ORACULAR‐WINGS■
 ■疾風怒濤のシルバーマウンテン■    <後日談>


 平日で、人影もまばらな小さな喫茶店。夏も近付いてきていると有って、ショーウィンドーの向うで人々が上着を抱え、汗を拭いながら歩いていく様が良く見える。
 その片隅で、正紀と紅葉は二人掛けのテーブルに向い合うように坐っていた。
 正紀は青のシャツに紺のズボンと、外を歩いている大学生の兄さん方と何ら変らぬ、至って身軽な格好である。
 一方、今日の紅葉は髪を降し、水色のブラウスに白のスカートを身に付けていた。その見に纏う雰囲気はアンデスの時とはまるで別人である。
 可愛いと言うよりも可憐なと言う表現がしっくりと馴染む清楚で儚げな容姿。仕種の一つ一つから仄かに見え隠れする気品。そして口元に湛えられた柔かな笑み。深窓の令嬢と言う言葉が、見る者の脳裏に木霊する事だろう。
 先に口を開いたのは紅葉であった。
「正紀君。この前の事件の事後処理、色々と骨を折ってくれたみたいですね。助かりました」
 丁寧な口調でそう言うと、紅葉は深々と正紀に頭を下げる。楚々とした、と言う表現が良く馴染む。
「いや、いいさ。元々、こっちの不始末だった訳だしな」
 そう言って、目の前の正紀は軽く肩を竦め、
「それよりも才堂。これが今回の報告書だ。ざっと目を通しておいてくれ」
 持っていたカバンから白い封筒を紅葉に手渡す。
「了解。今から目を通しますね」
 頷きを一つ返し、紅葉は封筒を手に取った。滑らかな手つきで封を切り、中身を取り出す。
「それと、才堂。悪いんだが、前に会った時のようにしてくれないか。それだと、どうも調子が狂っていけない」
 こめかみの辺りを指で掻きながら、居心地悪げに正紀がそう言ってきた。どうやら以前会った時とのギャップで落ちつかないらしい。
「分りました。それでは――」
 良くある事なので、別に気分を害すような事でもない。紅葉は正紀に軽く頷き返し、
「これで良いんでしょ、正紀」
 軽く息を吸って吐くと、そこにはもう深窓の令嬢の姿は消え去り、溢れんばかりの活力を内に秘め、ネコ科の野生動物の如きしなやかさとしたたかさをその身に纏った少女の姿だけが在った。
 すぐに視線を手許の報告書に落し、紅葉はその内容を確認し始める。
「しかし、良くそんなにコロコロと変えられるな」
「ん? ガキの頃からやってるから、こんなの全然気になんないわよ。それに一応、学校じゃ良家のお嬢様で通してるしね」
 呆れた様に呟く正紀に、紅葉は報告書を食い入る様に見詰めながら声だけを返す。
 しばし、二人の間に報告書をめくる音だけが響いた。
「それより、この報告書なんだけど――」
 報告書を読み終え、紅葉は真剣な眼差しで目の前に坐る正紀を見詰め、
「ありがとう、正紀」
 深々と頭を下げた。
「よせ。さっきも言ったろう、元々こっちが悪かったんだって」
「それでも、もう一度だけ言わせて。ありがとう、正紀。あの子の為にこんなに骨を折ってくれて」
 もう一度、深々と頭を下げる。
 報告書を読み終え、正紀があの子の為にかなり危ない橋を渡ってくれた事に気付いた。書類の偽造。虚偽の報告。その他にも数多くの工作をあの子の為に施してくれている。
 正直、ここまでやってくれるとは思ってなかった。素直に頭が下がる。
「俺もあの子には不幸になって貰いたくなかった。それだけだよ」
 正紀はショーウィンドーの外の景色を眺めながら、ポツリとそう呟いた。外では、学校帰りらしい高校生の一団が互いにふざけ合い、楽しげに談笑している。
「それはそうと。才堂、今日はこれをお前に渡そうと思ってたんだ」
「ん? 何なの、いきなり」
 紅葉は正紀から一枚の写真を手渡された。
 写真に載ってたのはいかにも実直そうな、そして誠実そうな神父に抱き抱えられた赤ん坊。背後には教会と5、6人の子供達、皆表情は明るい。どうやら何処かの孤児院のようだ。
「晃……。そっか、ここに引き取られたんだ。良かった、温かそうな人達で」
 写真を見て、紅葉の目が穏やかに細められる。
 神父と子供達の顔つきや背後の風景からして、日本の何処かだろう。だが、そんな事はどうでも良い。そんな事よりも紅葉は神父の誠実そうな顔と、何よりも周りの子供達の表情の明るさに救われる思いだった。
 ここなら、例え両親はいなくとも温かく育つ事が出来るだろう。少なくとも、そう期待する位は出来そうだ。
「裏に住所も書いてある。今度、尋ねて見れば良い」
 言われるままに裏を見ると、確かに住所が書いてある。
「良いの? そこまで教えてくれちゃって」
 紅葉は訝しげに尋ねた。部外者の自分にそこまで機密を漏洩しても良いのか、と言う問い。
「お前だから教えたんだよ。あの子の母親と呼べる人間は、もうお前しかいないからな」
「そっか、私が母親か……」
 さばさばとした顔で答える正紀の言葉を、紅葉は微苦笑して受け止める。
 この歳でそんな事を言われるなどとは夢にも思ってなかった。だが、不思議と悪い気持ちはしない、と言うかくすぐったい位だ。
 でも、と。紅葉は正紀に向き直った。
「でも、もう私があの子と顔を合わせる事は無いの。その気持ちだけ、有り難く受け取っとく」
 その目を正面に見据え、紅葉は淡々と目の前の正紀に言う。
「会いにいかないつもりか」
「ええ。なんだかんだ言っても、結局は私も奴等と同類だもの。私みたいな女があの子の周りをうろついてたら、きっと今回みたいな事件が起こる。それだけは嫌なの」
 問い返す正紀の言葉にその目を伏せ、紅葉はテーブルの下で足の腿をきつく握り締めた。 
 そう、それだけは繰り返してはならない。あの子の為に、これ以上の血を流させてはいけない。ましてや、それが自分の為等とは有ってはならない事。
「あの子が、晃が幸せになる事。私が願うのは、ただそれだけ……だから、もう会わないの」
 何処か吹っ切れた様に、紅葉は透き通った微笑みをその口元に形作った。ひどく儚げで哀しい、それでいて揺るがない意志、犯し難い何者かを秘めたその微笑。
 それを黙って見守る正紀。お互い、掛けるべき言葉は存在しない。今は何を言っても嘘になる、そんな感じがした。
 そして暫くして、そんな寂しげな様子の紅葉を見かねたのか、
「才堂。今日は俺が奢ってやるよ。好きな物を注文するといい」
と、正紀がそう言ってきた。
 紅葉を力付け様と軽い気持ちで提案した正紀だったが、その効果は絶大だ。
「えっ! マジっ? ウソッ! 奢ってくれるの!? やったぁ。正紀君、太っ腹!!」
 勢い良く正紀の顔に向き返り、紅葉は一気に捲し立てる。その顔には溢れんばかり期待が満ち溢れており、先程までの愁いの表情は一億光年の彼方に消え去ったが如しだ。
「それじゃあ。え〜と、まずは順当にチョコレートパフェでしょ。スペシャルイチゴサンデーでしょ。スプラッシュブルーマウンテンでしょ。ココナッツスペシャルでしょ。マンゴー玄米でしょ。……うん、と。後、どれが美味しそうかしら。迷っちゃうわね」
 至福と言う言葉の体現者と化した紅葉は、メニューを片手に有るだけのパフェの名前を列挙する。そこに容赦の2文字は存在しない。
「……ちょっと待て、紅葉。お前、ここに有る全てのパフェを制覇するつもりか?」
 その余りの変貌振りに半ば呆然としていた正紀だが、紅葉の暴挙に慌てて突っ込みを入れる。何時の間にか、才堂から紅葉に呼び方が変っていた。
「ん? ああ、その手が有ったか」
 紅葉はそう言って、はたと手を合わせる。10を超える種類のパフェを相手に、それが本当に良い提案だと思っている事は明らかだった。
「容赦無いな、お前。しかし頼むのは良いが、本当に食い切れるのか」
「『人が奢ってくれると言ってくれた時は遠慮する事無くとことんまで奢って貰い倒せ、それが礼儀よ』って、お母様も良く言ってたのよね。それに、昔から甘い物は別腹って言うでしょ。大丈夫よ」
 苦笑する正紀に、紅葉は心からの笑みで答える。これだけ見ると、同年代の少女と何ら変らない笑みだ。
「母娘揃って、碌な人生哲学じゃないな」
 肩を竦める正紀の様子にも気付かず、紅葉は嬉しげに注文を始める。余りに沢山の注文にウェイトレスのお姉さんが目を丸くしていた。
「さ〜てと。ここのパフェって、学校でも評判だったのよね。瑞葉も美味しかったとか言ってたし。う〜ん、楽しみ」
 そう言って、紅葉は満面の笑みを浮べる。この世の楽しみの全てを一身に集めたら、今の紅葉になるのかもしれない。そんな真夏の太陽のように晴れやかな笑みだった。
 軽く溜め息を一つ吐き、正紀はそんな紅葉を『もう好きにしろ』、と言った風情で眺めている。だが呆れながらも、満面の笑顔の紅葉を見る目は何処か優しい。
「あら。もうセミが這い出してるわね……」
 ふと、紅葉が外を眺めると街路樹に茶色い羽のアブラゼミがいるのを見かけた。恐らくは、今年初めての奴だろう。
 見上げると、ぎらつく太陽を掲げるこの東京のくすんだ空も、あの澄み切ったアンデスの空と同じように雲一つなく晴れ渡っている。あの子もこの空の下で、元気にしているのだろうか。
 夏はもう目の前だ。

    END



後書き
 こんちゃーっす、柳生です。
 『疾風怒濤のシルバーマウンテン』、遅筆故に前編と思いっきり間が空いてしまいましたが、これにてようやく完結です。ここまで読んで下さった方々、本当に有難うございました。
 長編を一つ終らせる事が出来て、やっと肩の荷が降りた気分です。ここまでの反省点は幾つも有りますが、一番は『プロットはちゃんと練りましょう』の一言に尽きます。今回ほどプロット作りの大切さを痛感した事は有りません。
 雑にしか作ってなかったので、ただでさえ遅筆な上にさらにマイナス修正が掛ってしまった感が有りましたので、SS書きの皆さん、俺みたいな事にならないようにプロット作りには細心の注意を払うのが吉です。
 あと、長編はもう疲れたので、しばらくは短編を主に手がけたいなとか思ってます。
 それでは、また次回のSSで会いましょう。

『スペシャルサンクス』

 安藤正樹さん、朝東風さん>
 オリキャラを貸して下さって、そして添削に付合って貰って有難うございます。
 どこまでイメージを崩さずにお二人のオリキャラを動かせたかは分りませんが、俺なりに精一杯やった積りです。このSSを読んで、貸して良かったと思って頂けるならこれに優る喜びは有りません。お二人のキャラがいなければこの話は成立しませんでした、改めて礼を言わせて貰います。有難うございました。

 βさん、KUSさん>
 SSの添削、また発想や演出面での協力をして頂いて有難うございました。
 元々、軍事関係や物理に疎い男なのでお二人の助言は本当に助かりました。お蔭で、このSSもそこまで大きな矛盾点を孕む事も無く、完成度を高める事が出来ました。今後とも、よろしくお願い致します。

 渋井さん、日和佐さん>
 週旦ならびにSS講座、何時もSSを書く時の指針として参考にさせて貰ってます。お二方がいなければ、このSSも今よりも随分とヘタれた物になっていたでしょう。有難うございます。
 俺の分の週旦も楽しみにしてます。これからも頑張って下さい。

 オラチャの皆さん>
 何時も遅くまで付合って頂いて有難うございます。
 毎回、楽しい馬鹿話やら、SSの向上についての議論や演出面での沢山のネタ拾い。その他、SSを書く上で多くの恩恵を受けさせて頂いてます。この場を借りて、感謝。これからも、楽しくやりましょう。


ORACULAR‐WINGS■
≪前のページヘ
インデックスへ戻る

閲覧室Aへ戻る

時間軸順 ジャンル順 作者順
ORACULAR‐WINGS■