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■明日へのワン・ステップ■ <過去編第一話 『太陽少女』> |
時は二年前にさかのぼる。 当時の俺は、一〇と四つ。 この歳、人間が大きく成長を始める年齢とも言われている。 その自分の成長を、俺も始めようかというこの歳に―― 俺は、あの人と出会ったのだ……。 時刻は夕刻にさしかかっているのだが、それでもこの山の中は大量のセミの鳴き声に囲まれている。たとえどの場所に居ようと、この中にいる限りその音から逃れることはできない。 「…………」 幾本も生えている木々の下で、その少年――鐘鳴江笊は、竹刀を片手に無行の位を取って佇んでいた。何かを待つかのように、彼は微動だにしない。漆黒色の眼は何かを見据えるように、前一点に固定されている。 微かに吹いている風が、彼の短く切っている黒髪と、彼が穿いている紺色の袴の裾をわずかに揺らす。衣服を伝わってその揺れが感じられるものの、江笊はそれを気にかけようとしない。 静かに呼吸をしては、その緊張を保つ。 大量のセミの鳴き声にも、今の自分の事に集中すると、この鳴き声が気にならなくなることもできないことはない。だが……聴覚がその音をちゃんと認識してしまうので、今のこの時は、どれだけその認識に気を向けないかが鍵である。 「…………」 また吹いてくる風。 それと共に運ばれた山の緑の匂いが、わずかに、江笊の鼻腔を少しくすぐった。 ……いい香りだ。独特の自然の匂いがする―― 「隙あり」 「!?」 後ろから聞こえてくる静かな声。これに、江笊は急いで振り向いて警戒を向けようとしたが、もうその時には―― 「……!」 眼前に、竹刀の先端が突きつけられていた。その竹刀の先から発せられる殺気は自分を充分に刺激しており、動きを完全に封じている。その場から微動だにすれば、この竹刀は確実に自分の額を穿つことだろう。 「この短時間でも、大体四、五本と言ったところか」 さらに聞こえてくる声。さっきと同じ者の声だ。 言うなれば、今、江笊に竹刀を突きつけている者の声なのだが……その者は、齢六〇過ぎくらいの老人であった。 同じ紺色の胴着と袴姿。頭の白髪や、胴着から覗く枯れ木のような二の腕の皺、彫りの深い顔は如何にも老人然としていたが、江笊を見下ろしている黒色の眼は、老人のものとは思えない光に満ち溢れている。 「今、わずかに大気に気を取られたな?」 「…………」 江笊はコクンとだけ頷くことしかできない。それだけ、この老人の声は重かった 「だから私のこの攻撃への対応が遅れた。そうだな?」 「…………」 これにも、江笊はコクンとだけ頷くだけである。すると、老人は『ふむ』とだけ息をつき、竹刀を突きつけるのをやめてくるりと振り返った。同時に、この老人から感じられていた殺気がどんどん和らいでいく。 「江笊」 「……?」 「まだまだ、成長の余地はある。それだけは憶えておけ……」 「……はい、老師」 竹刀を片手に歩いていく老人の背中に、かろうじて返事。少し後、自分の体に滲む大量の汗を感じつつ、江笊は竹刀を取り落としてぺたりと尻餅を付く。 一四歳の少年にとって、さっきの数十秒間は正に恐怖の時間だった。 水色のプラスチック製のバケツで流れる小川から水を汲み、そのバケツに溜めた水を、頭から思い切り被る。冷んやりとする奇麗な水が、彼の着ている汗だくの胴着や袴をびしょ濡れにし、その冷たさが自分の体に涼を取らせる。 ここはこの山の一角に存在する河原である。少数剣術流派『術式刀武流』の合宿修行の休憩場としてよく使われている。 現在の江笊は、剣術の師匠である祖父と共にこの『刀武流』の合宿に出稽古で来ており、合同での練習を終えた後、さっきまで祖父に個別で稽古をしてもらっていたのだ。 大方の『刀武流』の門下生達はもう稽古を終えているらしく、今のこの場には江笊一人しかいない。 「…………」 手も足も出なかった……。 使ったバケツを元に戻しながら、江笊は少しだけ頭を垂れる。思い返すは、無論のことながらさっきの稽古である。 ――心をニュートラルに統率して、四方八方どこから来る攻撃にも自分を対応させる。そう言った内容の物だったのだが、わずかにその統率が乱れただけでも、それを師匠である祖父に見透かされ、そして制されてしまった。 まだそれだけの心の統率力が、自分には備わっていないことになる。 流派の継承が決まって、祖父からの特別に稽古を受け始めてから早四年。この調子では流派の奥義習得がまだ遠い道のりであるのには、江笊は歯噛みするしかない。 「おや、江笊ではないか」 と、そこで、後ろから声をかけられた。 落ちていきそうな気分を何とか取り直し、声の聞こえた方へと振り向いてみると、そこには赤紫色の胴着と袴姿の少女が、手拭で首筋の汗を拭きながらこちらに歩いてきている。 「士乃殿……」 「……ふむ、どうやら見ただけでも、今日はお疲れの様子だな」 少しきつめのある黒眼をわずかに緩ませながら、江笊に何かとからかうような声をかける少女は――『術式刀武流』の剣士、差音士乃である。『刀武流』の者達の稽古はもう終わっているから、さっきまで彼女は自主的に稽古をしていたのだろう。それを終えて、ここに来たらしい。 「まあ、今日はゆっくり休め。合宿は始まったばかりだからな」 「……士乃殿は良い。誰から見ても、充実しているのがわかる」 江笊は自嘲気味に弱々しく笑いつつ、肺に溜めていた息を一気に吐くように呟く。 確かに、今のこの少女の眼には、溢れんばかりの覇気が灯っていた。絶好調と表現すれば、正にそうなのかもしれない。 「ふふ。私は今が一番成長期だ。何をやっても上手く行くとは言わないが、上手く行かなかったとしても、自分の調子を保つ自信はあるぞ?」 そう言ってから、士乃はさっきの江笊と同じようにバケツに水を汲んで、ザバッと頭から水を被り、そして水切りにわずかに首を振る。飛び散る雫が夕日の光に反射して、長身の彼女の全身をキラキラと輝かせた。 「…………」 「ふぅ……まあ、この辺りは心の持ち方や切り替え方次第だな。それを上手くコントロールすることによって、今自分がやっていることの自信も心のゆとりもでてくる。そういうことだ」 「……俺は、そんなにも器用ではない」 彼女の言うことを撥ね付けるかのように、江笊はがくりとその場で胡座(あぐら)をかき、小川の川面を見る。 川面に映る自分は――今、自分でも何とも言えない顔をしていた。 行き詰まりによる焦り、苛立ち、動揺……その他全部を統合したような、そんな顔。こんな今の心の状態では、恐らくは何をやっても上手く行かないだろう。何とかこの状況を打破したいのだが、この解決策が見つからない。いや、見つけることができない。 「江笊……」 士乃が少し心配そうに声をかけてくるが聞こえたが、江笊はそれにもわずかに首を振るだけだった。 「俺は――」 本当に、老師に見込まれるほどの実力があるのか? やはり、継承者の器ではないのではないか? 「そんなマイナスに考えちゃ駄目だよ」 と、いきなり誰かに耳元で囁かれた、聞いたことのない優しげのある女性の声。そして川面に映っている自分の後ろに、ぬっと出て来る知らない誰かの顔。 これにはかなり驚きながら、江笊は慌てて後ろを振り向こうとしたが―― ふわり そっと腕を回され、後ろから優しく抱き締められた。 「な……っ!?」 突然のことに、江笊は混乱して身動きが取れない。自分を包みこむ細めの腕と、背中に微かに感じる柔らかな感触に戸惑うばかりだった。 その間にも、今、自分を抱き締める者の囁きは続く。 「上手く行かないなんて、みんな同じことだよ。誰だってそんなことあるもん。だからね、今、君は自分ができることを、後悔のないように精一杯やらなきゃ駄目なんだよ。わかる?」 「…………」 「今、君がやるべきことは、自分の無力をここでいじけてることじゃないでしょ?」 「ぬ……」 ぎくりとする江笊。 ……確かに、彼女の言う通りではある。 自分がこうやって落ち込んでいても、大局は何も変わりはしないし、この行き詰まりを克服できるわけでもない。状況打破の方法が見つからなくとも、見つける努力を惜しんではならない。 今、俺のやるべきことは―― 「ふふふ、ほ〜ら、また顔に出た。こういう年下の男の子の表情コロコロ変わっていくのを見るのって、やっぱり楽しいよね〜」 優しげな声から一転、声の主の口調がいきなり軽くなった。これに、江笊はハッとなる。 まだ、自分の心情を顔に出さないという器用なことができる年齢ではないと自覚しているので、その思考が表情に思い切り出てしまっていたようだが、そんなことはまだいいとして。 「…………」 知らない誰かに抱き締められている自分のこの状態。しかも背中に感じる感触が……何だか、かなり妙だ。自分の中でやっと、『何でさっきから俺はこの状態なのだ!?』と強い疑問が芽生え、江笊はその腕を振りほどきにかかかった。 「……! ……!」 だが、まだ動揺が残っているのか、上手く力が入ってくれない。それに、自分を抱きかかえているこの腕は、細いながらもなかなか力強い。 「わっ、ほらほら、暴れない暴れない。年上のお姉様に抱っこされているんだから。このシチュエーションを素直にかつ喜んで受け入れなさいって」 「誰がだ……!」 「……いい加減にしてやったらどうだ、風吹?」 さっきまで黙っていた士乃が、どこか笑いを堪えているような声で諭す。何で今の今まで黙っていたかというのは、恐らく、状況を楽しんでいたからなのだろう。彼女の顔は見えないが、声の調子で何となくわかる。 「ほ〜い。しのりんの言うことであれば」 パッと腕が解け、やっと解放される江笊。 彼は急いで立ち上がってこの場から距離を取り、すごい勢いで振り返る。 そして、江笊の視界に映ったのは――現在、士乃に『その呼び方はやめろ』と頭にチョップを受けている、自分より年上だとわかる少女だった。 ある程度高い背丈。華奢な体格に白いブラウスとスカートといった私服姿。朗らかできれいな顔立ちをしており、茶色の双眸は今の彼女の調子を表している通りに陽気なものだ。長い栗色の髪は、一つに束ねて背中に流しているようである。 一言で表すなら、美人だ……って考えている暇ではないっ! 「な、何者だ、おまえは……!?」 まだ動揺が取れていないが、それでも押し殺した声で江笊がその少女に問う。問われた彼女は、さっきまでやっていた士乃とのやり取りを終え、少しムッとしたような表情でこちらを見返してきた。 「こらこら、年上のお姉様に向かって『おまえ』とは失礼ね。それにこう言う場合は、まず男の子の君が自己紹介するのが筋でしょ? 非常識だよ」 「ぬぅ……いや、しかし、初対面の者にいきなりああ言うことをするのも非常識だと思うぞ」 「おおっ……ふ、なかなか痛いところをつくわね〜。やる〜」 少したじろいだような仕草を見せたが、彼女はすぐさま『ほにゃ〜』と笑う。だが、和んでいる余裕など江笊にはない。さっきからペースを狂わされっぱなしの上、この少女が何者であるかわからないと、全く話が先に進まない。 「……もう一度訊く。おまえは何者だ?」 「君のためにこの世界に召還された愛の使者・アイリン・キューティクルだぁっ! アイリンって呼んでね」 高らかに宣言すると共に、どこかで見た漫画みたいにポーズをとる少女。 江笊はこれを見て、一瞬だけ呆けてしまったが、その後に『絶対に嘘だ』と頭の中で断定し、猛然と首を振った。 「真面目に答えろっ!」 「む、じゃあ、素晴らしきドキドキ戦士・くーみんちゃんかな?」 「それも嘘だっ!」 「むむ、それじゃあ、鉄腕・ウルトラカレン?」 「わけがわからんっ!」 「むむむ、じゃあ何にしようかな……えーと」 「いや、いろいろ名前変えたりその場で考えたりしている時点で、絶対嘘だとバレてしまうと思うぞ、風吹」 士乃が苦笑しながら、少女にまたツッコミを入れる。彼女はこれに『あ、そうか、タハハ〜』と後頭部を掻いて能天気に笑っていたが、一方で江笊は、さっきの稽古が終わった時以上の疲労感を全身に感じていた。 この女は一体何だというのだ? 士乃殿とはなにやら親しいようだが。 「おお、風吹殿。よう来られたな」 と、そこで、江笊の祖父、鐘鳴邑(かねなり おう)がこの場に現れて、その少女に声をかけた。さっきの稽古時の厳しさとは打って変わった、にこやかな顔である。江笊にとっては滅多に見られない祖父の顔だ。 「はいはーい、お爺様、ご無沙汰しておりまーすっ!」 「体はもうよろしいのか?」 「ほっほっほ、この風吹ちゃんの回復力を舐めちゃいけないよん」 ビシッとVサインを決める少女。邑もこれに表情を緩ませながら、『そうかそうか』と満足げに頷いている。 どうやらこの少女は、祖父とも親しいらしい。しかも、ほとんどタメ口かつ対等に話している。 ……全くわけがわからなくなってきた。 「老師、少しよろしいですか……?」 いい加減この空気に置いてきぼりを食らうのは嫌なので、江笊は祖父に訊いてみることにした。 「ふむ、どうかしたか、江笊?」 「は……。この女……じゃない、この人は一体何者なのですか?」 「だから言ってるじゃん。リーディングサイバーガール――」 祖父との会話に、例の少女が口を挟みかけたところで、 「御免」 「はぅぐぉっ!?」 士乃がその彼女の顔の側面を両手で掴んで、その首を少し危険な方向へ曲がらせた。少女にとってこれはかなり効いたらしく、その場で首を押さえながらうずくまってプルプルとその身を震わせている。 「し、士乃殿……」 さすがの祖父も頬に脂汗を垂らして士乃を見ていたが、当の彼女は知らん顔で遠い眼をしていた。 「すまんな、御二方。とりあえず、話を……」 「しかし、変な音がしたが……」 「気にするな。続けてくれ」 「……そうさせていただく」 『おおお……しのりん必殺の裏奥義……』とうめいてる少女を見て何故か心が少しスッキリしている自分を妙に思いつつ、江笊はさっきの質問を再び祖父に投げかけた。 「それで老師。実際、何者なのですか?」 「うむ。この娘の名は実河風吹(さねかわ ふぶき)。れっきとした『刀武流』の剣士で、おまえよりは二つ年上の娘だな」 「はあ。だが、俺にはとてもそうは見えんのですが……」 未だに首を押さえてうずくまっている少女――実河風吹を横目で見ながら、疑惑をあらわに呟く江笊。 剣士であるにはあまりにも性格が軽すぎ、しかも今までの振る舞いから、精神年齢が幾分幼いといわれても相違ない。江笊がそういう疑問を持つのも、無理がないのかも知れない。 邑も少し苦笑した様子である。 「しかし、剣の腕前はかなりのものだぞ? 士乃殿とは互角以上、私でさえもてこずることがあるくらいだ」 「……老師がそういうのであれば、それはそれでかなりのものなのですが。今まで、俺は一度もこの人のことを見たことがないのは何故(なにゆえ)でしょうか。過去何回も、俺は『刀武流』の出稽古に来ているというのに……」 「体調を崩されていたようでな。その時その時の偶然が重なって、あの娘が私達の出稽古に出てきていなかっただけだ」 「病弱なのですか?」 「そういうわけでもない。それに見ての通り、今もすぐに復活しておるしな」 「……?」 邑がやれやれと横を見ながら呟くのに対し、その視線につられて江笊もその方向を見る。すると―― 「…………」 何ごともなかったかのように、実河風吹は士乃と楽しげに会話をしていた。さっきまで首を押さえてうずくまっていたと言うのに、その痛みの跡を感じさせないように、彼女は陽気に笑っている。しかも、江笊達の視線に気付いた途端、こちらにむかって朗らかに手を振ったりしていた。 「……謎だ」 「私もそう思う」 両者意見を一致させて、とりあえず話を元に戻すことにする。 「それで……風吹殿か。彼女も、明日から合宿に参加ということになるのですか?」 「いや。一応、病み上がりだからな。この合宿中は、あの娘は別項目ともう決まっている」 「そうですか」 少しホッとする。正直、これ以上あの少女と関わるのはかなり疲れそうだ。それに、一緒に剣の稽古をするとなると、やりにくいことこの上ない。『術式刀武流』の中では天賦の才の持ち主とも言われている差音士乃を超越するという、その剣の腕前には興味があるが……やはり性格が性格なだけに、関わらないほうが得策である。 実際、老師の言う実力がそうであるとも限らないのだし……。 「それで、その別項目なのだが」 「…………」 祖父が続けて言うのに、江笊は黙って耳を傾ける。その数瞬後に、『何故俺がその別項目を聞かされる必要があるのだ?』と気付いたのだが、気付いた時には祖父はもう口を開いていた。 「風吹殿にはこの合宿が終わるまでの一週間、特別におまえの個別指導をしてもらおうと思う」 「……………………は?」 ……今、老師は個別指導と言ったな。 個別指導といえば、やはり師匠が教え子に一対一で剣の何たるかを特別に教えるのだろう。 で、誰が誰に教えるのだ? …………。 風吹殿が、俺に……。 …………。 ということは―― 「なにいいいぃぃぃっ!?」 あの天然お天気女(江笊称)に一対一で剣術を教えてもらう。 この結論に達した途端、江笊は普段のデッサンとは遠くかけ離れた叫びを放っていた。 「やけに長い思考時間だったな」 「そんなことを言っている場合ではないっ! 老師っ! 正気なのですかっ!?」 「兄弟流派の型をよく知っておくのも、継承者には至極必要なこと。『刀武流』の剣士の中で、おまえの『豪槌流』の型を崩さずに剣を教えられる者と言えば、風吹殿が最適なのだ。それに私はこのことを以前から頼んでいて、風吹殿も快く了承してくれていたのだが、さっき言った通り、どうも風吹殿の体調の関係で機会を逃しておってな」 必死に抗議するも、取り付く島もない。しかも、もう決められていたこととは……! 「しかし――ぬおっ!」 「はーい、ストップ」 まだ言い募ろうとする江笊を、いつの間にか現れた風吹がまた後ろから抱きかかえる。彼女は幾分江笊より背が高いので、立っている時は背中ではなく、今度は首筋に妙な感触が走る。この感触に言い表せない何かを感じながら、江笊は彼女の腕を振りほどこうとするが、突如、彼女が耳元に優しく囁きかけてきた。 「折角なんだからさ。受けてみようよ。ね」 「放せ、この……!」 「それにさ、たまにはこういう転換もしておかないと」 「転換などせんでいいっ! 俺は今まで通り――!」 「今まで通りやってるから、行き詰まってるんでしょう? それに……このままじゃ君、剣士として本当に潰れちゃうよ」 「…………!?」 ……その時、自分の背筋が凍った。 今の『このままじゃ――』以降の彼女の声が、さっきまでの陽気とは違った――どこか底冷えするような、そんな声だったからだ。 一瞬とは言え、この声に圧倒された自分を、江笊は自覚する。 「風吹殿……」 「はい、いい子になった〜。てなわけで、この件了承だね。てなわけでお爺様、この子、一週間借りますね」 「ああ、よろしく頼むぞ、風吹殿」 「はいほ〜い」 また元の調子に戻る風吹。しかも、なにやら祖父との話を勝手に進めてしまっている。これに、江笊は慌てて声をあげた。 「ちょっと待て、まだ納得したわけではないっ!」 「え〜、まだなの〜? じゃあ、どうやったら納得してくれるのさ?」 「それは、それ相応の実力を見せてくれれば……」 「お、そんなことでOKなの? それじゃ、了承も同然!」 そう言うと共に、パッと自分を解放する風吹。いきなりだったのに江笊は少しよろけてしまったが、上手く体勢を取り直して自分の間合いを取る。そして、彼女に向かって構え直そうとした瞬間、 「……!?」 そこにはもう、風吹はいなかった。さっきまでその場にいた邑が、腕組みをしてこちらを見ているのみである。 どこに行った? 「さっきがさっきの状態だったとは言え、標的から目を離しちゃいけないな。敵は常に動いてる時だってあるんだよ? こういう場合、敵の位置を常に把握し、それに適応した間合いを取らなきゃ、戦局を有利に進められないね」 すぐ横から声。彼女がそこにいると、気配でわかる。 いつの間に……と一瞬思ったが、彼女の言ったことから多分、自分の移動の間に彼女も移動していたのだろう。だが、いちいちこれに驚いていては、さっきの祖父と同じようにまたやられるだけだ。 「はぁっ!」 兎にも角にも行動。彼女がいるであろう位置に、江笊は振り向きざまに裏拳を繰り出す。だが、 「よっ……」 その拳を最小の動作でかわし、風吹は音もなく――江笊の後ろを取っていた。 「っ……!?」 「ほいっ!」 短い気迫。 それが響くと同時に、衝撃が江笊の背中を襲う。小柄な体が数メートルほど吹っ飛ばされ、受身さえ取ることも許されないまま地面に叩きつけられた。 なんだ……と……!? あまりのことに、江笊は仰向けに転がり、驚くのを忘れて茫然となってしまったまま、夕刻の空を見上げていた。 「……?」 恐らく、彼女は体当たりか何かで自分を吹っ飛ばしたのだろうが、やられた背中への痛みは不思議とない。手加減をしたのか、それともただ敵の体を吹っ飛ばすだけの方法を知っているのか……とにかく、よくわからない。地面に叩きつけられた痛みはあるが、この背中への妙な感覚に意識が集中しているので、全然気にならなかった。 「……どうかな?」 と、オレンジ色の空を見ている自分の視界に、風吹が割って入ってくる。暑い中、短期間であんなに素早く動いたというのに、彼女は汗一つ掻いていない。朗らかな笑顔にも、全く崩れがないようだ。 「まあ、わたしに横に並ばれて間合いを詰められたとしても、行動を起こしたのはまだよかったね。何もしないでやられるよりはマシだし、失敗はしたけど、行動の内容もよかった。それだけでも君、さっきよりは成長してるよ」 「…………」 「君は、さっきわたしの言った通りに、自分のするべきことをした。違う?」 「…………」 何も言い返せない。 さっきも今も、変わらずへらへらと笑っているというのに。実河風吹は、自分の行動の趣旨と心理状態を、完全に把握していたのだ。さっき放った一撃も技術的にかなりのものだったが、洞察、勘、戦略、その他諸々……頭脳面や精神面でも、彼女は何より優れている。 それらを総じて言えること。 この人は、強い。 「それで、納得した?」 「……?」 「君への指導の件だよ。君が言ったんでしょ? 『相応の実力を見せてみろ』ってさ」 「…………」 この少女に挑んで、自分は完敗した。それが何よりの現実である。これ以上の反論は、完璧に不可能だった。 「わかった……」 やられた背中が徐々に痛み出して来たのに少し顔をゆがめつつ、上半身を起き上がらせながら、江笊は小さく呟いた。 「お、本当かい?」 「負けたのは俺だ。それに、風吹殿の実力を見て、文句が言えなくなった」 「ふふん、何だか気になる言い方だけど、一応誉め言葉と受け取っておくよ〜」 あははと笑う風吹。 ……本当によく笑う人だ。どんな時でも笑顔を絶やさない。まるで『太陽』である。さっき自分の背を凍らせたあの言葉を発した時は、どういう顔をしていたかわからないが。 「…………」 それにしても。 何でこの人はこんなにも自分に親身になっているのだろうか? この人は、自分とは今日が初対面だというのに。しかも祖父は、この指導の件を彼女は前々から了承していたと言っていた。 「風吹殿……」 少し気になって、江笊は彼女にこのことを訊いてみることにする。そして、返ってきた答えは―― 「決まってるじゃない」 「……?」 「君のことが、好きだからだよ」 「……………………」 好き? というのは、あれか? 榊や他の奴らが言っていた、その、そういう感情か? だが、初対面だというのに、辻褄が合わんのではないか? それとも、最初会ったときからという意味なのか? 頭の中で疑問が加速する江笊。恋愛云々そう言うのはよくわからないが、興味がないわけではない。それに、こう言う美人の少女にそんなことを言われたことが、余計に加速の材料になっている。 だがしかし、 「あれ? 本気にしちゃった? 冗談のつもりで言ったんだけど……」 彼女のこの言葉が、その加速を一気に停滞させることとなった。 「……! 風吹殿っ!」 「あっはっは、君、今とっても真っ赤っかだったね。うーん、やっぱりおもしろいわ〜」 「からかうなっ!」 江笊が怒鳴るも、風吹は腹を抱えたままその大笑いをやめない。 この人はどこまで本気なのか? そんな疑問を持っても、答えが返って来るはずがないと物の数秒で悟ってしまう自分が、江笊にとってはかなり鬱だった。 その二人のやり取りを、士乃と邑は少し緩やかな表情で遠めに眺めていた。 「……なかなかすぐに打ち解けあいましたね」 「ふむ。まあそれは、風吹殿の性格もあるからな。臨時とは言え、江笊の良い師になってくれることだろう……」 「そうですね。しかし――」 ここで緩やかな表情から一転、士乃は少しだけ表情を厳しくする。目つきも、彼女の元のきつさに戻っている。 「本当に、大丈夫なのでしょうか?」 「…………」 「私は……少し心配です」 その言葉の通り、士乃の表情にはどこか漠然とした不安が見え隠れしていた。彼女の言う『心配』もあるが、何かに対する『恐れ』と言った感じのものも、いくつか含まれている。これには邑も今の表情をやめて、元の厳かな顔に戻る。 「……だが、江笊を自分の器に気付かせるのは、風吹殿をおいて他にはない」 そして、静かに。 老人はこれだけの言葉を吐く。 既にセミの鳴き声は消え、西の空に沈みかけている夕日の微かな光の下。 その時一瞬だけ、遠くで未だに言い合いをしている二人にわずかに影がさしているように見えたのを、士乃は少し不快に思った。 ――これが、あの人との初めての出会い。 俺に大切なきっかけを与えてくれた、あの人との出会い。 これには本当に戸惑ったものだが。 その時から俺は、気付かぬうちに、あの人に惹かれ始めていたのかも知れない……。 |
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