ORACULAR‐WINGS■
 ■その西部方言は亜流にあらず■    <後編>


 ボクが求めるものとは、そんなにも贅沢で得がたいものなんだろうか?

 だとすれば、ボクはもっと強くならなければいけない……。



    * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



「優香さーん」
 一限目の休み時間。ひとつの声とともに教室の扉が開かれ、淳平が満面の笑顔で現れた。
 その笑顔に――
「対処そのいち」
 優香は、振りかぶって英語の辞書を投げつける。それが、彼の顔面にめりこむやいなや、すばやく距離を詰めて、腰を利かせたアッパーカット。彼の身体か空(くう)を舞い、再び地に足をつけたところで、みぞおちに前蹴りをかました。
 入り口から教室の外へと吹き飛ぶ淳平。
 そして、
「今度来たら、『対処そのに』や!」
 ぐったりと廊下で轟沈する彼にそう言い捨てると、優香はピシャリと扉を閉めた。
「……フンっ」
 思いきり目を吊り上げて、閉じた扉を睨み、忌々しげに鼻息を漏らす。足元に落ちている辞書を拾い上げると、彼女は背後を振りかえった。
 その途端、教室にいた生徒が、ばらばらに手を叩き出す。
「……なんで、拍手やねん?」
 凶悪な顔つきのまま、訝しげに周りに目を配ると、
『いや、なんとなく』
 誰もが決してこちらと目をあわせまいとし、それでもほぼ全員が同時に答えた。
「…………そぅか」
 どこか疲れたようにつぶやいて、それ以上は優香も何も言わず、自分の席へと戻る。
「ねぇ……」
 そこへ、かなめがやってきた。彼女に付き従うように、宗介と恭子もいる。
「なんや?」
 一瞥をくれて、あとは彼女らの方を見ないようにしながら、応える。
 かなめは、軽くため息のようなものをついて言った。
「何って……あれは、いくらなんでもやりすぎなんじゃないの? 蹴りとかアッパーとかさ。あれは痛いって」
「あんたもまぁだいたい、いつもあんな感じやろ?」
「そうだな」
 優香が即座に返答し、宗介が、妙に感慨深げな口調であとに続く。
「――うえ?」
 かなめは、混乱した様子で優香と宗介の顔を見比べる。
 数秒、考え込んだふうにしてから――
「……なんであんたも即答してんのよ!」
 どこからともなくハリセンを取り出して、宗介の頭をはたいた。
「……。理由を聞きたいか?」
 頭頂部をさすりつつ、宗介。
「あんたみたいにごく日常的にハリセン使うヤツなんて、大阪でも見ぇへんかったわ」
 あきらかに白い目を向けて、優香が言った。
 恭子が、困ったような笑顔になる。
「カナちゃんってば……それじゃ、言ってることに全然説得力ないよ」
 彼女の言葉にハッと気がついて、かなめは顔を真っ赤にし、慌てふためいた。
「う……いや、これはつい、ね。う、うはははははははははははは」
 わざとらしい笑い声を上げながら、手にしたハリセンをぽいとそこらに投げ捨てる。
「でもさ、カナちゃんの言う通りだと思うよ?」
 と、恭子が言った。
「何がぁ?」
 優香が気だるそうに答える。
「戸坂クンのこと。ちょっと邪険にしすぎじゃないかなぁ? 従姉弟同士なんでしょ?」
「あのなぁ……」
 机の中から取り出した次の授業に必要な教材――教科書とノートの数冊を、机の隅に置いて、優香は半眼で恭子の方を見た。
「従姉弟やろうがなんやろうが、あの調子でしょっちゅう顔出されてみぃ? ええ加減うっとぉしくもなるわ」
「それだって、あそこまで一方的には追い返してなかったじゃない。いままでさ」
 と、冷静さを取り戻したかなめが続く。
「だから、ええ加減うっとぉしくなったて言うてるやろが。あー、もう! この話はこれでおしまい!」
 優香は、苦虫を噛み潰したような顔になって、二人に手を振った。それこそ、虫でも追い払うような手つきで。
「あのね――」
 かなめは、さらに何事か言おうとするが――そのとき、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「ほら。はよ席つきや。センセ来るで?」
 かなめと恭子は、どこか釈然としない面持ちであったが、互いに顔を合わせあったのち肩をすくめると、自分たちの席へ帰っていった。
「ったく……ぉ?」
 吐息を漏らし、ふと気がつく。
 宗介が、その場に残り優香をジッと見つめていた。
「……? なんや?」
 視線に気づいて、優香が声をかけると、
「……君は、あの戸坂と言う一年生を、本当に邪魔だと思っているのだな?」
 などと、いきなり言ってきた。さすがに優香は驚いて、目を瞬かせる。
 宗介は続けた。
「あの一年生の来訪を、君は迷惑だと思っているのだな?」
「な、なんやねん。急に――」
「どうなのだ?」
 えらく力のこもった、迫力のある口調。イエスかノーか、何がなんでも聞きだそうとする響きがある。優香は一瞬たじろいだが、グッと口元を引き締め、挑むような視線を彼に向けた。
「そ、そうや? 当たり前やんか」
 宗介は、しばし黙考し、
「……そうか」
 そう小さくつぶやくと、あとはさっさと自分の席へ戻っていった。
 取り残されたような面持ちで、優香は彼の背中を見つめる。
「なんや、あいつ……?」
 彼の発言の意図が、そのとき彼女にはまるで理解できなかった。



 廊下を、たくさんの生徒が行き交っている。昼休みのときよりは多くの人が、けれど、そのときよりはずっと穏やかな流れで。
 黄昏どき独特の喧騒――放課後の時間だ。
 ほとんどの生徒が、下駄箱のある玄関ホールへと向っている。友達づれで、あるいは一人で。鞄を片手にぶらさげ、あるいは肩に背負うように持ちながら。
 そんな中、ひとりの一年生の男子生徒が、流れに逆行しするようにして廊下を歩いていた。
 淳平である。
 彼は、玄関ホールのある一階ではなく、階段を上って二階へと進んでいた。めざす場所は、もちろん二年四組のクラス。そして訪ねるべき人は、もちろん優香である。
 一限目の休み時間に彼女からあれだけどつきまわされたにも関わらず、彼はまた性懲りもなく、今度は『一緒に帰らないか?』と誘いをかけるつもりだった。
 二階の廊下を、間違っても上級生の肩にぶつかるような粗相はせぬよう気を付けながら、するすると早足で進んでいく。二年生の教室が並ぶ中、目的の四組の前に到達したところで、彼はその扉に手をかけようとした。
 すると――
「待て」
 彼の取っ手を掴みかけていた手が、横からむんずと捕まれた。
「……?」
 訝しげに、淳平は視線を横へと向ける。自分の手の――手首を強く握り締めている、その人物を、彼は視界に入れた。
「あ、どうも」
 と、淳平は笑顔で会釈。
「……俺を知っているのか?」
 ざんばら髪にへの字口。無愛想な顔つきに、今は少し驚きの色を含ませ、その人物は言った。
 宗介である。
 彼の疑問に、淳平が、笑顔のまま答えた。
「ええ、あ、はい。あの、このクラスの方でしょう? いやぁ、これでもけっこう通いつめてますんで、四組の方のお顔は、もうほとんど覚えました」
「そうか。……顔を覚えられてしまっていたとは、いささか無用心だったか?」
 宗介は、なにやらひとりブツブツとこぼす。しばらくそうやって、口の中でつぶやくようにしてから、
「……いや、問題はないな。よし、ではついて来てもらおう」
 彼はおもむろに淳平の腕を引っ張った。
「え? ついてこいって……どこへですか?」
 宗介の方に倒れこみそうになるのを、とっさに一歩踏み出して耐え、淳平は、訝しげ――というよりは、ウサギか何かの小動物のような目で、宗介に言った。
 その問いかけに対する、宗介の返答は軽い。
「君に答える義務はない」
「そうなんですか」
 淳平も、負けじとえらくあっさりした口調。が、すぐに動揺を見せて、
「あ、でも、俺、優香さんに用があって来たんですけど……」
「……俺は『安全保障問題担当・生徒会長補佐官』という役職に就任している。その職務をまっとうする上で、俺は君を連行する必要があると判断した。生徒会長閣下の許可も、得ている」
「はぁ、そうなんですか。ええと、じゃ、先輩は俺を連行しなきゃいけないわけですか?」
「肯定だ」
 微塵の躊躇もない堂々としたそぶりで、宗介は言った。
 淳平は、しばし『うーん……』と考え込むと、
「……わかりました。連行しちゃってください。あ、でも、出来るだけ早く解放してくれるとありがたいです」
 にっこり微笑んで了承したのだった。



 ぶらぶらとさ迷っていれば、取りあえず思考回路は麻痺してくれるようで。さっきから、心の中はおおむね空っぽで、余計なことは何も考えずにいることができた。
 しかし、何も考えずにいるというのは、当然というか弊害も生む。
「……なんや、ミョーなとこ来てもうたなぁ」
 自分の愚かさ加減に幻滅する気持ちで、優香は深々とため息をついた。立ち止まって、あたりを見まわしてみる。
 妙と言っても、別にうっそうとした森の中だったとか、異次元空間だったとか、ふもふも動くボン太くん人形がサバトを開いている現場だったとかそんなのではない。単に、時間的に場違いなだけだ。
 ここは、体育館の前だった。バスケやバレーボールのクラブに入っているわけでもない優香には、放課後にここを訪れる理由はない。
(てっきり校門のところくらいまでは、カラダが勝手に”行ってくれる”やろと思ってたんやけど……)
 やはり、考えのない行動というのは、見当違いにしか働かないものか。
 いや――
(……ちゃうか)
 即座に否定。
 体育館を見上げるようにしていた彼女の目が、地面へと落ちる。
(やっぱ、気にしてんねんな、あたしは)
 口元あたりから、思わず苦笑が漏れ出した。
 その苦笑いとともに――彼女は、あえて考えないようにしていたことを、思い起こす。
 昨日のことを。
 昼休みの時間、淳平を体育館の裏まで引っ張って行ったことを。
 そこで告げた、言葉のすべてを。
(あれって、ほとんど絶交する気で言ったんやけどなぁ)
 その時のことを思い起こす。
 それを聞いていたときの――彼の笑顔を。
(あいつって……ホンマ、アホやなぁ……)
 想いの中の笑顔につられるように、優香の苦笑が笑いに変わった。
 だがそれは、一瞬だけのことだった。
 笑いはすぐ笑いではなくなり――苦笑にも戻ることはない。口元だけを下げるようにし、その顔は、極めて泣き顔に近いものになる。
 ……彼のことを、思う。
 ……彼は、どこまでもひたむきで、どこまでも真っ直ぐで……そして、どこまでも真剣に気持ちをぶつけて来る。
 ……何物にも、決して臆することなく。
 ……だから、怒鳴られようが殴られようが蹴られようが――無視されようが――彼は決してあきらめない。
 優香は、ため息ではない息を吐いた。
 そして、
「あいつは――」
 頬をほのかに赤くして、祈るように空を仰ぐ。
 夜ではない光のある空を写し、瞳が、小さく小さく揺らめいた。
 声を止めて、一度口を結んでから、優香はあらためて声を発した。
「淳平クンは――あたしのこと、どう思ってるんやろ……?」
 自分とは違う声が聞こえてきたのは、そのときである。
「…………?」
 ピクリと、首を震わせるようにしてから慌ててあたりを見まわしてみる。が、誰の姿も見えなかった。
 しかし、声だけは確かに聞こえてくる。それも、複数の話し声が。
 優香の耳は、すぐにその方角を察知し、そして――それがどれも、聞き覚えのある声だと判断した。
 そろりそろりと、足を忍ばせて、そちらの方へと行ってみる。
 体育館の、裏側へと。



 そこでは――
 宗介と、その彼に連れられてやって来た淳平が、向かい合って立っていた。
(なんかまた来ちゃったなぁ……ここ。縁があるのかなぁ。運命なのかな?)
 淳平は、ぼんやりとそんなことを考える。
 いつものクセだった。どんなに取るに足らないことにも、彼はまず思索をめぐらす。
「さて、では用件を話そうか」
 厳かな声が告げられてきた。淳平は視線だけでなく意識も前へと向けた。
 どことなくえらそうなしぐさで腕を組み、宗介がそのままの格好で言ってくる。
「君は、だいたい二日か三日のペースでうちのクラスに来ているな?」
「はい」
「どうも、谷崎を訪ねて来ているようだが……」
「あ。はぁ。はは……まぁ」
 照れるようにはにかんで、淳平はこめかみをかいた。
 その笑顔に、宗介は一瞬目を伏せて、
「……それを、明日からは止めてもらいたい」
「…………?」
 いきなりの言葉。
 淳平の表情に戸惑いの色が浮かんだ。その顔つきのまま、彼は心に生まれた疑念を素直に発する。
「え? その、どうしてですか……?」
「理由か。ふむ……」
 宗介は、『ふむ』などと間を空けはしたが、言うべきことなどすでに頭の中にあった。ただ、それを口にするのが、彼としては心情的にためらわれるのだ。
(だが……)
 それでも、言わねばならない。これは、自分の職務なのだから。
 責任感に押されて、宗介は口を開いた。
「君自身、察しはついているのではないか? ……彼女は、君を拒絶している」
「…………」
 淳平は、何も返さず押し黙る。
 顔から戸惑いの色が消え、今度は、何も写さない鏡のような――そんな表情になる。彼が、ここまで表情を消すのは珍しいことだった。
 しばらくして、彼は言った。
「それを、どこで?」
 それは、小さな声だった。が、高く良く響く声でもあった。
「彼女の口から直接聞いた。俺が彼女に、君が教室へ来るのは迷惑かと尋ねたら、彼女は『そんなことは当たり前だ』と答えたのだ」
「……。だから、先輩は俺を……?」
 宗介がうなずく。
「さっきも言ったが、俺のこの学校での使命は、『全校生徒の安全を保障すること』だ。迷惑行為を、見逃すわけにはいかない」
 宗介の、淡々とした物言い。
「迷惑行為、ですか……」
 その言葉の意味を、淳平は心の中で噛み締める。
 何とも苦い気持ちが胸に広がり、そしてそれのせいか、淳平の顔に苦笑のようなものが浮かぶ。
 口元は笑っているが、目尻と眉が下がっている――そんな顔つきになる。
「了承、してはもらえないか?」
 宗介が言った。
「…………」
 淳平は、何とも複雑な笑いをやめ――かといって表情を消したわけではなく――ただ、真剣な顔つきになる。
 淳平は、目を閉じた。
 世界が闇へと変わる。その暗がりは、いつか見た空の色と酷似していた。そんな、気がした。
 ――そして、探す。
 自分がなぜ『彼女』を求めるのか。
 そのワケを――
 探す。
 それは、探索。心の探索だった。
 答えはすぐに見つかった。
 手を伸ばせば届くほど近く。それは、すぐそこにあった。
(俺は、ただ――)
 気のせいか。
 一瞬、闇の中に彼女の笑顔が見えた気がして――
 淳平は、目を開けた。
 そのときにはもう、もとの、いつも彼が浮かべる類の笑顔に戻っていた。
 そしてその笑顔のまま、彼は言った。
「すみません……。やっぱり、俺、もうちょっと優香さんのところに通いたいと思います。言いたいこと、ありますから」
「……そうか」
 その笑顔に、宗介は深く、うなだれるようしにてつぶやき……
 そして、
「では、仕方がないな。不本意だが――やり方を変えることにしよう」
 顔を上げる。無表情な顔つき。彼はどこからともなくコンバットナイフを取り出した。
「……。え?」
 淳平の顔が、そのままの笑顔で凍りつく。
「拷問というのは、これで意外に”やる側”も疲れるものでな」
 言いつつ、宗介は、どこからともなく麻袋を取り出した。
「あ、あのぉー……」
 固まった笑顔のまま、淳平は汗を一筋垂らす。
「ところで――」
 宗介は、最後にピアノ線を取り出して――全く感情を見せない、世にも冷たい声で言った。
「……洗脳とマインド・コントロールの違いを知っているか?」
「あ、ああああああああああああああのおぉぉぉぉ……」
 淳平は、どうあっても笑顔は崩さず――崩せず――冷や汗だけをかきまくる。
 と、
「……って、何をアヤしい迫り方してんのよアンタはぁぁぁぁ!!」
 突然、どこからともなくひとりの女子生徒が割って入って来て、怒号とともに宗介を蹴り倒した。
 悲鳴を上げることすらできずに吹っ飛んで行き、なすすべなく体育館の外壁に頭をぶつけて、地面に倒れ伏す宗介。
「は……? あ。え? え?」
 事態の急転についていけず、淳平はしゃくりあげるような声を漏らす。
 そして、その女子生徒を呆然と見つめるていると、
「ったく……ホント、相変わらずバカまっしぐらなんだから。……あら?」
 視線に気づいて、その生徒――かなめが、彼に顔を向けた。
「あー……あははは。大丈夫だった?」
 冷や汗のようなものを浮かべつつも、彼女は友好的な笑顔で言ってくる。
「あ、ええと……はぁ……」
 ためらいがちに、淳平はうなずいた。
「そ、よかった。いやね、宗介があなたをどっか連れてったって、クラスのコから聞いてね。そこら中探し回ってたんだけど……なんとか、被害は未然に防げたようねー」
「ひ、被害ですか……?」
 ビクリと淳平が肩を振るわせる。かなめは鼻にかかったような笑いを漏らして、言った。
「そうよー? ……フフッ。でもま、出来たら勘弁してやって。こいつ、ちょっと不器用なんだ……」
 と、彼女は、脳天から煙を吹き上げて気絶している宗介の足首を掴むと、そのままずるずると引っ張って歩き出す。
「あ、あの……」
 そのまま、わきを通りすぎていこうとする彼女に、淳平はためらうように声をかけた。
 すると、かなめはピタリと足を止めて、
「あ、そうそう」
 振り向き、笑って言ってきた。
「あなたがお話したがってる人が、そこにいるから」
「え?」
 すると、
「わっ……!? い、言うなやボケ……!!」
 慌てるような調子で、誰かの叫びが聞こえてきた。
「…………え?」
 ふと、淳平は眉を潜める。体育館の向こうから響いてきたその声には、確かに聞き覚えがある。
 それは――
「……優香さん?」
「……そんじゃ。あたしらは行くから」
 優しい微笑を残して、かなめはずるずるという音と共にその場を去っていった。
「…………」
「…………」
 二者の沈黙が、しばし辺りに漂う。
「あの、優香さん……」
 その沈黙を破ったのは、淳平だった。
「…………」
 が、返事は返ってこない。
 それでも彼は、かまわず続けた。
「あの……良かったら、一緒に帰りませんか?」



 廊下側に面したほうの、下駄箱の側面にもたれかかって、優香は静かに息を吐く。
「……はっ」
 息は、小さな息だったが、以外と大きな音で辺りに響いた。
 障害となるような音がないからだ。静寂の中では、どんな音でも大きく聞こえる。
 静寂であるのは、人気がないせいだった。
 玄関ホールに、優香をのぞいて他の生徒の姿はない。クラブ組以外は、ほとんどのがみな帰ってしまっていた。放課後の喧騒の時間は、もうすでに終わっていた。
 辺りを満たしているのは、喧騒ではなく夕日が放つ淡いオレンジ色の光と、その光が作る黒い影だけ。
 その影のうちの、ただひとつの人影となって、優香はその場にたたずんでいる。
 そこへ突然、場違いなくらい明るい声がこだました。
「いやぁ、お待たせしました」
「あっ……」
 声とともに現れたのは、淳平だった。廊下の向こうから、足早にやって来る。
 その右手には、学生鞄。
 彼は、それを教室に取りに行ってくると言い――そして、優香は彼がやって来るのをここで待っていた。
「ホント、お待たせしちゃって」
 淳平は、優香の前に立つと、もう一度、今度はおじぎなど交えて言った。
 優香は、軽く手を振ってそれに答える。
「あ、ううん、別に。そんな待ってへんし」
「そうですか? よかった。誘っておいて待ちぼうけさせたんじゃ、失礼ってもんですから。……それじゃ、今度は靴を取ってきますね?」
「うん……」
 一年生が利用する下駄箱は、優香から見て右隣の列にあった。
 彼が、その下駄箱へと向かう。
 その彼を、
「…………なぁ」
 優香は、声をかけて止めた。
「はい?」
 すでに彼女に背を向けるような位置にいたため、淳平は振り返るようにして彼女を見る。
「……さっき、言うとったよな?」
 押し殺したような声が、優香の口から漏れた。
 目は、真っ直ぐ淳平に向けられている。
 それは、あまりに真剣な、冷徹とも言えるくらいの眼差し。
 優香は続けた。
「相良に言うとったよな? あたしに、言いたいことがあるって」
「あ、それは――」
「それって、なんやねん?」
 彼の言葉を切るような、低く鋭い声を発する。
 淳平は、振り返る姿勢のままで、黙りこんだ。
「言いや。聞いたるから」
 彼女は、淡々とした口調で促す。
「…………」
 が、淳平はやはり黙りこんだままだった。
 その沈黙に、優香は思わず怒鳴りそうになって――
「……ううん、ちゃうわ」
 感情を静めるつもりで、二度、三度と軽く首を振った。
 そして、また彼を真っ直ぐ見据える。
 彼女は、ゆっくりゆっくり、まるで何かを探るように言葉をつむいだ。
「言うて……欲しいねん。……淳平クンに」
 いつもは吊りあがり気味だった彼女の目が、眉とともにわずかに下げられている。唇が、歯は見えない程度に薄く開き――それは、あの夜彼に見せたと同じ類の、微笑だった。
「……優香さん」
 身体を完全に彼女に向き直らせて、淳平は顔に驚きの色を浮うかべた。
 優香は胸の前で、両手を握り合うようにし、告げる。
「わたし、聞くから」
「…………」
「いつもみたいに……逃げたりせぇへんから」
 優香の視線と、淳平の視線が絡み合う。
 どちらも決して、その絡みをほどこうとはしなかった。
 しばらくして、その視線に根負けしたかのようにため息をついてから、淳平が口を開いた。
「……覚えていますか? 優香さん。あの晩のことを」
「うん……」
 優香は小さくうなずく。
「あたしらが東京へ越してくる、そのお祝いをやった日のことやろ?」
「はい……」
 淳平もうなずきかえした。
 優香に目を向けつつ、彼はどこか遠くを見るような目になる。
「あの晩は、本当に楽しかったけど……でも、思えばあのときから、なんかおかしくなっちゃいましたよね?」
「……そやね」
 優香はためらうように、うつむいた。
「おかしくなった。確かにな」
「俺はね、優香さん――」
 淳平は、どこか力のこもった笑顔を彼女に向けた。
「どうでもいいんです、許婚のことなんて」
「…………」
「俺はね、優香さん……」
 淳平の笑顔の形が変わる。
 ほんの少し。
 それは、力のこもった――
「ただ、あなたと一緒にいれたら……それで、いいんです」
 どこか、照れたふうな笑みだった。
「前みたいに、仲良くやれたら、それでいいんです」
「……そか」
 伏目がちになったまま、優香は静かに言葉を発した。
 そっけない返事ではあるが――そこに、確かな想いをこめて。
 そして、彼女は顔を上げた。
 そこにあったのは、明るい笑顔。
 彼女は、表情に負けないくらいの明るい声で言った。
「じゃあ、ま、そういうことやったら――あたしからも、言うこと言うとくかぁ」
 彼女は空手の手刀のようなものを作って、顔の前あたりに縦で掲げた。
 そして、ちょっとバツの悪い笑みになって、
「いろいろ、ゴメンな?」
「……いえ」
 淳平は、笑って首を振った。
 拝むようなしぐさのまま、彼女は戸惑いの笑いで、彼に詰め寄る。
「ホンマ? 勘弁してくれんの? 今朝のなんか、けっこーキツいことしたなぁて、密かに気にしてたんやけど……」
 今朝のこととはもちろん、辞書の投擲にアッパーカットにみぞおち蹴りのことだった。
 それでも淳平は、朗らかに笑って言った。
「ええ、もちろん。気にしてなんかいませんよ」
「……そか。や、よかったわー。なんや? もぉー淳平クンってば、ホンマええコやねー」
 優香は、にこにこと巻くしたてながらも、ホッと息をつく。
 と、淳平がそのままの笑顔で――
「……これから、どんどん取り返して行きすから」
「……え?」
 優香は左手を胸に当てた格好で、ピタリと固まった。
「いやぁ、やっぱ、許婚なんて邪道ですよね」
 その声は、いつもとは違って……不思議と、どこか軽薄な響きがあった。
「じゃ、じゃどう……?」
 訝しげに、優香。
 淳平は、にっこり微笑んで……
「はい。結果が先に来るなんて、許せません」
 と、やたらはきはきした口調で言った。
「…………」
 あくまで笑顔な淳平を、戸惑いあらわに優香は見つめる。
 そして、しばらくして――彼女の顔が、これ以上ないくらい真っ赤になった。
「――おいこらちょっと待てや!?」
 言葉の意味にようやく察しがつき、彼女は慌てて淳平の胸倉を掴みあげる。
 そんな優香にはかまわず、半分吊られたような態勢で、彼なおも楽しげに続けた。
「まずは、『交換日記』ですかねー♪ その次は、『遊園地でドッキリ!』。その次は、『カゼのお見舞い〜旅情編〜』。そして……ああこれぞオトコの夢! 『家族が全員出かけていて今晩は……!』って、きゃあーーー♪」
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひとりで勝手に盛り上がるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 ぶんぶんぶんと、淳平の身体を振り回しつつ――
 優香の叫びは、やたら空虚な音として、あたりに響くのだった。



    * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 その再会が、なにかとても大きな意味を含んでいるようで……正直、わたしは嬉しかったんだと思う。

 だがまさか、正直”こう”くるとは思っていなかった。

 いやはや、運命とは――



 運命とは、皮肉なものだ……!!


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