ORACULAR‐WINGS■
 ■疾風怒濤のシルバーマウンテン■    <終章<I WISH ONLY……>>


 青く澄んだ日差しの中、銀嶺がその光を受け真っ白に輝いていた。その純白の世界の中、その輝きを拒むかのような岩陰に紅葉と正紀、そして赤ん坊の3人はいる。
「ちょっとでも振り向いたら、殺すわよ」
 赤ん坊をタオルを敷いた雪面に降ろし、紅葉は6mばかし前にある正紀の背中に向ってドスの利いた声で言った。
 そして、おもむろに上着を脱ぎ捨てる。分厚い上着やセーター、左肩の辺りを真新しい紅色で滲ませたシャツ。次々と脱ぎ捨てた。
 紅葉は足元にタオルを敷いて地べたにどっかと坐り込み、大きく息を吸って先程の闘いで開いた左肩の傷の処置を始める。
 前回と同じくアルコールで傷口を注ぎ、消毒。時折、押し殺した呻き声が微かに漏れる。
「これから、その子をどうするつもりだ」
「この子はお母さんの所に連れて行ってあげるつもりよ。それがどうかしたの?」
 傷口を洗い流す手を休めず、紅葉は正紀の背中に言葉を返す。
「意外に親切なんだな。後は、オレ達に押しつけていくかと思ってたのに」
「っさいわね。本当ならとっくの昔にそうしてるわよ。でも――」
 と、さも不本意気に正紀の背中を一瞥し、紅葉は目線を傍らで眠る赤ん坊に移した。
 健やかな寝息と共に、赤ん坊は実に気持ち良さそうな顔で眠っている。
「この子と約束しちゃったのよね。私があんたをお母さんの所に連れて行って上げる、って。だから、今回は私がこの子を連れて行くわ。あんたらに手間は取らせないわよ」
 幾分か柔かなトーンの声で微苦笑し、紅葉は小さく肩をすくめた。
「……そうか」
 淡々と、正紀が答えた。抑制の利いた感情の感じられない声。
 ふと、空気が冷えていく感じがした。身に覚えの有る嫌な感じ。自分が末期の白血病である事を父が初めて紅葉に告げた時、その時と良く似た感覚。
 手馴れた手つきで肩口に包帯を巻きつけ、紅葉は正紀の背中をじっと見据えた。
「だが、それはもう無理な話だな」
「何でよ」
 淡々と語る正紀の背中に、思わず声が大きくなる。嫌な感じもまた大きくなる。
 空気がどんどんと冷えていく。
「この子の両親は、もうこの世にはいないんだ。3ヶ月前のあの爆弾テロ事件に巻き込まれてな」
 感情の混じらぬ声で、正紀は静かに紅葉に告げた。
 目の前が真っ暗になった気がした。
 正紀の言っているテロ事件とは3ヶ月前、コロンビアで起った病院爆破事件の事だろう。死傷者が250人を超える大惨事だったと記憶している。当局の必死の捜索も実を結ばず、犯人は未だ捕まっていないと言う話だ。
 だが、そんな事は今はどうでも良い。
(3ヶ月前。丁度、この子が生まれた頃じゃない。この世に生まれてすぐに両親を失くしたって言うの、この子は……)
 重苦しい静寂が場を覆い尽くす。
 正紀はそれ以上、何も言わなかった。紅葉も何も言わなかった。
 目を伏せたまま、紅葉は肩口が真っ赤に湿ったシャツをきつく握り締める。
 握り締めた拳から一滴の紅色が滴り落ち、足元の純白に小さな紅い花を一つ咲かせた。
 そのままシャツを身に付ける。水よりも粘着質な紅色が肌にへばり付く不快感。今は逆に心に馴染む。
「……それじゃ、この子の親戚でも良いわ。叔父さんとか叔母さんはいないの?」
 脱ぎ捨てた上着を身に着けながら、紅葉は押し殺した声でそう問い掛けた。
「いる事はいる。だが、それは止めた方が良いな」
「何か問題でも有るっての?」
 何処までも感情を見せない正紀に、紅葉の目が苛立ちに細まる。そして、先にも増した嫌な感じ。 
「その子にはな。ウィスパードの可能性が示唆されてるんだよ」
「え?」
 防御の隙間から横っ面を思いっきり張り飛ばされた、今度はそんな感じがした。
 ウィスパード。ブラックテクノロジーの生きたデータバンク。ASを始めとする現代の異常な技術革新の 影の立役者。そして各国の諜報機関が文字通り血眼になって捜し求め、暗闘を繰り広げる元となる存在。
 だが、その存在を詳しく知る者となると紅葉の業界でもそう多くはない。実際に目にした者等はほんの一握りに過ぎないだろう。紅葉とて、母親からの受け売りに過ぎない知識だ。
 そのウィスパードがこの子かもしれないと、目の前の男はそう言っている。信じるには、余りに突拍子も無さ過ぎる話だ。
 思わず、正紀の背中をじっと見直す。そこには、正気を疑うには余りに静謐な空気が有った。逃げる様にその目を逸らす。
 確かに、今回の奴等の一連の無茶な動きもこの子にウィスパードの可能性が示唆されているならば納得出来た。虎の子のGULL部隊までをも投入したミスリルの余りに素早い対応も、その一言で腑に落ちてくる。
「まあ、正確にはこの子の母親から反応が出たんだがな。それも半年前に」
「それじゃ関係無いじゃないの、この子は。ったく。好い加減な物よね、実際の話」
 淡々と続ける正紀の言葉。
 他愛もない事。何でも無い事。この業界ではありふれたミス。紅葉はそう、笑い飛ばそうとした。
「本気で言ってるのか? 分っているのだろう。本当はお前にも」
 正紀の言葉が槌と化し、紅葉の笑みを微塵に砕く。
 その存在自体が非常に稀なウィスパードだ。反応の有った母親の死んだ今、その際に腹の中にいたこの子はウィスパードの候補して、またウィスパードとその遺伝に関しての格好の実験素材として狙われ続ける事に変わりは無い。
 それに、この子の為にこれだけの事件が引き起こされたのだ。その事実だけで、この子は既に様々な組織の注目を集めてしまっている事だろう。
 奥歯をきつく噛み締め、拳を強く握り締める。
 目を背けていた部分を指摘され、笑みを消した紅葉は正紀の背中を刺すような眼差しで睨みつけた。
 だがすぐに握っていた拳を解くと、疲れたような溜め息を洩らして足元の赤ん坊に視線を落す。
(……この子。やっぱり、あそこで死なせてあげた方が幸せだったのかもしれないわね)
 哀れみ、同情、そして憐憫。
 目の前の安らかな赤ん坊の寝顔を、紅葉はただ見詰めていた。
 その真偽を問わず、ウィスパード絡みの事件には常に悲劇の影が付きまとう。
 その頭脳から引き出されるブラックテクノロジーの知識の数々は、世界のパワーバランスをも崩壊させかねない圧倒的な力の源となる。それが故に人々は狂い、そして血は流される。今までも、今回も、そしてこれからも……。
 裏の稼業に身を置き、その悲劇の数々を知り抜いているが故に、紅葉の顔はどこまでも暗い。
「その子をオレ達に渡してくれないか。責任を持って預かる。その際には、この子を護ってくれた報酬も出るようにミスリルに交渉しても良い――」
 正紀は振り返り、紅葉にそう語りかけた。変らぬ、感情の感じられない顔。腹が立つ。
「それがこの子にとっても、そしてお前にとっても一番良い事だと思うぞ」
 正論だ。確かに理も筋も通っている。だが、一つ大事な事を抜かしているのだ、この目の前の男は。
 心の片隅に焔が灯る。
「……そうして、また背負わせる気なの」
 目を伏せ、紅葉は正紀に静かに問い掛けた。
「何を言っている」
「さっきから黙って聞いてりゃ好き勝手な事ばかりぬかしてくれるわね。元はと言えば、あなた達の不首尾でこうなったんじゃないのかしら?」
 心を焦がす灼熱を拳に握り込み、紅葉は先程にも増した静かな口調で言った。
「あと、コロンビアの事件ってのもちょっと引っ掛るのよね。あなた達、どう言う風にこの子のお母さんを守ろうとしてたの? あなた達の厳重な守りが、逆に奴等の強引な手段を呼び寄せる一因になったんじゃないの。今回みたいに……」
 目線を上げ、粛然と立つ正紀の目を正面に見据える。
 顔色一つ変えない正紀に、苛立ちが募った。
「今回だけでも50人。コロンビアやこの子の逃亡生活中の事まで含めると軽く3桁の人間が死んでるのよ。一体、何人の人間がこの子の為に死んだと思ってんのよ」
 拳に握り切れずに溢れ出す熱に、語気がだんだんと猛って行く。
 正紀は黙って、その言葉の全てを受け止めていた。
「それをこの子に背負わせる気? ミスリルで育てられていれば、遅かれ早かれその事を知る事になる。その時、この子はどう思うかしら? 自分が生きている為に100人以上もの血が流された、その事を知ったら……」
 言葉を区切り、赤ん坊に視線を落す。
 健やかな息遣い。林檎の様に真っ赤な頬。冗談のように小さな手。
 今までの事が思い浮んだ。
 驚いてキョトンとした顔。泣き出す1歩手前の、紅葉に心底の恐怖を覚えさせた顔。ミルクを呑み終わった後の幸せそうな笑顔。そして、この胸に抱いた確かな温もり……。
 様々な光景が浮んでは消えた。
 心の原野で、紅蓮の焔が抑えきれないほどに広がっていくのが分る。
 そして、それを抑える気などは微塵も無い。
 燃えるような眼差しで目の前の正紀を見据え、
「ざけんじゃないわよ! お母さんとお父さんを奪われて、全ての血縁との関係は断ち切られて。その上に100人以上もの人間の死を背負わせようっての、こんな小さな子供に! 普通の子供としてのささやかな未来までも奪おうって言うの、あんた達は!!」
 紅葉が吼えた。
 燃え盛り猛り狂う紅蓮を言葉に託し、目の前の正紀に激情の全てを叩きつける。
「全部奴等と、そしてあんた達が悪いんじゃない! 一体、この子が何をしたってのよ!!」
 腹が立った。
 どうしようもなく腹が立った。
 この子の運命を弄ぶ全てに腹が立った。
 そしてありったけの怒りを吐き出して、紅葉はその目を伏せた。
 健やかな寝息の赤ん坊の顔がそこに有る。何も知らず、安心しきったその寝顔。
 どうしようもない憤りと哀しみで、胸の中が満たされていくのが分る。
「もう、勘弁してあげてよ。これ以上この子から何も奪わないでよ、何も背負わせないでよ。……このままだと余りに可哀想じゃないの、この子が」
 目を伏せたまま、紅葉は震える声でそう言った。
 何故か、目尻の奥が熱い。
「才堂。お前、泣いて――」
 正紀の表情に、初めて動揺の色が浮かぶ。
「泣いてなんかない! 泣いてなんか……ない。私みたいな女がこんなガキ一匹の為に涙を流す訳ないでしょ。馬鹿らしい」
 目元を袖で拭いながら、紅葉は斬りつけるように口を差し入れる。
 皆まで言わせなかった。言わせたくなかった。
 泣いている自分を他人に見せたくなかった、自分で認めたくなかった。
 だが、その声もすぐにひび割れた。強がるには、余りにも哀し過ぎた。
 気まずい沈黙が場を制し、吹き降しの冷たい風が二人を撫でる。
 そしてどれ程の時間が過ぎた頃だろうか、先に口を開いたのは紅葉だった。涙はもう乾いている。
「そういや思い出したわ。私、もう1つだけこの子と約束していた事が有ったのよ。それはね――」
 そう言って、紅葉は正紀の目をひたと見据え、その頬を吊り上げて艶やかに笑んだ。
 何気ない自然な動作。
 紅葉の手の中に黒い金属の塊が魔法の様に現れる。登山靴に仕込んでおいた使い捨て拳銃、その照準はピタリと正紀に合さっていた。
「それは、この子を絶対にあんた達みたいな奴等に渡さないって事よ!」
 照準を正紀の胸の辺りに合わせながら、紅葉は口元に薄い笑みを湛える。だが、その目はまるで笑っておらず、刃物のような鋭さと焔の灼熱だけがそこに有った。
「才堂。ミスリルを敵に回す積りか?」
 正紀は毛ほどの同様も見せず、静かに紅葉に言った。恫喝ではなく、むしろ諭すような響き。
「場合によっては、それも止む無しね」
 だが、紅葉から発される刃の鋭さが消える事は無い。
 紅葉は本気だった。
 この子の為ならミスリルを、いや世界の全てを敵に回しても良い。この世界でたった一人、せめて自分だけは最期までこの子の味方でいてやろう。そう思い極めていた。
妥協を許さぬ厳しい眼差しが、正紀を射抜く。この引き金を引く事に、ミスリルを敵に回す事に一片の躊躇いもない。
「お前の言いたい事は良く分った。オレ達も完全な訳じゃないし、落ち度も有った。それは認める」
 紅葉の眼差しを真っ直ぐに受け止め、正紀は語りかけた。
 淡々とした口調と表情とは裏腹に、何処か一途な熱が感じられる響き。
「だがな。それでも、その子に本当の意味での安全を保証出来るのはミスリルしかないんだ」
「私が護るわよ。あんた達の手は借りないて言ったでしょ」
 冷笑を浮かべ、紅葉は正紀の言葉を切り捨てる。
 今更、ミスリルを信用する気はない。この子を護るのに頼れるのは自分のみ、ひどく分り易い状況だ。
「お前は確かに凄腕だよ。オレの知る中でもずば抜けている。何しろ事故直後の何も無い状況からあの『ハウンドドッグ』をたった一人で、しかも子連れでASごと撃退してのけたんだからな」
 頑なな紅葉の様子に軽く溜め息を一つ吐き、正紀は苦笑混じりにそう言ってきた。
「褒めたって何も出ないわよ」
「でも。それでもだ。ミスリルとそして奴等の組織の両方を相手にして、その子を護りきれると思っているのか? その子に平穏な生活を送らせる事が出来ると思うのか?」
 突き付けられた拳銃を恐れもせず、紅葉を真っ直ぐに見詰める正紀の眼差し。
 今までの淡々とした雰囲気が消え、どこまでも真摯な光がそこに有る。
「………っ」
 反論しようとして、紅葉は口篭もる。
 正紀の言葉は確かに正しい。いかに紅葉とは言え、この子を連れて逃げ続ける事は至難の業。しかも、普通の生活を送らせるなど夢のまた夢だろう。
 だが、それよりも何よりも、正紀の真摯な眼差しが紅葉に反論を許さなかった。
「その子をオレ達に渡してくれ。現状ではそれがこの子にとって一番良いと思う」
 そう言って、正紀は紅葉の正面に向き直った。胸元にピタリと照準が合わされている拳銃に微塵も恐れを見せず、ただ真っ直ぐな眼差しのみが紅葉を射抜く。
「それにな。この子にはこれ以上は何も背負わせたくない、って考えてるのはお前と同じだよ。オレを信じてくれ」
「ふうん。そうなの――」
 興味無さそうに、紅葉は答える。
 その言葉に篭められた熱に偽りはないだろう。死を前にした命乞いや策略にしては、その眼差しは余りに真っ直ぐ過ぎた。正紀は本心から言っている、それは分る。
 だが正紀は結局は組織の人間、最後の所でどう転ぶか分った物ではない。ありていに言えば信用しきれない。フリーの人間として様々な組織人と接し、紅葉はその事が骨身に染みていた。
 そんな自分に『オレを信じろ』とこの男は言う。中々に笑える事を言ってくれる男だ。
「……それじゃ。もし、その子がミスリルでウィスパード研究の実験サンプル扱いにされちゃったら。もし、小さなこの子に全ての事情を伝えてご立派なミスリルの戦士として育て上げられる。とかなった場合、あなたはどうしてくれるのかしら?」
 ちょいと意地悪な気持ちで、紅葉は正紀に問い掛けた。この男がどんな返事をするのか、少し興味がそそられたのだ。
「可能な限りそうならないように、そしてそうさせないように骨を折るさ。少なくともオレの目の届く範囲でそんな事は絶対にさせない。もし、ミスリルがそれをすると言うなら……」
「すると言うなら?」
 紅葉は薄い笑みを浮べて正紀を見据え、その続きを促す。この答え次第で、ミスリルを敵に回す事になる。自然と、拳銃の引き金に微かな力が篭る。
 場の空気が急速に張り詰め切迫していく中、目の前の正紀は紅葉の目を正面から見据え、
「オレがミスリルを潰す」
 短くそう言い切った。
「……は?」
 頭の中が真っ白になった。
 我が耳を疑う。今、目の前の男が何を言ったのか本気で一瞬分らなかった。
「あんた……まさか、本気でそれ言ってんの?」
「冗談で口にする事じゃないだろう。本気じゃなければ、こんな事は言わないさ」
 真面目な顔でそう問い返す正紀に、紅葉は逆に返答に詰まる。
 嘘ならすぐに分る。そして、これはその場しのぎの嘘にしてはちょいとばかしハッタリが利き過ぎている。本気でなければ、確かにこんな事は口にする事は出来ない。
 紅葉は正紀の目を真っ直ぐに見詰めた。正紀も真っ直ぐに紅葉の目を見返してきた。
 中空で絡み合う、二つの視線。そして、しばしの静寂。
 ふと、正紀の拳が固く握り締められている事に、その隙間からは微かに赤い色が滲んでいる事に気付いた。しかも、比較的に新しい。
(この男。もしかして……)
 唐突に、本当に唐突に、紅葉は目の前の男が理解出来た気がした。
 そう。
 この子に対する理不尽に、自分に負けず劣らずに目の前の男が憤りを覚えているであろう事に初めて思いが至ったのだ。
 解けた謎は全て易しい。
 そう気付くと、今までの正紀の淡々とした表情の理由が分ってくる。感情が動かなかった訳ではない、感情を押し殺していたのだ。その憤りの全てを拳に握りこんでいたのだ。
 何だか、可笑しくなった。
 自分が随分とちっぽけな人間のような気がする。どうも一人で思い詰めて、今まで空回りをしていたらしい。
 少なくともここにもう一人、この子の味方がいた。そう思うと、張り詰めていた物が緩み、全身が一気に脱力するのを感じる。
「………くっ、くくっ。あははははははっ!!」
 静寂を破り、紅葉の笑みが弾けた。燦然と輝く銀嶺に、紅葉の笑い声が木霊する。
 何だかツボに入ってしまったらしく、腹を抑えて笑う紅葉。目尻には涙が浮んでいる。
「そんなに笑うような事か」
「あはははっ……くうっ…はあはあっ。ああ。ご免、何か緊張の糸が切れちゃったみたい。でも、あんたも大概、大馬鹿野郎よね」
 憮然と語りかけてくる正紀に、笑いの発作を抑えこんだ紅葉は横腹を押さえ、目尻を拭いながら謝罪する。
 笑うだけ笑ったら、気分がすっきりとしている事に気付く。
「で、結局どうするんだ。お前は?」
「OK、分ったわ。この子はあんたに預ける」
 さばさばとした顔で、紅葉は答える。正紀がこの子の味方で有ると分った以上、それを拒む理由はもう存在しない。
「でも、本当に任せたわよ。もう、私はあんたに頼むしかないんだから」
 しんみりと、だが妥協を許さない紅葉の口調。
 ミスリルに預けるともう、自分がこの子の力になれる事が無くなってしまう。正紀に全てを任せるしかなくなってしまう。
 自分に出来る事は目の前の正紀を信じる事、ただそれのみ。そんな自分の力の無さがたまらなく悔しい。
 自分の無力に歯噛みしつつ、紅葉は正紀の目を真摯に見詰める。
「ああ。約束する」
 その眼差しをしっかと受け止め、正紀は短く、だが力強い声でそう答えた。
 正紀の言葉に満足し、紅葉は腰を屈め足元の赤ん坊をそっと抱き抱える。
 軽いけど、それでも確かに感じられる重さ、そして温もり。やはり、愛しい。
「そういや、この子。何と言う名前なの?」
 ふと、この子の名前を自分がまだ知らない事を思い出した。
「まだ決まっていないな。その子の名前をつける前に両親が死んでしまったんだ」
「そっか。そう言えば、あんたももう一人ぼっちなんだ……」
 紅葉は赤ん坊に目線を落すと、しんみりと呟いた。そう、自分と同じでこの子にはもう血縁と呼べる人間がいなくなってしまったのだ。
 しかも自分と違って両親と過ごした温かい記憶も持たず、生まれてすぐに両親を奪われているのだ。
(私はこの子に何をしてあげられるのかしら)
 しばし、赤ん坊を何するとなく見詰め続けた。変らぬ、健やかな寝顔に胸が詰まる。
 ふと、紅葉はちょっとした悪戯を思いついた子供のようなひどく楽しげな顔になった。
「じゃあ、この子の名前は私が決めさせて貰って構わないかしら?」
「おい。何を言っているんだ、お前は」
 紅葉のいきなりな提案に、正紀は呆れたような眼差しを寄越してきた。
「この子を命懸けで護り抜いて上げたのは、この私。少し位の事は見逃しなさい」
「まあ。良いけどな」
 だが自信満々にそう言い切る紅葉に処置無しと見て取ったのか、それともその言葉の中に秘められた思いに気付いたのか、正紀はやれやれと言った風情で肩をすくめ、すぐに引っ込んだ。
「良し、決めた。それじゃあ、あんたの名前は晃(あきら)。日の下に光と書いて晃。そう、晃に決めたわ」
 紅葉は赤ん坊の顔を覗き込みながらそう宣言し、優しい顔でその頭を撫でる。くすぐったそうに、赤ん坊はその小さな手を上下させる。
「晃って、お前。一体、何処から持って来た名前だ」
「私の知っている中で一番良い男の名前。そう、私のお父様の名前よ」
 紅葉は柔かな、誇らしげな、でも何処か哀色を帯びた口調で答えた。
「そうか……」
 そんな紅葉の様子を、正紀も何処か哀色を感じさせる、秋の青空のように澄んだ眼差しで黙って見詰めている。
 そして、紅葉は赤ん坊を高く抱え上げた。赤ん坊の小さな身体が青い空に吸込まれて行く。
 今度は赤ん坊も目を覚ました。だが眼下の紅葉に気付くと、すぐに安心しきった顔で紅葉に微笑みかける。紅葉も微笑み返す。
「いい、あんたの名前は晃よ。忘れないで、あんたの名前は私の知っている誰よりも強く、そして優しかった男の名前。あんたも名前負けしない良い男になりなさい」
 紅葉は赤ん坊を胸に抱き締め、柔かな口調にありったけの熱を篭めて語りかける。
「そう、あんたには私の大好きだったお父様の名前をあげたの。私にとって何よりも大切な名前を上げたの。だから大きくなっても忘れないで。あんたは望まれて生まれてきたって事を、そして愛されているって事を――」
 生まれて直ぐに全てを奪われたこの子に、これから過酷な生が約束されたこの子の為に、恐らくは自分が与えてやれる唯一の物。
 この子がこの世に生まれてきた事に対する、自分に出来る精一杯の祝福。
 この子がこれから先の辛い運命に負けないように、ささやかでも自らの手で幸せを見つけられるように。 余りに儚く、か細く、それ故に真摯な祈り。
「幸せになりなさい、晃。あんたはその為に生まれてきたのだから……」
 腕の中の小さな顔に優しく微笑みかけ、紅葉はもう一度だけ赤ん坊を強く抱き締めた。
 ふと空を見上げると、銀嶺の向うから鈴花達の機体らしき三つの影が大きくなってきているのが見える。 やっと迎えが到着したらしい。長かった一日が、本当の意味で終りを告げようとしている。
 赤ん坊を片手に、紅葉と正紀は鈴花達に向って大きくその手を振った。
 黄金色の太陽が銀嶺を真っ白に輝かせる中、アンデスの空は青く青く澄み切って、雲一つなく晴れ渡っている。

 FIN


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