ORACULAR‐WINGS■
 ■疾風怒濤のシルバーマウンテン■    <前編>


 下に雲の海を眺めながら、一機の白い旅客機が飛んでいる。
 翼に書いてある機体番号は701。やや旧式な機体だがその飛行の様子に危うげな所は見られない。
 眼下にはたまに雲海から突き出た白い峰を見て取る事が出来た。輝く太陽の日差しと相俟って、峻厳な白と青とで構成された世界。ここはアンデス山脈の上空である。
「ったく、何でこんなに狭い棚しかないのかしら……ねっ、と」
 才堂紅葉(さいどう くれは)は分厚い上着と白いリュックサックを強引に飛行機の棚に詰め直した。
 そして機外の美しい景色を一瞥するが、すぐに興味を無くしたかのように視線を外し座席につく。
 少し茶色がかった髪の毛を無造作にポニーテールに纏め上げ、登山服を着込んだ小柄な少女だ。小さな鼻に大きな目。何処と無く猫を思わせる顔立ち。そして華奢に見える外見の中にもしなやかな強さが感じられ、そこにどことなく気品のような物が入り混じり、一種独特な雰囲気を作り出している。
「ふふふっ、良い感じ。今回の仕事も完璧ね」
 そして紅葉は座席につくと、ポケットから一枚のCDを取り出しニンマリと笑った。
 ここには最近不穏な動きが目立つ某国の核開発疑惑に関する情報がたんまりと詰まっている。後は、これを到着先の空港にいる『ミスリル』の人間に渡せばミッションコンプリートだ。
 ここまで来るのに随分と苦労したが、それはすぐに報われる事になる。
 何と言っても、今回の取引先の組織『ミスリル』は金払いが抜群に良い。
 それに依頼人のアンドレイ・カリーニン少佐は裏の取引に通じた人物であり、母の代から付合いであり、そして紅葉の戦闘術の師匠の一人でもある。まず信用の置ける人物であると言えた。
 ちなみに『ミスリル』とは、世界の10年先をいく装備を持った秘密の傭兵部隊である。スゴ腕揃いの集団で、常に神出鬼没、その目的は地域紛争の火消し役であった。
 紅葉から見れば「人の良い連中ね、私には理解し難いわ」と言う事になるのだが、取引先としては実に具合の良い相手でもある。何と言っても、抜群に払いが良いのだ。
 紅葉にしてみればその一点だけで他に何も言うべき事は無い。
 すっかり良い気分になり、紅葉はシートに体重を預けすっかり悦に入っていた。
「……ウッ……ウェェェェェッ……」
 そこに突然、前方から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
 紅葉が少し不機嫌そうな目でそちらを見ると、褐色の肌をした三十代前半位の上品そうな女性が赤ん坊をあやしていた。見た所、生後三〜四ヶ月と言った所か。
 どうやら気流の乱れに、赤ん坊が不快感を覚えたようである。
 だが褐色の肌の女性が手馴れた感じで抱きあやしている内に、子供はすぐに泣き止み安らかな寝息を立て始めた。鮮やかと言っても良い手並みであろう。
(気楽でいいわね、ガキは)
 それを見て、紅葉は少し興を削がれた顔をする。
 同時に、紅葉はあの女性と子供が実の親子ではない事も見抜いていた。母親の子供に対する態度としては、どうも遠慮がちな所が見てとれる。恐らくは、あの子供の乳母か何かなのだろう。
 ならば金持ちの子供かもしれない。上手く知合いになれば……。
 そこまで考えて紅葉は苦笑した。
 職業柄とは言え、我ながら商売熱心な事だと自分で呆れてしまったのである。
 そして何事も無かったかのようにイヤホンを耳につけ、紅葉はシートに持たれかかった。
 刹那、紅葉は背筋にゾクリと来るイヤな感じに、弾かれた様に身を起す。
 何かが来る!!
 咄嗟に窓の外を見ると、そこには一機の鋭角なフォルムをした黒い戦闘機の姿があった。物騒な事にミサイルもきっちりと搭載しているのも見て取れる。
 二人乗りの機体らしく、前の座席にはパイロットが、後部の座席にはもう一人がいて、こちらは双眼鏡で機内を覗いていた。
 紅葉と飛行機の男の視線が絡み合う。
 だがそれも一瞬の事、すぐに戦闘機の姿は紅葉からは見えない位置に移動していた。
 やはり機内の様子を確認しているらしい。
 しばらく紅葉の乗っている機体の周りを飛び回っていたが、戦闘機はふいに減速して後方へと消えていった。
 ただのタチの悪い悪戯だったのだろうか?
 いや、そうではない。
 あの機体の動きは完全に計算された物である。何か明確な意思を持って、この機体に近付いてきた事に間違いは無いのだ。
 あの双眼鏡の男が機内を観察しターゲットを確認。しかるのちに機体ごとミサイルで撃墜。
 恐らくは、そういう筋書きなのだろう。
 そしてこの機体から十分に距離を取ったと言う事は……。
(ヤバイ!!)
 紅葉はすかさず足をシートの上で胡座をかく様にして身を丸め、シートベルトを着用。そして出来得る限りの対ショックの態勢を取った。
 それとほぼ同時に突然旅客機が失速し、機体がガクンと大きく縦揺れする。
 体が浮き上がらない様、紅葉は咄嗟にシートの手すりにしがみついた。
 だが乗客の多くは、突然の変事に為す術も無く天井に叩きつけられていく。
 そして次の瞬間、紅葉の目の前に閃光が走り凄まじい爆音が響き渡った。
 

 ここはアルゼンチン。アンデスの裾野に位置する空港である。
 電光掲示板には数える程の表示しか為されておらず、一日に2本も飛べば御の字と言った感じのちっちゃな空港だ。
 今は今日の午前10時到着予定の701便を待つ為に集まった人々で、それなりの賑わいを保っている。
 だが待っている人々の間には何処と無くささくれ立った気配が見て取れた。
 何しろ今はもう12時を回ろうとしている時間である。日本人に比べれば随分とのん気なアルゼンチンの人々も、流石にいらだちを覚え始めたようだ。受付には幾人かの人々が詰め寄っており、係の女性と何やら問答をしている様子が見えた。
 そしてここに他の客の人達と同じような感想を抱いているのか、不機嫌そうにしている一人の少年がいる。
 どうやら日本人のようだ。
「ああっ、遅い。全く、何時になったら飛行機が到着するんだよ。予定の時間はもうとっくに過ぎているんだぞ。ったく、だから外国は嫌いなんだ」
 少年、忍刃正紀(しのぶは まさき)はそう言って、いらただし気に足を組替えた。
 年の頃は十七、八と言った所だが、見る角度によってはもっと大人びて見えるし、また子供のようにも見える。一見しただけでは正確な年齢を把握し難い少年だ。
 だが顎が細く、切れ長の目。すっきりと鼻筋の通った整った顔立ちは超美形とすら言える物である。中でも人目を引くのは、左右の目の色が異なっている事であろう。左は銀、右は緑と非常に珍しい組合せだ。それは少年の美しい容姿と相俟って、何処か非現実的な雰囲気を醸し出している。
 ただ不思議な事に、これだけ目立つ外見の少年のはずだが周囲の視線を集めると言う所がまるで無い。周囲の人間は、正紀があたかも風景の一部であるかのように気にも留めていない様だ。
 それだけ周りの雰囲気に上手く溶け込んでいるという事だろうか。
「『ミスリル』の連中は人使いが荒過ぎるんだ。これで今月は5回目の出動だぞ。ったく、好い加減勘弁して欲しいな。ここまで働く義理は無いんだぜ。大体、『ミスリル』はそんなに人材不足なのかよ……」
 正紀は誰に聞かせるでもなくブチブチと文句を呟いていた。
 色々と鬱憤が溜まっていたらしく、そのセリフの流れに淀む所がまるで無い。立て板に水とはこの事であろう。
 一頻り文句を呟いた後、正紀はコーヒーでも買おうと席を立った。
 売店に向う途中、空港内に放送が流れるのを耳にし正紀は足を止めた。
『お客様の皆様。本日午前10時到着予定だった701便が、アンデスの上空で突如消息を絶ちました。今はまだ捜査中なので、詳しい状況は分っておりません……繰り返します』
 正紀は一瞬、ハッとした顔をする。
 701便とは正紀の今回の仕事相手の乗っていた便だ……。
 正紀は軽く溜め息を吐くと、右手で頭を掻いた。
 今回は空港での簡単な受け渡しだけの簡単な仕事だと思っていたのに、妙な風向きになってきた。
 だが溜め息混じりの力無い顔も束の間、正紀はすぐに精悍な顔つきになってしなやかに駆け出した。
 目指すは管制塔である。
 空港の見取り図は既に頭に叩き込んであるのでその足取りに迷いは無い。
(くそっ、ついてないな。折角、今回は楽な仕事だと思ってたのに。……しかし、この事故には妙な違和感を感じる。後で『ミスリル』の連中に裏の事情を調べさせるか)
 正紀は音も無く飛ぶような勢いで通路を走りながら、そんな事を考えていた。
 まだ確信とまではいかないが、正紀が今まで培ってきた直感が今回の事故はクロだと判断していたのである。
 そして正紀は軽快なフットワークで小さな子供や通行人を避けながら管制塔へと急いだ。


「あいたたたっ。……っぷう、何とか着地できたみたいね。運が良かったわ」
 紅葉は頭を振って、立ち上がった。
 そして辺りをゆっくりと見回す。
 ひどい有様だ。辺りには人々の死体が至る所に散乱しており、原型を留めていない物も少なくない。
 どうやら、生きて動いている人間は紅葉だけのようだ。
 紅葉にとって幸運だった事は、ミサイルによる攻撃が直前の機長による回避運動によって直撃を免れた事だろう。機体の右側部に大穴が開き乗客の大半が吸い出されて行ったが、それでもエンジンを直撃されるよりは遥かにマシであった。
 もし機関部を直撃されていれば、いかに紅葉と言えども死は免れなかった事だろう。
 ヒュウッ
 ミサイルで開かれた大穴から冷たい風が入りこんできて、紅葉は思わず身を震わせた。
 寒いなんて物じゃない……凍える。
 身を刺すような寒さとはまさにこの事だ。
「さっ、寒い。……うううっ、私みたいな繊細な女の子にはちょいと辛過ぎるわ。お肌が荒れたらどうしてくれるのよ、まったく」
 紅葉は大急ぎで棚から自分の荷物を引っ張り出した。
 分厚い上着を羽織り、リュックの中からゴツイ長靴を素早く装備する。
 今回の仕事で使った高山用の装備一式がこんな所でも役に立とうとは思いもしなかった。
 そしてリュックを肩に引っ掛け、紅葉はミサイルによって開いた大穴から外に出ようと足を進める。
「……まっ……待って……下さい……」
 迷いの無い足取りで通路を歩み去ろうとする紅葉に、かすれたような途切れ途切れの声が掛けられた。
「……!?」
 足を止めた紅葉が見たのはシートとシートに下半身を挟まれ、突き刺さったガラスで背中を朱に染めた褐色の肌の女性である。先程、赤ん坊をあやしていた女性だ。
 もう、長くはないわね……。
 紅葉は女性の様子を一目見てそう悟った。
 まだ16歳とはいえ、生まれた頃から今まで凄腕のエージェントであった母と、元は財閥の御曹司だったが母と駆け落ちしてその相棒となった父と共に数知れぬ修羅場を乗り越えてきた少女である。
 それだけに、死の匂いと言う物に敏感であった。
「……こっ、この子を……」
 全ての力を振り絞る様に女性は身を起した。
 そして、その体の下から小さな赤ん坊が現れる。この惨事の中でも何事も無かったかのように、その赤ん坊はすやすやと良く眠っていた。
 傷一つ無い奇麗な体をしているのは、この女性が文字通り身を盾にして守り抜いたからだろう。
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ! もしかして私にこの子を任せる、とか言うんじゃないでしょうね。冗談じゃないわ!! 私にだって、そこまでの余裕なんてないのよ」
 次に予想される展開を確信し、紅葉はすかさず先手を打つ。
 大体、こんなハードな状態で赤ん坊なんかを抱えてどうやって行動しろと言うのだ。
 それに自分は銃器やナイフ、ASの扱いならお手の物だが、赤ん坊の扱いなんて生まれてこの方習った事もした事も無い。
 無理だ。駄目だ。諦めてもらうしか無い。
「……どっ……どう……か…お願いしま……す」
 だが紅葉の抗議が聞こえてはいないのか、それだけ言って女性は力尽きた。
 必死に護っていた赤ん坊を託す相手が見つかった事で、張り詰めていた物が切れたのだろう。
 死の平穏が彼女の顔に安らぎをもたらしていく。
「まっ、待ちなさいよ! 私はまだ引き受けるとは言ってないわよ!! 何よその安らかな顔は。私が引き受けるとでも思っているの? ふん、勝手にそう思ってなさい。私は冷たい女なのよ」
 懸命に言い募るが、女性から返事が返ってくる事はついにはなかった。
 紅葉は赤ん坊を目の前にして、すっかり途方に暮れた顔になる。
 一体、私にどうしろと言うのだ……。
 余りの成り行きに半ば呆然と立ち尽くしていた紅葉だが、しばらくして機関部からの異常な作動音に気が付いた。
 恐らくは落下の衝撃でエンジンにガタがきている事を示す音だろう。
 このままでは爆発を起す危険性がある。
 もう、あまり長居は出来ない。
 紅葉は決断を迫られる事となった。
(是非も無い……か)
 特大の溜め息を一つ吐くと、紅葉は慎重な手つきで赤ん坊を抱え上げる。
 そして紅葉は女性の持っていたバッグを引っ張り出し、中からミルクの素や哺乳瓶など赤ん坊にとって必要な物を自分のリュックに手際良く移し替えた。
 中に入っていた固定用のベルトで、自分の体の前に抱っこするような感じで赤ん坊を固定する。
「これで、よしと」
 しっかりと固定された事を確認すると、ミサイルによって出来た大穴まで歩み寄る。
 そして紅葉は機外へ、一瞬の躊躇も無くヒラリと飛び降りた。
 雪に足を取られそうになりながらも何とか着地を決め、紅葉はすぐに機体から離れる。
 しばらくして、紅葉の後方で耳をつんざく爆発音が響き渡った。
 紅葉の読み通り、機関部が暴走し爆発したのだろう。
 そこまで来てようやく赤ん坊が目を覚ました。
 目を覚ました赤ん坊は余りにも周囲の状況が変っている事に戸惑い、盛大な泣き声を上げ始める。何よりあの女性が傍にいない事がそれに一層の拍車を掛けているようだ。
 紅葉も懸命にあやしつけるが、赤ん坊はどうしても泣き止まない。
 素人目にも明かな程の不細工な紅葉の手つきである。赤ん坊はすっかり気を悪くして、泣き声はますます大きくなるばかり。
 もはや紅葉の手に負えない生き物と化している。
「泣きたいのは、こっちの方よ……」
 紅葉は泣き止まない赤ん坊を抱え、世にも情けない顔で大きく溜め息を一つ吐いた。
 明るい太陽の日差しを雪が反射し周囲を美しく輝かせる。
 二代目『黒の女豹』才堂紅葉。その16年の人生でも屈指の窮地が、今まさに幕を開けようとしていた。


 ここは管制室、やや旧式ながらも様々な機械が並んでいる。
 普段は飛行機の離着陸時以外にはそれほど忙しい事もなく、ましてや日に一便が平常ときて、悪く言えばだらけた空気の漂う部屋である。だが現在は、異様に張り詰めた空気が室内を漂っていた。
 失踪した701便の問題と、そして一人の東洋人の少年の為である。
「状況は? 大体どの辺りで反応が消失したのか、見当はつきそうか」
 謎の東洋人の少年こと忍刃正紀は身を乗り出し、表示されている画像を覗きこみながら管制官の一人に声を掛けた。
「えっ、ええ。大体の見当は既に付いています。ですが何分山脈のど真ん中な物で、その正確な位置の特定には、今しばらくの時間が掛ると思います」
 初老と言っても良い年齢の、白髪でやや腹の出ている管制官は咄嗟にそう答えた。
 突然管制室に現れ「自分はアルゼンチン空軍司令の許可を受けた者だ。その権限の下、諸君に701号機の失踪についての情報の提供を求めたい」と言ってのけた少年に、管制室一同、完全に気を呑まれているようである。
 本来なら関係者以外は立ち入り禁止なのだが、正紀には『ミスリル』経由によるアルゼンチン空軍司令の許可があり、管制室長もその事を御大からじきじきに知らされていた。
 空軍司令のお墨付きとあらば、是非の無い事である。
 自然、周りの者の正紀を見る目にも異様な物が有った。
「そうか。なら、分っている範囲でいい。その地域の地図を表示してくれないか」
 だが正紀は周囲の奇異な視線を歯牙にもかけず、要点だけを手短に伝えた。
「はっ、はい。分りました」
 白髪の管制官が素早くその地域の地図をディスプレイに表示する。
 そして正紀は瞬き一つせず、それを食い入る様に見詰めた。
 周囲の者がそれを見て何か声をかけようとしたが、すぐに止める。
 その余りに集中している様子に気圧され、声をかける事がはばかられたからだ。
 時間にしてたっぷり30秒程してから、正紀はふいに立ち上がり周りの人間に声をかけた。
 周囲の者は、突然立ち上がった正紀に一様にギョッとした顔をする。
「悪かったな、仕事の邪魔をして。ここでの俺の用事はもう終った。これで失礼させてもらう。それじゃあ、仕事頑張ってくれ」 
 それだけ言うと正紀は他の者に口を挟む暇を与えず真っ直ぐに出入り口に向い、そして部屋から出ていった。
 颯爽と言う言葉がぴったりと当てはまる正紀の鮮やかな退去振りに、一同言葉も無い。
「何だったんだ、ありゃ……」
「知るか。俺に聞くなよ」
 一陣の旋風が過ぎ去り、残された人々は皆、狐につままれたような顔で互いに見詰め合っていた。


「そっか。あんた、お腹がすいていたんだ。それならそうと、私にすぐに分るように泣きなさいよ。全く」
 そう言って、紅葉はイスラエル製の携帯式の使い捨て湯沸し機でお湯を沸かし、ミルクの素と一緒に手早く哺乳瓶に入れて良く振って掻き混ぜる。
 分厚い手袋をつけたままのくせに実に器用な手つきだ。
 ミルクが完全に溶け切ったのを見て、紅葉は満足気に微笑む。
「さあ、たんと飲みなさい。この私に手ずからミルクを作ってもらえるなんて、あんたは果報者よ」
 そう言って、紅葉は上機嫌にミルクを赤ん坊の口元に運んだ。
 だが哺乳瓶を近付けると、あkいや赤ん坊はいやするように顔をそむけるばかりで決して飲もうとはしない。
 赤ん坊のこの挑戦的な態度には、紅葉もかちんときた。
 折角、自分が作ってやったミルクが飲めないというのである。
「ふふん、いい度胸じゃないの。その年から、好き嫌いをするなんて悪い子ね。こうなったら私にも考えがあるわ」
 そう言うと紅葉はミルクを足元に置き、おもむろに手袋を外した。
 その自由に動く手で、強引に赤ん坊にミルクを飲ませようという魂胆である。
 紅葉は邪悪な笑みを浮かべ、左手で赤ん坊の頬を固定した。
 そして自由になる右手で足元のミルクに手を伸ばし、
「アツッ!!」
 小さく悲鳴を上げて右手を耳たぶに押付けた。
 熱いっ!!
 ここの凍えるような冷気に馴れていた右手には、文字通り突き刺さるような熱さである。
 紅葉はほとんど半泣きになりながら、怖々と哺乳瓶を見た。
 よく見ると周囲の雪を溶かしつつ、哺乳瓶がじわじわと雪の中に沈んで行っているではないか。
 それを見て、紅葉の頬に一筋の汗がタラリと流れ落ちる。
 自分が煮えたぎるような熱さのミルクを赤ん坊に与えようとしていた事に、ようやく思い至ったのである。
「はっ、ははは。……ごめんなさいね、あんたが正しかったわ。でも人間誰しも間違いがある、って事で見逃しましょ。私も次から気をつけるから」
 紅葉は引きつった笑みを浮かべて弁解しながら、赤ん坊にミルク(今度は十分に冷ましている)を飲ませる。
 まあ自分の母親はミルクの素と間違えて高純度のコカインを溶かしこんだミルク(?)を自分に飲ませかけた、と言う話を聞いた事がある。それに比べれば熱湯ミルクなんて可愛い物だと、紅葉は強引に自分に言い聞かせた。
 その一方で、赤ん坊の方は何事も無かったかのように無心で哺乳瓶にむしゃぶりついている。
「そっか、見逃してくれるんだ。良い子ね。やっぱ、男はそれ位の包容力が無いと……」
 紅葉は赤ん坊のその様子を見て目を細めていた。
 やはり赤ん坊のこう言う愛らしい姿を見ると、如何に向うが透けて見えそうな程にすれ切った少女である紅葉でも、それなりに感じる物があるらしい。
 すぐに哺乳瓶は空になり、赤ん坊は満足そうにきゃっきゃと笑った。
 だがそれも暫くの事、すぐにスウスウと健やかな寝息を立て始める。
「お腹が一杯になれば、次は睡眠か。結構なご身分ですこと」
 それを見て、紅葉は軽く苦笑した。
 子供は気楽でいい。
 そして紅葉はおもむろにリュックから取り出した登山用の安全靴の底をベルトに仕込んでいた小型ナイフで切り裂き、中から鉄片を引きずり出した。鉄片に見えたのはよく見ると銃の部品である。
 紅葉は鼻歌混じりにそれを組み立て、慎重にその重心や照準の精度を確認。さらに羽織っていた上着の一部を切り裂き、中から拳銃の弾を回収。腕時計と雪焼け防止の為のゴーグル状のサングラスを身に付け、靴紐等も手早く点検し直した。
全ての行動を終え、紅葉はそっと赤ん坊を抱え上げると、慎重な手つきで手前に固定する。
そして紅葉は白いリュックを背負い、下方に見える林に向って黙々と歩き出し始めた。
飛行機を落した奴等がこれで終りにする等とは到底考えられない。
「子供の時間はこれでお終い。後は、大人の時間ね。さて、と。どうした物やら」
と、周囲の輝くような銀嶺を眺める紅葉の口元にひどく物騒な笑みが浮かぶ。

そして紅葉はすやすやと眠る赤ん坊の顔を見てほんのかすかに微笑むと、すぐに顔を引き締め下方に見える林へと足を速めた。
 目に染み入るような青い空と照りつける太陽の日差しの中、彼方に見える山々は白銀に輝いていた。



 爆発し、もはや黒ずんだ残骸と化した旅客機に幾人もの人影が群がっている。15,6人と言った所か。
いずれも白1色に統一されたデザインの防寒服を着込んでおり、顔も白い覆面で覆われている。それぞれの手中には黒く鈍い輝きを放つライフルが携えられていた。恐らくはソ連製のAK−47突撃銃か。
 良く訓練されているらしく、何れも乱れぬ連携で手際良く探索を続けていた。途中、白い影の一人が大きく手を振って仲間を呼び寄せる。
 すぐに白づくめの男達が餌に群がる蟻の如く集結した。
 例の一人が地面に向けて目線を投げかける。そこには僅かながらも点々と足跡が残されていた。察するに小柄な人間、恐らくは女か子供であろう。
 男達の中の一人、胸に赤い印を付けた男がその足跡の先に向けて顎をしゃくった。すかさず例の一人と共にニ人の男が頷きを返す。
 そして手早く袋に入れてあったスキーを装着すると、各員無言でその足跡に沿って一斉に滑り出した。
 
 
 忍刃正紀はコーヒーの入った紙コップを片手に座椅子に腰を掛けていた。
 その表情からは何の感情も覗えない。
 だが、何をとは言えないがひどく剣呑な雰囲気である。勘の良い者なら、まず今の正紀に接触しようとは思わないだろう。
 果たして、正紀はひどく不機嫌であった。 
 <ミスリル>の情報部の連中に今回の事件の全貌を知らされたからである。
「そういう裏があったとはな。どうりで手回しが早い訳だよ。そして俺はもしもの時の保険、って訳か……」
 そう言うと、正紀はグイッと残りのコーヒーを飲み切った。
 コクも旨味も何も無いインスタントのコーヒーが正紀の喉を通り過ぎていく。
 やはり、ひどく不味い。
「しかもコーヒーはインスタントしかないときたもんだ。ったく、<ミスリル>も少しはこういった生活面にも金を回せよな。ここの生活には潤いって物が無いんだ、潤いがよ」
 そう言って正紀は無造作に、だが絶妙なコントロールで紙コップをゴミ箱に投げ入れた。
 そして何とは無しに窓の外の景色を眺める。
 そこには天を突き刺すように聳え立つ山々の頂きが、白い雲の海の中から幾本も突き出していた。正紀は今、アンデス山脈の上空にいる。
「忍刃君。そろそろポイントに到着するわよ。そっちの準備はどう?」
 ぼんやりと外を眺めていた正紀は後方から声を掛けられる。
 若い女の声。
 振り向くと、そこには二十歳位の<ミスリル>の戦闘服姿を着た一人の女性の姿があった。
 背中の中程で一つに纏められた艶やかな黒髪、黒い瞳。血筋の関係だろうかその左目は光の加減によって少し青く見えた。余り感情の感じられない、硬質で人形のように整った顔立ちの女性である。
 名は橘鈴花(たちばな すずか)。正紀の<ミスリル>での同僚だ。
「ああ。こっちは何時でも良いぜ」
 正紀は鈴花の方を向き、それだけ言って椅子から腰を上げた。
 その表情には先程までの気だるげな様子が消え、完全に一人の兵士のそれと化している。
「OK。じゃあ、早速出かけましょうか」
 鈴花は無表情にそれだけ言うと、くるりと背を向けて歩き出した。
 正紀もそれ以上何も言う事無く、黙ってその後に続く。
 嫌な一日の始まりである。
 窓の外を見ると、白銀に輝くアンデスの山々はあいも変らぬ姿で聳え立っていた。


 先行した三人は、足跡の主が休息したと思しき地点を入念に探索していた。
 十分な探索の後、足跡や雪の状態から未だそれ程遠くには行っていないと判断。男達は一人を後ろに帰し、残る二人は足跡を追い掛けて下方に見える林へと滑り降りていく。
 二人は林の中に入ると、足跡を見失わない様に木に接触しないように慎重な足取りで先に進んだ。静謐な林の中、二人の息遣いと衣擦れだけが音と呼べる全てである。
 足元、そして前方に良く注意して目を凝らした。足跡はまだ森の先の方まで伸びている。
 もう少し先か。
 二人は互いに頷き合い、再び前進を再開した。あくまで注意深く、小さな変化も見逃さない様に。
 ゴギィッ
 刹那、男の一人からひどく鈍い音が響き渡った。
 もう一人がハッとそちらを向く。
 果たして、彼の相棒の首が有得ない方向に曲がっていた。肩と平行になるように首が曲がっている。いやにシュールな光景だ。
 一瞬、その目を疑う。
 だがその背後に小さな影の存在を認識し、男は瞬時に戦闘態勢に移り変わった。
 小さい。……女か!?
 その距離、およそニメートル。銃器や飛び道具を持っている気配は無い。相棒のやられ方からするに、何か自分には計り知れない体術を心得ていると思われる。
「っ!?」
 と、不意に少女が恐れ気もなく、地を這う様な低い体勢で突っ込んできた。
 だが、余りに不用意だ。この雪の中だ、迅速な足さばきは自ずと制限される。
 男はすかさずライフルの照準をピタリと少女に向けた。素晴らしいとさえ言える反応速度。そして、少女との距離はまだ1メートル。
 こっちが早い!!
 男は冷徹に、そして一瞬も躊躇う事無くライフルの引き金に指をかけ――。
 ガッ
 と、突如焼付くような痛みが男の脳髄を刺激した。引き金にかけた手の甲の骨が打ち砕かれたのだ。
「なっ!?」
 だが痛みよりも先に、男の顔が驚愕に歪む。
 相手は依然素手であり、自分は十分な距離を保っていたはずである。それなのに……。
 動揺する男を尻目に少女の左手がブレる。
 ゴッ
 再び、衝撃。今度は眉間だ。
 男の額がパックリと割れ、血が噴水の様に噴き出した。目の前の視界が真っ赤に染まる。
 飛んで行きそうになる意識を常人離れした精神力で繋ぎとめ、男は銃口を少女に向けた。
 目の前に迫った少女はその小さな手で男のライフルをグッと掴み、銃口を自分から逸らす。男は咄嗟に全身の力を込めてそれに抵抗する――。
「いぃやあぁっ!!」
 刹那、目の前の少女から発された裂帛の気合と同時に、男の見る世界が逆転した。足元には青い空が垣間見え、目の前の少女は何故か逆さに立っている。
 一瞬の浮遊感の後、男はその横顔に皮の肌触りを感じた。ザラザラとした感じに、いっそ優しいとさえ思える程に果てし無く柔らかで繊細なタッチ。  
 そして天地が逆になっていた男の世界が瞬く間に修正されてゆき、
 ドグシャアッ
 と、背筋が凍りつくような鈍い音と共に、男は完全に沈黙した。


 父から仕込まれた柔術で男の頭部を木の幹に叩き付けた紅葉は、もはやピクリとも動かなくなった男の頭から右手を外し、
「っぷう、危ない所だったわ。思ったよりも出来る奴等だったわね……」
 と、大きく息を吐き、汗を拭う。背筋に走る冷たい感じが、まだ納まらない。
「って、あら?」
 と、その頭上を見てギョッとした顔をしたのも束の間、紅葉は頭から白い雪の塊をもろに浴びてしまった。
 男の頭部を木の幹に叩き付けた衝撃で、樹上の雪が落下してきたのである。
「……うわっぷう。しくったわ、この私とした事が」
 埋もれた雪の中から何とか這い出して、紅葉はいらただしげに服に付いた雪を払いのけた。その拍子に上着の中に入った雪が背筋に触れ、ゾクリと来る。暫くの間、紅葉は服の中に入った雪との無言の格闘が続く。当人は極めて真剣だが、端から見れば随分と間抜けな光景であった。
 雪を完全に除いた所で不意に真顔になり、紅葉は腕を組み右手でその頬を掻く。考え事をする時の紅葉の癖の一つだ。
(やっぱ、向うさんもプロみたいね。しかも、かなり錬度が高いと来てるわ)
 紅葉はジッと倒れている二人を眺める。
 先程の闘いでは上手い具合に相手が罠に嵌ってくれたのが、自分にとって幸いであった。だが罠と言っても、そんなに大した物では無い。
 まず、ある程度の所まで先に進む。そこから自分の足跡を踏む様に後戻りし、木の上に登って相手を待ち構える。年を経て老獪になった熊が人間の猟師に対して仕掛ける戦法の一つを応用したのだ。
 だが、相手の反応の早さは予想以上である。もしこれが無ければ、やられていたのは自分だったかもしれない。
 紅葉は服の袖口に仕込んであった、長さ50cm程の紐に胡桃大の分銅がくっ付いた武器に目を落した。形としては暗器術で言う所の万力鎖である。
 これは隠匿が簡単でなおかつ熟練者の手で急所に入れれば、紅葉みたいな小柄な少女でも大の男を一撃で殺傷し得る剣呑極まりない武器だ。ちなみに攻防自在の万人力と言うのがその語源である。

「っと。あの子を拾ってこなきゃ」
 思い出した様にそう言うと、紅葉はするすると木に登っていった。
 木の上の幹には、防寒用のシーツと一緒に括り付けていた赤ん坊がすやすやと安らかな寝息を立てている。その下半身は何もつけられておらず裸であった。オシメの換え方が分らなかったので、紅葉がこの状態のまま放置していたのだ。
「あんたは気楽で良いわね。きっと将来は大物になるわよ」
 その寝顔を見て、紅葉は苦笑した。本っ当に子供は気楽で良い。こっちの苦労も知らずに、よくもまあこうも安らかな顔で寝られる物だ。
 だが、そのあどけない寝顔を見ている内に、「やれやれ、どうにも敵わないわね」と微苦笑をする。
 母も昔はこんな気持ちで自分を育てていたのだろうか?
 「子を持って、初めて知る親の恩」と言うが、その言葉の意味が初めて身に染みて分ったような気がした。
 そう言えば、物心ついた頃から両親と作戦行動を共にしていた記憶がある。恐らくは、それ以前からも自分を抱えて行動していた事だろう。一体どんな顔をして、母は赤ん坊の自分を抱えて行動していたのだろうか。
 その時の母の戸惑った様子を思い浮かべ、紅葉はクスクスと低い笑みを漏らす。「泣きたいのはこっちの方よ!!」と絶叫し、途方に暮れている母の姿がまるで目に浮かぶ様だ。
 そう言えば、死んだ両親の事を思い出すのも随分と久し振りである。
 だが微笑んだのも束の間、紅葉はすぐにその表情を引き締めた。
 今来たのは恐らくは先発部隊に過ぎない、まだまだ油断は禁物である。
 先程は上手い具合に不意をつけたから瞬殺する事が出来たが次回からはこうはいくまい。戻ってこない先発隊に、奴等も十二分の警戒をもってやってくるはずだ。残された時間は余り多くは無い。
 紅葉は奴等が持っていたライフルや手榴弾を取り上げ、ついでにスキーも奪い取った。
 素早くスキーを装着し、紅葉は腹を括る。
 このまま大逃げに逃げ、ふもとにある人里まで一気に滑り降りる方に賭ける事にしたのだ。赤ん坊と言う足手まといを抱えている以上、それが最上の選択肢であろう。
 だが、その前にやっておく事が二つあった。
 一つは赤ん坊に何とかしてオシメをつけてやる事。そしてもう一つは……。
「本来なら、こんなのは趣味じゃないんだけど。……手段を選んでいる余裕は無いのよね。こっちは子連れなんだし」 
 それだけ呟き、紅葉は懐から取り出したライターの底の部分を弄りながら男達の死体の傍で身を屈めた。


 白ずくめの男達の一団がやってきたのは、それからまもなくの事である。
 その数およそ10人。機体の探索に加わっていたメンバーの大半である。一同、寸分の隙も無く銃を構えていた。
 途中、赤い印を付けたリーダー格の男に指示され、5人の男が林を迂回する様に隊から離れていく。
 むろん、敵の逃げ道を封鎖する為である。幾ら大きな林とは言え、その下山ルートは限られていた。そこを押えておけば、最悪取り逃がす事だけは防げると言う訳である。
 残った男達はいずれも異様に張り詰めた雰囲気であった。白い覆面によってその表情こそ見えない物の、そのゴーグルごしに感じられる眼の光は尋常な物ではない。
 男達は油断無く辺りを探索しながら、着実に先発隊のスキーの跡を辿っていく。二筋のスキーの跡がうっすらとした足跡を追うように、前方へと伸びていた。
 そして、すぐに先発隊と再会する事に成功する。だが、変わり果てた姿の二人とであった。
「……っ!?」
 先発隊の一人は首をあらぬ方向に曲げ、もう一人によりかかるようにして倒れ付している。
 もう一人は眉間をパックリと割られており、噴き出した血で周囲の雪に紅い化粧を施していた。
 元同僚の変わり果てた姿に、男達は一瞬言葉を失う。
 何が起きたのか判断が付きかねたのである。死んだ二人は隊の中でもかなりの腕利きだ。その二人がこのような姿を晒していようとは。
 しばらくして死んだ二人と途中まで行動を共にしていた男がその無残な様子を見かね、せめてもの弔いと、カッと見開いている2人の眼を閉じてやる為にその傍近付いた。
「待て!! 迂闊に近寄るんじゃ……」
 二人の周りの足跡等を入念に調べていた赤い印の男だったが、すぐに男の不用意な動きに気がつき、初めて鋭い警戒の声を上げた。
「はっ!?」
 それが男の残した最期のセリフである。
 男が近付くやいなや、死体が突如爆発したのだ。
 耳をつんざく爆音と共に鋭い破片が飛び散り、周囲にいた男達を容赦無く切り裂いていく。
 ご丁寧な事に、その爆発には登山で用いる釘等の鉄片がたっぷりとブレンドしてあった。
 後に残されたのは惨澹たる光景である。傍にいた男は当然、物を言わぬ肉塊と成り果てていた。2人の仲間もその爆発によって深手を負っている。
 前に立っていた男達が盾となったのが幸いし、赤い印の男は軽傷ですんだようだ。だが負傷者が多く、その手当てにも人員を割く必要がある。
 ゴッ
 赤い印の男は木の幹を殴りつけた。衝撃に木が僅かに揺れる。
 そしてその場で大きく息を吸って、男は何とか冷静さを取り戻した。
「……おい。『あれ』を出すぞ。どうやら、容易ならぬ相手のようだ」
 押し殺した声でそう言うと、赤い印の男は比較的負傷の少ない部下の一人に向けて顎をしゃくった。
  

 後方からの爆発音を合図に、5人の男に先回りされ動きが封じられていた紅葉は一気に林から飛び出した。
 突然の爆発音に気を取られた前方の1人を、紅葉は半自動にしたライフルで教科書通りに3発ずつ銃弾を叩き込んで薙ぎ倒す。
 そして奇麗に着地を決め、周囲の状況を手早く確認。
 右翼に2人、左翼にも2人の敵が残っていた。
 紅葉は着地の姿勢から、淀みの無い流れるような動作で右翼の2人にライフルを付き付ける。
 その2人の男も鍛えぬかれた反応で素早く紅葉にライフルを付き付けてきた。
 微妙なタイミングである。
 だが、一瞬。誓ってほんの一瞬だが、男達は紅葉と赤ん坊を見て引き金を引くのを躊躇した。
「っ!!」
 その一瞬が勝負の明暗を分けた。
 紅葉のライフルが火を吹き、2人は壊れた人形の様に1回転して倒れ付す。
(何、今の? こっちを見て、一瞬動きが止まった?)
 紅葉の頭に疑問が閃き――そして消える。
 残った左翼のニ人が紅葉に怨みの銃弾を叩き込んできたのだ。
 勢いがこっちに有ったので命中する事は無かったが、かなり際どいタイミングである。  
 思った以上に相手の反応速度が早い。
 手強い相手だ。先程から、紅葉の当初の予定程には主導権を握れてはいない。
「ちっ、厄介な奴等ね。よく訓練されてるわ」
 そう舌打ちして、紅葉は山肌をジグザグに滑り降りる。足元に耳元に、銃弾が通り過ぎ、着弾する音が鳴り止まない。
「ウワァァァーーーン!!」
 ついに紅葉の胸の赤ん坊が鳴き声を上げた。これだけ銃声が鳴り響けば、流石に目も覚まそうと言う物だ。
 だが、はっきし言ってうざい。通常時でも往生していたのだ、この状況ではそれこそ絞め殺してやりたくなる。
「あああぁぁぁぁっ!! 泣かないでよ、頼むから。泣きたいのはこっちの方なのよ!!」
 紅葉は手元から放り出してやりたい衝動と懸命に戦いながら、背のリュックから器用に哺乳瓶を取り出した。
 そして予め冷ましておいたミルクを赤ん坊の口元に押しつける。
 一瞬、赤ん坊はキョトンとした顔をした。だがすぐに哺乳瓶をハッシと掴み、無心でその中身を吸い始める。
 ようやく静かになってくれた。
「本っ当に良い子ね!!」
 勢い良くそう吐き捨て、紅葉はスキーに集中する。
 後方から無数の銃弾が雨と飛び交う。中には、直に紅葉の上着を掠めていく物さえあった。
 だが紅葉はひるまない、悩まない、止まらない。
「ふっ!!」
 鋭い呼気と共に思いっきり腰を落として身を屈める。ジグザグに走るのを止め、紅葉は前だけをキッと見据えた。
 紅葉の駆るスキーがさらにスピードを増す。頬に当る冷たい風がその鋭さを増した。
 まさに疾風怒濤の勢いで、紅葉は白銀に輝くアルプスの山肌を猛然と滑り降りる。
 雨のように撃ち放たれる銃弾の雨こそやまない物の、男達の気配はどんどん遠ざかっていった。
 走行に全力を注いでいる分、明らかにこっちが速い。
 しばらくして後方からの銃声が止んだ。
 この距離、この不安定な状態での射撃では命中する可能性が低い。まずは追い付く事に専念するべきだ、向うはそう判断したようである。
 敵ながら中々良い判断であると言えよう。士官学校でなら、模範的な解答であるとさえ言えそうだ。
 だが、それ故に読み易い。
「なかなか良い判断ね。だけど……」
 弾幕が無くなったのを確認し、紅葉はニィッと笑うと懐から手榴弾を取り出した。
 素早く信管を抜ききっちりと時間を計って雪中に投げ落とす。
 ボムッ!!
 一瞬の間の後、疾走する紅葉の後方で爆音と共に盛大に雪柱が立ち昇った。
 舞い上がり、そして舞い落ちる雪が紅葉の姿を覆い隠す。
 同時に紅葉は倒れこむ様にして強引にその前進を止めた。
 予め仕込んでおいた一枚の真っ白なシートを腰の辺りから取り出し、素早く展開。しかる後に我が身をその下に押し隠す。
 そして紅葉は山肌に真横になるような姿勢となってジッと息を潜めた。抱いている赤ん坊の哺乳瓶を吸っている音が妙に大きく聞こえる。
 うっすらとしたシーツの隙間から外の様子を盗み見た。
 もうもうと立ち込める雪煙にも少しも動じる事無く、男達は両翼に展開してこれを回避してくる。
 ここまでは予想通り。
 そして雪煙をやり過ごし紅葉を補足しようとして、二人は驚愕に顔を歪ませる。男達の目には紅葉が忽然と消え去ったかのように見えている事だろう。
 通常ならすぐに気が付かれるような他愛の無い偽装だが、状況にピタリと嵌るとこのように抜群の効果を発揮する。母から仕込まれた穏行術の基本の一つは、まず相手の注意力を鈍らせる事なのだ。
 前方に見えないのは無論の事、雪煙の中にも紅葉の気配は無い。
 白づくめの二人は一瞬顔を見合わせた。
 これもまた予想通り。
 二人の注意が僅かに紅葉のいる場所から逸れた。
 好機到来、紅葉はシーツを払おうともせずに音も無く起き上がる。無心でミルクを飲んでいた赤ん坊は、唐突な紅葉の行動に思わず哺乳瓶を取り落としていた。集中している紅葉はそれに気がつかない。
 そして紅葉はスーッと二人に向けてライフルを構え、無防備な二人の側面に向けて引き金を、
「ウエエエェェェェェッ!!」
 ……引けなかった。
 刹那、折角の食事を邪魔された赤ん坊の甲高い泣き声が純白の山中一杯に響き渡ったのである。
 流石にこれは予想外。
 紅葉は完全に虚を突かれ、思わず構えていたライフルの照準が外れてしまった。
「っ!?」
 二人はすかさずこちらを向き、咄嗟にライフルを構える。
 紅葉も反射的に横に転がりながら、すかさずライフルを二人に向けて構え直した。
 一瞬、双方の視線が交錯し絡み合う。
 そして重なりあうような3つの銃声がアンデスの銀嶺に木霊した……。
 
                        <続く>



後書き
 
 こんちゃーっす、柳生です。
 今回は以前投稿した物の修正版です。後は、出来るだけ早いペースで続編を出して行きたいと思っています。
 色々と至らない部分があると思うので、気になった点があればどんどん指摘して下さい。
 管理人の正樹さんには正紀君を朝東風さんには鈴花嬢をお借りし、またβさんにもSSの添削をしてもらい、色々と参考になる意見を頂きました。この場を借りて、お礼を言わせてもらいたいと思います。
 3人共、有難うございます。
 次回はノンストップアクションに挑戦したいと思ってます。
 それでは、また次回のSSでお会いしましょう。


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