ORACULAR‐WINGS■
 ■疾風怒濤のシルバーマウンテン■    <後編>


「才堂紅葉。それが今回のターゲットだ」
 冷たい風に頬を煽られながら、正紀は双眼鏡を片手にそう言った。
一転して雪が降り始めそうな気配の曇り空となった白銀の峰。
その山肌を正紀と鈴花は飛んでいた。二人が乗っているのはパッと見に飛行機の胴体を抜き去り、その翼だけを寄り合わせたかのような形状の小さな機体だ。コクピットは無く、搭乗者が剥き出しの機体の上で直接に操縦を行っている。
 <ミスリル>特殊飛行部隊『GULL』、まだ試験段階故にその知名度は低いが、それがこの風変わりな機体の名称だ。
「才堂紅葉? ああ、紅葉ちゃんの事ね。そっか、あの娘だったんだ。今回のターゲットって」
 その名前に覚えがあったのか、能面のような無表情で黙々と機体を操っていた鈴花の顔が幾分柔かな感じになる。
 現在の鈴花は高性能スコープ付きゴーグルにヘルメット、そして白い操縦服と言う出で立ちだった。
「知っているのか?」 
「ええ。一応はフリーの人間って話なんだけど、少佐殿の昔馴染みなの。その縁で一度だけ作戦を共にした事があるわ。あの才堂和葉(さいどう かずは)の忘れ形見だけあって良い腕してたわよ。それと、かなりいい性格でもあったんだけどね」
 双眼鏡で辺りを見回している正紀にそう返答し、鈴花はおもむろに後方に体重を預けて機体を上向かせ、
「……じゃあ、入るわよ。危ないからしかっりと掴っててね」
 と、左のレバーを引き下げる。ガルのエンジンの出力が高まり、機体がグンと上昇気流に乗り上げた。
 ガクリと一瞬、機体が反動で大きく揺れる。
 だが搭乗している二人は平気な顔であった。鈴花に至っては当初の人形のように無機質な印象も和らぎ、表情にこそ出ない物の何処か楽しげな風情でさえある。
「そういや、忍刃君。これに乗った事があるの? どうも初めて乗ったようには見えないんだけど」
 ふと、鈴花が正紀に問い掛けた。
「いや。これに乗るのは本当に初めてだ。ただ、昔、ハングライディングをやってたからな。何となく要領が分るんだよ」
「成る程。どうりで勘が良い筈だわ。……っ!? 見えたわ」
 正紀に受け答えしながらゴーグルで辺りを見渡していた鈴花は、不意に声を上げる。その視線の先には、黒い残骸と化して変わり果てた姿の旅客機の姿があった。
「ああ。あれで間違い無いな。折れた翼に701と書いてある」
 正紀もそちらに双眼鏡を向け機体を確認し、鈴花に軽く頷いて見せた。
 不意に飛行機の周辺の様子を見まわしていた鈴花が、僅かに上ずった声を上げる。 
「忍刃君。あれって……」
 
 
 紅葉は分厚い毛皮の上着を勢い良く脱ぎ捨てた。セーター、シャツ、そして胸元を覆う白い下着も脱ぎ捨てる。衣服の下から紅葉の瑞々しく張りの有る白い肌、そして小振りだが形の良い胸元が立ち現れた。
 純白の銀嶺の細かな雪が舞い降りる中、風除けの岩陰で一糸纏わぬ上体を晒し、紅葉は静かに立ち尽くす。
 その姿は紅葉の華奢な外見と相俟って、物語に出てくる可憐な雪の妖精を彷彿させた。何処か非現実的で、幻想的とも言える光景である。
ただし、それも左肩に染み出した生々しい紅の色を除けばの話だ。
あれから何とか二人の男を倒した物の、紅葉も肩口を撃たれていた。幸い弾丸は骨を外れて貫通しており、軽傷とは言えない物の命に関るほどの物でも無い。
 紅葉は息を大きく吐き出し、その腹を据えた。
 そして右手で傍らのブランデーの瓶を引っつかむやいなや、躊躇無くそれを左肩に注ぎ、傷口を洗い流す。
「……っ!!」
灼けつくような痛みが脳天にまで突きぬける。軋むほどに奥歯を噛み締め、紅葉は出かかった悲鳴を気合で噛み殺す。
 それを2回、3回と繰り返し、包帯の端を口に咥えるや、すぐに手馴れた手つきでそれを肩に巻きつけた。鮮やかな物で、出血はみるみる内に収まっていく。
「……ったく。あんたのせいでつまんない所で怪我したわ。痕になったらどうしてくれるのよ」
 一連の処置を終え、左手をグルグル回してその調子を確認しつつ、紅葉はしかめっ面で目の前の赤ん坊に毒づいた。
 だが当の赤ん坊は健やかな寝息を立て、安らかな顔でお眠りしておられる。相変わらず、実に羨ましいご身分と言えよう。
「……ほんっと。あんたは気楽で良いわね」
 紅葉は心底から搾り出すような声で呟いた。
 お気楽な坊やと違って、こっちの状況は厳しさを増している。頭の痛い事に、紅葉の持っていた数少ないアドバンテージの一つである相手側の油断はもう期待出来なくなっているのだ。
(いっそ、この子をここに捨てていこうかしら)
脱いだ服をいそいそと身に着けながら、不意にそんな考えが脳裏を過ぎる。
(そうよ。元々、私にはこの子をこんな怪我をしてまで助ける理由なんて何処にも無いわ。あの飛行機から連れてきてあげただけでも感謝して欲しい位よ。何より、私はまだ仕事中。このディスクを<ミスリル>に引き渡すまでわね)
 今はまだ仕事中。その事を再認識し、紅葉は頭の中が急速に冷えていくのを感じた。
 負傷やその原因となった赤ん坊に対する高ぶった気持ちが消え去り、ただ思考だけがクリアになっていく。何時しか身を切るような冷気すらも、何処か遠くに行ってしまったかのように感じられていた。
 よく考えてみれば、奴等は自分とこの赤ん坊を見て、一瞬だが確かに射撃を躊躇している。そして奴等の錬度、襲撃の手際からして、今回の自分の仕事とは余り関係が無さそうだ。何と言っても、核開発疑惑が有ったとはいえ、今回のターゲットは南米の小国に過ぎない。
 それにぶっちゃけた話、今回の仕事で分ったのは、その核開発疑惑と言うのがアメリカや日本に援助を求める為の取引材料にと自らが流した自作自演のハッタリに過ぎない、と言うお粗末な事実だけだったのだ。
(って事は。奴らの狙いは私じゃなくて、この子って事?)
 紅葉は眉をひそめる。
 奴等に与えられた指令は、恐らくはその抹殺。さらにはあの一瞬の躊躇から出来得るならば保護せよ、だと考えられる。
「ったく。あんた一体、何者なのよ……」
 そう赤ん坊に呟いた言葉が、吹き降ろしの冷たい風に流され、掠れて消えた。
 上体に上着を引っ掛け、紅葉はただ棒のように立ちつくす
 ふと、その目に値踏みするように計算高く、そして冷徹な色が宿った。
(じゃあ敢えて奴等に保護させ、その目的を叶えてやるってのも手ね。私も身軽になれるし、この子だって死ぬ訳では無いもの)
 それに奴等もあれだけ派手な事をした以上、メインの任務さえ達成してしまえば、そうそう自分一人に拘っている暇は無くなる。そこに付けこむ隙も生じよう。まさに一石二鳥の妙案である。
 悪くは無い。しかし、こんな簡単な事に今更気付く辺り、今日の自分は随分と間が抜けているようだ。
 紅葉は抱っこする布に包れたまま雪の上に転がっている赤ん坊を、じっと見詰めた。
規則正しい寝息。あどけない、そして安らかな寝顔。寒さの為か、頬は林檎のように紅く染まっていた。 
(やっぱ駄目ね。これ以上顔を合わせて、万が一にでも情が移ったら大事になっちゃうわ)
 と、紅葉は赤ん坊から逃げる様に目を逸らす。
「じゃあね。あんたは後から来る奴等にでも拾ってもらいなさい。悪いようにはされないはずよ」
 それだけ言って、紅葉はその小さな背中をクルリと赤ん坊に向けた。
 これで、さよならだ。もう会う事も無いだろう。
 そして足元のリュックを拾おうと身を屈めた所で、
「フゥワァァァァアーーーッ!!」
 突然のけたたましい泣き声に押され、紅葉は頭から雪の中に倒れこみそうになる。
 だがそこはさる者、紅葉は即座に崩れかけた体勢を立て直し、
「どうしたのっ!?」 
 と、振り向き様に鋭く赤ん坊に言い放つ。
 そして、不意にハッとした表情になるや、
「……って。何やってんのよ、私は。これじゃ、まるっきし馬鹿の見本じゃないのよ」
 と、眉間に皺を寄せ、左の手で顔を覆い、紅葉は搾り出すような声で己の間抜けさ加減を呪った。
 振り向いた拍子に、泣き続ける赤ん坊と視線を合せてしまったのである。
 まだ一点の濁りも無い象牙細工のように綺麗な目、澄んだ黒い瞳。それが紅葉の顔を捕えて離さない。
 蛇に睨まれた蛙よろしく、まるで金縛りにでもあったかのように紅葉はその場に釘付けとなる。
 視線が合った事を感じたのか、赤ん坊の泣き声が唐突に止んだ。
 背筋に得体の知れない寒気が走る。かなり、危険な感じだ。
そして、赤ん坊が大きく息を吸った。
「まっ、待ちなさい。話せば分る、そう話せば分かり合えるのよ人は。だから、その……」
 紅葉は引きつりまくった顔で赤ん坊に右手を差し向け、まるでイヤイヤするように中腰でじり退がる。
 だが全ては虚しかった。
「ふぅわああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 その次の瞬間、赤ん坊の泣き声が大音量で場を圧する。
 自分の全存在をこの一事に。そんなひたむきな泣き方だ。
「うううわぁっ、もうっ。御免。私が悪かった。謝る。ごめんなさい。……だから、お願いだから、もう泣き止んでよ。頼むから」
 たまらず紅葉は赤ん坊に向って手を合わせ、泣き止んでくれる様に必死に頼みこむ。
 が、元よりそんな物が通用する相手では無い。勢いを増し、赤ん坊はただひたすらに泣き続けるばかりだ。
 暖簾に腕おし糠に釘、そんな単語がグルグルと紅葉の脳裏に木霊した。
 こうなると、後はもう是非の無い事。
(らしくない、こんなのは全然スマートじゃない、全然クールじゃない、私の行動パタ−ンじゃない。全くもって不本意よ!!)
 そう思いつつも、
「はぁっ。……OK。どうやら、あんたの勝ちのようね。何が気に入らないのか、この私に言って見なさいな」
 と、海よりも深い溜め息を一つ吐き、負け犬の紅葉は泣いている赤ん坊にじっくりと向き直った。


「忍刃君。あれって……」
 鈴花の声が僅かに上ずる。
 視線の先には二つのローターを持ち赤い犬を模した印の付いた大型ヘリ。そして、その傍らでひざまづく一機の真っ白な人型の戦闘機械――AS(アームスレイブ)M6<ブッシュネル>の巨体があった。
「ああ。あれは多分、特殊工作部隊『ハウンドドッグ』だな。それもAS付きと来ている」
 答える正紀も硬い声だ。
 こんな僻地で、これだけの装備を有した敵と遭遇する事は完全に予想の範囲外である。
 ヘリに付いている印から、正紀は傭兵部隊『ハウンドドッグ』の名を思い起こしていた。そう言えば、<ミスリル>に支給された資料の中で要注意を示す赤丸と共にこの名前が記載されている。
 凄腕揃いと言う評判だが、それだけに雇い金も破格。しかも、これだけの装備を与えられている事から、そのバックが並々の相手では無い事は容易に想像できよう。
「でも、こんな辺鄙な所にASまで持ち込むなんて。奴等は一体何を考えているのかしら」
 驚きから醒めると同時に、鈴花は形の良い眉をひそめる。
「さあな……っ!? 気をつけろ。奴等が動き始めたぞ」 
 不意に二人の視線の先で、M6が立ち上がった。すかさず、鈴花はガルを山影に移動させる。
 白いM6は傍らに有る二機のASの首程も有る細長い板のようなスノーモービルを手に取り、そして自らの両足に装着した。AS用の簡易スキーと言った所か。
 装着を終えると、M6はヘリに向けて片手を上げ、くっきりとした二筋の跡を残しつつ、雪を蹴立てて純白の山肌を滑り降りていった。
「忍刃君。このまま、あのM6を追いかける? それとも、もう少しあのヘリの様子を見張る事にする?」
 顔は前方を油断無く見据えたまま、鈴花は正紀に指示を求めてきた。今回の作戦で上位の指揮権を持っているのは正紀である。
「M6の方を追ってくれ。こっちには他の仲間を回せば良い」 
 と、正紀。
 今は効率の問題で分れて探索をしているが、基本的にGULL部隊は3人1組で行動する。場所を連絡しさえすれば、すぐにこっちの見張りに駆けつけると言う寸法だ。
「了解」
 簡潔にそれだけ言うと、鈴花はヘルメットに内蔵された通信機の回線を開いて仲間に場所の指示を始める。
 それを横目に、正紀は周囲の様子に目を向けた。何時しか空も曇り、チラチラと白い雪が見え隠れしてきている。
 

 こうなったら、何とかしてこの子に泣き止んでもらうしか無い。全てはそれからだ。
 絶え間無く泣き続ける赤ん坊を胸に抱えつつ、紅葉は気持ちを落ち着ける為に大きく深呼吸をした。
 さてと、だ。
 今度は一体何がお気に召さないのだろうか。オムツは換えたし、ミルクもちゃんと飲ませた。しっかりと防寒も施しているし、むずがるような紐の縛り方をしていない自信もある。それでは抱き方が悪いのか。
 考えれば考えるほどに訳が分らない。どうしようもなく分らない。
 大体、この子が何を考えているかなど、母親でもない自分に分ろう筈も無い。
「あああぁぁぁぁぁぁぁっ、もう! 人語を話しなさい、人語を!! スペイン語でも日本語でもタイ語でもスワヒリ語でも何でも良いから。とにかく人語で話してよ、頼むから。私は乳母の免許なんて持って無いのよ」
 五里霧中。
激しく泣き続ける赤ん坊を前に座る事しばし、紅葉はすっかりと途方に暮れた旅人と化していた。
 子供の泣き声を聞いていると、それだけで何だか居た堪れない気持ちにさせられる。どうにも自分がとてつもなく無能で使えない人間に成り下がってしまった気がしてならない。
 こんな事ならせめてベビーシッターのバイトでもやっておくんだった、等と些か的外れな後悔をしている矢先、泣きながら何かを求める様に虚空に手を伸ばしている赤ん坊の姿に、
(この子、もしかして……)
 と、紅葉の脳裏に天恵のように閃く物があった。
 解けた謎は全て易しい。気が付いてしまえば単純な事であった。
「大丈夫。私は確かにここにいるわ。だから、そんなに心配しなさんな」
 と、ぎこちなく微笑みかけ、紅葉は柔らかな手つきで赤ん坊をそっと抱き直す。
 雰囲気の変化を察したのか、赤ん坊は泣くのを止め不思議そうな顔だ。
 そして虚空に向ってその冗談のように小さな手を伸ばし、握ったり放したりしながら宙をさ迷わせる。
「分ってるわよ、あんたが欲しい物は……」
 紅葉は一瞬の躊躇の後、しかめっつらしく上着の胸元を開く。シャツを捲り上げ、下着をずらして胸元をあらわにする。
 そして諦めたような微苦笑で赤ん坊の顔をつくづくと見入り、
「ったく、あんたは果報者よ。この私にここまでの事をして貰えるんだからね」
 と、紅葉は赤ん坊を優しく抱きしめた。
 赤ん坊の小さな顔が、紅葉の豊かとは言えないが形の良い胸元に埋まる。
 暖かい。体温が高いのか、胸元の赤ん坊が冷え切った体に随分と暖かい。
「……んっ!?」
 不意に、寒さでやや紫色に染まった紅葉の唇からくぐもったような微かな声がこぼれる。
 赤ん坊が紅葉の乳房に吸いついたのだ。その力は意外に強く、痕になったらどうしよう等と、紅葉に場違いな心配を起させる程である。
 一心不乱。
 そんな言葉がしっくりと来る様子の赤ん坊を眺め、衝撃から立ち直った紅葉は苦笑しつつ、その小さな頭を優しくゆっくりと撫でてやった。
 元より、子供を産んだ経験等有る筈も無い紅葉だ。如何に赤ん坊が一生懸命に吸いつこうが、当然出るべき物が出よう筈も無い。
 だが赤ん坊は無心に紅葉の小さな胸にむしゃぶりつきながらも、先程までよりも随分と安らいでいる風に見えた。
 この様子なら、しばらくは泣き出すような事も無いだろう。
「やっぱ、お母さんが恋しかったんだ。ったく、しょうが無い子ね……」   
 と、紅葉は下に毛布を敷いて座りこんだ。
 柄にも無いと思いながらも、この子をこうやって抱しめていると、紅葉自身も不思議と穏やかな心持ちになってくる。遠い昔を思い出すような、何と言うかそんな感じだ。
 胸越しに感じられる、トクントクンと赤ん坊の心臓の規則正しい鼓動。
 そう言えば小さい頃この感じが好きで、よく母親の布団に潜り込んでは抱いて寝てもらった物だ。
 その時に、母親は決まって子守唄を歌ってくれたのを良く覚えている。
 プロも顔負けに歌の上手な母親だったが、照れくさかったのか滅多に人前で歌う事は無かった。例外は仕事の打ち上げで興に乗った時と、仲間や部下が死んだ時だけ。後は、父親と二人っきりでいる時にたまに歌っていた位である。
 でも、この時ばかりは別だった。
 自分一人の為だけのリサイタル。それが子供心にやけに嬉しくて、何度もアンコールをせがんでは母親を困らせた物だ。
 ふと気が付くと、柔らかく赤ん坊を抱きながら、その子守唄を口ずさんでいる自分がいた。
 幼い頃に聞いたきりなのに、歌詞が不思議と内から湧き出してくる。
 綺麗だけど何処か哀しくて切ない、でも包み込んでくれるように暖かく、そして懐かしい。そんな優しいメロディ−が純白の世界を包んでいく。
 そしてどれだけの時間が経った頃だろうか、乳房をしゃぶるのを止め、赤ん坊は何時しか小さな寝息を立てていた。
「んっ? そっか、もう安心して眠っちゃったのか。良い子ね」
 しばらくの間、そんな赤ん坊の寝顔を何するとも無く見入る。
 安心しきった寝顔だ。無条件の、それ故に絶対の信頼がそこに有る。訳も無く、心の中が暖かくなって行くのを紅葉は感じていた。
 知らず、紅葉の口元に優しくそして柔らかな微笑が浮かぶ。
 雲の切れ間からは幾筋もの陽の光が差しこみ、辺りをうっすらと照らしている。
(……って。何、状況に嵌り切ってんのよ、私は。この子を寝かしつけたら、する事は一つでしょうが!!)
 と、左手で前髪を掻き毟りつつ、紅葉は唐突に素に返った。
 そうだ。赤ん坊が寝入ったのなら、する事はもう一つしかない。仕事を達成するのにベストと信じられる事、自分はただそれを遂行するのみである。
紅葉は表情を消した。
毛布を敷いた雪面に赤ん坊をそっと降ろす。
 大丈夫、まだ起きる気配は無い。紅葉は赤ん坊の傍らに腰を降ろし、手際良く作業を始める。
 まず、奴等に発見され易い様に赤ん坊の胸元に赤いハンカチを括りつけてやった。次に、大丈夫だとは思うが、傍らにリュックから取り出したミルクの残りとオシメの替えも置いておいておく。
(特殊部隊の荒くれ共の事だから、オシメの替え方も分らないかもしんないわね)
 と、我が身の事はすっかりと棚上げし、荒くれ共の為に使用に当ってのメモ書きを残しておく事ももちろん忘れない。ミルクの温度は人肌に、と言うのは最優先注意事項だ。
 無駄のない手つきで作業を進めていた紅葉だが、不意に眉をひそめてひどく難しい表情になった。
(もしかすると、ここで死なせて上げる方がこの子にとっては幸せな事なのかもしれないわね)
たった一人の赤ん坊の為にあれだけの事をしでかした連中である。そんな奴等の元で、この子がどんな扱いを受けるかなんて分りきっていた。結局は奴等と同じ穴のムジナの紅葉だ、その辺りの機微は手に取るように予想出来る事だ。
「……って。何を今更こんな事で悩んでるのかしら、私は? これからあんたを見捨てていこうって言う、冷たくて薄情な女だってのにね」
紅葉の口元が歪み、自嘲の笑みを形作る。
何だか自分がひどく滑稽な存在に思われた。一貫性が無く、どうにも筋が通ってない。余りに不恰好。無様とさえ言っても良いだろう。
(本当、なっちゃいないわね。今日の私は……)
 だがそれでも、今は自分がベストと思える事を為さねばならない。今の自分は仕事中であり、それを最優先に考えるのがプロだからだ。
 紅葉はこみ上げてくる憂鬱を押し殺し、ガチャリとスキーの金具を固定して立ち上がった。
 何度か地面を踏んで足元の調子を確認した後、もう2度と振り返るまいと、赤ん坊に決然と背を向ける。
 もし振り向いていしまったら、今度こそ自分はこの子を置いていけないかもしれない。
「っと!?」
そして足元のリュックに手を伸ばそうとした所で、不意に紅葉の手が止まる。ズボンのポケットに入れてあったポケベルが振動し始めたのだ。
 どうやら、あらかじめに張っておいた警戒線に奴等が反応したらしい。
紅葉の顔から憂いの色が消えた。次の瞬間にそこにいたのは、刃物の如き鋭さを纏った、歴戦の戦士としての紅葉である。
(思ったよりも展開が早いわね。だけどこの位なら十分に誤差の範囲内、まだ何とでもしてみせるわ)
 紅葉の顔に動揺の2文字は無い。闘いの主導権はまだこちらにある。幾つかの対人用トラップは既に設置済みだし、地形の把握も終えてた。
「地の利は我に有り」
 ってな物である。
 不敵な笑みを浮かべて隠れていた岩陰から首を出した紅葉だが、その顔が突如零下45℃位に凍りついた。
 そして、おもむろに天を降り仰ぎ、
「…………神様。私はあなたに何か怨みを買うような事をしたとでも言うのでしょうか?」
 と、紅葉は呪いの言葉を口ずさむ。
 彼方に見えるは、アルプスの銀嶺に溶け込むかのような真っ白で巨大な人型の影。
 AS――M6<ブッシュネル>の巨体が有った。
 かなり離れた所にいるのだが、その威圧感は凶悪の一言につきた。凶々しいとさえ言っても良い。
(嘘でしょ!? まさかこの状況でASが出てくるなんて。……ったく。一体、何がどうなってんのよ)
 紅葉は拳をきつく握り締めた。掌には汗が滲んでいる。
あんなデカブツ相手では、折角仕掛けたトラップも物の役にも立たない。手持ちの武器を総動員してもまるで話にならない。
そして何より絶望的なのは、その巨大な手に握られたサイレンサー付きのライフルの銃口がピタリと自分に向けられている事だった。
流石はASの探知機器。厄介極まりない事に、この距離からでもこちらの位置を正確に把握しているらしい。
ASのライフルが相手だ、こんな岩陰など屁の突っ張りにもならない。ならば、紅葉に残された手はただ一つだった。
 自分に向けて照準を合わせているM6に向き直り、
「ハッ、ハーイ」
 と多少ぎこちないながらも、紅葉は最高に可愛らしい笑みを浮かべて挨拶してみた。
 とっておきの笑顔と言う奴だ。今まで何人もの男を油断させ手玉に取って来た、自慢の笑顔である。
 だがM6の返礼は簡潔を極めていた。そのライフルの筒先にオレンジの光が煌いたのである。
 片手を上げ愛らしい笑みを浮かべていた紅葉の横を圧倒的な何かが通過。次の瞬間、後方に盛大な雪柱が出現。舞い上がり、辺りを覆い尽くす雪煙。純白に染まる世界。一拍遅れて、バスッとサイレンサーで抑えられた控えめの銃声。
 そして舞い落ちる雪が納まった時には、全身を真っ白な雪で覆いながらも、そこは抜け目無くリュックをその肩に引っ掛けている紅葉の姿が有った。
 立ち上がると同時にM6の方を向いて、盛大に毒づき始める。
「っぷう。なっ、何て物を持ち出してくるのよ!! 大体、不経済な上に非常識が過ぎるわよ。こんな所にASなんか持ちこむなんて。一体、何処の組織の馬鹿共なの……って!?」
 銃口が再び紅葉にピタリと合わせられた。
 そこで紅葉もピタリと口をつぐみ、大人しくその諸手を上げる。恐らくは万国共通の降伏のサイン。が、両手を上げる動作の陰で、密かに腰の手榴弾のピンを抜いておく。
 そして紅葉は如何にも観念しましたと言う顔で彼方のM6を見据えた。
 紅葉のサインを理解し、M6は油断無く狙いをつけたまま、僅かに腰を落した。
 好機。
 動き始めたM6に拍子を合わせ、紅葉は降参ポーズのまま雷光の如くその右足を跳ね上げた。
 密かに右足のスキーの先端に乗せておいた赤ん坊が魔法のように宙を舞うや、紅葉の胸元にふわりと納まる。赤ん坊を受け取る動作の裏で、先程の手榴弾を手品じみた器用さで斜面の上方に投擲しておくのも忘れない。
 紅葉の手元に突如現れた赤ん坊に、M6の銃口が僅かに揺れた。
「っ!!」
 その一瞬の躊躇に呼吸を合わせ、身を深く沈めつつ、紅葉は柔術の体捌きの要領で素早く体を入れ換える。
 M6も紅葉に拍子を取られたものの、紅葉に向って即座にライフルを構え直した。素早い。
 転瞬。
 後方で身震いするような爆発音が巻き起こり、真っ白い雪煙が紅葉の周囲を覆い隠した。
 先ほど密やかに投擲しておいた手榴弾だ。だがあらかじめ上方に投擲しておいた事と、深く身を屈めていた事で紅葉への被害は一切無い。
 しかし舞い上がる雪煙は、M6に対する良い目くらましとなっている事だろう。
「しゃあっ!! じゃあ悪いけど、あんたには私の盾になってもらうわ。もう少しの間だけ付合ってね」
 紅葉は赤ん坊の紐を固定しつつ、軽く一瞥をよこした。
 当の赤ん坊は状況の変転を理解できずキョトンとした顔をするばかりである。
 予定変更。
 赤ん坊をここに置いていくよりも、事ここに至っては一緒に連れて行動するのが正解だろう。
 先程の遣り取りで、どうやらこの赤ん坊には出来れば無事に確保せよとの命令を与えられている事に間違いは無さそうだ。ならば、この子はM6に対しての良い切り札になる。
 言うまでも無く、自分は今任務を遂行する上でのベストの選択をしている事に間違いは無い。事態は常に変化する。
 そうだ、これこそが現時点でのベスト。そうベストの選択なのだ。
(って、誰に言い訳してんのよ、私ってば……)
 頭をブルブルと大きく振って、紅葉は大急ぎで雑念を追い払う。
 気を取り直した紅葉は身を屈めた反動を利して、雪の斜面を一気に滑降した。
 転瞬、紅葉の周りに次々と雪の柱が屹立し、一拍遅れてバスッバスッとくぐもった音が連続する。
 だがそれを全く意に介さず、紅葉はその小さな体をギリギリまで低くし、一筋の矢の如く素晴らしい勢いで滑降していった。


「何て逃げっぷりだよ。全く、とんでもない女だな」
 正紀は双眼鏡を覗き込みながら、呆れ半分感心半分、と言った風情で傍らの鈴花に呟いた。
「ええ。全く、どこをどうやったらあの状況から、ここまで持って来れるんだか」
 鈴花も長い黒髪を風に靡かせながら、一連の出来事に完全に虚を付かれた感じで答える。
 あわやと言う場面になれば、
「このガルでM6と紅葉との間に割って入ってでも……」
 そう思い極めていたように見えていただけに、その感慨もひとしおなのであろう。
 二人の視線の先では、分厚い毛皮の上着をはためかせながら銀嶺を素晴らしい勢いで滑降する紅葉と、盛大に雪を撒き散らしながらそれを追うM6の姿があった。
 後方から次々と撃ち放たれるライフルを、紅葉は気にもとめずに滑り降りる。恐らくは自分に直接の攻撃を加えられる事はないと言う、何らかの確信を得ているのだろう。
(あの女、もしかして分ってやっているのか? だとしたら、後で色々と厄介な事になるな)
 正紀は内心で軽く舌打ちをした。どうにも、ややこしい事になっているようだ。
「生身と雪上戦用のM6じゃ機動力が違い過ぎるわ。このままだと紅葉ちゃんが捕まるのも時間の問題よ」
 どんどんと間が狭まって行く紅葉とM6様子を見て、鈴花は正紀に言った。
「分ってる。だが、現状ではどうする事も出来ないな。今まで通り、機体を奴の後ろにつける事に専念してくれ」
「了解」
 そう言って、鈴花は機体を斜面ギリギリにまで高度を降ろし、後方から奴の姿をジッと見据える。
 後は、眼下の少女の頑張り次第だ。
 
 
 視界が急激に狭まり、その身に吹き込む風の冷たさは、まるで肌に直接染みこむが如しだ。
 まっしぐらに斜面を滑降しつつ、手短に現状の確認を行う。
(こっちの手持ちの武器は手榴弾が残り1個に使い捨て拳銃が一丁。向うさんは一機とは言え、完全装備のM6と……。ったく、どうしたもこうしたも無いわね。機動力も完全に向うが上だし)
 笑えない現実に溜め息を吐きそうになるが、紅葉はそれを強引に噛み殺し、キッと辺りを見据えた。
 諦めている暇など無い。そんな事よりもまず氷の如く冷静に、刃の如く研ぎ澄ませた感覚で周りをよく観察するのだ。
 巨大なすり鉢のような地形。そして、すりばちの底には切り立った崖がパックリと大きな口を開いて待ちうけている。
 ある意味、袋小路とも言えるだろう。勢いを付ければ、ある程度まで斜面を上がれるだろうが、それだけだ。
 やはり彼方に見える崖まで下り降り、飛び越えるしかない。決して飛べ無い大きさでは無いのだ。
 しかし後方のM6もそれは同様、とても引き離せはしない。
 厳しい表情で舌打ちし、紅葉は奥歯を噛み締めた。
(良く見るのよ、周囲を。必ず何かあるはずだから)
 と、冷たい風を頬に受けながら、紅葉はジッと周囲に見まわす。
 と、南側の斜面の下方にかすかな違和感。そして先程までたっぷりと日差しを受けていた新雪。
 まだ道は残されている。余りにも細く、そして頼り無い物だが。
(状況は果てし無く絶望的。でも、やるしかないわ。……後は全てを忘れて、この流れに沿って死ぬべし、ってね)
 大きく深呼吸をし、その場で腹を括る。
「おおおぉぉぉぉぉぉっ! しゃあっ。行くわよ、デカブツ。しっかりと付いて来なさい!!」
気合一閃。
したたかに地を蹴った勢いそのままに、紅葉は南側の稜線を一気に駆け上がった。
 雪の如く白いM6が凄まじい勢いで追い上げてくる。汚い事に、その足元には2機のスノーモービル。
 速い。
 断然速い。
 斜面も何もお構い無しだ。
(くっ、速い! 何とか間に合うかしら……) 
 紅葉はギリッと奥歯を軋ませながらも、それでも稜線を掛け上がるのを止めない。
 重力に逆らう紅葉のスキーはどんどんと勢いを失い、速度を殺されていく。
 それでも上がる。少しでも上に、紅葉はひたむきなまでに掛け上がる。途中、手袋を口に咥えて外しポケットに突っ込む。両手の上着の裾を合わせ、ちょっとした細工を仕込んでおく。
 その間にも、M6はグイグイと凄い勢いで間を詰めてくる。
 もう、30mも無い。
 紅葉のスキーの勢いが消えた。もうこれ以上、駆け上がるだけの運動エネルギーは残っていない。
 ここで下る。
 南の急斜面をベーデで降って行く。ゆっくりと、だが確実に。紅葉に荒された雪が斜面をポロポロと転げ落ちる。
 不意に、紅葉の目がスッと細まった。
 奴が近い。
 エンジンの振動。ASの間接の軋む音の一つ一つ。どんどんと大きくなる。
 だが、振り返らない。敢えて目を閉じ、全身を耳にして、奴の挙動を気配を感じ取る。
 猛獣の息遣いにも似たASの駆動音。巨大な腕で全身を鷲掴みにされているような圧迫感。息が詰まる。
 さらに近付いた。恐らくは、後15mと言った所。
 そして、紅葉は目を見開いた。
「っしょっ!」 
 思いっきり真横に体を傾け、強引に動きを止める。が、勢いを殺し切れず数メートルばかし横滑り。細かな雪が宙を舞う。気合で何とか体勢を維持。無理な動きが左肩の傷口にズキリと響く。歯を食いしばり、そして噛み殺す。
 雪を蹴立ててM6が迫る。もう、10mも無い。
 紅葉は抱えていた赤ん坊を横抱きに抱き、野生の虎さながらの猛った目で迫り来るM6をはっしと睨みつける。
 転瞬。
 M6を睨んだまま、紅葉は思いっきり体を捻るや、
「受け取りなさい!!」
 と、一片の躊躇も無く赤ん坊をM6に向って勢い良く横投げに放り投げた。
 ゆったりとした滞空時間。赤ん坊は大きな放物線を描いて、迫り来るM6へと飛翔する。
『!?』
このままでは赤ん坊を轢殺する。
そう判断したのだろう、M6は咄嗟に自ら真横に倒れこみ、赤ん坊と――そして紅葉への進路を強引に外す。
冴え渡った反応速度、そして一瞬の判断力。敵ながら見る。
 が、それで勢いが止まる訳では無い。
 紅葉の真横を際どく通り過ぎ、巨大な鉄の塊は勢いそのままに雪面を荒しながら、横滑りに果てし無く斜面を降っていく。通り過ぎるASの風圧が、その茶色がかった髪を靡かせる。
 紅葉は横滑りして行くM6を一顧だにせず、
「何てね……」
 と、薄い笑みと共に放物線の頂点を越えて落下軌道に入った赤ん坊を見据え、ヒュンとばかしに右手を素早く差し向けた。
 袖の中から分銅が飛び出し、流れ星の如く真っ白な尾を引きながら、中空で赤ん坊の紐に蛇の如く絡みつく。尾っぽと見えたのは、二つに縒り合された白い包帯。
「よっ、と」
 そして、軽い紅葉の気合。
 白い尾っぽが張り詰めたと見えるや、次の瞬間には紅葉の胸元に赤ん坊がフワリと納まった。
 驚いた事に、赤ん坊は泣き出すどころか笑みすら浮かべている。遊んでいると思っているのだろうか。この期に及んで、何とも頼もしい坊やだ。
「お帰り……」
 そう言って、紅葉は赤ん坊をギュッと抱き締める。確かな重さ、そして確かな温もり。
 笑みが自然とこぼれた。
今のはかなり際どい賭けだった。一手読み違えていれば、この子――そして自分はM6の装甲の紅い染みになっていても全然不思議ではないタイミングだった。
思わず安堵の溜め息が漏れでる。
 張り詰めていた何かがフッと緩む。
 そして次の瞬間、
「渡さない。絶対に、あんな奴等にあんたを渡さない。指一本だって触れさせやしない――」
 自分の口が信じられ無い事を口走っている事に気付き、紅葉は激しく混乱する。
(えっ? ちょっと、待ちなさいよ。何言ってるのよ、私は……!?)
 だが、一度零れ出した言葉は止まらない。
「今から、お姉さんがあんたに約束して上げる。本当のお母さんの所に、あんたを必ず連れて帰ってあげる。それまで私があんたを護ってあげる、ってね」
とまで、自分の口は言い切った。自分の言葉がまるで他人の言葉のように聞こえる。
当の赤ん坊は自分を見て、安心しきった顔で微笑むばかり。
いっそ、殺して欲しい。どうして自分はこんな事を口走ってしまっているのだろうか。紅葉は片手で頭を抱え込んだ。
 だが分っていた。理由ははっきりと分っていた。
 今まで、目を逸らしていただけだ。
 今、零れ出した言葉こそが紛れも無い自分の本音。
どうやら才堂紅葉と言う大甘ちゃんは、この子を見捨てて行く事がもう出来なくなってしまったらしい。
筋金入りの諜報員を自認する自分にしては、何とも無様で滑稽な話である。格好悪いったらありゃしない。
「……はぁっ」
 そんな自分に心の底からうんざりし、軽く顔を伏せて特大の溜め息を漏らす。
(ったく。本っ当になっちゃいないわね、私。……けど、何かすっきりしたわ)
 そして、紅葉はすぐにその顔を上げた。
 1点の曇りも無い澄み切った眼差し、口元に浮かぶ微かな笑み。
 迷いはもう消えていた。
 仕事も完璧にこなし、この子も護る。それが本心。それが自分にとってのベストの選択。
 そして今、自分のなすべき事、それは……。
「ひゅっ!!」
鋭い呼気を放ち、紅葉は眼下で姿勢を立て直しているM6をギッと睨み据えた。
膝を抜き、紅葉は倒れこむかのような前傾姿勢を取るや、殺人的な角度の急斜面を一息に直下降。
 眼下の白いM6が急激に大きさを増し、今ならその間接の節々や細かいシミの一つ一つまでもが視認出来る。
 眼前に立ちはだかる余りにも圧倒的な質量を誇る鋼の塊、深海の底で圧し潰されているが如き威圧感。
 怖い。
たまらなく怖い。
口の中がカラカラに渇く。
頬の筋肉が小刻みに引きつる。
心臓の鼓動が早鐘の早さで打ち鳴らされる。
もう、冷や汗すらも出てこない。
(っちゃあ。こりゃあ死んだかな、私。でも、それでも……)
 紅葉は大きく息を吸いこみ、そしてゆっくりと吐き出す。
自分はこの流れに沿って死ぬと決めた。そして為すべき事はただ1つ。 
「行くしかないんでしょうが、クソッタレ!!」
 ヤケクソ混じりの叫びと共に、紅葉は恐怖を振り切り速度を上げた。
 M6の姿が見る見るうちに大きくなり、もう見上げる程だ。誇張でもなんでも無い。生身の紅葉にとって、ASは文字通りの鉄の城である。しかも立ちはだかるだけでなく、高機動型と来た物だ。
(でも、針の穴程だけど勝機は有るのよね。その為にも、まずはあんたのサイドを抜く!!)
 紅葉は右に体を逸らし、その進路をずらす。
 そうはさせじとばかりに、膝立ちになったM6の鋼の腕が紅葉に素早く差し伸ばされた。
 予想以上に間合いが長く、そして素早い。
「なんとぉっ!!」
 自ら横滑りに体勢を低くし、紅葉は巨大な鉄の腕を際どくやり過す。
 後方で、再び体勢を立て直すM6の気配。
 それでも、もはや振り返っている暇など無い。
 焦りを眉根に寄せ、紅葉は拳を固く握り締める。
(早く、あれに追い付かないと!!)
 もっと速く。
 より速く。
 紅葉は赤ん坊の紐を胸元に掛け直し、両手で反動をつけるや、転倒する1歩手前の極端な前傾姿勢で殺人的とも言える急斜面を駆け下る。
 頬に当る風が鋭さを増し、目の前の世界はどんどんと狭まり、意識が刃のように研ぎ澄まされて行く。
 視界の片隅に、前を流れる雪の塊。先程のM6の横滑りによる物。
 だがすぐに追いぬき、紅葉は雪の塊を後ろに置き去りにする。
 これで針の穴は見えた。
(仕込みは上々、後は……)
意識を後方のM6に向けつつ、紅葉は右手と口で最後の手榴弾のピンを引き抜いた。
後、きっかり5秒。
 後方からM6のスノーモービルの駆動音。流石は動力付き、グイグイと自分との詰めて来ているのが分る。絶え間無く押しよせてくる、圧倒的なまでの重圧。追い付かれるのも時間の問題。
 紅葉は勢いを殺さず、注意をM6から逸らさず、ヒタとばかりに前を見据えた。崖もまた確実に近付いている。
 ゴゴゴゴゴゴッ
 突如、身震いするような地響きが銀嶺の谷間に響き渡った。
(来た!! やっと、来たみたいね)
 と、紅葉の表情が鋭さを増す。
 表層雪崩れ。冒険スキー等のマニュアルでその危険性がくどい程に書き連ねられている、極めて危険な雪山事故の一つだ。
 もともとが新雪な上に、陽光をたっぷりと浴びた南側。そして下方に有ったかすかな雪崩の痕跡。
 条件は十分過ぎた。
 それでも、本来なら紅葉自身が手間を掛けて上方で雪面を荒さねば起りえない現象だが、あの時のM6の巨体による横滑りが十ニ分にその代用となったのである。
 後方のM6に動揺の気配。これは予想外だったのだろう。
 立て続けに自分に裏を掛かれた事で、流石に頭に血が昇っていたようだ。無論、M6がそうなるように紅葉が誘導していたのだが。
 しかし動揺したのも一瞬の事、M6は即座に腰を落として直下降に専念。
 良い判断だ。切り換えと割り切りの早さは流石である。
 が、そこまで。
(惜しいけど、もう既にチェックメイトなのよね)
 紅葉は目前の大きな起伏にスキーを乗り上げ、一気に跳躍。
 時の流れが緩慢となり、一瞬が永遠に引き伸ばされていくような奇妙な感覚。
 空中で体を捻り、上体を逸らせて天地を逆さにする。目前に迫ったM6が眼上に見える。紅葉とM6の視線が、中空で絡み合う。
 だが、それも一瞬の事。
 紅葉の口元に浮かぶ、艶やかな微笑み。
「地獄で会いましょう」
 と、紅葉は右手の手榴弾をM6の左の足元に鋭く投げ放った。
 投擲された手榴弾は吸込まれる様に迫り来るM6の足元に落下し、
そして炸裂。
場を圧する轟音。巻き起こる盛大な雪煙。
M6の機体がグラリと右に揺れる。
 足元の雪を吹き飛ばされ接地を失った左と、それでも構わず直進しようとする右のスノーモービル。バランスを崩され、たまらず横転するM6。
 そして、迫り来る雪崩はあっさりとM6を呑みこんだ。雪の塊と言うよりは、むしろ濁流に近い雪の流れ。有無を言わさずにもみくちゃにされていくM6の機体。
 それで終りだ。
 が、確認している暇など無い。
 五体の制御に神経を集中。体を捻り、勢いそのままに上下の入替え。着地。膝を上手く使って衝撃を減殺。
「っ!!」
 それでも殺し切れない衝撃。左肩に走るハンマーで殴られたような鈍くて重い痛み。そして、肩口から何か熱い物が漏れ出す感覚。今ので、傷口が完全に開いた。
 だが、まだ。
追い詰められた獣さながらの強い眼光。見据えるは目の前の崖。
死生の全てがここに有る。
(越える!!)
 後方から迫る雪崩も肩の痛みも気に掛けず、体を沈ませ重心を落し、
「いいいぃぃぃっ、やああああぁぁぁぁぁっ!!」
 鋭く冴え渡った気合いと共に、紅葉は飛鳥の如く跳ね飛んだ。
 すぐ背後では、大量の雪が崖下に落下する轟音が場を圧している。
 紅葉は背筋を伸ばし綺麗なV字で中空を浮遊。まるで羽の生えたような心地良い浮遊感。
 刹那。
 後方から凄まじい勢いの何かが、紅葉の横を通り過ぎる。巻き起こる衝撃波に、紅葉はたまらず中空でバランスを崩し、そして失速。
「なっ!?」
 咄嗟に後方を振り向く。そこにはライフルを雪中から突き出し、紅葉を見据えるM6の姿。ライフルの筒先に残る硝煙。次の瞬間には、雪の流れにもみくちゃにされて崖下に消える。
 信じ難い、まさかあの状況で至近弾を放ってこようとは。執念と呼ぶに相応しい、まさに鬼気迫る一撃。
(くうっ。最後の最後で……)
 紅葉は唇をきつく噛み締める。
 必死に態勢を立て直すが、崖の向い側には届き得ない。ここまでだ。 
 ならばせめて、
「あんただけでも……」
 紅葉は赤ん坊の懐に仕事のディスクを手品じみた器用さで押し込み、赤ん坊を放り投げる為に体を捻って溜めを作るや、
「行きなさいっ!!」 
 裂帛の気合と共に、力を一息に解放す――。
 フワリ
 と、次の瞬間、誰かに抱き抱えられるような感覚。
「はっ?」
 思考が止まり、赤ん坊を放り投げようとした姿勢のまま、紅葉は思わず呆けた顔になる。
 転瞬。
「きぃやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 そのまま有無を言わさぬ勢いで、紅葉は崖下に引っ張られた。視界が狭まり、世界が凄い勢いで斜めに流れる。
 そして、一瞬の浮遊感。
 急に風景の流れが緩やかになり、少しづつゆっくりと落ちて行く感じ。
「……なっ、何がどうなってんのよ」
 気がつくと何やら風変わりな乗り物の上で、二人の男女と共に自分はいる。
 ちなみに自分は男の方の腕にまるでバッグか何かのように抱えられており、ここはまだ空中のようだ。
 と言う事は、まだ飛んでいるのだろうか。
 紅葉はやはり呆けた顔だ。
「っぷう。まさに危機一髪だったな。後、一瞬でも遅れてたら危ない所だった」
 と、見知らぬ男――忍刃正紀は紅葉を機体の上にソロリと降ろしながら無愛想に言った。
 その隙の無い身ごなしは、少なくとも堅気の人間の物では無さそうだ。
「本当、危ない所だったわ。と言う訳で、久し振りね、紅葉ちゃん。良く頑張ったわね、本当に」
「すっ、鈴花姐さん。どうしてここに……」
 と、こちらは橘鈴花。今はにこやかに紅葉を迎えてくれていた。彼女とは顔見知りで、何度か<ミスリル>の仕事で組んだ事が有る。
「えっ。え〜っ、と」
 いまいち状況が把握できず、紅葉は戸惑うばかり。
「俺がお前の今回の仕事相手、忍刃正紀だ」
 不意に正紀がそんな紅葉に向って、無愛想に一枚の小切手を差し出した。
 小切手の数字に、紅葉の呆けた頭はたちまちの内に働きを取り戻す。
「私は才堂紅葉。これが今回の仕事の成果よ」
 そして赤ん坊の懐からいそいそとディスクを取り出して、紅葉は営業用の可愛らしい笑顔と共に正紀に差し向けた。先程までの動揺や戸惑っていた気配は、もう何処を見ても存在しない。
 一瞬、二人の顔に何とも言えない微妙な色合いが浮かぶ。
 だが気にしない。紅葉はそんな現金で商売熱心な自分がとても好きなのだ。
 ディスクを受け取ってザッと確認をし、正紀も何事も無かったかのように小さく頷いた。
「了解。確かに受け取った」
 正紀の手から、紅葉に小切手が手渡される。それを財布に入れて、ズボンのポケットに慎重に保管した所で、思わず安堵の溜め息が洩れた。
 色々とクソ厄介な不測の事態が有ったが、これで今度こそ任務完了。
 思えば今日は本っ当に厄日だった、としみじみと噛み締めていた紅葉だが、ふと気になって胸元を見る。
 果たして、赤ん坊は何時の間にか安らかな寝息を立てていた。
(本当、坊やは気楽で良いわ。お姉さんがどんだけ苦労したのかなんて、何も分って無いのよね、きっと)
 と、今日何度目かもしれない感想と共に微笑し、紅葉は赤ん坊の頭を優しく撫でてやる。
 何だか、やけに気分が良い。
「ふうん。そう言う優しい顔も出来たんだ、紅葉ちゃんって。今回はこれだけでも、ちょっとラッキーだったかな」
 と、鈴花。紅葉のそんな様子を見て、面白そうに微笑んでいる。隣では、正紀も相変わらずの無愛想な表情でこちらを眺めていた。
「………っ!?」
 頬が紅潮しているのが自分でも分る。紅葉は大急ぎで二人からバッと顔を背けた。
 何だか、裸を見られるよりも気恥ずかしい。
 そろりと横目で見ると、鈴花はますます面白そうな表情だ。何となく猫が笑うとしたらこんな感じかな、とか思う。
 どうやら不味い人間に不味い所を見られたようだ、と紅葉は内心で冷や汗だ。
「そんな事より、早い所着地場所を見つけないといけないぞ。この人数じゃ、そんなに長い間飛んではいられないだろう」
 そこに、正紀の冷静な声。双眼鏡で黙々と着地に適した地形を探っている。
 どうやら人数オーバーで、今のガルは緩やかに滑空するのが精一杯らしい。
「そうだったわ。それじゃあ、さっさと良い場所を見つけて着地するとしますか」
 と、鈴花はあっさりと正紀に頷きを返し、ガルを滑空させつつ、双眼鏡を片手に眼下を見下ろす。
 窮地を逃れた紅葉はその場に座りこんだまま、軽く安堵の溜め息を吐いた。
 安心して無防備な表情を他人に見せてしまうとは、自分もまだまだ修行が足りない。
(っと。後は、この子を本当のお母さんの所に帰して上げないとね)
 紅葉は寝ている赤ん坊に目を向けた。
 そう言えば、そう言う約束をした覚えが有る。交した約束は果たさねばならない。
 だが今になって、この子を母親の所に帰すのを少し残念に思っている自分がいた。
 紅葉の口元に、ちょっと寂しげな微笑が浮かぶ。無論、二人に顔を見られ無いように顔を背けながらだ。
(けど。仕方が無いわね。この子にとっては、それが一番の事なんだから) 
 微苦笑し、紅葉は安らかな寝息を立てている赤ん坊の頭を優しく撫でてやる。
 長かった一日が、やっと終りを告げようとしていた。


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