ORACULAR‐WINGS■ |
■明日へのワン・ステップ■ <過去編第二話 『基礎』> |
夏という、この季節の朝は早い。 気がつけば太陽はもう東の空から顔を出しているし、山の中に棲む大量のセミも大合唱の真っ只中である。 それは言うなれば、この季節の個性の一つ、と表せるのかもしれない。 ――そんな朝の空気を感じながら、鐘鳴江笊は漆黒色の目を大きく開けて木製の天井を眺めていた。 「…………」 寝間着であるTシャツに滲んでいる寝汗が気にならないこともないのだが、それといった重い違和感もなく、スッと、身を起こすこともできた。体に感じる気だるさ、残っている眠気も、全く不快にならない。 実に、気持ちの良い朝だった。 ここは……? 今、自分の置かれている状況の把握を始める。 全てを認識するには、寝起きで回転の鈍い頭ではまだ時間がかかってしまうかも知れない。とりあえず、江笊は腹にかけられていたタオルケットをどけ、短い髪の毛をポリポリと掻きながら畳の上に敷かれている布団から出て立ち上がり、部屋の障子を開けて縁側に出た。 まず自分の視界に飛び込んできたのは、眩いばかりの朝日の陽射し。さっきまで暗い部屋にいたせいか、少し眼に痛い。 次いで、緑の香りが鼻腔をくすぐる。新鮮な空気だ。昨日の稽古ではこれが原因で祖父に隙を突かれたのだなと、そういえばと思い出す。 遠くからこちらに届く川のせせらぎの音は、緩やかなBGMを奏でている。目を閉じて聞き入ってみると、その流れの音と同時に、自分の心も洗練されていくようにも感じる。 ……頭の回転が元に戻ってきた。 そう。ここは自分の住む地から遠く離れた山の中だ。そして、そこに自分はここに何しに来ているのかと言うと、自分の属する剣術流派の兄弟流派である、『術式刀武流』の合宿に、出稽古をしに来ている。 認識完了。 さあ、今日も頑張って剣の修行だ。人一倍努力して、一人前の剣士に一歩でも近づかなければ。 徐々に奮い立ってくる気持ちを抑えながら、とりあえず、起きてからそのままになっている布団を片付けようと、さっきまで自分が寝ていた部屋に戻ったところで、 「……………………」 敷いている布団のすぐ横に、タオルケットに包まって畳の上ですやすやと眠っている一人の少女が、江笊の視界に入った。 普段は整っているであろうが、今は子供のようにデッサンが緩んで、とても気持ちよさそうな寝顔を見せている少女である。『むにゃむにゃ』と言わせれば漫画チックだが、妙に似合っていることだろう。 栗色の長髪は結い上げられているのだが、寝癖のせいか型がほつれていた。寝間着としているであろう白と紺色の縞模様の浴衣は少し乱れており、長身かつ華奢な肢体が少しあらわになった格好である。 「…………」 俺は寝惚けているのか? ごしごしと目をこすっておき、改めて、なおかつ目を細めながら視線を元に戻す。だが、目の前の光景に何ら変わりはない。 「…………」 俺は夢を見ているのか? 今度は自分の頬をぎゅーっとつねる。痛い。どうやら夢じゃないらしい。 それすなわち―― 「!?」 この少女(しかも美人)が自分の部屋で眠っていると言う現実。これに、江笊は朝にも関わらず大量の脂汗を垂らしつつ、部屋の外の縁側まで、ものすごい勢いで後退した。あまりに後退しすぎて縁側から庭まで落っこちてしまいそうだったが、これは何とか踏ん張ることができた。 こ、これは一体どうなっているのだ……!? 自然と高まってくる動悸を感じつつ、江笊は努めて冷静に思考をめぐらそうとする。さっき認識完了と太鼓判を押したのを撤回し、改めて、昨日のことを思い返した。 昨日……そうだ、思い出した。自分はこの人と初めて出会ったのだった。名前も、さっきまで記憶が埋もれていたが、掘り返せばきちんと出てくる。 実河風吹。 『術式刀武流』の剣士で、この合宿中、自分に剣術の個別指導をするよう、祖父に頼まれていた人だ。そういえば、初めての出会いはなんだか背中が柔らかったような……じゃない。今はそんなことを考えている場合ではない。 彼女のことは思い出せた。問題は、何故彼女が自分の部屋で寝ているか、だ。 昨夜は――そう、何の変わりもない、合宿初日の夜だった。 部屋に戻ってから、翌日からの稽古に備えてさっさと寝たのを憶えている。個別指導の打ち合わせをしようにも、『指導内容は明日発表するよ』と昨日の夕食時に彼女自身からも聞かされていたので、その線もない。 つまり、彼女がここに来る理由なんて何もない。 「う……ん……」 と、江笊がいろいろ思考を掘り起こしている最中、眠っている風吹がそんな悩ましげとも取れる声を上げながら、ころんと寝返りをうった。その拍子に、浴衣がわずかにはだけて、程々に張りのある彼女の胸元がちらりと視界に入る。 「――――っ!?」 これには、めぐらせていた思考が一気に吹っ飛ばされる。『こ、これが、大人の女というものなのか?』などと考えてしまうほど、江笊は頭をくらくらとさせていた。 「…………」 ……このままでは、自分は確実に混乱の坩堝に入ってしまう気がするので、とりあえず、江笊は風吹に早く起きてもらおうと思った。何故か足が少し震えているが、それでも一歩一歩彼女に近づいて、そして声をかける。 「……風吹殿、風吹殿、朝です。起きてください」 「く〜」 反応なし。とても気持ちよさそうな寝顔で、風吹は変わらず眠りつづけている。 「風吹殿、起きてください。起きろ」 しゃがみ込んで、ゆさゆさと揺さぶってみる。これにも、『ん〜……らぶりー風吹ちゃんただいま参上〜』というわけのわからない寝言を言うだけで、彼女自身はまったくといっていいほど夢の中である。寝言からして、怪しげな夢を見てそうだ。 「…………」 ど、どうすればいいのだ、これは。 途方に暮れる江笊。 だが、今、自分のできることなんてほとんど限られている。いっそのこと、この部屋の隅に立てかけてある竹刀で思い切り叩けば起きてくれるかも知れないが、この人は今日から一週間、自分の剣の師匠となる人だ。お世話になるのだし、乱暴な手法はやはり駄目だろう。 だからこうやって、声をかけるか揺さぶるか、最大、頬を軽く叩くくらいしか、風吹を起こす手法はない。 ついでに、自然に起きるというのは、始めから期待できない。何せ、この眠りっぷりである。 「起きてください、風吹殿、起きろ」 声をかけ続けるのにも彼女はなかなか反応を示してくれないが、それでも根気強く、幾度か揺さぶってみたその時、 「に……?」 うっすらと、彼女の瞼が動いた。そしてそれが鍵となったのか、堅く閉ざされていた扉が『ギギギ』と重い音を立てて開かれるが如く、彼女の目は徐々に開いていく。 「…………」 やっと起きたか……。 朝だというのにどっとした疲れを感じつつ、江笊はふぅと息をつく。 その間にも、半目を開けた状態ながらながらも、風吹はその場でゆっくりと身を起こした。しばらくその場でボーッと視線を固定させて、それから首を動かして今の位置を確認するかのように周りを見渡す。 「……ふぁ」 そして、小さく欠伸。 この一連の動作は、外見より大きく離れてとても子供みたいな印象を受けるが、それはそれとして。どうやら、まだ眠たそうであるが、起きてはくれたらしい。 「風吹殿、おはようございま――」 「……おにぎり〜」 声をかけようとした途端、江笊は自分の顔の側面を風吹にがっしりと両手で捕まえられた。 「!? ふ、風吹殿!?」 「ん〜? こんなおっきいおにぎりが朝食ってのもヘンだけど、ま、いいや〜……いただきまふ……」 「ぬぉ……!」 引きずられるかのように、掴まれた顔をそのまま風吹に引き寄せられる。江笊は慌てて彼女の手首を掴んで何とか振りほどこうとしたが、彼女自身かなりの力で、なかなか解けてくれない。 まだ寝ぼけているのか……! 自分の頭を『おにぎり』とか呼んでいる辺り、断定してもおかしくない。と言うか、こんな大きいおにぎりがあるはずないのに、そう信じて疑わない限り、この人のボケ具合も相当なものである。 体勢が悪いながらも足を踏ん張って引きずられるのを何とか堪えつつ、江笊はこの少女の図太さに呆れを通り越して感心すら覚えてきた。だが、今は感心という感情に心を向けている場合ではない。 「ふ・ぶ・き・ど・のぉ〜、目を、覚ませ〜……!」 「あら〜、このおにぎり、何でこんなに重いんでしょ。なかなか持ち上がらないねぇ……」 声をかけても、変わらず寝ぼけている風吹。にも関わらず、彼女の両手にかかっている力はすごい。それに、体勢が悪いのも手伝ってか、徐々に引きずられてしまっている。 何とかして起こさねば。だが、どうする、どうすればいい? この状態で一体どうすればいい? どうすればいい。どうすればいいどうすればいいどうすれば―― 頭の中でに襲ってくる様々な混乱と戦いつつも、選択肢を探す江笊。だが、そう考えているうちに、いつの間にか彼女との距離はあとわずかに接近していた。 「……!?」 まずい、まずいぞ。このままでは、本当に、その、あれだ……ではない。それもそれで……でもない。何でそんなことを考える必要がある。阿呆か、俺は。だが、一度はこういうのも……違う。断じて違う。 何故か、頭の中で理性と欲望が戦いを繰り広げているのに困惑する江笊。その間にも、彼女は口を小さく開けて、自分との距離をさらに近づける。 「ふぅ、やっとこさだったね。重かった〜。では、いただきまふ〜……」 「――――」 俺は、俺は――! 「ぬ、おああああっ!」 自分の持つ理性を最大限に振り絞って、江笊は風吹の両手首をつかんだまま、踏ん張っている足を、壁に向かって倒立するかのような感じで思い切り跳躍させた。 「お?」 顔の側面は掴まれたままだが、それでも半ば強引に、江笊は彼女の頭頂部辺りまで自分の視界を移動させる。 この場面をビデオ録画していて、ここで一時停止をかけると、江笊が風吹を軸にして逆立ちをしていて、彼女はその補助をしている、言わば組み体操にも見えることだろう。 「……!」 そう、一瞬のうちに今の自分の状態を認識すると、江笊は顎を上げ、彼女の両手をつかんでいる自分の手を一気に手前へと引き込む。これにより、 「ほげっ!?」 風吹の頭頂部に、強烈な頭突きがヒットした。 「おおお……!」 この一撃には、さすがに寝ぼけ気味だった彼女もはっきりと目を見開いて、自分の頭を押さえる。 一方で、頭突きを見舞った江笊は、掴んでいた風吹の手を放して頭を通り越し、部屋の畳に受け身をするかのように軽やかに背中から着地。そのまま身を回転させて、その場で尻餅をつくような格好になった。 「…………」 遅れて、さっきの頭突きで額に痛みが走るのがわかる。だが、それをまるで気にしないかのように、江笊は少し呆然と言った形で前方を見詰める。咄嗟とはいえ、まさかここまでできるとは自分でも思わなかった。 人間、追い詰められれば、という感じか。 「のおおお……」 と、未だに頭を押さえて唸っている風吹に気付いて、我に帰る江笊。とりあえず尻餅をついた状態から体勢を立て直し、立ち上がって、その場でうずくまっている彼女へと声をかけた。 「おはようございます、風吹殿……」 「うう……あ、おはよう……って、あれ?」 涙目ながら挨拶を返す後に、風吹は間の抜けた声を出した。まだ痛むであろう頭を片手で抱えつつ、きょろきょろと部屋の中を見回し、最後に、自分の方へと視線を固定させる。 「…………」 「…………」 わずかの間、お互い見つめあったまま沈黙。 「……はぁ」 その後に、彼女は凍りつくのをやめて、やれやれといった感じでため息をついた。 「あー、江笊くん? 剣の先輩としてではなく、人生の先輩として言っとくわ。年上の女の子を好くことに、わたしは何も否定しない。むしろ推奨する。だって、人の好みってそれぞれだもんね。やっぱり。でもね、君とわたしは、昨日会ったばっかりなんだよ? 時間をかけるなとも言わないけど、もっとそれなりの手順を踏んで、そして、たちどころに正式なアタックを――……って、江笊くん、どしたの?」 説教口調で講釈を始める風吹だが、それを無視するかのように、江笊はつかつかと部屋の隅に立てかけてある竹刀へと歩いていく。 結構使い込まれていると外見でわかる竹製の剣を手に取り、そして、くるりと彼女の方へと向き直る。 「……で、風吹殿は俺に何が言いたいのですか?」 「え? そんなの決まってるじゃん。この状況からして」 「……この状況とは、一体?」 「どういうことって江笊君、わたしの部屋に夜這いに来たんでしょ? こんな朝っぱらから。朝だから夜這いって言わない気がするんだけど」 「……………………」 その時、江笊は『ハッ』と弱々しく笑った。 普段、性格が明るい者にテンションを合わせるのが苦手だったり、つまらない冗談を言う友人に淡白な反応を返したりしているが、『これは笑える!』と思ったものには、やはり笑いたい。『笑う角には福が来る』とも、小さい頃から母によく言われている。実際、そうなのかも知れないと信じている。 だからこそ、こう、今のように笑うということも、自分にとっては何ら不思議なことではない。 ――だが、それも一瞬のこと。 「……風吹殿、一つ、言っておく」 竹刀をゆらりと振り上げて構えを取り、 「ここは――」 表情を憤怒へと変換させ、 「俺の部屋だ、この天然ボケがぁ――っ!」 絶叫とも言える叫びを上げ、江笊は彼女への突進を開始した。 ここは『術式刀武流』合宿所の食堂。 『食堂』と言っても、街や学校の中にあるソレのような広さはなく、比較すると、大体従来の約二分の一くらいしかないだろう。だが、江笊の属する『豪槌流』もそうであるように、『刀武流』の門下生はとても少数であるため、利用する人数が人数であるためか、この広さでも門下生の収容は充分に事足りているようである。 「ほほ〜、これまた、朝から大変だったな〜」 その食堂の一角。 二人の少年が、食堂に備え付けられている長テーブルを挟んで会話をしている。 少年の一人は、江笊だった。食事の後に剣の練習にいくようであり、今は紺色の胴着と袴に着替えている。いわゆる、流派の『正装』の出で立ちである。 もう一人は、赤紫色の胴着に袴姿の、雰囲気の軽そうな少年だった。背は小さく、元より小柄な江笊ともあまり変わらないくらいの体格。狐みたいな細い黒目。ぼさぼさの黒い髪の毛は後ろだけが妙に長く、麻らしき紐で蝶結びにして束ねられている。 さっきの声は、彼が江笊にかけたものだ。 「……まったく、あの女がこれから一週間付きっきりとなると思うと、気が重くなる」 茶碗に盛られているご飯を細々と咀嚼しつつ、愚痴を垂れる江笊。 ちなみに、あの後の風吹の反応はというと、『あ、わたしが間違えちゃってたんだ。たはは、ごめんね〜』と相変わらずのマイペースで、なおかつ江笊の攻撃をいとも簡単に回避しつつ、部屋を去っていった。 あの時の、彼女の気の抜けた顔と言ったら、もう、何とも言いようがない。なおかつ、なんだか怒れないし、憎めないし、やり場のない気持ちになる。 その結果。 今、自分がこうやっているように、愚痴を垂れることでしか鬱憤が晴らせない。 「ま、決まっちゃってるもん諦めるしかないわな」 向かいの少年は、手前に置かれている麦茶を一口飲んでから、テーブルに頬杖をついてのほほんとその愚痴に答える。 「それに、おまえも昨日、個別指導認めたんだろ? 風吹ちゃんにボロ負けしてさ」 「ぬ……」 「漢(おとこ)に二言はなし。だから、撤回申請も却下。運命決定済み。てなわけで、がんばれ〜」 「他人事だと思って好き勝手言うな、恭平……」 「いやいや、そんなことはないぞ。我が友のこれからの健闘を祈っているのだ」 「おい、それこそ他人事のような気がするのだが……」 「ええ? いやー、はっは、気にしない気にしない」 恭平と呼ばれた少年――秋月恭平(あきづき きょうへい)が、細い目をさらに細めて冗談を飛ばし、江笊はそれに『はぁぁ……』と長いため息を吐く。 恭平は差音の親戚筋の人間だが、両親が幼い頃から不在のため、差音の家に引き取られている。位置的に言ってみれば差音士乃の従兄弟なのだが、実質は弟のようなものだ。 剣術を始めた時期が同じであり、さらに年齢、学年も同じであるためか、江笊にとっては『刀武流』の中で特に親しい者の一人である。 「それで、何で風吹ちゃん、おまえの部屋で寝てたんだ? オレ、そこんところとっても疑問なんだけど」 「俺にもわからん。昨夜、部屋に来たと言う痕跡もないし、それに何しろ理由がない」 朝食の時間になるまでの間、そして、朝食の間にも、江笊はいろいろと思い返してみたのだが、結局、真っ当な理由が思いつかなかった。 この行動に意味があったのかすらも疑問に思えてくる。 「ふーむ。やっぱ、結構謎な人だよな、風吹ちゃんって」 「謎……」 「そーそー、謎」 そう言って、たった今食事を済ませ、割り箸をくわえたまま腕組みといった体勢で恭平は顔をしかめる。 「実のことを言うとさ、オレもあんまり風吹ちゃんのこと知らねんだ」 「? 同じ流派の人物なのにか?」 「ああ。一緒に住んでるってわけじゃねえし。士乃姐はどうかわからないけど、オレの場合、こういう合同練習や合宿くらいにしか顔を合わす機会ないんだわ。でも、おまえも知っての通り、風吹ちゃん、合宿にはあまり参加してなかったろ? だから、オレでも……そうだな、会うのは年に一、二回くらいか」 「……そうなのか」 「それに、一緒に剣の練習した回数なんて、実際二桁にも足りてないぜ? ま、それだけしか会ってないとしても誰とも仲良いのは、ひとえに風吹ちゃんの明るさと社交性の高さと言ったところか。オレもその一人なんだけどな」 「…………」 要は、合宿などといった団体修行をする時に限って、実河風吹は概ね、この稽古を欠席している。 おかしな話だ。といっても、昨日、自分との手合わせの時に見せた、洞察力、勘、相手の心理状態や行動趣旨の読みは、才能だけでは到底できない。 おそらくは、合宿以外で彼女は剣の修行をしているのだろうが、そうすることの意味があるのだろうか? 他人との接触を絶っているというのはまったくありえないし、それは普段の彼女を見ていると一目瞭然である。祖父は『その時その時に体調を崩していた』と言っているが、彼女自身、さりとて病弱というわけでもなさそうだ。 何かがあるのだ、彼女には。 「っと、時間だ。そろそろ行くか」 「…………」 「おい、江笊、聞いてんのか?」 「む……ああ」 恭平の呼びかけに黙考を中断。曖昧な返事を返して、江笊は食堂の席を立つ。 彼女については何かとはっきりとしないが、とりあえず後々、何かと彼女と親しかった士乃か祖父に問うてみようと、江笊は思った。 合宿所の道場前で恭平と別れ、江笊は一人、昨日風吹に言われた場所へと向かっていた。 時刻は午前八時前くらい。朝なので、まだ気温は涼しい。山の中というだけあってか生い茂る山の木々に太陽の光が遮断されているため、柔らかな木漏れ日のみが、今のこの場の明かりである。 「お、来た来た。江笊君、こっちこっち」 道場から外れの山道を歩いてきっかり一〇分。着いた先は、合宿所から少し離れた場所にある、一軒の山小屋だった。 その入り口の前に、さっきの寝間着から赤紫色の胴着に着替えた実河風吹と、あともう一人――白のブラウスにオーバーオールといった私服姿の、自分の知らない小柄な少女がいる。 「おはようございます、風吹殿」 さっきも挨拶をしたような気がするが、一応礼儀として改めて、江笊は風吹に挨拶をしておく。少し声に皮肉をこめたつもりなのだが、本人は『はい、おはよ〜』と返すだけで、あっさり流されてしまった。 「さて、今日から初日なんだけど、その前に」 言いかけて、風吹は隣にいる少女の肩に手を置く。 「紹介しておくね。わたしの妹で、実河梨津ちゃん。この指導のマネージャーをしてくれるってことになってるから、よろしくね」 「えっと、梨津です。よろしくお願いします、鐘鳴先輩」 紹介されると共に、栗色ショートの髪の毛を揺らしながら、少女――実河梨津(さねかわ りつ)は元気に挨拶をする。 童顔な風貌からして自分より年下なのだろうが、なかなか活発な感じの少女だ。人見知りもしないタイプらしい。風吹の妹であるというのも納得できる。……何気に、人見知りの激しい双子の妹に見習わせてやりたいと、江笊は思った。 それはともかく。 「ああ、よろしく頼む。……梨津でいいか? いきなり名前を呼び捨てというのもなんだが、風吹殿と区別をつけるため、名字呼びができないから……」 「あ、はい。わたしは先輩より年下ですから、普通に梨津でいいですよ」 「わかった」 慣れていないため、『先輩』と呼ばれたり敬語で話されたりするのが少し引っかかるが、年上なのだからしょうがないと、ここは完結させておいて。 「それで風吹殿、今日はどのようなご指導を?」 肝心の、個別指導の内容を聞いておかなければならない。 彼女は『行き詰まっているこのままでは、君は剣士としては潰れてしまう』と言った。ならば、自分が潰れない方法を、彼女は知っている。だから、何としてでもそれを聞いておきたい。 江笊は逸る気持ちを抑えながら彼女に問い掛けるのだが、風吹はいつものマイペースで『まあまあ』となだめるようにして、言葉を続けた。 「焦らない焦らない。まずは……リッちゃん、アレ取って来て」 「うん、わかった」 と、風吹が何かを頼むのに、梨津はテキパキと反応し、山小屋の中に入っていく。 ここはさすが姉妹といったところで、妹は姉の言いたいことをよく理解しているようである。しかし、『アレ』とは一体如何様なものかが気になるが、一分もしないうちに、梨津はある物を少し重そうに手に持ちながら、山小屋の中から出てきた。 「はい、先輩。頑張ってくださいね」 そして、まっすぐ自分の方へと歩いてきて、梨津はそのある物を差し出す。 よく見ると、それは刃渡り六〇センチくらいの片刃の刃物だった。年季が入っているのだが、よく手入れされているためか、金属や刃の品質はまだまだ新品同様のようである。 これは、見たことがある。ジャングルの中を渡るときに邪魔な草や蔓、木の枝を薙ぎ払ったりどけたりする時の、いわゆる『山刀』といわれる代物である。従来、刃渡りはもう少し短いはずなのだが、外見的にはこの単語に記憶が一致している。 だが、そんなことはどうでもいい。 「風吹殿、何ですか、これは?」 少々無骨な感のある山刀を梨津から受け取り、江笊はさすがにきょとんとなりながら風吹に尋ねた。 「何って、山刀だよ。別称マチェット。見てわからないの?」 「それはわかる。俺が訊きたいのはそういうことじゃなくて、何で俺はその山刀を持っているのかということだ」 「何でって、これで特訓するからだよ」 にっこりと笑いながら返答して、彼女はそのまま続ける。 「薪割りをするんだよ、これから」 「…………」 そうか、薪割りか。昔が懐かしい。七、八歳の時は老師や恭平、士乃殿と一緒によくやったものだ。最初は結構手間取ってしまったものだが、要領を掴めば難しいことはない。今は、腕は訛っていないかな――と、感慨に耽っている場合ではない。 「あの、風吹殿、真面目にやってもらえませんか?」 何を考えているかわからない彼女に湧いてくる憤りを抑えつつ、江笊は言葉を紡ぐ。 剣術の個別指導なのに、何故に薪割りをやらなければならないのか。しかも本来、薪割りとは斧でやるものだ。山刀でやるなど聞いたことがない。 だが、問い詰めるも、風吹は『ほへ?』とでも言いたげな、とぼけたような表情をしていた。 「? わたし、真面目だよ? それに私生活と剣の指導は違うから、滅多に冗談も交えないつもりだし」 「それで、薪割りですか」 「うん、そう。それと、この一週間、君には剣を握らせないつもりだから、憶えといてね〜」 「!?」 これには、江笊は驚愕のあまり目を見開いた。 剣を握らせないなんて、それでは剣の指導にならないではないか。 そんな思いを込めながら、江笊は風吹に食って掛かろうとするが――その前に、 「はい、ストップ」 「――――!」 いつの間にか、彼女の手刀が自分の眼前に向けられている。 さっきまで彼女は腕組みをしていたというのに、いつ、それを解いていたのか。江笊にはまったく見えていなかった。 「話は最後まで聞こう。OK?」 そして、微笑みながらの一言。表情や声音に変化はないのだが、その手刀から感じられる威圧感は。 そう、昨日の稽古で、祖父に後ろを取られて竹刀を突きつけられた時のものとそっくりだった。 「…………」 だからこそ、江笊は彼女の問いかけに無言でコクンと頷くことしかできない。 それを了承と確認したのか、風吹は手刀を解いて、『よ〜し、んじゃ、続けるね』と相変わらずのペースで説明を再開する。その瞬間に、威圧感が霧散した。 こんな時、この人はタダ者ではない、と改めて思わされる。 「まあ、単に薪割りをやれって言ってるんじゃないんだよ。それに、薪割りだって筋力トレーニングとしては馬鹿にできないしね。それは知ってるでしょ?」 「それは……」 否定できない。初めての山での合宿の時は、基礎練習と共にこの薪割りを筋力トレーニングとしてよく課題とされていた。薪割り用の斧というものは、丈が短いものの、重量では大概竹刀よりは軽く上を行く。その上で真っ直ぐに振れないと、薪は上手に割れてくれない。 だが、斧というものはバランス感覚が剣と根本的に違うので、薪割りはあくまで筋力トレーニングにしかならない。 自分の筋力が完成されているというわけではないので、指導の『一つ』としてなら、それはそれでまだ納得できるのだが、風吹は『ずっと薪割りだ』と言った。しかも、山刀で。 剣術との関連性がイマイチつかめない。 「江笊くん、ちょっとこっち来て」 と、風吹が山小屋の横を親指で差す。眉をひそめつつも招かれるままに歩を進めると、そこには年季のある焦げ茶色の切り株がどっしりと地面に根をおろしている。だが、従来の物のように切り株の背は低くなく、むしろ高い。一メートルくらいはあるだろう。 ぱっと見、何だか切り株とはまた違う物のように見える。 「リッちゃん、小屋から薪取って来て」 「あ、うん、わかったよ」 「たくさん頼むよ?」 「はいは〜い」 後ろでさっきまで黙っていた梨津にそう頼み、彼女が薪を取りに行っている間、風吹は江笊に『ちょいちょい』と手招きした。 「……?」 「江笊くん、それ、貸して。今から何をすればいいか見せたげるから」 「あ……う、うむ」 少し戸惑ってしまったものの、江笊は手に持っている山刀を、柄の方を向けて彼女に差し出す。『フフン、礼儀正しいじゃない』とにこやかに呟きながら風吹は山刀を受け取り、刃物を持ったまま解きほぐすかのように両手首をひねる。さらには刃物の柄の握り心地も確かめている。 この動作を見てると、基本的な準備を怠らない人だなと、江笊は思った。 「お姉ちゃん、持って来たよ」 と、ほどなくして、梨津が両手いっぱいに薪を抱えて戻ってきた。『ん、ありがとね〜』と妹に労いの言葉をかけてから、風吹は薪の一つを取り出し、背の高い切り株の上に丁寧にセットする。 「さ、てー……」 そして、山刀を右手だけで握り締め、その切っ先をコツンと薪の上に置いた。薪割りとなると、姿勢が少し前かがみになりがちだが、切り株の背の高さと、山刀の刀身の丈が少し長いためか、今のこの時に於いては剣術の中段のより少し低い程度で済んでいる。 「…………」 今の彼女は、『よーし、やってやるぞー』とでも言いそうな、やたら挑戦的な顔をしている。 まさかとは思うが、本当にそのままやるのだろうか。 「お姉ちゃん、頑張ってね〜」 「はいほ〜い」 梨津が能天気な声援を送るのにも、風吹はそれと言って気分を害した様子もなく、同じように能天気な声で返事をしている。一瞬、それで集中できるものなのかと江笊は思ったのだが、当の彼女にはまったく変化が見られない。 外部からの音に動じることなく、マイペースに、彼女は自身の集中力を保つ。 余裕。 その二文字が、今の実河風吹の心理状態に似合っている気がする。 昨日の祖父との稽古にもあったように、集中力を保とうとして一杯一杯になっている今の自分には、到底真似ができないことだった。 「はっ」 短い息遣いから、わずかに漏れる気合の声。そして、彼女が右手に持つ刃物は、スッと振り上げられ―― 「ぜっ」 そのまま、降ろされる。 『カコーン』と、軽快な音が鳴った。木こりの仕事をしている人なら、よく耳にしているサウンドであろう。江戸時代を舞台にした時代劇をよく見る人とかでも、そういう日常のシーンでこの音を何度も耳にしているかも知れない。 だが、今のソレは、木こりの仕事の物でも時代劇のドラマの物でもない。目の前の現実が引き起こした音――すなわち、彼女の山刀の一振りが、見事に標的の薪を両断した音である。 「…………」 「わぁ、すご〜い、お姉ちゃん」 目の前の光景を、口を半開きにしながら見つめる江笊と、歓声を上げて賞賛する梨津。 そんな静と動が対極の両者に視線を戻し、風吹は山刀をトントンと肩に担ぎながら口を開く。 「これが、わたしが江笊くんに与える当面の課題だよ」 「……?」 「こういう風に――」 と、風吹が両断された薪の片方を拾い上げ、ポーンと江笊に軽く投げ渡す。江笊はそれを受け取り、そしていの一番に、薪の切り口に注目すると―― 「正確に両断すること。握りは右手でも左手でもできるように、この刃物で、ね」 それは、ささくれもズレも見られず、縦一線とわかるほどに綺麗に割られていた。薪の年輪と切り口の角度も、斜めではなく見事に直角になっており、これは正に『割った』と言うよりも『斬った』という表現が正しいだろう。 得物の握り方や軌道、それと本人の斬撃の技術がよほど高くないと、こうはならない。 「剣技の応用めいたことなんて、普段の稽古でいくらでもできるからさ。江笊くんには、こういう基礎的だけど難しいことをやってもらうと思ってるんだよ」 「…………」 なるほど。 応用よりも、基礎の能力を徹底的に磨く。それが、この指導のコンセプトなのだ。少しそれらしさが出てきた気がする。 「んじゃ、ボーっとしてる時間はないからね。さっさか始めましょうか」 「……よ、よし」 少し気後れしながらも風吹から山刀を受け取り、梨津からも薪を一つ受け取って、江笊は薪割りの準備を始めた。台となる切り株の上に薪を丁寧に置き、そして、山刀を片手で握り締めて切っ先を標的の薪に向ける。 「あ、そうそう」 と、何か思い出したかのように、横で見ている風吹が口を開いた。 「……?」 「薪は一日三〇〇個しかないから、注意してね。やっぱり数にも限りがあるわけだし」 「うむ、わかった……」 「それと、この合宿って、普段の稽古の後に山の中を走りこみするでしょ?」 「…………」 江笊はこれにも黙ってコクンと頷く。 この合宿では、普通の剣術修行の後に三〇分間、決められたコースの山道を走りこむと言う訓練がある。軸足の構えや剣を振る際の踏み込みに大事と言われている足腰や下半身の強化のために、欠かせない訓練の一つだ。袴のままで走るので、これがまた意外と厳しい。 風吹はそれを確認すると、満足そうに笑みを浮かべながら言葉を続けた。 「おっけー。んじゃ、わたしのように正確に斬るとまでいかなくとも、薪の端から端までちゃんと割れなかったらミスカウントね。その一回のミスにつき走りこみの時間に一〇秒ずつプラスしていくから、そのつもりで」 「……!」 この言葉を聞いて、江笊は一瞬手に持っている刃物をポトリと落としそうになってしまった。 と言うことは、全部ミスすると……合計三〇〇〇秒、つまりは五〇分の追加である。 ふざけているように見えて、厳しいことをさらりと言ってくれる。 「はいはい、チャキっと行きましょうね〜。のるかそるか、鐘鳴江笊くんの一刀目です!」 「先輩、頑張って〜」 ミスをしたら後が辛くなるというプレッシャーの中、無責任に煽ってくる実河姉妹。一瞬、江笊は頭の中で混沌とした混乱が襲ってくるのがわかったが、ここはグッと堪えて、目の前の事に集中する。その後に『おっ』と風吹がなにやら声を上げていたが、これもきっぱり無視。 呼吸を整えて、上手く集中できるようになってから。 右手で握った山刀を、静かに振り上げ―― 「はあっ!」 気合と共に、一気に振り下ろす。鋭い刃が円形の薪の年輪に喰いこむが――そのまま、途中で止まった。風吹がやって見せたように正確に斬るどころか、割れすらもしない。半分くらいのところで、刃が止まってしまっている。 「…………」 江笊は柄を握り直し、薪に食い込んだままの刃物をそのまま振り上げて、勢いをつけて切り株に叩きつける。そうすることで、薪はやっと二つに割れてくれた。 といっても、割った跡の軌道が斜めになってしまっており、それが今の自分の未熟さを如実に表している。 「はい、ミス一回ね〜。リッちゃん、チェーック!」 「ん〜」 そして、無常にも追加されるミスカウント。 風吹の横では、梨津がいつの間にか手にしているクリップボードに、そのカウントを記入している。江笊はこれに『うぬぅ……』と少しだけ唸りを漏らしたが、すぐ後に何かを振り切るように首をぶんぶんと振る。 「次だ、次っ! 梨津、どんどん持ってこいっ!」 そう。いちいちそのカウントを気にしているようでは、ミスを量産するだけだ。 「おお、前向きだね、その意気その意気〜」 「はい、薪。先輩なら、きっとできますよねっ!」 梨津から薪の束を受け取り、その一つを台にセットする。 ……実河風吹に与えられた課題の全てを完遂しなければ、恐らくは自分の剣に未来はない。 そうならないためにも。 「次は、絶対に割る!」 たった今、江笊はその過酷に真っ向から立ち向かう決意を固めた。 「ふぅ……」 太陽が西に傾きかけてきた頃。 一日の修行の最後に恒例で行われる走り込みを終えた差音士乃は、額や首筋に溜まっている汗の粒を持参の手拭で拭きつつ、一日の終わりを感じていた。 後ろでは、一つ年下の従兄弟である秋月恭平が『し、死ぬ……』と何やら喘ぎながら仰向けに転がっていたり、他の数人の門下生の少年少女も疲れたように座り込んでいたりと、この走りこみで自分を除いてほとんどの者が今日の体力を使い果たした模様である。 「…………」 まあ、時期を見れば回復するだろうとかってに見当をつけて置いて。士乃は追加で自主トレをするべく、合宿の道場に向かってゆっくりと歩を進める。 見慣れた山道を少し進んでいる途中、士乃はふと、林の向こうに見知った人影がいるのに気付いた。 「風吹」 声が届く距離なので、士乃は躊躇いなくその人影――腕組みをして前方を見つめている、実河風吹に声をかけた。これに、彼女はくるりとこちらを向き、自分の顔を見つけると表情を一段と輝かせた。 「お、らぶりーしのりん、稽古終わったの?」 「らぶりーはよせ、らぶりーは」 「んじゃ、フツーにしのりんだね。しのり〜ん!」 「それもやめれ。あと――」 両手を広げてこちらに走り寄ってくる少女に、士乃は掌を軽く突き出して早急にカウンターを繰り出す。 「あぼぶっ!」 「目をキラキラさせながら私に抱きつくのもな」 「うう、しのりんのいけずぅ……」 掌低をまともに食らった風吹は、鼻の辺りを押さえてその場でうずくまっている。 まったく、相変わらずのこの親友のボケ具合に、げんなりとしてくる。まあ、これはこれで彼女の性格なのだから仕方がないと、諦めつつ。それよりも今、彼女が一人でここに居ることに、士乃は少し疑問に感じた。 「風吹、江笊達はどうした?」 「んにゅ……ああ、江笊くんは、まだ走ってるよ。リッちゃん自転車仕様の監視付きで」 「まだ?」 「そうそう。全部とはいかないながらも、相当ミスっちゃったからね〜。だから、走りこみ四〇分以上追加ってなわけ」 「……なるほど、あの薪割りか」 『ミスった』と『走りこみ追加』いう言葉を聞いて、ピンと来ると同時に浮かない表情をする士乃。 昔、その薪割りの訓練を士乃もやったことがあるからである。満足に割れる、もしくは斬れるようになるまでかなりの時間を要したし、自分が負けず嫌いだと自覚していながらも、さすがにあの訓練には何度も根をあげかけたのを憶えている。 「あいつにそれをやらせて、大丈夫なのか?」 「だいじょーぶ。士乃とは違って、江笊くんは男の子なんだから」 「いや、そうではなく、そのミスの多さなのだが……」 「う〜ん、アドバイスはしたんだけどね〜。でも、初日から一つでも割れただけでも、結構上出来だよ。それに例えミスしてもさ、あの子の場合、それが一歩一歩明日へと繋がってる気がするんだ」 「ほう。その根拠は?」 「ないけどね」 そう言って、風吹はタハハと軽く笑った。『まったく……』と士乃は嘆息しつつも、彼女に合わせて苦笑する。 しばらくすると、向こうの山道からこっちに向かって進んでくる人影が、士乃の視界に入った。 全身を汗だくにしながらも、腕を振りつつ黙々と山道を走っている紺色の胴着袴姿の少年と、それを追うように、『頑張れ〜』と声をかけながら自転車を漕いでいる私服の少女だ。 走っている少年――鐘鳴江笊の前を見る眼には、一点の曇りも見られない。息は切れているものの、その点は気力で上手く体力を保持しているらしい。あんなに落ち込んでいた昨日の彼からでは考えられない。 どうやら、結果が出ていないながらも、吹っ切れているらしい。 「なるほど。大丈夫、のようだな」 目の前を走り抜けていった江笊を見て、士乃もやれやれとコメントを出す。風吹も、エッヘンとでも言わんばかりに堂々と胸を張った。 「そーゆーこと。さすがわたしが見込んだだけのことはあるわ。それでこそ、指導のやりがいもあるってものね」 「大丈夫なのか?」 「えー、もう。そんなに心配しなくても、江笊くんなら必ずやってくれるってば」 手をグーにして力説する風吹だが、士乃は……表情を真剣そのものにして、わずかにかぶりを振った。 「いや……私が言っているのは、おまえのことだ」 「……――」 その時。 一瞬だけ、風吹の『太陽の明るさ』に一筋の影が刺した。 憂い、悲しみといった負の表情ではなく、何事にも表現しようのない、何か。ただ、彼女を象徴する『明るい』という形容が似合わないのは確かな、なにか。 「あはは、大丈夫だよ、うん。昨日や今のこのわたしを見れば、大体わかるでしょ?」 だが、それも長く保ちはしない。 気付いた頃には今までどおり、風吹の顔は元の太陽に戻っている。しかしそれでも、士乃は風吹から視線を離さない。 「本当か……?」 「大丈夫なんだって。自分でわかるもん、ホントに。だから、ね」 「……そうか」 これ以上何も言うまいと、士乃は話を打ち切ってこの場を後にする。当初の予定通りに自主トレをしようと、道場に向かいかけたところで、 「士乃」 そう、風吹がこちらを振り返りもせずに声をかけてきたのがわかった。士乃も、これには振り向きもしないが、歩を進める足だけ止めている。風吹もそれがわかっているのか、一呼吸だけ置いて、続けた。 「みんなには内緒だよ。リッちゃんや江笊くんには、特に……」 「……わかっている」 それだけのやり取りを済ませ。二人の少女の距離は離れていく。 さっきまであった、二人の間の空間に。 微妙な空気を残しながら。 夏の夕日は、まだ鮮やかなオレンジを放っている。 この様子では、日没にはまだ遠いようであった。 |
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