……したが、まだ安心はできない。次々と襲いかかってくる剣の応酬を、縦横に跳んでまた回避。その間に、意識を集中して反撃の機会を窺う。直線的のように見えて、その攻撃にはなかなか隙が生まれない。だけど――
 必ず、どこかに隙が生まれる……!
 相手の攻撃を回避、または受け流したまま、さらに意識を集中。そして、

 ――見えた!

 少女は相手の剣をかわして高く跳躍し、相手を跳び越え……上手くその背後を取る。急なことの上に背後を取られたその白影は、防御の姿勢を取ることができずに無防備になった。
「やああっ!」
 気合。
 生じた隙に、彼女は自分の渾身の力を込めた一撃を繰り出す。稲妻のように速い剣が相手の白い胴を捕らえ、確かな手応えを感じた。しかし――
「……!?」
 効いていない。相手の気絶を奪えるとは思っていたのだが、その白影はこの一撃に動じた様子もなく、普通に動きを再開している。さらにはこちらに振り返り、その白刃を自分に向かって振りかぶってくる。
 これに、少女は目を見開いた。
 駄目……やられる……!?
 そう覚悟した瞬間、その白影は霧散霧消した。極限まで高められた集中力が途切れ、目の前に在った『イメージ』が消えたのだ。
「……ふぅ」
 緊張が解け、ドッと全身に汗が噴きだすのを感じながらため息。少女――鐘鳴有羽は、額に流れている汗を紺色の胴着の裾で拭い、がっくりと膝を道場の床についた。

 イメージトレーニング。
 独特の世界観を自分の心だけで持ち、その想定上で自分の『相手』を作り出し、それと闘うといった内容の訓練である。意識を極限までに上手く集中すれば、実際にその『相手』と実戦を共にできるかのように感覚が研ぎすまれることもあるので、結構実用性があったりする。
 最近の鐘鳴有羽は一人で剣の稽古をする時、このトレーニングを何度か繰り返していた。
「…………」
 ここは鐘鳴家のお風呂場。
 稽古の汗をお風呂で流しながら、有羽はぬるま湯の溜まった浴槽につかって一人、さっきやったイメージのことを思い返し……さらに、今までのトレーニングについても思い返していた。
 ――今までに何回か、このトレーニングをやったのだが……そのイメージで作り出した『相手』に、有羽は一度も勝てたことがない。確かにその『相手』に一撃も当てれないことはないし、彼女はいつも全力で事に臨んでいる。だが、『相手』にそれといった有効打を与えることはなく、さらにはすぐさま反撃に転じられ……そして、一本を取られるのだ。
 ……心に何かムラがあるのかな……?
 今まで勝てない理由はそれなのだろうか……いや、違う。ちゃんと、否定もできる。
 このトレーニングは言わば精神的なものが関係している。経験上、上手く心を安定させてこそ、イメージの『相手』を作り出せるというのはわかっているのだから。問題があっては元も子もない。
 じゃあ、何で勝てないんだろう……?
 口元まで湯につかり、肺に残る空気を少しずつ吐き、ぷくぷくと小さく音を立てながら風呂場の天井を見上げる。見上げながら、何かと深く考える。
 だが、答えは見つからない。
 ……って、こんなに深く考えこむと、また駄目になるんだよね……。
 その通りだ。悩みが深みにはまってしまうと、剣に鈍りができてしまうし……それこそ、心が安定しなくなってしまう。
 ……何か気分転換しよう。
 程よく汗が流れたのを確かめながら、鐘鳴有羽は浴槽からその小さな身を乗り出した。

 夏休みも終わりに近い。
 ……この休み中、一日一日同じことを繰り返していたような気がする。
 確かに、時たま友達と会って、どこかに行って遊んだりしたが……その日以外はほとんど、剣の修行や学校の宿題、勉強などなど、一日の決められたレールを走っていただけだった。
 変化があったと言えば、最近になって自分の双子の兄の親友が、この鐘鳴家に引っ越してきたことだろうか。有羽はその娘とつい最近知り合って、結構仲良くなったのだが……彼女とは四六時中傍にいるわけでもないし、今はある諸事情により兄達と共に自分と母を残して家を空けている。
 退屈を感じてしまうと……こんなに長く休みをもらうより、学校で毎日友達と会って何かとおしゃべりしていた方が楽しいと、有羽は思った。せっかく、友達も多くでき始めたんだし……。
 ……学校に行ってみようかな。
 ふと、思い立つ。
 夏休みの宿題はとっくに終わってる。勉強は夜にしっかりやっておけば事は足りる。……一人で何回も剣の稽古をするのも何だかな、とも思う。
 今は暇なのだから。
 そうしよう。
「お母さん、ちょっと出かけてくるよ」
 有羽は学校の制服に着替えて、自室で眼鏡をかけて何かと書類と格闘している自分の母親――鐘鳴曖に、そう声をかけた。
「ん、どしたの有羽? そんな急に……」
「うん……ちょっと、気分転換。学校に行ってみようかなって……」
「気分転換て……それって、転換になるの?」
「う……な、何かあるかもしれないじゃない」
「……ま、いいけどね」
 クスッと曖は有羽に向かって笑い、眼鏡を外してひらひらと手を振ってくれた。
「じゃ、行っといで。あたしは今日仕事休みなんだけど、書類整理がまだ残ってるのよねー……」
「ほえ〜……お母さん、大変だね……」
「そーそー、大変なの。だから、こういうあたしみたいな働くお姉さんは、時折気分がナーバスになるから、ちょっとの間一人にしておいて欲しかったんだ〜♪」
「…………」
 そんなことを明るい口調で言われても、全然説得力がない。まったく……娘である気弱な自分とは違って、本当に明るい人だ。外見がいつまでも若いのは、やはりそのためなんだろうか?
 しかも四〇歳過ぎてるのに、自分のことを『お姉さん』だなんて言い張るなんて……。
「有羽、何か思った?」
「え……う、ううん、そんなことないよ……じゃ、行って来ます」
 最後のこの母のセリフの響きは何だか少し怖かったので、有羽はこめかみに冷や汗を垂らしながら、足早に玄関に足を運んだ。

 夏が終わりかけていても、まだまだ強い陽射しが残っている空の色は純粋といってもいいほど青い。雲は一つも無く、とてもいい天気だ。
 そんな青空の下。
 夏休みでしばらく行っていなかった陣代高校の門に、それはあった。
「わあ……」
 今、鐘鳴有羽が茫然と見上げているのは……今度行われる文化祭の、入場ゲートだった。いや、これはもうほとんどゲートと呼べる代物ではなく、『要塞』と表現する方がいいかもしれない。
 ……って、これ……なんなんだろう……文化祭なのに、ゲートが要塞……これは何かのアトラクションなのかな……?
 と、そんなことを思っても、所々にある防犯装置、ゲートの作りの頑丈さ、材質の丈夫さ、その他諸々……それらが、『アトラクション』と言う単語を否定している。
 言わば、それは本格的な『要塞』だった。
「…………」
 額に流れる汗。
 これは絶対暑さによる汗ではないと確信しながら門を通ると……そこで、体操服姿の生徒会の人達が、せっせとそのゲートを作る作業にいそしんでいるのが見えた。
 中には、中学からの友人である榊洋和や、一学期が終わる前に友達になった同じクラスの男子生徒、小百合葉兵衛の姿も混じっている。
「あ……――」
 ……彼らに何か声をかけようとしたが、やめた。
 真剣に作業をしている人達の邪魔になるだろうし、生徒会にあまり深く関係してない自分では、この門のことについては何も知らないのだから、あまり手伝えることもないだろう。
 図書室で、本でも読もうかな……。
 結局、学校に来ても暇であることに気付いて、有羽は少しため息をついた。

 冷房の効いた図書室で書物に埋もれるのは、嫌いではない。大体、学校の図書室や街の図書館では小説をメインに読んでいる。自分が読む小説はいろいろとジャンルが豊富なのだが……恋愛小説なんかは特に好きだ。
 いろんな恋の形を知ることができるし、ロマン云々のある恋愛には、少し自分も憧れている。いつか、自分もこんな風に恋をするのかなという……期待も、湧いてくる。
『素敵な恋をしたい』という人もいるけど、『恋をして素敵になる』人もいるんじゃないかな?
 そう思いながら、図書室の時計を見ると――
「あ……もう、こんな時間……」
 さすがに、読書は退屈な時間を潰してくれた。気付けば、もう夕方に近い時間だ。
 読んでいた本(やはり恋愛小説だった)をパタリと閉じ、その本を棚に戻しておいて、廊下に出る。ふと廊下の窓の外を見ると、あんなに鮮やかだった青色の空もいつしかオレンジに染まりかけていた。さすがにこの時刻となると生徒会の人達も今日の作業を終えているらしく、ゲートの近くで缶ジュースを一服する人や、荷物をまとめて帰宅している人等、まばらにいる。
「……ごくろうさま」
 窓の下にいる生徒会の人達に小さく微笑みながらポツリと呟いて、階段を下りて昇降口に出る。すると……そこに、一人の少年が学校の上靴と下靴を履き替えていた。
「あ……」
 制服の上からでもわかる筋肉質な体つき、ボサボサの黒い短髪に茶色の人なつっこい双眸をしているその男子生徒は……同じクラスの小百合葉兵衛だ。
「ん……? よう、有羽ちゃんじゃないか」
 と、昇降口にいる自分に気付いたのか、兵衛は軽く手を振ってきた。久しぶりに友達に会ったことに少し慌てながらも、有羽は彼に向かって小さく微笑み返す。
「……こ、こんにちは、小百合葉くん」
「ああ、こんちは……って、なんでまた、有羽ちゃんが学校に来てんだ?」
「え……あ……その……」
 家にいても暇だから、図書室で本を読んでいました。
 そう言うのは、少し恥ずかしい気がした。そんなことから、有羽は何かと顔を赤くしてもじもじしてしまう。
「……おっと、悪い悪い。言いたくないなら別にいいぜ。人間、誰しも秘密にしていたいことってあるもんなぁ」
 それを気遣ってか……兵衛は軽く笑いかけてくれた。こんなことを秘密にして何になるのだろうかと一瞬有羽は思ったのだが、それはそれとして。
「ご、ごめんなさい……」
「あっはっは。いや、謝んなくたっていいぜ」
「は、はい……小百合葉くんは、あの文化祭の……?」
「そそ、準備のお手伝い。生徒会所属っつっても、オレはあんまり乗り気じゃないんだけどねぇ。作業は結構大変だしさ……」
「……あ……ちょっと訊きたかったんですけど、あのゲートって何なんですか……?」
 あの『要塞』みたいなゲート。生徒会の関係者なら何か分かるかもしれないという期待を込めながら質問をすると、兵衛はこめかみに汗を垂らして少し苦笑した。
「ああ、あれね……オレもあれが何が何やら……ただ一つ言える事は、アレは確実に文化祭の入場ゲートではなく、単なる要塞ってことだな。ま、あの宗介が設計したんだから、ああなるのは当前と言えば当前か」
「……アレは、相良くんが関係してたんですか……?」
「いや、そうとしか考えられないだろ?」
「そう言われると……そうですよね」
 陣代高校の問題児である相良宗介の、あの日常生活の常識の無さを思い返しながら……二人は軽く笑い合った。
 何だか、久しぶりに会う友達と会話はとても楽しい。やっぱり……学校に来てよかった。
「それで……小百合葉くん、今から帰りですか?」
「そうそう。オレ、もうクタクタだよ……まったく……榊や瞬達は早いうちに帰っちまうし、宗介やかなめちゃんはどっか旅行に行ってるみたいだし……力仕事、ほとんどやらされたぞ」
 兵衛は肩が凝ったかのように、首をクイクイッと捻っている。……自分が言うのもなんだが、そういう彼の一つ一つの仕草が有羽には少し子供っぽく見えて、何だか笑えた。
「あはは……お疲れ様です、小百合葉くん」
「そりゃどーも……有羽ちゃんもこれから帰り?」
「あ、はい……」
「ふーん……じゃ、さ。なんなら、途中まで一緒に帰らないかい?」
「え……」
 その時、一瞬だけ断ろうと思ったが……やめた。
 せっかく久しぶり(といっても一ヶ月くらいの間なのだが)に友達と会ったのだから、もう少し長く会話していたい気分だった。それに友達になったといっても、兵衛とはまだそんなに深く話したことがないし……正直、彼には少し興味がある。
「……い、いいですよ」
「おっし。それじゃ、帰るとするか」
「は、はいっ!」

 そう言えば……こうやって男友達と二人で帰宅するのは、初めてな気がする。
 付き合いの長い友人である榊洋和とは、中学の頃によく一緒に帰宅したのだが……二人きりではない。洋和には友達が多いから団体帰宅になっていた場合が多かったし、洋和自身が一人だったとしても、そんな時に限って自分の双子の兄や自分の友人が付いていた。
 改めて『今、同級生の男の子と二人で帰っている』と考えると、なんだか……ちょっと……。
「……有羽ちゃん、キレイだな」
 と、隣を歩いている兵衛がいきなりそんなことを静かに呟いた。何かと意識し始めたところで、このセリフはかなり混乱してしまう。
「え……」
 ……き、キレイ……わ、私が……? ど、どうしよう……えーと……えーと……。
 だが、兵衛はそんな混乱する有羽に気付かずに言葉を続けた。
「ほら、夕焼け……キレイだよなぁ」
「…………」
 び、びっくりした……そうだよね。いくら明るく屈託のない人だからって、冗談でも『キレイだ』なんていきなりそんなこと言うはずないもんね。それに、私、キレイと言われるほど美人じゃないし……って、なんでそんなこと考えているだろう……?
 ヘンな混乱をするのはやめておいて、有羽も兵衛の言う夕焼けのある方角に視線を向けた。
 ――オレンジ色の夕焼けが、神秘的な光を発しながら西の空に傾いている。その光は今から通ろうとしている通学路を柔らかく照らしており……今、肩を並べて歩いている自分達をも、その光の色に柔らかに染めていた。
「本当ですね……」
「ま、今日はいろいろと作業任されたんだから……このくらいの役得ないと、気分がヘコむぜ」
 夕日に照らされながら『タハハ』と笑う兵衛。そんな彼につられて、有羽も小さく笑った。
 オレンジ色に染まる自分の姿が他人にどう映っているかわからないが……有羽から見て、兵衛にはその色がとても似合っているように思えた。
「有羽ちゃん、夏休み中、なんか楽しいことあったのか?」
 と、オレンジが似合う少年が口を開く。彼の顔に少し見入っていたせいか、声をかけられた時、有
羽は少し驚いて対応に遅れてしまった。
「え……夏休みですか? えっと……そうですね。時々友達とどこかに遊びに行ったりしましたけど……それ以外は、勉強したり、剣術の稽古をしたりと、ちょっと暇でしたね」
「へえ? 有羽ちゃん、剣術やってたの?」
「あ……」
 ……そう言えば、話してなかった。考えると、友人の中で自分が流派[豪槌流剣術]に属しているのを知っている者は……榊洋和、稲葉瑞樹、千鳥かなめ、相良宗介、常盤恭子くらいなものだ。
 とりあえず、[豪槌流剣術]のことはあまり他人に口外してはいけないので、有羽は普通に剣道をしていることを兵衛に話した。
「へぇ、有羽ちゃんがね……そうは見えないな」
「う……こう見えても、一応初段は取ってるんですよ……?」
「うわ、意外……有羽ちゃんが運動神経いいの知ってるけど、まさかここまでとは……」
 言葉通りに兵衛が意外そうにしているのに、有羽は少しだけ膨れっ面をする。
「ひどいです……そんなに驚かないでください……」
「あ、悪い悪い……。ま、オレもやってるんだし、そんなに驚くこともないか」
「え、そうなんですか?」
 これは有羽にとっても意外だった。陽気で豪快な性格だが、少しサボり癖のあることから……こういう『継続は力』となるようなことを、彼がしているとは思っていなかった。
 確かに彼の運動神経の良さも知ってはいるが、それは天賦の際によるものだとばかり思っていた。
「剣術は、やってみれば結構面白いもんだからなぁ」
「……そうですよね……剣術って、おもしろいですよね」

 ……といっても、オレのは『殺し』を想定しているものなんだけどな……。
 ……といっても、私のは遊びでやってるものじゃない型なのがほとんどなんだけどね……。

 その時二人は同時に思ったのだが、お互いそれを顔に出さず、控えめに笑い合っていた。
「それで……小百合葉くんは……夏休み、どうしていたんですか?」
「オレか? オレは……いろんなことがありすぎて、この夏休みがあっという間だった気がするな」
「……そうなんですか?」
「そう、いろいろ……あったんだよ」
 ……その時の兵衛の表情が、どこか寂しそうに見えたのは、自分の気のせいなのだろうか。
「さゆ――」
 何気なく、そんな彼の名前を呼びかけたところで――
「ママー、お腹すいたー」
「はいはい、早く帰りましょうね」
 帰り道の向こうから、五歳くらいの小さな子供を連れた主婦が歩いてきてた。買い物からの帰りなのか、主婦は買い物袋を手にさげており、子供の方はゆらゆらと揺れる風船を持っている。その買い物先のスーパーか何らかで、この子はこの風船をもらったのだろう。
 昔……自分も風船をもらって喜んだことがあるのを、有羽はよく憶えている。
「かわいいですね……」
 親子が横を通り過ぎる際、思わず有羽は呟いていた。
「ん……有羽ちゃん、子供好きなのか?」
「はい……」
「……はは、うん、やっぱこれでこそ有羽ちゃんらしいな」
 そう言う兵衛には、それといった寂しそうな響きはない。やはり、さっきのは気のせいだったのだろう。そんなことよりも、彼の言う『これでこそ』というのが、有羽には何だか気になった
「……どういう意味ですか、それ?」
「ん、秘密だぜ」
「えー、秘密なんてずるいです〜」
 そうやって、二人の談笑が盛り上がりかけたところで、
「あ……ふーせん……」
 後ろで聞こえてきた微かな子供の声。振り向いてみると、さっき風船を持っていた子供が……何かに気を取られたのか、手に持っていた風船を手放してしまっていた。
 手放された風船はゆらゆらと……だが、確実に、空に昇っていく。
「ふーせん……ふーせん……」
 子供はぴょんぴょんと小さく跳んでその風船を取り戻そうとするが、子供の脚力でそれに届くはずがない。風船と子供との距離はみるみる離れていく。
「……小百合葉くん、ちょっと持ってて」
 と、有羽が持っていた鞄をポンと兵衛に手渡し、突如と走り出す。
「わ、おっとっと……」
 いきなりだったのに、兵衛が慌てた声を出していたが……今はそれに構っている暇ではない。初速から上手くスピードに乗ったところで、[豪槌流剣術]特有の跳躍力を生かし……跳躍。
 自分の小さな体が空中を舞うのを感じながら、子供から手放されて空に昇っていく風船に手を伸ばして……つ、掴んだ!
「!?」
 だが、ホッとする間は与えられない。自分が跳躍した正面になんとも都合悪く、コンクリート製の電柱が立っている。風船を取るのにばかり気を取られて、周りが見えていなかった。
 駄目……こ、このままじゃ……!
 こんなにスピードの乗って跳躍した状態で下手にコンクリートにぶつかると、大怪我をしてしまうだろう。しかし、
 カシャカシャンッ!
 何か乾いた音が聞こえる。野球の球が金網に当たったような音だ。いや、これは、この電柱の側に張ってある金網からの音なのかな……って、こんなこと考えても何にも――
「……っ!」
 だが、そのどうでもいい思考を抱いている間にも、自分の体は電柱に激突する寸前で、誰かの大きな腕に引き込まれていた。……紙一重の差で、なんとか電柱への激突を免れる。
「ほえ……」
 た、助かった……と思いながら、改めて自分を助けてくれたのが誰なのか確認する。自分の体を抱きかかえながら今、地に着地したのは……小百合葉兵衛だった。
「さ、小百合葉くん……?」
「……ふぅ。大丈夫か、有羽ちゃん?」
 自分を腕に抱く彼はいつもの陽気とは違って……言うなれば、とても凛々しかった。
「は、はい……」

 どき……

 その時、自分の中で一瞬だけ何か音が聞こえたような気がした。
 …………え? な、何、これ……。
 だが、有羽はそれがなんであるかを理解できなかった。その間にも、兵衛は今まで抱きかかえていた彼女をそっと地に降ろし、しっかりと立たせてやる。
「よっと……お、風船も無事だな」
 捕まえた風船がちゃんと有羽の手の中にあるのを確認したのか、兵衛は軽く笑った。有羽も改めてそれを確認し、少しだけ安堵の表情を浮かべる。
「ふーせーん」
 と、そんな自分達の元に、さっきこの風船を手放してしまった子供が駆け寄ってきた。
「あ……はい、風船」
 それに気付いた有羽は、その子供にひざまずいてやって、取り戻した風船を渡してやる。すると、子供は満面の笑みを浮かべた。
「わあ……」
「ちゃんと持ってろよ。放しちゃ駄目だぜ?」
 兵衛が笑いながら、その子供の頭をくしゃっと少し強く撫でてやった。これに、子供はくすぐったそうに目を細めながら、元気に返事を返す。
「うんっ! ありがとうっ、おねえちゃん! おにいちゃん!」
「……ありがとうございます」
 と、その子供の母親もこちらに歩み寄ってきて、お礼を言ってくれた。買い物袋を持つ手のもう片方の手には……有羽と兵衛の鞄があった。
 兵衛が自分を助ける際、放り出していたのだろう。それを持って来てくれたのだ。……しっかりした女性だな、と有羽は思った。
「す、すいません……」
「いいんですよ……謝るのはこちらの方なんです。ごめんなさいね……そして、ありがとう」
 微笑みながら、彼女は自分達の鞄を渡してくれる。本当に感謝してくれているんだと感じた有羽は……素直に、その言葉を受け止めた。
「……は、はい」
「じゃあ……ほら、ばいばいは?」
 自分の息子をそう促すと、子供はそれに頷いて元気よく手を振った。
「うんっ、おねえちゃん、おにいちゃん、ばいばいっ!」
 それを最後にくるりと振り返って、親子は仲良さげに帰っていく。子供は母親に付いて歩きながらも、こちらに向かって何度も手を振っていた。
「よかったな、有羽ちゃん」
 手を振り返してやりながら、兵衛は満足そうに笑っていた。
「は、はい……」
「でも……あんまり無茶しちゃダメだぜ? いくらあの剣術流派に属しているからといっても、有羽ちゃんは女の子なんだからな」
「ご、ごめんなさい……え?」
 ――今、あの剣術流派って……。
「いやぁ、驚いた。少数剣術流派[豪槌流剣術]。その跳躍を生で見れるとはねぇ」
「……!」
 その時、元から少し白い有羽の顔色が、驚愕のあまりはっきりと白くなった。
 [豪槌流剣術]は歴史の表に名の出ることがない剣術流派であり、さっきの説明した通り、あまり他者に口外はしてはいけない。自分は他者に口外した憶えはないし、他の一族の者にも口外をする者もいない。決められた掟だからだ。
 確かに四年前、有羽のいとこである鈴音小一狼は剣術の意義を破って一度破門されたが……流派に帰って来た際に『その掟等は破っても何の得にもならない』と、口外はしていない。
 ということは、瑞樹やかなめ達と言った前日の事件に巻き込まれた最小限の友人を除いて、それを知る者はいないのだ。
 じゃあ……普通の高校生が知っているはずがないのに……何故……!?
「蛇の道は蛇だぜ、有羽ちゃん」
 その考えを見透かしたかのように、兵衛が軽く笑いながら言った。
「ほえ……?」
「柳生仙陽流剣術。この流派のことを、有羽ちゃんは知ってるかな?」
「……!」
 聞いたことがある。柳生十兵衛三厳を代表とする江戸柳生新陰流の分流。武器攻撃のほかにも多彩な攻撃の型が可能とされており、総合力では[豪槌流剣術]を完璧に凌ぐとも言われている。
 と言うことは、小百合葉くんはその……!?
 有羽がさらに驚いたのを見て、兵衛はコクリと微かに頷く。
「そうそう、それとおんなじようなもの。こういう世間に目立たない剣術やってると、あれやこれやと同じ種の他流派に付いてのことが、小耳に入ってくる場合があるんだ。だから、さっき見せた有羽ちゃんのあの跳躍で、ほとんどピンと来てしまったわけなんだな、これが」
「…………」
 確かに、それに付いては否定できない。実際、有羽も彼の属する流派について、少しのことぐらいだけど聞いたことがあるのだから。
 それに、彼が自分の跳躍に追いついたのは……これですぐに納得ができた。落ち着いて周りをよく見ると、電柱のすぐ側にある金網の所々と塀の部分が凹んでいる。
 さすがに[豪槌流剣術]に跳躍については追いつかなかったようだが……[柳生仙陽流]に属す者の持ち前の運動神経と、その金網を利用した『三角跳び』と言うアクロバティックな方法で、あの時、兵衛は電柱に激突する寸前の自分を助けたのだ。
 元より彼の豪快な性格は知っているが……同時に、とてもすごい人だと、有羽は思った。
「しっかし……ますますそうは見えないよなぁ」
 複雑なのか笑っているのかわからないような表情で、兵衛は首を傾げた。
「有羽ちゃんがあの流派に……ねぇ。何かすごいよな」
「わ、私は……その剣術をやっているといっても……まだまだ未熟です」
 小さいし、力もないし、奥義の会得はまだまだの段階だし……。
 確かに、ここ最近友達ができて、一時的には成長を取り戻せはしたが……今はまた行き詰まってしまって、さらにはその行き詰まる理由がわからないでいる。
 私はまだ……人にすごいなんて言われるほど、すごくなんてない。ましてや、さっきすごいことをして見せた、今目の前にいるこの人には到底……かなうはずがない。
「……別に、未熟だからと言って、そんなに思い詰めた顔しなくてもいいんじゃないか?」
 心が少し自虐的になってきたところで、兵衛が困ったように声をかけてきた。
「え……?」
 改めて見ると、彼はその声の通り、困ったように苦笑していた。
「有羽ちゃんさ……素直すぎるんだよ。さっきといい今といい、自分の思ってることすぐに顔に出しすぎ。それに、そんな顔されるとさ……オレまで悲しくなっちゃうぜ?」
「…………」
 自分の思ったことをすぐ顔に出す。
 確かにその通り……そんなことだから、自分の心をすぐに彼に見透かされてしまったのだ。その上、自分がこんなに深く考えてしまうあまり、普段から明るい彼にまでこんな……自分の憂鬱を移すような真似を……。
「ごめんなさい……」
 こんなんじゃ……今の行き詰まりを克服なんてできるはずがない。もっとしっかりしないと……。
「謝るのはなし。もっとさ、悩みがあるんならパッと言って欲しいな。オレ達、友達だろ?」
「…………」

 どき……

 あ――また聞こえた。この……自分の中で、何かが高鳴るような音が。
 本当に……なんなんだろう……これ……。
 これが何であるかがわからないが……今は、それに付いて考えるのはやめておこう。また、彼に怪訝に思わせてしまうだろうから。
「はい……わかりました。じゃあ少し、相談に乗ってもらえますか……? 今の私、ちょっと剣の修行に行き詰まってまして……」
「お……言ってみ言ってみ。スランプならオレ、何回も経験あるし」
 『カモンカモン』とでも挑発するかのように、手の指をクイクイッとして見せる兵衛。そんな彼に少し苦笑しながらも、有羽は今の剣の行き詰まりについて、細々と語りだした。


『後編に続く』


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